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【希望大国ブラジル】 産経ニュースWEB版より(第6部)
昨年2011年に産経新聞に【希望大国ブラジル】と云う題で6部に分けてブラジルを紹介する記事が連載された。この取材記者のお一人でブラジル南部に取材に来られた徳光一輝記者に2日間ご一緒させて頂き州内南部ペロッタスまで出かけ中国から進出して来ている大型大豆栽培農場の有無を一緒に調べたが、深く静かに?進出中の中国企業の実態を掴むことが出来ませんでした。結局徳光記者の記事は活字になりませんでした。
5部までは、昨年末までにHPに収録しましたが、最後の6部がそのままになっていました。年末を迎え1年遅れで6部も収録して置くことにしました。
エピローグ・日伯新時代 震災が育む在日日系ブラジル人との絆は、23万人と云われる日本に住む日系ブラジル人の日本人社会との繋がりを震災との関連で語るエピローグ・日伯新時代の締めは1年経った今も新しく感じられる。
今年のニッケイ新聞の10大ニュースの第1番目が日本からの企業進出、第三の波到来か=商議所会員は過去最高にをランクしている。2013年は、真の日伯新時代の幕開けとなるか?期待したい。
写真は、産経新聞からお借りする。


第6部(1)日伯の懸け橋 変貌する「もう一つの日本」
2011.11.28 19:03 (1/5ページ)[希望大国ブラジル]
 時のかなたから聞こえてきたような、か細い日本語だった。ブラジル南部パラナ州の田舎町ホンカドルで暮らす日本人移民の池上俊光さん、87歳。
 「わたしは名古屋の中心地に生まれました。父親は理髪店をやっていた。だいぶん昔のことです」
 12歳だった昭和10(1935)年、一家で海を渡りコーヒー農園で働いた。土地を買って移り野菜を作った。
 「カフェ摘みの仕事は大変だった。早く言えば奴隷扱い。苦労しましたよ」
 質朴な寝室の薄青色の壁に昭和天皇と香淳皇后、皇太子時代の天皇、皇后両陛下、そして父母のモノクロ写真が額に入れられ、上から順に飾られていた。
 日本へは一度も帰国していない。帰りたくないかと尋ねると、「ひと苦労しました」と繰り返した。傍らで妻の2世、ツヤコさん(79)が話した。
 「日本で貧乏したから、もう戻りたくないんです。もう日本は豊かになったと言っているんですけど」
 ブラジルから地球をぐるりと回った日本の神奈川県綾瀬市。池上さんの孫で3世のメスキタ・ファビオ池上さん(29)は工業団地の食品工場でコンビニ店向けのパスタを作っていた。マスクをつけても粉でまつげまで真っ白になる。
 14歳だった1996(平成8)年、一家で海を渡り工場で働いた。現在の時給は1050円。
 「日本へ来て15年になる今、考える。おじいちゃんはどんな思いで異国へ来たのだろうか」
 BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国)の一角、ブラジルには海外最大の日系社会がある。日系人は日本人とその子孫、日本人の血が流れる人々を指し、日本生まれを1世、海外生まれを2世、3世などと呼ぶ。世界中で300万人と推定され、ブラジルは150万人と半分を占める。
「経営者は中国人」
 赤い大鳥居やちょうちん形の街灯が続く街に日本語の看板があふれる。サンパウロ中心部、南北1キロに商店400軒が並ぶリベルダージ地区。かつては「日系人街」だったが、中国、韓国系の店が増え「東洋人街」になった。近年は中国・台湾勢が席巻しチャイナタウンと化しつつある。
 街で生まれ育った2世の不動産会社勤務、菊地ミエ・スエリさん(59)は「みんな日本語で書いてあるけど、経営しているのは中国人。こんなに増えるとは思わなかった」と話す。
