HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡(17) 12/08/24  サンパウロ新聞WEB版より
サンパウロ新聞の創立65周年記念特集として次世代に継ぐ日本人移民、日系人ん足跡が2012年8月1日より連載が始まり2年間は続く連載で100年を超すブラジル移住史の中で各界に渡り個々の個人にライトを当てた息の長い特集が始まっており最初に取り上げられたのが地元南大河州編でその最後の17回に私を取り上げて呉れています。筆者の松田正生記者の南伯取材にも協力させて頂いており身近な仲間が移住者の目線で語られており『私たちの40年!!』寄稿集にも是非残して置きたい戦後移住史の一端として貴重な特集に成っています。
私関係の記事で恐縮ですが、管理者和田関係の話題欄にコメントを含めて掲載して置くことにしました。写真は、サンパウロ新聞掲載分をそのまま使用させて頂きました。


移住者の記録残したい 「さわやか商会」の和田さん ポルト・アレグレ
◆南大河州編
戦後移住が始まってから、日本各地の大学に海外移住の研究会が設立され、多くの学生が海を渡った。早稲田大学の学生だった和田好司さん(72、兵庫)もその一人。60年安保の余韻の残る日本を出発し、ブラジル国内、南米各地の移住者を訪ね歩いた。長年日系商社のポルト・アレグレ出張所長として働き、同時に日本から来た若者の世話も続けて来た和田さん。同船者の記録を残す作業を続けて10年になる。

多くの日本移民が出発した町、神戸で生まれた和田さん。中学生の時に戦後移住が始まり、ブラジルへ向かう移住者は身近な存在だった。学校の課外授業として、見送りのない人のために移住者が船から投げるテープを拾いに行ったこともある。

早稲田大学第1政経学部政治学科に入学、将来は政治の世界に入ることを頭に描いていたという。その方向を変えたのが60年安保だった。

新日米安全保障条約への反対運動として1950年代の終わりから繰り広げられた安保闘争。反対デモの中には和田さんの姿もあった。しかし条約は60年6月に国会で承認。挫折感の中で和田さんの視線は外国へと向かう。

大学の海外移住研究会に入り、翌年、移住啓蒙の活動で九州を回った。自分たちが書物から得た知識でする話を、高校生が目を輝かせて聞いていたという。「我々の話に乗って移住した人もいるかもしれない。その人たちへの申し訳のためにも、我々の中からブラジルに行かないと」、そう感じた和田さんは62年3月、大学を休学してブラジルへ渡った。

乗り込んだ「あるぜんちな丸」の第12次航で移住したのは681人。コチア青年などの単身移住者、海外協会連合会の移住地、連邦植民地への入植者に加え、ボリビアやパラグアイ、亜国への移住者など、戦後移住を象徴する人たちが乗り合わせていた。着伯した和田さんが取り組んだのが、これら各地の移住者の姿を自分の目で見ることだった。

リオ、バイア、パラーなどブラジル各地、ボリビア、亜国など、ほぼ陸路で南米を回った2年間。訪れた先で次の場所を紹介してもらいながら、各地で見聞きした移住者の話を日本へ送った。「皆さん受け入れてくれた」。橋のないマラニョンのロザリオ植民地では、入植者が首まで水に浸かって収穫したトマトを運んでいた。ブエノス・アイレスでは、同地の県人会から援助を受けたこともある。

帰国して大学を卒業し、65年に再び渡伯。ゴイアス州グルピー(現在はトカンチンス州)で牛飼いと野菜作りを始めたが、順調には行かなかったという。「農業者としては落第でしたね」。2年後、ブラジルで通用する資格を取ろうと都会へ出た。
 リオの日系企業で1年働いた後、ポルト・アレグレ総領事館の補助員に採用された。ポ市で予備校に通い、南大河カトリック大学法学部に合格。「補欠の5人 目だった」と笑うが、5年かけて卒業し、弁護士資格を取得した。同州の弁護士が人口1000人当たり一人の時代だ。卒業後、ポ市で出張所を開けたばかりの ブラジル丸紅に就職し、4年目から所長になる。

和田さんが所長になった時、本社は出張所を閉めるつもりだったという。「そんなことを知らずに必死になって」と和田さん。州内の会社を軒並み回って新規 の仕事を探し、2年後には「閉めるつもりが閉められなくなったと言われた」と笑う。以来17年間所長を務めた。「間口が広くて奥行きが深い商社の仕事を思 い切りやらしてもらった」

