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麻生悌三のブラジル不思議発見 32 ブラジリアン柔術グレーシー
今月の麻生さんのブラジル不思議発見は、アマゾンは、べレンでその名を馳せた柔術家前田光世(コンデコマ)の弟子としてブラジルで新しい柔術グレーシー道場をリオに開設し現在では世界各地に1500の道場を持ち35万人の門弟を持つに至っていると云う。「一族の中でも最強のエリオ グレーシーは、1930年頃からヴァレトード(何でもありのルール)の試合を異種格闘技と始め、20年間無敗を誇った。移民柔道家小野安一と引き分け、日本柔道史上最強と云われた木村政彦七段に負けただけだった」との事。
早稲田の海外移住研究会のメンバー、柔道部の副将を務めた石井千秋九段は、早稲田卒業後ブラジルに移住、ブラジルアマ横綱を張り1972年ミューヘンオリンピックで銅メダルを獲得したが彼もリオのグレーシー道場に通い柔術相手にに寝技の修練を重ねたどうです。
1951年にリオのマラカナンスタヂアムで3万人を集めての世紀の一戦でエリオ グレーシーは、生涯にただ一度、木村政彦7段に敗れている。
今回の話題は一風変わった不思議発見となっている。
写真は、エリオ グレーシーと木村政彦の一戦の写真を使用しました。


ブラジル不思議発見 −32 ブラジリアン柔術グレーシー

神山展史著ライオンの夢によると、柔術家前田光世(コンデコマ)は1914年にサントス上陸し、1915年にアマゾンのべレンに定住を始めた。コンデコマとは欧州を試合旅行中、異種格闘技との試合で、余りの強さに、スペインでコマ伯爵と付けられたリングネームである。1930年コンデコマを本名にしてブラジルに帰化し、1941年亮年63歳でべレンで他界している。 1904年前田光世は講道館より選ばれて、柔道普及の為、渡米する。当時、前田光世は講道館の四天王の一人で、講道館のエースだった。アメリカを皮切りに、キューバ、欧州を転戦し、レスラー、ボクサー等の異種格闘技と試合を行い、2千試合近くで、無敗を誇った。 べレンに定住を始め、開拓事業に関与する傍ら、コンデコマ道場を開き、柔術(柔道)を教え始めたのは、37歳の時からである。(べレンの消防署本部の車庫の片隅に。マットを敷き、それにトラックの荷台に使うカヴァーシートをかぶせた道場)、前田光世は柔道家としては小柄で164cm、67kgしかなかった。如何に、柔道、柔術の技を極めていたとは云え、2千回ぐらい勝てたのは、柔術の何たるかを知らない相手に、レスラー相手には柔道衣を着せ、柔術のルールで戦ったのに他ならない。現在ブラジル柔道史を執筆中の岡野修平九段(中大卒、東京オリンピックの強化選手、大谷重工を経て、1966年ブラジル移民、1972年ミューヘンオリンピックのブラジル柔道チーム監督)の説明によれば、先ず、相手に柔道着を着せた事、次に相手の両袖を掴み、釣り込み腰、背負い投げ等の投げ技に入り投げ飛ばすが、入る寸前、肘で相手の水月に当身を食わせる。投げたら、すかさず寝技に入り、関節を取るか、首を締め上げる。これが、前田流の攻撃パッターンであった。
べレンのコンデコマ道場の門弟にガストン グレーシーと言う、スコットランド移民がいた。ガストンには4人の息子がいた。 息子達はガストンから伝授された柔術に独自の工夫を加え、後にブラジル柔術グレーシーを創設する。長兄のカーロス、オズワルド、ジョージ、末弟のエリオの主軸のうち、強さでは、エリオが傑出しており、後に異種格闘技とも、数多くの日本人柔道家とも決戦を戦う。
1928年カーロスが19歳のときに、グレーシ一家はリオに転居し、柔術グレーシー道場を開ける。ジョージが14歳、エリオが12歳の時だった。グレーシー柔術とは一口に言って、寝技に特化しており、立技は寝技に入る、予備段階の印象すらある。かっての、高専柔道がそうであったように、寝技は練磨と技術が勝負を決する。 (柔術のルールではいくら投げても、押さえ込んでも、ポイントは得れるが、柔道のように1本にならない。
