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国家事業救った8人の侍=知られざる戦後移民秘話=ニッケイ新聞連載(その1)
『私たちの40年!!』MLでお馴染みのベロオリゾンテにお住みの産業開発青年隊のダム男として知られている荒木昭次郎さんと仲間の袋崎雄一さんを中心にした8人の侍としてルポライターの山根一眞が週刊誌で紹介した産業開発青年隊の皆さんの国家事業のイタイプダム建設で活躍した話をニッケイ新聞の編集長深沢正雪さんが7回に分けて活写しておられる。写真も荒木さんが提供したとの事で戦後移住者の心意気を淡々として語るダム男ならではの恰好の読み物として『私たちの40年!!』HPにも2回に分けて収録して置くことにした。
MLに寄せられたコメントも一緒に収録して置きます。
その1の写真は、週刊誌の提供、関係写真を提供したダム男の荒木昭次郎さんのニッケイ新聞掲載分を使用しました。サイズが小さいので荒木さんにもう少し大きな物が有れば送って貰う事にします。


ニッケイ新聞 2012年5月26日付け
国家事業救った8人の侍=知られざる戦後移民秘話=第1回=“イタイプーのSWAT(スワット)”=山根一眞が週刊誌で紹介
 
30年前の1982年、イタイプーダムは静かに貯水湖へ水を湛えはじめた。以来、世界最大の名をほしいままにしてきたブラジルが誇る巨大建造物に、戦後移民の〃8人のサムライ〃が重要な役割を果たしていたことは、『ブラジル日本移民80年史』や『戦後移住の50年』にすら書かれておらず、事実上、南米産業開発青年隊(以下、青年隊)の内部でしか知られていなかった。ところが、有名なノンフィクション作家の山根一眞が『メタルカラー列伝 日本力』(小学館、07年、以下『列伝』)でこの話を紹介し、日本では有名になった。それでいてコロニアでは知られていない状態は良くないと考え、さっそくその時のメンバー、ミナス州都ベロ・オリゾンテでダム建設を中心に土木コンサルタント業を営む青年隊の荒木昭次郎と、ゴイアス州アナポリス在住のダム建設コンサルタントの袋崎雄一に話を聞いた。(敬称略、深沢正雪記者)

 大半がコロノ(農業労働者)として入植した戦前移民に対し、技術をもって生計を立てていった工業移民が多いことが戦後移民の特徴の一つだ。その傾向を象徴するエピソードが、「予定通りに完成することは不可能」といわれた世界最大のイタイプーダム建設に「助っ人」として呼ばれ、当地の土木建設の水準を世界に示した〃8人のサムライ〃ではないだろうか。
 78年4月、イタイプー建設の工期が大幅に遅れているのを打開すべく、鉱山動力大臣が直々に命令を下して緊急体制をとらせた。10月までに完了させるべき工事が5%しか進んでいなかった。緊急体制の中軸を担ったのが青年隊の“8人のサムライ”で、画期的な工法を採用して見事に特命を全うした。荒木らは現場では“SWAT”(米国の特殊部隊)になぞらえて「イタイプーのSWAT」と呼ばれた。
 この巨大水力発電所建設は、長いことコーヒー輸出頼みの農業国だったブラジルの産業転換をはかり、工業国にするという国家の威信をかけたプロジェクトだった。今も全電力の83%が水力で、うち17%はイタイプーに依存する状態だ。
 『列伝』の荒木紹介部分(103頁)は、こう締めくくられている。〈世界の土木関係者は「あのダムを完成させるのはブラジルには不可能だ」と囁いていたというが、見事工期通りに完成にこぎつけた。「南米産業開発青年隊」の日本人チームの力がなければ、完成は大幅に遅れたはずだった。より正確でより緻密な仕事、現場での工夫や智恵は、あらゆる日本のモノ作りを担う技術者たちに共通している「KAIZEN」も、そういう日本人ならではの文化、国民性がもたらしたものだろう。しかもそれは、世界のどこにいても日本人技術者たちが発揮する能力だということを、完成時に世界最大のダム建設を陰ながら担った荒木昭次郎、袋崎雄一、黒木喜八郎、安摩勉、跡部健司、片岡高一、千田功、杉江勉の「南米産業開発青年隊」たちは証明してみせてくれた。もし、日本人がその能力を失ったら、その力を発揮する場がなくなったら、日本はおしまいだ〉
 これは山根一眞によって大手週刊誌『ポスト』に3週間に渡って連載され、最終的に前述書に収められた。戦前戦後を通して、移民のエピソードがこのように大々的に日本で紹介されること自体が実に稀だ。(つづく)
(コメント集)
荒木:ヨーロッパを徘徊しています。 荒木さんからのお便りです。
和田さん
スイスを基点にヨーロッパを回っています。PCを持ち歩いていませんが、昨日息子の家に着き開きましたら200通ほど未開で驚きました。明日からまた出掛けますので29日にベロ市に帰ってからメール開けになります。
昨日の最後のメールにニッケイ新聞の深沢正雪編集長から、イタイプーダムに関する記事が今日26日から連載で載るとの連絡がありましたのでお知らせします。先月の末にサンパウロで彼と会って話しをしたのが記事になるようです。見てください。
和田:荒木さんヨーロッパ徘徊ですか?羨ましいです。
荒木さん関係記事見せて貰いました。
皆さんにも紹介して置きます。
Boa Viajem !!

