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麻生悌三のブラジル不思議発見 28 ブラジルのカーニバル
3月号の麻生さんのブラジル不思議発見は、時宜を得たブラジルカーニバルの話題です。ブラジルに50年住んでいるとカーニバルは、大事な年間行事の一つと云うか日常生活に溶け込んだお祭りとして身に沁み込んでいるがお祭りとしてのカーニバルの起源、履歴、サンバとの繋がり、パレードとしての規則等知らなかった事を体系付けて説明して呉れており大変勉強になりました。
私も今年は、カシアスの町のカーニバルパレードと地元ポルトアレグレのカーニバルパレードを見に行きました。カシアスでは無料配布のコンドーム12個の配布を受けどうしようかと戸惑いましたが、教会の管理人をしているカーチアおばさん(週に一度お手伝いに来て呉れている女中さん)に若い人たちに有効利用して貰って下さいと手渡しました。
付録にアマゾンの中流の都市パリンチンスのカーニバル牛祭りに付いても記述して呉れており、面白いです。一度はパリンチンスの牛祭りにも行って見たいと思っています。
今月も麻生さん有難う。


ブラジル不思議発見 −28 ブラジルのカーニバル
カーニバル自体はカトリックの謝肉祭で、そのルーツは欧州にある。ブラジルのカーニバルは名称は借用しているが、内容は少々異なる。発祥地は奴隷の上陸地で黒人が集団で生活していた、バイア州のサルヴァドール辺りで、元々は、アフリカから強制連行されて来た、黒人奴隷の、年に一度の、息抜きの、ドンチャン騒ぎ祭りである。年に一度、3日間だけ、パトロンのポルトガル人より、許可された、無礼講の騒ぎがブラジルのカーニバルのルーツと云われている。支配者のポルトガル人と黒人奴隷の間には、様々な軋轢があり、憎悪もうまれた。そのフラストレーションを少しでも、解消できるように、3日間与えた息抜き祭りである。この、3日間、黒人は、顔に小麦粉を塗り白人に扮装して 歌い、踊ることが許された。ポルトガルのエンツーリョと云う無礼講の祭りを真似た祭りだと云う説もある。このお祭りに華を添えたのが、同じく、サルヴァドールで発祥した、
音楽サンバと踊りである。黒人がアフリカから持ち込んだ打楽器baduvadaを使って始まったが、後に欧州から他の音楽の要素も取り入れられた。他のラテン音楽のように、サルサ、やマンボで使用されるような楽器は使用されていない。
1763年にサルヴァドール首都からリオデジャネイロに遷都され、黒人もリオに流入し始めた。1900年には奴隷制度が全廃され、1902年にはリオの都市計画が実施され、
東北伯からの黒人の移入が促進された。それにより、サンバもカーニバルもリオが中心地となる。現在ファベーラと呼ばれる、低所得者層の住居群もモーロと呼ばれる、丘の上に建設され始めた。 サンバの踊りは、当初ウンビガーダ(ヘソ踊り)と云われ、へそをくっつけて合わすように、腹をくっつけて踊ったが、カトリック教会からエロチックだとクレイムが出て中止となった。しかし、名称をサンバと変えて、へそだしダンスは続けられた。一方、支配者階級のポルトガル人はカーニバルでは、路上ではなく、会場を借り切って、ドンチャン騒ぎのパーテイーを行っていた。この当時の音楽の主流派マーチでまだサンバは主流ではなかった。
1920年頃からサンバを踊る、サンバチームが各地にできて、やがてエスコラデサンバ(サンバ愛好者クラブで学校ではない)勃興の母体となった。1932年に公式に初のカーニバルがリオで開催された。この当時はまだ、路上で山車、サンバチームの踊り、が行われた。1984年にはリオでサンバの行列を見る、観覧席の備えた専用の会場が整備された。700mの行進路、7500人収容のスタンドを備えた、大イヴェント場であり、このパレードに、制限時間65分以内に、1チーム2千―6千の踊り子、楽隊、8−12台の山車、が行進路を通過する。この当時よりカーニバルは観光化が進み、黒人奴隷のガス抜きの為の御祭りの雰囲気はない。1チーム当り、数百万ドル掛る経費の規模も、庶民の財布の限界を超え、有力な大口寄付者に財源を依存するようになった。動物くじと呼ばれる非合法の民間の富くじの胴元が、警察の取り締まりの手控えと交換条件で、カーナバルのサンバチームの後援を行う等黒い噂が耐えない。3日間の乱痴気騒ぎはフリーセックスの黙認でもあり、一昔前では、年末になると、数万人の私生児が生まれ、父親の不明の子は、男の子なら、有名サッカー選手の名前、女の子なら、有名歌手の名前をつけたという逸話も残っている。 今でも、カーニバルの時期になると、政府は、コンドームを使用しましょうと無料配布のキャンペーンを行い、エイズ予防の宣伝を行う。(写真はカーニバルのダンサー)

