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麻生悌三のブラジル不思議発見 31 消えたマラジョー(土器)文化  
麻生悌三さんのブラジル不思議発見6月号は、消えたマラジョー(土器)文化です。先月号は、皆さんを驚かせた『ブラジルの裏の顔は殺しの大国』で色々コメントを頂き話題で賑わいましたが、今月号は、考古学的な話題、九州より大きなアマゾン河の河口にあるマラジョー島に存在した土器文化に付いての考察で色々な夢、想像を掻き立てて呉れる。先年、べレンからマラジョー島に家族で出掛けたが農場内にあるHOTEL FAZENDAでは、馬での農場見学以外に短距離ではあったが水牛に乗せて呉れた。人口15万程度の島に何と牛が60万頭(内、水牛が10万頭)いるとの事、昔のインヂオは、マンジョカ芋に魚を食していたとの事ですが、消えた土器文化とこの水牛の出現と関係がないのか?などと想像するのも面白い。
オマケのボラ漁を助けるイルカの話も面白い。毎年夏には出掛けるサンタカタリーナ州のラグナ地域の話しで馴染みを感じる。昔日本が景気の良かった頃は、新鮮なボラの卵を日本に輸出するのに卵だけでなしに卵を腹に抱えたボラだけを選び鮮度を保つためにボラをまるまま輸出していた事がある。
写真も麻生さん提供の物を使わせて頂きました。


ブラジル不思議発見―31 消えたマラジョー(土器)文化

最近、何かの先住民インジオのデモ行進のプラカードに、ブラジルの歴史は1500年からではない、と書いたプラカードがあった。ブラジル史は1500年ポルトガル人カブラルによってブラジルが発見されるときから始まる。ブラジルにはアジア系のインジオがそれより1万数千年ぐらい前からいたらしい。ベーリング海峡が氷河期(1万年2千年前ぐらい)に凍結し、アジアとアラスカが氷原で繋がり、アジア系人が移り、2千年ぐらいの間に南米の先端にまで、広がったらしい(それ以前、先住民がいたかどうかは不明)。アマゾン川の中流に位置する(河口より約800km)モンテアレグレにはペドラピンターダと呼ばれる、南米最古の1万年位前の、先住民の岩絵が残っており、そこで発見された土器の欠けらは、7千年位前の物と判定されている。
アマゾン川の河口にマラジョー島と呼ばれる、世界最大の砂州がある。面積は5万Haぐらいで、九州より一寸大きい。海抜4−20mの平坦地で、島の東部は雨期(12月―5月)には冠水する土地が多いい。島の人口15万人ぐらいに牛、水牛が60万頭いる、牧牛の島である。
その島に紀元400年−1300年にマラジョー土器を作った、文化があり、最盛期の人口は数万と推定された、マラジョー社会が存在した。カブラルがブラジルを発見する200年前に、文化も社会も消えてしまった。天文学で突出したマヤ文明も確か1000年頃、突如消滅してしまう。マヤ文化が消滅した原因はまだ解明されていない。何らかの、環境変化があったのか分からないが、マラジョー文化と社会が消えた原因の憶測では、1)疫病の万延によって住めなくなる 2)主食のマンジョカ芋の不作 3)洪水による高台の消失。4)気候の変動等が考えられる。尚、この土器の製法、波及は他地域に行われた形跡はない。
―マラジョー土器
遺跡により発見された土器は、棺おけ、土偶、壷、皿、タンガ等であり 遺体を土器の大壷に入れて埋葬する習慣があった。土器の特徴はインカのデザイインに酷似した絵模様であり、インカの土器のノウハウを持った技術者が6500km離れたアンデスの山から、カヌーで下り、アマゾン河口の島に移住してきたに相違ない。1871年に最初の発掘が行われたが、注目されたのは、1950年にアメリカのスミソニアン熱帯研究所の所属する考古学者のベッテイーメガーズ女史が研究調査した結果、マラジョー土器は、インカ土器に酷似しておりインカの技術により作られた物だと発表してからだ。メガーズはアマゾンの熱帯圏で高度の文明が繁栄する事が考えられず、例外的に、短期間マラジョー文化を築いた人々は、いずことなく去って行ったと結論ずけた。1983年に女性考古学者アンナ ルーズベルト(セオドールルズベルト大統領の孫)とそのチームはマラジョー島の遺跡の大規模な調査と発掘を行った。ハイテク技術を屈指した綿密な発掘調査の結果、マラジョー文化は一時的な文化ではなく、1千年ぐらい続いたと立証した。又、古代マラジョー人はアンデス高地人よりも、現代のマラジョー人に似ている事も判明した。アマゾン河口の島に1千年も続いた、文化があったとは、大発見である。
マラジョー族社会
発掘調査の結果、少なくても5箇所の大集落があった、推定人口5万ぐらいを数える組織化された社会が存在した。それだけの、人口が集中したとなると、それを支える農業の存在が不可欠である。今も、昔もアマゾンの主食はマンジョカ芋(キャッサバ)で蛋白源は川魚である。それに人家の周りには各種椰子、バナナが植えられる。雨期に冠水する土地を土盛りし、高台を作る土木工事も行われ、その技術も持っていた。
アマゾンの土壌は、アルミナや珪素が多く、腐植土等の有機質は森林により保全されている。森林を伐採し、直射日光と多雨に土壌が曝されると。有機質が分解され、アルミナがむき出しの砂漠化土壌になる。多くは、焼畑の後は、雑草が生い茂り、雑木が生え、再生林となり、放置した状態では、元の原始林に戻るには。数百年の年月がかかるといわれている。マラジョーの調査で注目された点はテ―ラプレッタと呼ばれる、黒い土の層の存在である。集落の周辺に多く見られ、低温(200−300度C)で焼いて炭化させた木炭に魚、残債など有機質をすきこんだ、有機肥料を投与した土壌である。 テーラプレッタはアマゾン全域のインジオ居住区域に見られる。インジオの黒土(テーラプレッタデインジオ)と呼ばれる。焼き畑、略奪栽培から、肥料投与と土壌改良により、主食のマンジョカ栽培の収量を大飛躍させたに違いない。
一方、マラジョー島は他の地域との交易の中心地でもあったらしい。アマゾン河は大西洋に出て、海流によりヴェネズエラ沿岸にまで北上する。カヌーによる航海圏は意外と広がっていたようで、恐らく、ヴェネズエラ位まで、交易があったように思える。
(写真はマラジョーの土器とテーラプレッタ土壌)