 街角の壁に、赤い中国服を着て両袖を合わせた中国娘を描いた落書きがあった。
 日系人と日系社会の存在ゆえにブラジルは有数の親日国といわれ、日本からの進出企業も「ビジネスで日伯の懸け橋に」と期待を寄せる。だが明治41(1908)年の最初の集団移民から100年がすぎ、150万人のうち23万人はファビオさんのように日本で働く。日系人も日系社会も様変わりしていた。
世界企業支える「頭脳」
 宇宙開発に匹敵する技術の一端を、日系移民の息子が担っていた。国営石油会社のペトロブラスが大西洋で操業する超深海油田「プレサル」。サンパウロ大学のカズオ・ニシモト教授(57)=海洋工学=は、海に浮かぶ巨大な石油生産基地から2キロ下の海底までロープを垂直に下ろし係留する技術を開発した。
 「世界でもわれわれ独自の技術だ。最初は500メートルすら無理と笑われたが、今は3千メートルも視野に入った」
 船舶の係留には通常鉄製ワイヤが使われるが、1千メートル以上の深海では荷重が強くなりすぎ、つないだ船が沈む危険さえある。ニシモト教授らは比重が水とほぼ同じで、鉄より軽いポリエステルを採用した。専用のいかりや石油をくみ上げるパイプも作った。これによりブラジルは海底からさらに5キロの地底に横たわる油層へ初めてたどり着けた。
 ニシモト教授は東京五輪が開かれた昭和39(1964)年、工業移民の両親に連れられ三重県四日市市から移住した。9歳だった。父は冶金工場で働き、その後に花店を開いた。明治41年から戦争を挟んで近年の平成6年まで88年間続いた日本からの移民24万人の一人だった。
農業移民から出発
 日本人は当初、大半が農業移民だった。やがて商工業や政財界、法曹界など各分野へ進出していった。最高学府であるサンパウロ大学の学生の14%は、総人口の0・7%にすぎない日系人が占める。中央官庁には400人が働いているという。
 世界3位の航空機メーカー、エンブラエルの技術担当副社長は2代続けて日系人が就いている。ともにブラジル中の頭脳が集まる航空技術大学校(ITA)を卒業した。
 サトシ・ヨコタ前副社長(70)は「私が学生のころは100人のうち20人ほどが田舎から出てきて必死に勉強した日系人だった。今やその役目は中国人や韓国人が担っている」と指摘した。
 ニシモト教授は「プレサルを誇りに思う。現在の日本人に、そうした大きな夢を持って未知の分野へ挑戦する人が少なくなったと感じる。日本をルーツに持つ者として日本人には心から頑張ってほしい」と話す。
「ニッケイ」離れ
 戦前の移民はブラジルで金を稼ぎ数年で帰国する出稼ぎ目的だった。その多くは日本の敗戦により異国に骨を埋める覚悟を決めた。
 日系社会の研究機関、サンパウロ人文科学研究所顧問で2世の宮尾進さん(81)は「彼らは帰国に備え子供を日本人として教育し日本語を教えたが、戦後はブラジル社会で上昇するためポルトガル語で高い学歴を身につけさせることに最も力を注いだ」と指摘し、こう続けた。
 「その結果2世、3世以降はブラジル社会で飛び抜けた高学歴となり、一般のブラジル人よりはるかに高い所得を得て各界へ深く浸透していった。一方で彼らは日系社会を遠く離れ、ついに帰ってくることはなかった。日系社会は1世の高齢化とともにやせ細った」
 リベルダージに本社を構える邦字紙、サンパウロ新聞とニッケイ新聞。日本語を読む移民1世が5万人まで減った現在、部数は公称3万部弱と1万部。主な読者は70代以上という。
 ニッケイ新聞の編集長で、『ブラジル日本移民百年史 第3巻』(風響社)で「日系メディア史」を執筆した深沢正雪さん(46)は「邦字紙が役割を終える日がひたひたと迫っている」と話す。
 150万人の日系人といっても、日系社会へ帰属意識を持ち何らかのかかわりを持つ人は10万人に満たないと宮尾さんは推測する。
