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ヤキモノとブラジルと私 鈴木章子
私達のあるぜんちな丸第12次航で来伯した同船者のお一人鈴木章子さん83歳が肺炎で体調を崩しておられ50年の集いに参加が危ぶまれていましたが5月12日の式典には元気なお姿を見せて呉れました。50年の集いにと章子さんの作品を2点寄贈して下さり私どもでその内の一つを購入させて頂きましたが、章子さんのブラジル50年の陶芸家としての半生を最近出版された冊子「工芸」に掲題の「ヤキモノとブラジルと私」として3ページに渡り書いておられるのを送って頂きましたのでPDFに変換し更にそれをWORDに転換、『私たちの40年!!』寄稿集にも収録させて頂く事にしました。同船者の中で芸術家、陶芸家としてコロニアの第1人者として50年の歴史の中にその作風を残された章子さんは、私たちの誇りです。本当に有難う御座いました。
写真は、色々あるのですが、矢張り50年の集いに参加された時に撮らせて頂いた1枚を使わせて貰う事にしました。


ヤキモノとブラジルと私

私がヤキモノに魅せられて唐杉涛光先生に弟子人りして修行が始まりましたのは、1953年頃でした。以後、調布市武蔵野といわれておりましたところにアトリエと窯とを築き甲州路窯と名づけて仕事をしておりました。恩師推薦によって昭和の名匠、板谷波山先生を会長とする東陶会に属しておりました。
多くの巨匠から学ぶこと多く、厳しくはありましたが有意義な時期を過ごしました。
渡伯しましてから「何故ヤキモノを」と、よく問われましたが、戦争中を過ごし、被災し、いろいろと体験した頃から人間の価値観に非常に疑問を持ち始めたことによると思います。以後ヤキモノに触れ合う機会にたびたび恵まれ、それに生命感を見出し、母性を感じ、永遠にも繋がる神秘を感じ、そしてヤキモノの虜になったといえましょう。
 当時、私の仕事の場所は日本から離れたどこかにあるはずとの思いがいつも
脳裏をかすめておりました。1961年の末あたりNHKでブラジルの紹介があり、
広大な農場、目本人街、サンパウロ市街、アマゾン、最後にブラジリアの光景が映されました。荒野に悠然とたたずむオスカール・ニーマイヤーの建物、このような都市造りをする大きな国、未来を象徴するかのような姿に息をのみました。まさに私の出会いたかったものでした。この瞬間に心が決まりました。画家である夫の鈴木幸男も賛成してくれました。次の日早速ブラジル関係の仕事をしていた知人を訪ね、懇願の末、移民の手続きをしていただくことになりました。すぐに仕事場、窯を取り崩し、家を売りに出して次の年の3月30日、アルゼンチナ丸に乗船することができました。すべてがゼロの時点から、いつもゼロの時点にいて仕事をしていきたい、果たして物言うヤキモノ、詩あり、歌あり、心あるものができるだろうか。できなくてもよい、これに向かって行くことが私には大切に思えました。
 41日という初めて自由な時間を持て、サントス港に着いたときの感動は一ロに表しがたく偉大な母の懐に抱かれる思いがいたしました。5月13目に初めてサントスの地を踏んだときの大地の響きは50年経った現在も変わることなく毎日の心の糧となっております。ブラジルの土を踏んでまず最初にしなければならなかったことは、土と袖薬の原料を探すことから始まりました。新天地の
原料だけを頼りに仕事をしていくことが夢でした。いつの場合も親切な方々に
巡り会いそのおかげでマウア市の山の中セルトンヂーニョというところの農家
の使用人の小屋を借りて、そこからバケツをさげて材料探しを始めることができました。カボクロの人達と同じように素足で歩いていても不思議はなく、池で
洗濯をしているその女房たちもにこやかにボンジヤといってくれました。この時期マウア市の磁器工場主であった水野翁の協力と助言がたいへん助けになり
ました。その小屋はパウアピッキといって竹と土でできたもの、そこにロクロを
取り付け、材料用の棚を置くと寝る場所はなく、その板を渡した棚は毛布を
敷いたりして寝台にかわりました。夜は多数の隙間から射す月の光が美しく深く心にしみいり。これから向かうヤキモノ生活の一歩としてかつてない緊張感も憶えました。
 その後数種の土も揃い、私の粕薬の主となる灰の性質が理解できてコチヤ市のこの地で家、アトリエの建設準備にかかりました。渡伯してすぐに用意したこの地はラポーソタバーレス(ESTRADA RAPOSO TAVARES)街道24キロ、当時は不便でバスは40分に一本の田舎でした。
窯を焚き煙を出すには最適の場所でした。幸男はやっと安定したかたちで絵に没頭できるようになっていました。私たちの慣れない整地作業も板につき、住まい、アトリエを建て始め、棟上げが終わった頃、予想外の出来事で、準備していた資金を失い大変な窮地に追い込まれてしまいました。日本を発つ数日前アクセサリーの仕事をしていた知人がもしや困ったときにと小さな電気窯を持ってきてくださったのを思い出し、考えてもみなかったアクセサリーを作り始め、幸い評判がよく、友人も買い上げてくださったり、一軒のドイツ人のお店が全部引き取ってくださったりして、アトリエ、家の建設作業も続けられるようになりましたがしばらくして本来の仕事への渇きを感じるようになり思い切ってその仕事をやめ、再び苦境にたたされました。
