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「JAP通り名を変えたサンドラ先生」 上 富田さんからのアメリカ便りです。
何時もメキシコ小話で皆を喜ばせたり、煙に巻いている富田眞三さんが渾身の力を込めて書きあげたテキサス州の一寒村に有った「JAP通り」名の変更に関する運動に付き現在進行しているテキサス親父の愛称で親しまれている、トニー・マラーノ氏が始めた、ホワイト・ハウス宛への「グレンデール市の慰安婦像撤去を請願する署名」キャンペンと関連付けてテキサス生まれの日系二世のサンドラ・タナマチ先生の「偏見と侮辱の象徴である、JAP通り名」を変えさせた14年に及ぶ奮闘記を2回に分けて送って呉れています。JAPは、侮蔑語かどうか?多くの方のコメントも一緒に掲載して置きたかったのですが、字数の関係で割愛せざるを得ませんでした。BLOGに拾い集めて掲載しておりますので興味のある方はそちらでご覧下さい。
写真は、ハワイ選出のアメリカ上院議員、ダニエル・イノウエ氏の写真を使わせて貰う事にしました。ブラジルでも日系人の各界への進出が目立ちますが、まだ出ていないのは大統領と州知事、上院議員です。各国の移住の歴史欄に掲載して置く事にしました。富田さん有難う。


和田さん&私たちの40年の皆さん、
アメリカ便り「JAP通り名を変えたサンドラ先生」(上)をお届けします。
さて、テキサス親父の愛称で親しまれている、トニー・マラーノ氏が始めた、ホワイト・ハウス宛てへの「グレンデール市の慰安婦像の撤去を請願する署名」がついに100,000を超え、連邦政府がこの件の調査に乗り出すことになったのは、大変喜ばしいことです。
さて、この記事を読んで24 年前、テキサス州の一寒村から始まった、全米規模の「JAP通り」名の変更に関する運動を思い出しました。
というのは、JAP通りと慰安婦像は日本と日本人への偏見と侮蔑を象徴する点が似ているからです。
そこで今回は、テキサス生れの日系二世・サンドラ・タナマチ先生の「偏見と侮蔑の象徴である、JAP通り名」を変えさせた、同胞愛に燃える、不屈の14年間に及んだ奮闘記、「JAP通り名を変えたサンドラ先生」(上)をお届けする次第です。
そして「JAP通り」命名のいきさつを探ると、これまた「偏見と侮蔑」どころではない、「あっ晴れな日本人兄弟」の存在があったことが判明しました。
恥ずかしながら私は感動の余り目を潤ませながら、「奮闘記」を書きました。
ご用とお急ぎでない方はぜひ下記のブログで、「JAP通り名を変えたサンドラ先生」をご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/25368267.html

Shinzo Tomita

「JAP通り名を変えたサンドラ先生」上
     
    サンドラ・タナマチ先生(www.hirasaki.net/family_stories/mayumi/)
 テキサス親父の愛称で親しまれている、トニー・マラーノ氏が始めた、ホワイト・ハウス宛てへの「グレンデール市の慰安婦像の撤去を請願する署名」がついに100,000を超え、連邦政府がこの件の調査に乗り出すことになったのは、大変喜ばしいことである。
さて、この記事を読んで24 年前、テキサス州の一寒村から始まった、全米規模の「JAP通り」名の変更に関する運動を思い出した。というのは、JAP通りと慰安婦像は日本と日本人への偏見と侮蔑を象徴する点が似ているからである。
以下は日系二世・サンドラ・タナマチ先生の「偏見と侮蔑の象徴である、JAP通り名」を変えた、同胞愛に燃える、不屈の14年間にも及んだ奮闘記である。           
             
        JAP通り名変更を求める 
 発端は24年前の1990年だった。テキサス南部・ヒューストン市近郊のボーモント市の学校教師・サンドラ・タナマチ先生は、彼女の父と叔父たちが生まれ育った同市の近くにある、ファネット・タウンの大通りにつけられた、「JAP Road-ジャップ通り」名の変更を求める運動を開始した。(ファネットは人口が少ないため自治体ではなくunincorporated townと位置づけられ、ジェファーソン郡役所の管轄下にある)
 タナマチ先生はこの言葉を聞くと、第二次大戦中、彼女の母親と家族が敵性外国人強制収容所に “JAP”と呼ばれて収監されていたという記憶と、母親たちが受けた人種差別の苦痛を思い出すのである。JAPはJapaneseの略語であり、英語圏に於ける日本、日本人に対する侮辱語、差別語なのである。