 「日系人という意識も薄れてきている。30年もすればニッケイという言葉も消えるのではないか。だが、失われるのは言葉だけではない」
     ◇
 第6部は最終部として、日系人のまなざしから新たな日伯関係を考えてみる。
 ●体験や意見をお聞かせください【あて先znews@sankei.co.jp(都道府県、年齢、性別をお書きください)

第6部(2)守り伝える日本人の精神 「卵王国」を訪ねて
2011.11.29 19:54 (1/3ページ)[希望大国ブラジル]
 地球の反対側に日本人が建設した町がある。サンパウロ州奥地のバストス。日系人による養鶏が盛んでブラジルの鶏卵生産の2割を占め、日本人が興した生糸工場はフランスの高級ブランド、エルメスのネクタイやスカーフなどシルク製品の90%を供給する。そこは日本人より日本人らしい日系人が暮らす町でもあった。
 長距離バスターミナルでサンダル履きの男性に迎えられた。「卵王国」と呼ばれる町で養鶏業を営む2世の薮田修さん(70)。
 「養鶏、生糸、商業。町の経済の8割は日系です。こんな町はここしかない」
 バストスは1928(昭和3)年、日本政府の肝いりで開発された計画都市であり、街路は碁盤の目のように整然と並ぶ。日系市長が7人続き鉱山エネルギー相や日系初の判事を輩出した。現在、2万3千人のうち日系人は800家族3千人。養鶏は70家族が1768万羽を飼い、毎日1200万個の卵をブラジル全土へ出荷する。
 薮田さんは一族で450万羽を所有し360万個を出荷する大企業主だが、折り目正しく、暮らしは質実だった。
 「私は田舎育ちだから。それに身なりや車がいいと強盗に狙われる」
 しっかりとした日本語は50歳をすぎて学び直したものだった。
2世に「誇り」
 わが国が戦争へ突入した1941(昭和16)年、薮田さんはバストスで生まれた。連合国についたブラジルは敵国人として公の場での日本語の使用を禁じた。戦後、日本人移民は祖国の戦勝を疑わない「勝ち組」と、敗戦を認めた「負け組」に二分され、勝ち組はテロ行為に及んだ。
 薮田さんは「戦後は負け組の人々やブラジル人から日本語をばかにされ、私たちの世代は日本語を学べなかった。年を取るごとに、やっぱり日本語を知っておきたいと思うようになった。会話はできるようになったが、読み書きはまだ難しい」と話し、こう続けた。
 「私は2世であることに、日本人の血が流れていることにオルグリョ(誇り)を感じている。だから日本で日系ブラジル人が犯罪を起こすと心の底から腹が立つ。恥だと思う」
 同じ2世の元公務員、阿部五郎さん(84)は「日本人として恥になることをしてはいけないと思ってきた。子孫の世代へも伝えていきたい」と話す。
 彼らが守り伝えようとするものは表面的な日本文化ではない。遠い異国で80年かけ「卵王国」を築いた勤勉や質実、正直といった、父祖の国でさえ失われつつある日本人の精神だった。
「日伯学園」構想
 今年7月、東京の社団法人日本ブラジル中央協会が日伯文化交流委員会という組織を作った。サンパウロで2007年にできた日系団体、日伯教育機構の活動を応援するためだ。
 ドイツやイタリアなど各国の移民社会は、祖国の政府や企業の協力で総合学園を建て民族文化の普及を図っている。日系社会も「日伯学園」を作り、よき日本人の心を広く社会へ伝えようとの構想だが、資金難から進んでいない。韓国人は40年ほど前に移住が始まり現在6万人にすぎないが、数年前に300万ドル(約2億4千万円)を集め、韓国政府が同額を助成して「韓伯学園」を建てたという。
 日本側の委員長でブラジル東京銀行元頭取の小林利郎さん(78)は「日伯の特別な関係の基礎にはブラジル人の日本人への親しみや敬意がある。それを支えてきたのは日系人だが、社会への同化が進み日系人が日本人の美点を失ったとき、日伯は普通の国の関係になってしまう」と話す。