伯丸紅の現地役員にもなったが、95年、55歳で退職を決意する。出張所が伯本社の方針で行っていた事業が不採算を理由に打ち切りになり、人員整理を迫 られた。「自分の手を切り、足を切って続けることはできない」、和田さんは会社を辞め、家族経営の会社「さわやか商会」を立ち上げた。社名は夫人と3人の 娘の名から付けたものだ。

日本の会社の連絡事務所業務や輸出入、コンサルタント等の仕事を手がけて今年で17年。設立の時、「お父さんが元気な間の遊び場所」と言って手伝った娘さんも巣立った。和田さんは「体力、気力のある間は遊ばせてほしいですね」と表情を和らげる。

本業の傍ら、日本から来た若者たちの支援にも力を注いできた。2005年までの25年間で約750人の研修生を派遣した日本ブラジル交流協会。その地方 理事として南伯2州で研修した72人の受け入れ準備、世話にあたってきた。和田さんは移住当初のころを振り返り、「たくさんのお世話になった人たちに直接 お返しすることはできない。だから恩返しのつもりで、次の世代に何らかの形でお世話をしたい」と気持ちを語る。

現在は南日伯商工会議所の専務理事を務めながら、地元日系団体の活動も手伝う。あるぜんちな丸の着伯40周年を機に開設されたホームページ「私たちの40年」の管理運営も大切にしている仕事だ。

航海中は船内新聞「さくら」の編集責任者だった和田さん。同ホームページは航海の記録、同船者の寄稿を残す目的で開設され、今では戦後移住者、日系社会 の情報を伝える場として一日1000人が訪問するほどになった。「681人の移住先国での定着の過程を戦後移住史の一部として残しておきたい」と和田さん は希望を語る。

渡伯40周年に船内新聞の号外を作ろうという話から始まった同船者の集いでも長年世話人を続け、今年5月の50周年で一区切りをつけた。バイア州やボリビアからも旧知の人たちが集った式典を振り返り、「やって良かった」とうなずく。

ブラジルへ渡って半世紀。「現在送っている自分の人生が最善のもの、悔いのないものという思いをいつも持ちながら過ごしたい」と和田さんは話す。「移住 というのは人生の一つの選択。50年前に下した選択が悔いのなかったものであるという人生を送っている人が一人でも多くいるよう望んでいます」(2012年5月25日サンパウロ市で取材)(松田正生記者)

2012年8月24日付

(コメント集)
和田さん  しゅくこです
「世代に継ぐ日本移民、日系人の足跡」のWeb記事の連載読んでいます。
すばらしい企画ですね。
和田さんの登場されるのを楽しみに待っていました。

さらりと書かれた記事ですが、そのどのひとつを取ってみても、大変な努力があおりだったと思います。
和田さんの情熱を受け入れてくれたブラジルと言う国の懐の深さも同時に感じました。

しゅくこさん  コメント有難う御座います。
移り来て50年!!移住者としての私を受け入れて呉れたブラジルに感謝の念で一杯です。
まだ少しは残されているブラジルでの人生を大事に生き抜きたいと思っています。
好きな事を好きなだけやり人様に迷惑を掛けず平穏に残りの人生を全う出来ればと願っています。今後とも宜しく応援下さい。

丸木で〜す  和田さんに定年無し!立派な足跡を残されました、尚一層の頑張りに期待します。

丸木さん
有難う御座います。55歳で丸紅ブラジル会社の現地役員を降りさわやか商会と云うファミリー会社を設立、女性軍に囲まれ『御父さんの元気な間の遊び場』(末娘小百合の定義)で楽しく遊ばして貰っています。気力と体力の持つ間は続ける積りです。

和田さん
Resume拝読させて頂きました。学生時代からの初志貫徹された和田さんに敬意と祝福を贈ります。 会社が閉めると決めていた支店を見事に採算がとれる状態にした努力と情熱には和田さんの生き様を拝見した気がしました。
20才より前に水漬(みづ)く屍(かばね)を覚悟していた自分は79才。未だ元気で走り続けています。幸せなことです。 誰かに元気の秘訣を問われたら、『脳天気で、何事にも文句を云わないこと』と答えるでしょう。
伊豆山