  ファネットにあった「JAP通り」の道路標識(www.hirasaki.net/family_stories_mayumi)
 タナマチ先生が始めた、通り名変更のキャンペーンは、ヒューストンの日系米国市民同盟(JACL)、反名誉棄損同盟(ADL)、米国陸軍歩兵第36師団、その他の有力な市民団体の協力、援助を受けたが、地元住民、役所を説得するには至らなかった。
何故36師団が「JAP通り」名変更に協力したのか、見当もつかなかったが、やがてタナマチ先生と36師団は深い絆で結ばれていることが分かった。くわしくは(下巻)で触れることにしたい。
 同年年末、タナマチ先生はテキサス州議会のジム・ソリス議員の協力を得て、「テキサス特定人種、宗教に対する偏見に基づく憎悪による犯罪法」に公道及び公共の場所に於ける人種的侮辱を禁止する、という修正事項を付加えることを意図したが、法案裁決前に政治取引が行われて、廃案となってしまった。
 1995年、キャンペーンのもう一人の主役クワハラが登場した。
その日ハワイ出身の日系米国人・トーマス・クワハラはヒューストンからサン・アントニオに向かう途中、たまたまJAP通りを通りかかった。自分の同胞、先祖を侮辱する言葉である「JAP」が公道に付けられているのを見て、クワハラは憤慨すると同時に大きなショックを受けた。
ルイジアナの自宅に帰った、ヘリコプター・パイロットのクワハラは数ヵ月に亘って、テキサス州の議員、州、郡関係者からこの件に関する話を聞いて廻ったが、収穫はなかった。が、しばらくして問題の道路がある、ジェファーソン郡郡政委員(commissioner)のマーク・ドミンゲから、タナマチ先生が郡役所に提出した「JAP通り」に関する書類とファネットに関する資料がクワハラに送られてきた。

     マユミ兄弟、陸稲栽培技術を伝授
 この資料を読んだクワハラは、やっとJAP通りを巡る問題点が理解出来た。
資料によると、20世紀初頭、ヨシオとヤスオ・マユミ兄弟はファネットに1734エーカー(700万u‐東京ドーム150個分)の土地を購入して米作農場を開いている。二人は農作業のかたわら、日本式陸稲栽培技術を付近の農民にも伝授したのである。
そのお蔭で、米は今でもジェファーソン郡の主要農産物になっている。1905年頃、二人の義挙に感謝した農民たちは、マユミ農場に通じる道路の建設を手伝って、恩返しをしたと伝えられている。更に農民たちはマユミ兄弟の恩義を徳として、その道路を「JAP通り」と命名したのである。
従って「人種差別的意図」は全くないとファネットの住民たちは断言し、JAP通りはファネットの歴史的文化遺産であり、「よそ者や役所」の圧力によって名称を変えることなど考えられない、と主張するのである。
 「JAP通り」名の経緯が分かったクワハラは、タナマチ先生と力を合わせる必要を感じ、彼女を探し始めた。
所要で故郷のハワイを訪ねた彼は、友人のホノルル・アドバタイザー紙のコラムニストである、リー・カタル―ナにJAP通りについて語ったところ、カタル―ナは大きな関心を示しコラムに問題のいきさつを書いてくれた。
すると、幸運にもこの記事を読んだタナマチ先生の一友人が、記事とクワハラの連絡先を彼女に送ってくれたのである。こうしてようやく連絡が取れた二人は、共同して「JAP通りの名称変更キャンペーン」に当たることになった。
 2001年になると、元シアトル日系米国市民同盟会長であり、人権活動家のシャロン・ソビー・セイモアが「通りの名変更運動」の活動家リストに加わった。彼女は道路の名前を聞いただけで激怒した、と言う。
その他、有力な助っ人が続々キャンペーンに加わった。例えば、Chink’s Peak(シナ人山)という中国人に対する蔑称がついた山の名を変えさせた実績を持つ、アイダホのミッキー・カワカミ、サン・フランシスコの人権問題専門の弁護士・デール・ミナミ等の実力者がキャンペーンに加わった。タナマチとクワハラはこれらの人たちとCCJR(JAP通り名を変える委員会-Committee to change JAP Road-)を結成した。
 そしてタナマチとクワハラは1992年から名称変更運動を行っているタナマチの仲間たちの他に、CCJRの活動を法律面から援助してもらうために、反名誉棄損同盟(ADL)に協力する、ヒューストンのスコット・ニューワー弁護士と顧問契約を結ぶとともに、黒人向上協会(NAACP)のキャンペーンへの協力も取り付けた。
 更に2003年12月3日に行われた記者会見に於いて、タナマチ、クワハラとニューワー弁護士は、連邦政府の運輸省、住宅土地開発省を、告訴したと発表した。要するに「全国の道路、州際高速道路を管轄する両省、特に運輸省は道路名が『人種差別的でないことを監督する責任がある』としたのである」
告訴状に名を連ねた団体は、ヒューストン・反名誉棄損同盟、日系米国市民同盟、中国系アメリカ人協会(Organization of Chinese Americans)、米国ラテン系市民同盟(LULAC),アメリカ市民的自由同盟(ACLU)、アジア・太平洋・米国法律家協会等だった。
中国系アメリカ人までが名を連ねる「この告訴」により、JAP通り問題は米国中のメディアの関心を呼び起こし、全国区ニュースになって、テキサス州ジェファーソン郡の郡政委員たちをあわてさせた。それにしても10年前、中国人たちが日系人のキャンペーンを応援したとは、今となっては信じられないことだ。