 ちょうどその頃池坊の南米支部長でいらっしやった赤毛日出子先生、裏千
家の浅井八重子先生の来訪がありレンガをひとつひとつ積んでいた私に何
かを感じてくださったのでしょう。有志を集めて協力したいと申し出てくださいました。経済的な援助をお断りした私の気持ちをくんで一人は燃料用に建築の古材、一人は古レンガ、一人は窯の小屋用のユーカリの柱、一人は新鮮なお
野菜、果物、手料理のおご馳走、と、おかげさまで大変豊かになりました。この
ご好意の御礼にロクロの手ほどきをいたし皆一生懸命に励みました。それが
私のブラジルでの最初のヤキモノ教室ということになります。その中でいちばん高齢の方が時折お孫さんのかわいい女の子を連れていらっしやっていました。その子はただじっと見ていましたが四十年後、彼女がセラミスタとして精進している姿に芽生えとはなんと美しいものと感動を覚えずにはいられません。
土地の傾斜を利用しての小型の登り窯は完成し、「彩窯」と名付け火人れをしたのが1965年末でした。やっと窯焚きにこぎつけたのでした。それ以後は日
夜ロクロを廻して過ごしました。1967年最初の窯開き(古くからのヤキモノ界の
慣例で折々の作品を窯を開けた後フアン、友人を集めて展示し買い上げていただく風習)を裏庭のいわば草原にひろげて展示いたしました。前述の赤毛日出子、浅井八重子両先生のおかげで人も車もあまり通らなかったこの田舎に八百人もの一世、二世の方が集まってくださり、作品を手にとって観賞してくださっている姿に窯焚きの日と同様にこの目を待っていた私にはもう言葉には表すこともできないほどの充実感がありました。これから始まるヤキモノ人生の一歩として身のしまる思いでした。それから四十五年経った今でも毎回窯開きにいらしてくださる建築家ご夫妻をはじめ数限りないフアンの方々に支えられてきた私は何と幸せなのでしょう。
 第一回の窯開きの折、一点心をひかれる作品がありました。灰色の肌、所々に陰影があり、肩の部分にパラナ松の灰が散っている壷でした。古風な作品ですが窯の神秘を見せてくれたように思えて見入っていた私にその壷がほしいとおっしやってくださった方がいらっしやいました。著名な画伯で記念展等必要な折々には拝借するということでお買い上げいただきました。それ以来、二世、三世、ブラジル人の優秀な学生達も集まるようになり意義ある文化交流の場となりました。
 個展といたしましては1971年リオデジャネイロのイパネマ画廊、1973年にはサンパウロ、ユーカテックス画廊、1975年にはサンパウロ美術館長のピエトロ・バルジ先生からの招待に答えて手ごたえのある展覧会ができました。この時の作品の中で目本におりました時から試みては実現できなかった壷を何度かの
試みでやっと完成して出品できたのには嬉しく、日本からの約束事が果たせたことになりました。それは灰粕が美しく流れて、先がビードロ状になって止まっているもの、描いては果たせなかったものでした。それ以後1976年にリオデジャネイロのボニノ画廊(GALERIA BONINO)、1978年ベロオリソンテ市立美術館(MUSEU DE ARTE DA PREFEITURA DE BELO HORIZONTE)、再び1981年リオデジャネイロ、ボニノ画廊、1983年ガレリアサンパウロの個展が終わりました頃、固く心に誓っておりましたブラジリアでの展覧、これはいつの目か私の仕事に成長がみられる日がきましたら人生を一変させてくれました雄大なブラジリア、オスカール・ニーマイヤーの地で展覧をしたいと思っていました。もう待ちきれずというのが事実でしよう。陶器アルテガレリアを経営し当時の多くの陶芸家、それを目指す若い人々に協力し功績のあったエウニッセ横田、トモエ横田、ナオミ池田女史たちの協力を得て、ブラジリア州立フンダソンで念願の個展ができました。ブラジリア市を一望できる塔の上からの光景にこれが私を呼んでくれた大地かと思うと涙が止まりませんでした。
 その後1988年陶器アルテガレリア、リオデジャネイロのガレリアLGCそして2003年作陶50年の記念展を力−ザブラジレイラ美術館で催すことができ多くのフアン、愛好家の方々に観ていただけました。2006年にはシティーグルー
プ(CITI BANK)において「道」と題して展覧会をいたしました。永い月日を歩んだ仕事は「道」であり「祈り」であったのだとつくづくと感じました。結局私の仕事は土に誘われて歩んできたことなのでしよう。
 作陶50年の記念展がすみ、これでよかったのだと安堵しましたが、何かひと
つ大切なことを忘れていたことに気づきました。それは私の手ロクロの技術を
次の人達に伝えなければということでした。幸い優秀な弟子たちに恵まれて
各々が私の意志を感じて仕事を続け、二代目ともいえる「あけぼの窯」の築窯
に至ったことは感動の一語につきましよう。
 今年はちようど渡伯50年となりこのブラジルから得た尊い経験を大切に残さ
れた目々を歩んでいきたいと思っております。
                       鈴木章子



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