 ドイツ系学園の関係者は日伯教育機構の理事へこう語ったという。
 「海外での文化投資は目に見えないが、長い目でみれば必ず国益となり戻ってくる」
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第6部(3)アマゾンを拓いた日本人 「高拓生」の歴史に光
2011.12.2 10:01 (1/3ページ)[希望大国ブラジル]
 小高い丘に墓標のように白い木柱が建っていた。ブラジル・アマゾンの町パリンチンス近郊のビラ・アマゾニア。かつて「八紘会館」という名の神社のような建物があった。はるか日本から入植し密林を開拓した、「高拓生」と呼ばれる若者たちの拠点だった。
 子孫らでつくるアマゾン高拓会会長でアマゾナス連邦大学の元副学長、佐藤バルジルさん(59)は「父親たちの偉業を後世に伝えることが使命だと思っている」と話した。
 高拓生は戦前、現在の川崎市にあった開拓指導者の養成校、日本高等拓植学校の卒業生だったことからこう通称された。この地に実業練習所や農業試験場、気象観測所、診療所から成るアマゾニア産業研究所が設立され、ブラジルで初めてジュート(黄麻)の栽培と商品化に成功した。
 ジュートは、コーヒー豆など農産物の輸出に欠かせない麻袋の原料でありながらインドからの輸入に頼っていた。日本人の手で始まったジュート栽培は戦前のアマゾン経済の35%を占める一大産業へと発展した。
 佐藤さんは「その偉業は歴史から消されてしまった」と複雑な表情を見せた。日米開戦で連合国についたブラジルは研究所の財産を接収し、ジュートを栽培する高拓生を除き日本人を敵国人として抑留した。
「行け南米の理想境」
 日本高等拓植学校は昭和6(1931)年から12年の閉校まで7年間に248人をアマゾンへ送り出した。中心となったのはブラジル移民の父といわれた上塚周平の甥で、熊本県選出の衆院議員を務めた上塚司だった。上塚は当時、国民雑誌キングでこう呼びかけた。
 《同胞よ! 行け南米の理想境 大アマゾンの日本新植民地 台湾九州四国を併せた大面積の処女地が、新に日本の植民地として諸君の開発を待つ》
 同志社大学人文科学研究所の野口敬子元嘱託研究員=アマゾン移民史=は「高拓生は上塚司の理想に共鳴した若者たちであり、中流家庭の子弟が多かった。そればかりか、男爵の家柄や海軍少将の五男もいた」と指摘する。
 だが、低湿地帯にヤシの葉でふいた屋根の家、土をこねて作ったかまど、蚊が大量発生するため蚊帳を2枚重ねて寝る生活に、日本への帰国者やサンパウロなどへの転住者が相次いだ。
60余年ぶり名誉回復
 今年は高拓生のアマゾン入植から80年を迎えた。八紘会館の再建に向けた動きもあったが、東日本大震災に見舞われた祖国の惨状に配慮して延期された。代わりに義援金が送られた。
 高拓生2世の東海林ウィルソンさん(62)は「歴史を残すのは自分たちの務めだが、今やらなければならないことは祖国の支援だと考えた」と話す。
 10月25日。アマゾナス州の州都マナウスの州議会には東海林さんの父、善之進さん(97)の姿があった。ブラジルで生存する高拓生はマナウス在住の善之進さん、千葉守さん(100)ら3人のみ。
 州議会はその日、高拓生のジュート栽培によるアマゾン経済への多大な貢献を認め、公立学校の教科書で教えること、そして「戦時中に不当な扱いを受けたことへの公式な謝罪」を盛り込んだ新たな法律を可決した。日本で彼らの歴史が忘れられる一方、ブラジルは彼らの名誉を回復した。
 善之進さんは高拓生の生存者として名誉州民章を授与され、壇上に立った。
 「私は最後の生徒であります。仙台からアマゾンへ入植し、我慢に我慢を重ねて生きてきた。だが、日本人としての誇りを忘れたことは一度もありません」