ニッケイ新聞 2012年5月29日付け
国家事業救った8人の侍=知られざる戦後移民秘話=第2回=「男の仕事」求めて渡伯=測量ミス発見し有名に
 
荒木昭次郎(74、山形、青年隊9期)=ミナス州ベロ・オリゾンテ在住=は、56年に山形工業学校土木科を卒業し、上京して建設会社で働いた。いわゆる戦後の「金の卵」世代だ。
 日本で食えなかったわけではない。むしろ景気は右肩上がりの高度経済成長に突入していた。ただ、自社の営業部員が連日、談合や接待に明け暮れている様子を横目に見て、そのせせこましさに嫌気がさしていた。自分が手がけたい建築はこんなものではない。そんな想いが募っていた。
 東京・浅草の現場でケーブル敷設をしていた時、たまたま新聞を開いたら「ブラジルで全長2千キロの街道工事」とのブラジリア・ベレン街道の記事が一面を使ってデカデカと報じられていた。それをむさぼるよう読んで、「これぞ男の仕事だ!」と一念発起した。
 ジュッセリーノ・クビチェッキ大統領(56―61年)の壮大な構想により、ブラジリア遷都と一体となった国土縦断幹線工事にめまいをするような感動を感じた。
 62年、旧建設省がやっていた「南米産業開発青年隊」に応募した。これは、終戦直後に就職難を被っていた農家の二、三男を建設技能者として養成し、国土開発に役立つ人材に育成する制度だ。56年から67年頃までの10年余りで326人を伯国に送り出した。
 荒木は63年8月に渡伯した。ところが64年3月、北パラナのウムアラーマ訓練所で8カ月過ごしたところで、建設省が同訓練所を廃止した。
 南米の地でほっぽり出された恰好になり、聖市に出て新聞広告で測量の仕事を探した。幾つも面接に行ったが「言葉ができないとダメ」と言われて採用されなかった。技術があっても職を得るにはポ語が必要だった。移民の誰もがたどる茨の道に突き当たった。
 知り合いを頼ってゴイアス州に行き、まずは道路測量の仕事をすることになった。「そこの技師達が500メートルほどの距離を点々と測量すると、もう1メートル違っている訳です。測量機械の調整を知らないんですね。日本なら測量する前に覚える技術、あのレベルじゃ高校の実習でも合格しませんよ」と笑う。
 まさに当時のゴイアス州は遷都関連で工事花盛りだった。青年隊第1次(56年渡伯)の黒木喜八郎と安摩(やすま)勉(つとむ)は、58年からブラジリア近郊の地形測量を手がけ、60年6月からはゴイアスとミナス州境のカショエイラ・ドウラーダ第二期工事の測量に移っていた。
 荒木は66年、黒木の紹介で同ダムを運営するゴイアス中央電力会社(CELG)に入社して測量部で働き始めたが、そこで命拾い体験をした。
 「たまたま取水口下部の検査をしている時に、上からコンクリート片が額を掠めて落ちてきて、前頭の表皮をけずりました。幸い大事には至りませんでしたが、医者からは『もう1センチずれていたら頭蓋骨骨折であの世行きだった』と言われました」と思い出す。途上国の工事現場に立つ〃ダム男〃人生の幕開けに相応しい洗礼だった。
 そこでタービンが設計どおり据えつけられているか確認する測量時、ズレを発見して指摘すると、据えつけ担当のイタリア人技師らが大騒ぎになった。もしそうなら直径が約8メートルもある水車の垂直軸が熱をもって焼けてしまう。最終的にその技師は「ジャポネースの言うとおり」と認め、「アラキ」の名は徐々に業界で知られるようになった。
 メンデス・ジュニール社(以下、MJ社)に移り、各地のダムで図面と首っ引きで構造体の部材の測量する経験をつみながら、「コンクリートの型枠」の工事法をおぼえて技術部へと移り、形枠設計担当になっていた。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)