相手が参ったと合図を送るまで1本取れないと、すれば、関節技、絞め技しかない)
石井千秋九段(早大卒、1964年ブラジル移民、石井道場を開き後進の指導の傍ら、修練に励み、1972年ミューヘンオリンピックでブラジル柔道界初のメダル、銅メダルを軽重量級で獲得した)は寝技の研究の為、グレーシー道場に通い柔術相手に寝技の練磨を重ねた。柔道が禁手として、使っていない数々の寝技の技に戸惑ったが、寝技に自信が出来、思い切った立ち技が掛けられるように、オリンピックの勝利にも役立ったと述べている。
又、異種格闘技との試合は場数を踏む毎に、強くなるもので、試合イコール練習だとも
述べている。
グレーシー一門は前田光世から受け継いだ柔術を世界各地に普及させ、今や世界各地に1500の道場、門弟35万人を数えるまで発展している。グレーシー一族には名だたる柔術格闘家が多く、艶福家の長男カーロスの系統と5男エリオの系統に集約される。
―エリオの系統
エリオの息子ホリオン、ヘクソン、ビクソン
ホリオンの息子ヒーロン、ヘナー、ハレック、ヘイレン
ビクソンの息子ハウソン、クロン
エリオの後妻との息子ホウケル、ホイラー、ホイス、ホビン、ヒッシ
―カーロスの系統
カーロスの息子ホブソン、カーウソン
ホブソンの息子フラビア、ヘンソ、ハウウ、ハイアン
第三夫人との息子ヘイウソン
ヘイウソンノ息子ホドリゴ、クラウスレイ
第五夫人の息子ホーウス
ホ=ウスの息子ホーレス
第六夫人の息子カーロスjr,、ヘイラ
日本のPRIDE戦で桜庭和志はホイス、ホイラーに勝っている。
グレーシー一族の内、最強と云われた、エリオは1913年生まれで、格闘家としては小柄で170cm、65kgしかなかった。1930年頃からヴァレトード(何でもありのルール)の試合を異種格闘技と始め、20年間無敗を誇った。移民柔道家小野安一と引き分け、日本柔道史上最強と云われた木村政彦七段に負けただけだった。
―小野安一(執筆中の岡野修平著ブラジル柔道史参照)
小野安一は1910年岡山県生まれ、幼少の頃より、寝技で有名な岡山の金光道場で修練を積み、19歳の時、家族とブラジル移民。1935年サンパウロに柔道小野道場を開く。
道場の門弟を増やすため、強さを看板にする手段として、新聞広告で、挑戦者を募り、異種格闘技と賞金を賭けた、賭け試合を行った。得意の寝技でボクサー、レスラー等を相手に連戦連勝した。当時、実力絶好調だった、柔術グレーシーのナンバーワン、エリオグレーシーと2回戦い、2回とも引き分けている。2回目は1時間余り戦ったが、双方共、寝技を知り尽くした格闘家で勝負はつかなかった。生前の小野安一に、一番思い出に残った異種格闘技との戦いを尋ねたところ、戦時中の1941年にパカエンブーサッカー場の体育館を一杯の観客で埋めた、アメリカ人重量級ボクサー、トビアスとの一戦だと答えた。
試合前の下馬評とは違って、試合はアッケなかった。ゴングがなると、トビアスは右ストレートを放つ、パンチを外して、小野が飛び込み、腰に抱きつき、倒し寝技に引き込む、右腕の関節を逆に捻り、僅か15秒でトビアスはギブアップ。
―木村政彦七段との決戦
木村政彦は1917年熊本県で生まれる。10歳で柔道を始め、鎮西中学4年(16歳)の時、講道館4段を取得した、天才柔道少年で、1936年の高専大会で拓大予科を全国優勝に導く。1942−45年全日本柔道選手権で3連覇を達成した。1940年の展覧試合では全試合で一本勝ちで優勝し、1950年の引退まで、連戦連勝で、柔道小説の名著姿三四郎の著者、富田常雄四段をして、木村の前に木村なし、木村の後に木村なしと云わせしめた。その後、師の牛島辰熊が起こした国際柔道協会に参加しプロ柔道家に転向する。