付録 アマゾンの牛祭り − ボイブンバ( Boi Bunba)
元々東北伯のピアウイ州辺りが発祥地らしいが、張子の牛と馬に扮した牧童の踊りで、独特の、フォークローレを歌い、踊り、騒ぐ、賑やかな祭りである。この祭りは全国的に広がっているが、アマゾナス州第二の人口を持つ、パリンチンスと云う街のボイブンバは規模的にも、内容的にもリオのカーニバルに匹敵する、圧巻であり、街中が熱狂し、町は2組に分かれ、互いに競う、街の人口10万人の数倍の観光客が毎年6月末の祭りに押し寄せる。
パリンチンスと云う街は、アマゾナス州の州都マナウスより、約370km下流に位置する島の街で、戦前、日本人がジュート麻の栽培に成功した、ジュート麻の中心地である。第二次大戦時、連合軍は日本軍にマレー半島の天然ゴム栽培地を占領され、ゴム不足が深刻な問題になっていた。天然ゴムの自然採集が出来た唯一の所がアマゾンだった。ゴム採集の大号令が下り、当時旱魃で困窮していた東北伯から採集労働者を強制的に、徴兵という動員力で4,5万人もアマゾンの原始林に投入した。その中で、アマゾンに8千人あまりの東北伯出身者が故郷に帰らず、アマゾンに定住したが、幾人かはパレンチンスに居住した。その仲間が集まり、故郷の牛祭りを行うようになり、1966年頃から、組織的に街を挙げて祭りが行われるようになり隆盛してきた。尚、招集されたゴム採集労働者のうち、故郷の東北伯に帰還出来たのは、僅か6千人あまり、3万人余りが、行方不明、死亡の犠牲者で、枕木1本に犠牲者1人と云われた、悪魔の鉄道マデイラマモレ鉄道(ボリヴィアの国境グアジャラミリンからロンドニア州都ポルトヴェーリョ迄、370kmの鉄道建設)の犠牲者数を凌駕し、世界でも難工事のひとつであったパナマ運河の開通工事の犠牲者をも超える犠牲者数といえよう。
最近の祭りは、アマゾンの大自然を讃えるモチーフに巨大な山車(高さ20m)を中心に、カーニバル調の音楽と踊りの饗宴で盛り上げた、大オペラである。その熱気と祭りの渦は、世界の僻地アマゾンにいることすら忘れさせる。この演出を支える、山車製作の職人の技術は、翌年のリオのカーニバルに生かされる。(写真はボイブンバ)

附録 南米ダチョウ アメリカレア(A,merica Rthea)
鳥類は、恐竜―恐鳥―走鳥類―キジ科―カモ科と進化してきた。走鳥類はアフリカダチョウ(鳥類最大で背丈230cm、体重130kg)、オーストラリアのエミュー(背丈
160cm、体重50kg)、南米のアメリカレア(背丈140cm、体重20kg)の3種が代表格である。アメリカレア(エマ、ガラニー語でニャンドー)は南米のサヴァンナ地帯に10数羽の群れで棲息する。時速60kmで走る、飛べない鳥である。鳥類はは翼に筋肉が付く、竜骨突起という、骨を持っており、飛べない鳥、ペンギンも竜骨突起の痕跡があるが、ダチョウにはこの痕跡すらない。飛んだ形跡は全くないが、羽は疾走中のかじ取りの役目を果たす。産卵は1か所に群れの雌が産卵し、最初に産卵した雌が抱卵する
習性がある。数十個の卵を38日間、抱卵し孵化するが、孵化した雛の世話は雄が行う。
数十羽の雛を連れた



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