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第6部(4)農業という最大の貢献 息づく日本の「産業組合運動」
2011.12.3 07:55 (1/3ページ)[希望大国ブラジル]
 巨大農場で「3本の矢」の青いマークに迎えられた。ブラジル東北部バイア州の辺境地帯、4万3千ヘクタールで綿花や大豆を生産する農事企業「ホリタグループ」。日系3世の堀田3兄弟が経営し、マークは3本の矢を束ねれば強くなることから3兄弟の結束を訴えた毛利元就の逸話にちなんだ。
 長男のリカルド・リョウスケさん(54)は「こまい(小さい)ときから、おじいちゃんに繰り返し聞かされてきた」と話した。次男のウィルソン・ヒデキさん(51)と14の農場を管理する。三男のバルテル・ユキオさん(48)は財務や「穀物メジャー」と呼ばれる欧米の穀物専門商社との交渉、資機材の購入を受け持つ。
 祖父は1938(昭和13)年、熊本県から移民しコーヒー農園で働いた。南部パラナ州へ移り野菜を作った。3人目が成人した84年、この地に1200ヘクタールの土地を買い、兄弟は大豆袋の上で眠って働いた。
 リカルドさんは「ここまでできるとは夢にも思わなかった。ブラジルは土地も、可能性も大きい。20年前、ホテルへ泊まって職業欄へ『農業』と書くことは何か恥ずかしいことだった。今は大きな満足感と誇りを持っている」と話す。
野菜を食卓に
 ブラジルで柿を「カキ」という。日本人移民が持ち込んだためだ。ぱらぱらの長粒種だけだった米は日系人が短粒種を栽培した。野菜を食べる習慣のなかったブラジル人の食卓に野菜が欠かせないものとなった。
 最大の貢献は「農業協同組合」だった。農産物を仲買業者に買いたたかれないよう、共同で市場へ出荷したもので、1927(昭和2)年にサンパウロ郊外コチア村で生まれた「コチア産業組合」は戦後、南米最大の農協となった。当時のわが国で盛んだった「産業組合運動」に範を取ったものだ。
 東京学芸大学の矢ケ崎典隆教授(59)=地理学=は「ブラジルはコーヒー農園や牧畜などの大規模経営であり小農組織は存在しなかった。戦後、日系農協はブラジル人が加わって成長した。コチアなどは最終的には消滅したが、ブラジルの産業の発達に果たした役割は大きい」と指摘する。
 コチアとスール・ブラジル農産組合の日系2大農協は94年、破綻し解散した。
農協立て直し
 ミナスジェライス州の高原の町サンゴタルドへ日系農協を訪ねた。前身はコチアの下部組織の支所であり、全国組織の解散後も形を変えて存続している農協の一つだ。大きなかまぼこ形サイロの壁に「CACCC(コチア産業組合中央会)」の文字がうっすら残っていた。
 近くの集荷場で、コンベヤーを流れてくるつやのあるニンジンを前かけ姿の若者たちが手際よく洗っていた。日系人が始めた生産は全土の半分を占め町は「ニンジンの都」と呼ばれる。
 農協の農業技師で2世のセルソ・ヒデト・ヤマナカさん(47)は「国の保護がない中で大農や穀物メジャーと伍していくのは大変だが、団結することで小農の弱みを克服できる。これまで乗り切って来られたし、これからもやっていけると思う」と話した。
 ブラジル協同組合協会の2009年の統計によると、農協はブラジル全土に1615あり組合員は94万人。国内農業生産の37%を担う。
 ゴイアス州の町で大豆や野菜を生産し地元農協の組合長も務めたオズマル・サルバラジオさん(44)の言葉が耳に残った。
 「農協は90年代初めに破綻が続いたが、『商社と異なり農協は組合員のものだ』という意識改革で立て直した。私も商社とドル建てで取引したが、現在は為替差損リスクのないレアル建てで農協へ出荷している。日本は反対に組合離れが進むと聞くが、なぜなのか」