附録 ボラの投網漁を助けるイルカ
サンタカタリーナ州の南部にラグーナと呼ばれる、古い海辺の街がある。17世紀にポルトガル人が開いた街で、現在はアルゼンチンからも海水浴客が訪れる、リゾート地として名高い。この街のシンボルはイルカでイルカの絵の立て看板が随所で見られる。例年、4−6月はボラが海岸に集まってくる、ボラ漁のシーズンで、海岸に腰まで浸かった漁師が並び、投網をボラの群れに投げる光景が見られる。この地域に限って、野生のイルカがボラの群れを漁師が待ち構える海岸に追い込んで、投網漁の助けをする珍しい光景が見られる。勿論、イルカの協力態勢は自然に始まったもので、およそ、50年ぐらい前から始まったらしい。イルカは鯨と同じ哺乳類で、知能は犬なみである。視力は余り良くないが、
聴力は良く、仲間同士のコムニュケーションも活発で、かなり高度の意思の伝達も行うらしい。野生のイルカがどういう経過で投網漁にかかわったかは、明らかにされていないが、恐らく、最初は偶発的にボラの群れを追いこむことを行い、イルカの仲間に継承されていったと想像する。イルカは肺呼吸の為、7−8分毎に海面に顔を出し、空気を吸う。呼吸孔は頭のてっぺんにあり、開閉も出来る。臍もあり、子育ては授乳で行う。睡眠は昼間行い、脳の半分を休め終わると、半分を休める、交互に休む方法をとり、休んでいる反対の目をつぶる。食餌は子魚類で歯はあるが、かまず、丸のみである。水分は餌の子魚の水分より摂取し、海水はのまない。水族館で飼育されているイルカは10年ぐらいしか寿命がないが、野生のイルカは結構長生きで、30年ぐらい生きる。

2012年6月1日
麻生



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