写真=「あんな測量なら、高校の実習すら合格できない」と荒木さん

ニッケイ新聞 2012年5月30日付け
国家事業救った8人の侍=知られざる戦後移民秘話=第3回=世界最大の発電能力誇る=最後発世代と軍事政権
 
2009年11月10日夜10時13分、イタイプーダムの送電設備に端を発する大停電が起き、パラナ州と聖州を中心とする18州、実にブラジル全土の3割に相当する地域への電力供給が止まったことは記憶に新しい。これはブラジル史上2番目に大規模な停電として歴史に残った。つまり、イタイプーが止まればブラジルも止まる。
 このダムはパラグアイと伯国の国家プロジェクトとして1975年に着工、84年に送電を開始した。総工費は140億ドル。完成当時、世界最大の水力発電所としてその名を世界に轟かせた。現在までに20機のタービンが設置され、総発電能力は14ギガワット/年を有する。自然の川の流れから、最大級の原子力発電所10基分以上に相当する大電力を安全に取り出す施設だ。
 このダム建設に関するパラグアイ政府と交わしたイタイプー協定(1973年7月)の時点で想定された発電能力は、当時のブラジル全体の発電能力の実に75%に相当するものだった。まさに国家の屋台骨だ。
 この電力はパラグアイとの間で2分されているが、パ国が消費しているのは50%のうち5%のみで、ブラジルは自分の分50%に加え、パ国の残りの45%を買い上げて使っている。つまり95%をブラジル側が利用している。
 長大な送電線によって大聖市都市圏に電力を供給し、〃ブラジルの機関車〃と呼ばれる聖州の産業発展の基盤となっている。このダム開発なくして現在のブラジルはありえない。長い植民地時代の名残ともいえるコーヒー輸出に偏った農業国から、自動車産業を持つ工業国へと転換する目的で、国家の威信をかけて進めていた重要なプロジェクトがイタイプーだった。
  ☆    ☆
 〃8人のサムライ〃の一人、袋崎雄一(67、東京、青年隊10期)は45年4月に東京都で生まれ、都立工業高校を卒業した。日本の高度経済成長は55年に始まり、石油ショックが起きた73年まで20年近くに渡って平均10%以上のGNP成長を記録した。袋崎が物心ついた10代の頃は右肩上がりの経済成長のど真ん中だった。
 しかし、「日本は土地が狭く、限られている。どうしても外国へ出たい。大きな建設現場で働きたい」との強い決意を持って青年隊に入隊し、静岡県の建築大学校中央訓練所を卒業した。10期生として64年8月サントス着の「さんとす丸」で渡伯した時は、まだ19歳の若者だった。
 日本ではそのわずか2カ月後、10月に東海道新幹線が開通、東京オリンピックが開催された。この五輪以降が高度経済成長の後期に当り、戦後移民が事実上途絶えはじめた時期だ。
 ブラジルではその年の3月31日に軍事クーデターが起きていた。こちらもまさに時代の節目だった。68年からの〃ブラジルの奇跡〃の後、軍事政権は国債を大量に発行して外国に買ってもらい、その資金で大規模な国土開発を進め、国民の雇用と所得を確保するケインス経済政策をとった。それゆえ70年代は「巨大工事の時代」と呼ばれた。そのための人材が必要とされていた時期だった。
 袋崎は黒木の紹介で65年にはMJ社に入社、ゴイアス州、ピアウイ州、マット・グロッソ州のダム等の測量部で働き、それからコンクリート施工部に移って経験を積み、施工部の工事長として名が知られるようになった。その間に、コンクリート型枠工法を現場で実地に学んでいた。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)
写真=袋崎さん(写真提供=荒木、4月撮影)
(コメント集)
オランダ香織:ブラジルの発展を支えてきた邦人の皆様、凄いです!! これからもブラジルで優秀な日本の若者が活躍されることを祈っております。
改善 がキーワードですね。
日本政府も 改善 してほしいです。
感激して一気にの読ませていただきました。
和田:香織さん 戦後移住者の中に建設省が選択派遣していた産業開発青年隊と云う工業移住者の集団もあり私たちのあるぜんちな丸でも32名の仲間が一緒に来伯しブラジル基礎産業の下支えにその生涯を捧げた人たちが沢山います。
荒木さんは、私たちより1年後にブラジルに到着されニッケイ新聞で連載でレポートされていますが、『私たちの40年!!』の寄稿集にも『ダム男』として何回かの書き込みが紹介されています。幾つか拾って下記して置きます。
建設省派遣産業開発青年隊326名の皆さんのブラジルにおける活躍振り。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=162
【幻の滝 セッテケーダス】南米産業開発青年隊 荒木 昭次郎さんよりのお便り。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=681
【幻の滝 セッテケーダス】を飲み込んだ世界最大のイタイプダム建設に携わった南米産業開発青年隊 荒木 昭次郎さんよりのお便り(2)。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=704
アマゾンに建設されたツクルイダム 産業開発青年隊の荒木昭次郎さんが書かれたダムシリーズ(3)
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=718
ブラジル東北伯(ノルデステ)のダム ダム男、荒木昭次郎さんからダムシリーズ(4)です。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=753
ブラジル南部サンタ・カタリーナのダム ダム男、荒木昭次郎さんからダムシリーズ(5)です。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=797