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第6部(5)エピローグ・日伯新時代 震災が育む在日日系ブラジル人との絆
2011.12.4 20:06 (1/3ページ)[希望大国ブラジル]
 がれきの中で日本人のおばあさんを抱きしめた。「ありがとう、ありがとう」。彼女は泣いていた。ブラジルから来日し神奈川県愛川町に住む日系2世、福本オスカー博之さん(35)は東日本大震災で被災した福島県いわき市でがれき撤去のボランティアをし、父祖の国の人々との距離が縮まるのを感じていた。
 「日本へ来て10年になり、何かせずにはいられなかった。黙って見ていることはできなかった」
 福本さんはサンパウロ州の町で生まれ育ち、母の故郷である宮崎県へ留学したのを機に日本で働き始めた。現在はウェブデザイン業の傍らコンビニ店向けの弁当工場や自動車部品工場で働いている。
 在日日系ブラジル人は平成22年末時点で23万人。20年秋のリーマン・ショックで8万人が帰国したものの、中国と韓国・朝鮮籍の次に多い。
 震災では日系ブラジル人たちも被災地へ駆けつけた。ブラジルの日系社会は義援金を寄せ、財団法人海外日系人協会によると総額は約6億円に上った。
 協会の西脇祐平調査役(49)は話した。
 「これほど多くの義援金が寄せられたのは戦後の『ララ物資』以来だった」
「母国の再興を」
 ララ物資は戦後、米国の日系人の尽力により民間団体が日本へ送った衣服や食料、文具などの救援物資を指す。中南米へも広がりブラジルの日系社会からも多くの物資が届いた。
 東京都内で日系ブラジル人労働者の支援団体を運営する元会社員、加藤仁紀さん(70)は4歳だった敗戦時、旧満州から引き揚げる途中で医師だった父を亡くした。仙台市の母子寮で暮らしていた小学生のとき、ブラジルからラグラン袖の上着が届いた。
 母の満(みつ)さんはブラジルへあてて礼状を書いた。移民の一人から返事が来た。
 《渡伯36年になります。私ども海外に居りますが、一日も早く母国の再興を希望いたす次第であります》
 2年前に101歳で亡くなった母は、加藤さんへこう繰り返したという。
 「日本人移民はブラジルで温かく迎えられた。だから今、日本へ働きに来ているブラジル人を同じように迎え入れ、同胞として大切になさい。そして彼らの祖父母や父母が窮乏する日本国民を助けてくれたことを決して忘れないように」
 今回の国難でも地球の反対側に父祖の国の一日も早い復興を願う人々がいる。
成功者出したい
 希望大国、ブラジル。
 資産運用会社「UBSグローバル・アセット・マネジメント」の岡村進社長(50)は「欧州危機の影響で新興国の減速が懸念されているが、長い目で見れば結局は資源を持つ国が強い。ブラジルが希望の大国であることに変わりはない」と指摘する。
 われわれは今後、日伯関係をどう深めていけばよいのか。
 神奈川県藤沢市で土木会社を営む2世、茂木真二ノルベルトさん(47)は震災直後、トラックに重機と救援物資を積み、宮城県名取市や石巻市で遺体の捜索やがれき撤去のボランティアを続けた。
 滞日19年。高校3年を頭に3人の娘は日本で生まれた。茂木さんは「リーマン・ショックで出稼ぎ目的の人はみんな帰国した。残った者は日本で頑張る覚悟を決めた人たちだ。日系ブラジル人から成功者を出したい。そのためにはもっと日本語と日本の文化を学び、社会へ溶け込む必要がある」と話す。
 それは66年前、祖国の敗戦によりブラジルへ骨を埋める覚悟を決めた日本人移民の姿とも重なる。われわれが彼らにできることは何だろうか。
 ブラジルと日本で暮らす同じ日本人の血を引く彼らとのかかわりこそが、新たな日伯関係を築く礎(いしずえ)となる。「希望大国」との固い絆になる。
=おわり
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