1951年サンパウロ新聞社の招致で、加藤幸夫、山口利夫と共にブラジルに渡る。
加藤幸夫がエリオグレーシーの挑戦を受け、戦うが、1回戦は引き分け、2回戦では、エリオに絞め落とされてしまう。エリオの挑戦は木村にお鉢が回ってきて、日本柔道の面子を賭けて、木村政彦はリオのマラカナ球技場に3万の観衆を集めて、1951年10月23日にエリオと戦う事になる。エリオグレーシー(39歳 身長170cm 体重64kg)
木村政彦(34歳 身長170cm 体重85kg)との3ラウンド 10分間の試合である。
当日、木村が会場に入ると、棺桶が置いてあるのが目に付いた。これは何だと木村が尋ねると、エリオが準備した棺桶で、木村が入るものだと云われた。木村は黙って一笑にふした。
―第一R=木村はエリオを掴まえようとするが、小柄なエリオは素早く動き中々掴まらない。やっと、捕まえ、倒し、押さえ込み、首を絞めると、エリオの耳から、血が流れエリオは失神してしまう。締めを緩めるとエリオは意識を取り戻すが、参ったとわ云わない。
―第二R=木村の宝刀、大外狩りが決まり、すかさず、押さえ込む、腕がらみを決められ、エリオの腕が抜けず、(エリオの腕が骨折した言う話もある)それでも、参ったの合図もない。木村はそれなら、腕を折るかと、力を入れた途端、セコンドの長兄カーロスからタオルが投げられ、試合終了。エリオグレーシーの初めての敗北であった。
試合後木村は腕が折れても、参ったと云わない、エリオの闘魂は武道家の鏡だと讃えた。
木村の柔道は人間業とも思えない程、強かったが、木村はプロ柔道に入り、渡米、アメリカで異種格闘技と戦い、柔道では禁手とされていた、技を復活させ、習得していた。 
一方、エリオは木村が自分と同じ柔術の技を熟知し、今まで、自分が戦ってきた柔道家とは、桁違いの強者だと知らなかったのでは、なかろうか。日本柔道史上、最強の男、木村政彦に一蹴されたとは云え、エリオグレーシーも、柔術一筋で思う存分、戦って生きた、サムライであった。2009年亮年95歳で生涯を閉じた。
(写真はグレーシー一門、コンデコマ、エリオを攻める木村政彦)

附録 光る蟻塚
ブラジルの中央高原地帯にセラードと呼ばれる、サヴァンナ地帯がある。総面積は凡そ
2百万平方kmの広大な乾燥した平原地帯である。年平均温度は23度C、雨量は1300mmで少なくはない。雨期は10月―3月、乾期は4月―9月であるが、雨季の降る時は1日に200mmもの土砂降りで、降雨のない乾期には100日ぐらい全く降らない。
このセラードに蟻塚と呼ばれる、土の塔が無数にある。塔は白アリ(実はこれは蟻ではなくゴギブリの一種)が唾液と土を練って、レンガ状の土を積み上げて作った堅牢な塔で、
大きい塔では高さは2mを超える。大きな塔では数十年かかって作られ、その塔の下には
当の高さの数倍の地下道が広がっており、温度も一定で、大きな塔では、数百万匹の白アリが棲息し、女王蟻を中心に、蟻社会を構成している。この塔の中にヒカリゴギブリムシ
と呼ばれる甲虫が棲息しており、雨季の頃の夜、この虫の幼虫が、塔の外側の表面に出て、
エメラルドグリーンの光を放ち、幻想的な光が浮かび上がらせる。この虫(英名 Click Beetle ポ名Barata de estado),の成虫は大きく、体長1−2cm、幼虫で3−8mmで光るのは幼虫期だけらしい。シロアリと呼ばれる、ゴギブリは普段は盲目であるが、羽が生えて、飛翔できる頃だけ目が見え、光りに反応できる。(写真は光る蟻塚)
2012年7月1日
麻生































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