ニッケイ新聞 2012年6月1日付け
国家事業救った8人の侍=知られざる戦後移民秘話=第4回=国家の命運掛けた大工事=植木動力大臣が特別任命
 
日本の高度経済成長は1955年から石油ショックが起きた73年まで20年近く続いたが、ブラジルでは68年から73年までの5年間だった。年率10%以上の経済成長を記録したその期間を〃ブラジルの奇跡〃と呼ぶ。
 これを反映して日本企業だけを見ても72年の52社を先頭に73年には98社、74年に78社、75年には60社とわずか4年間で約300社が伯国進出した未曾有の時代だった(青島孝雄作成の統計)。
 しかし、原油を輸入に頼っていた当時の伯国は石油ショックによって根本的なエネルギー政策の見直しをせまられた。エルネスト・ガイゼル軍事政権(1974―79)の使命は、このような拡大するエネルギー需要に見合った電力再編を図ることだった。
 ガイゼル大統領はペトロブラス総裁時代からの腹心だった植木茂彬を鉱山動力相に据え、第2国家発展計画(第2PND)を発表し、原子力発電計画(伯独原子力協定、75年)、エタノール計画とともに水力発電所増設を急ピッチで進めた。
 60年代から自動車産業が勃興して伯国最大の電力消費地となった聖市大都市圏では、十数あった中小電力会社が統合されてCESP(州営サンパウロ電力公社)が設立され、急速な電力再編が行なわれた。
 〃失われた10年〃以前の80年まで、ブラジルの消費電力は増え続けた。それを見越して軍事政権は73年から82年までの間に、電力生産量を2・5倍に拡張した。その中心がイタイプーなどの水力発電だった。
  ☆    ☆
 78年4月、そんな大事業にも関わらず、当地の常で工期はズルズルと遅れ、そのままでは1年間延期は必至という瀬戸際に追い込まれていた。イタイプーの現場にはカナダやアメリカの技術者が来て指導していたが、それでも予定通りの進行は難しかった。亜国やパラグアイとの契約や、建設国債の利払いなどの関係もあり、このままでは大変な問題に発展する可能性があった。
 遅れを心配した植木鉱山動力大臣は、国家保安命令をMJ社長に対して直々に発令した。伯国を代表する5社が共同企業社「UNICON」を作って建設に当っていたが、特別に同社のロナン・ロドリゲス技師を現場側の建設責任者に指名した。そのロナンの中心スタッフが実は青年隊の〃8人のサムライ〃だった。
 まずコンクリート型枠や支保工の設計などを専門とする荒木とコンクリート打設の袋崎が呼ばれた。さらに黒木、安摩、跡部(あとべ)健司(6期、宮城)、千田(ちだ)功(いさお)(9期、東京)、片岡高一(こういち、9期、兵庫)、杉江(すぎえ)勉(つとむ、10期、東京)が次々に呼ばれ最終的に〃8人のサムライ〃となった。
 つまり、第1次の「神代組」(56年渡伯)から10期(64年)という最後発まで青年隊〃総がかり〃だった。他にも二世が十人ほど関わった。
 ロナンは当時、ミナスとゴイアスの州境にあるイツンビアラのダム現場を指揮しており、袋崎もコンクリート打設担当としてそこにいた。ダムという巨大な構造物はまさにセメントの塊であり、コンクリート部門はダム工事において最も中軸となる部署だった。
 イタイプーの現場に緊急招集され、幹部が集まった会議の場でロナンはいきなり「今後、袋崎にコンクリート部門の指揮を任せる」と宣言した。渡伯10年余りの青年が、いきなり国家の大事業をになう6千人の作業員の〃指揮官〃に任命された。ブラジル人だけでなく、アルゼンチン人、パラグアイ人などの混成部隊だ。
 第1期工事全体で2万人の作業員が従事したが、その約3分の1を仕切る立場という、とんでもない大抜擢だった。ちなみに当時、工事の発注主である発電所(binacional)側の実質ナンバー2も園田アデマール(USP工学部卒、バストス)であり、イタイプー建設に日系の活躍はなくてはならないものだった。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)

写真=イタイプーダム当時の写真、左から袋崎、黒木、荒木、千田(写真提供=荒木)
(コメント集)
島袋:本当に日本人が誇る侍たちですね、はなしだけでもわくわくします。NHKのひとに頼んでプロジェクトX を作ってほしいですね!!!!!
和田:島袋さん お久し振りです。見る記事は見てくれているのですね。大変嬉しく思います。今後とも宜しくお願いします。



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