伊豆山 さん
サンパウロ新聞の次世代に継ぐ日本人移民、日系人の足跡(17)南大河州編の最後に登場させて貰いましたが、本日、松田記者が態々サンパウロ新聞を送って呉れ紙の活字新聞を私も見せて頂きました。上手く纏めて呉れており有難い事です。2年間継続する予定との事、移住者個々に光を当てての個人を通じての移民の歴史、是非沢山の方の行き様を書き残して置いて欲しいと思います。南大河州編だけでも皆さんに順次紹介して行きたいと思います。
温かいコメント有難う御座います。
云い忘れていました。前回マリコさんを囲んでのサンパウロのOFF会の翌日が79歳の誕生日だったのですね。皆さんにも紹介しパラベンスを歌おうと計画していたのですが、すっかり忘れてしまい失礼しました。遅ればせながら79歳のお誕生日オメデトウ。伊豆山さん流に言うと80台を迎える最後の誕生日との事でした。
丸木さんを囲んでの叙情歌の会、楽しんで下さい。

和田さん、 記事を拝読させていただきました。
普段はご自分のことはあまりお話しされず、「男は黙ってMLのまとめ役」をなさっておられましたが こうやって第三者が和田さんの伝記記事を書いてくださり、素晴らしい人生行路を紹介されたので ミステリアスな和田像がやっと見る事が出来ました。
和田さんは10代の時から本当にまじめに自分の魂と向き合って生きることに取り組みそして 巡り会った人々を大切にしてくれるお人柄だったのだとよく分かりました。
和田さんが大切にされているこのMLに傷をつけないように 注意して投稿を続けたいと思います。
和田さんの健康とご家族皆様の幸福を改めて祈ります。
いつもありがとうございます。
それから、お写真を見て気がついたのですが、和田さんのお顔はどの写真を見ても 同じなので、しっかりと自分の顔を持つことが出来たのは、心が一つで曇りがないと言うことなのだと思います。
これからも大活躍してください!それが和田さんの元気と笑顔の栄養源ですね。
オランダ香織

香織さん  コメント有難う御座います。
私が余り自分の事を話さずミステリアスな和田像と云うのは少し違うのではないかと思います。
私は、メーリングリスト、BLOGでも何でも(家族の事も含めて)ここ10年間書き続けて来ており私の事、和田像を知らない人は少ないのではないかと思います。
『私たちの40年!!』HPの寄稿集にも【管理者和田関係の話題】と云う欄があり93項目もの記録が公開されていますしBLOGにも【管理者和田関係の話題】という欄があり沢山の書き込みが写真付きで掲載されております。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biogcat.php?cod=2
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/folder/292111.html
和田さんのお顔はどの写真を見ても同じなのでとのこと俳優には向いていないのでしょうね。リンカンが40歳を過ぎると自分の顔に責任を持てと云ったそうですが、72歳にもなってまだ自分の顔に責任は持てません。こんなものだろうと思っています。気取らずに何時も笑顔で人と接して行きたいと願っています。香織さんのコメントは大変嬉しく感謝しています。
『私たちの40年!!』の貴重なメンバー、これからもどんどん書き込みをお願いします。8月も明日で終わりですが、MLは新記録を更新、900件に近い書き込みを記録しています。(1日30件平均)本当に驚きです。メンバーの皆さんに感謝です。

和田さん 喜久子です。半世紀にわたる和田さんの生きてこられた道が説くわかり、真剣に読みふけりました。日本の猛暑の夏初めて夏負けして ちょっと臥せりました。明日から9月ですから 頑張らねばと思っているところです。エネルギーをいただきました。MLもすべては読めないですがたまりすぎないようにしています。並々ならぬ努力を惜しまず情報の発信には驚きながらも、遠いブラジルを身近に感じます。お元気で今後とも楽しみに拝見いたします。

山田喜久子 さま
嬉しいコメント有難う御座います。日本の猛暑に夏負けされたとの事もう9月ですので気候も良くなると思いますのでお元気にコーラス、皆さんとの集いに精を出して下さい。ブラジルでもこれから一番良い季節に入ります。街路樹が咲き乱れ春を思わせる季節に入りました。又ブラジルに咲く花を紹介できると思います。
有難う御座います。

和田さん マリコです。
歩んでこられた「今まで」...を普段から少しずつお聞きしていましたが、文字になった和田さんの歴史を改めて噛み締めながら読ませて頂きました。
たゆまない努力と前進。忘れることのない感謝の心に感動しています。
45歳からスタートした南米公演を機に『生きる』を学び考えさせられた私。
来年、10周年を迎える南米公演。
これからも出来る限り続けたい活動の新たなる灯台となりました。
和田さん、
ありがとうございます。



アクセス数 4510966 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.2311 segundos.