    マユミは日本の地主、銀行家、国会議員だった
 さらに、筆者は片手落ちにならないように、ファネット側の事情も調べてみた。
問題の5.6`bのJAP通りには、現在日系人も含む150人が住んでおり、そのうち144人がJAP通り名存続に賛成している。彼らにとってJAP通りは部落の歴史であり、文化遺産であり、JAPが日本人を侮辱する差別語である、という意識は全くない、と主張する。
その証拠として、当時のファネットの日本の隣人たちは、自分たちの名字が上手く発音出来なかったことから、彼ら自身を「JAPS」と自称していたとも証言している。
よく調べてみると、ヨシオ・マユミ氏は裕福な日本の地主、銀行家であり、国会議員でもあった、とThomas Walls著「The Japanese Texans」に記されている。同書は1908年には、705エーカーのマユミ農地から米7トンの収穫があったことも記録している。
そしてマユミ兄弟は、20世紀初頭、テキサス政府から要請されて、陸稲栽培を指導するためにテキサス入りをした、という説があることも記しておきたい。とにかくマユミ兄弟は、非の打ちどころのない立派な人物だったことが分かる。
なお、マユミ兄弟は米国の「1924年移民法」が施行された1924年、帰国している。

 一方「JAP通り名を変える委員会(CCJR)」と「反名誉棄損同盟(ADL)」は通り名変更に関して、1993年からこの運動に理解を示していた、ボーモント市の住民である、元陸軍歩兵第36師団の退役軍人マリオン・ファーグソンにも協力を求めた。同氏は人権市民団体のメンバーとファネット村住民との会談及びタナマチ、クワハラを初めとする、「JAP通り反対派」と住民との話し合いに向けて、「あくまでも目的を貫こう」という強い意志を持って、郡政委員並びに住民に働きかけてくれた。

        JAPは差別語か否や?
 2004年に入ると、ようやく通り名変更を求める日系人側も、反対するファネット住民側も「JAPの意味、解釈」そのものが、両者の対立の原点であることに気付くのである。「JAPは差別語か否や?」が大きな焦点となった。
 そして、地元テキサスの人間である、ファーグソンの説得が功を奏し、先ず公聴会を開いて、両者の言い分を聞いたうえで、五人の郡役所の郡政委員(commissioner-日本の議員にあたる)が通り名変更の是非を裁決しよう、との合意に到着したのである。
公聴会に先立って5月25日には、人権市民団体とファネット住民側の会談もセットされ、公聴会は7月19日に開催されることが決定した。
 ファネットの住民たちは「文化遺産」と考え、日系人は「日本人への侮辱」と見る、「JAP通り」の名称を巡る、両者のプライドとプライドの衝突は、ようやく2004年7月19日に最終局面を迎えることになった。
思えばタナマチ先生のキャンペーン開始から14年の長い年月が経っていた。
 さて次回はタナマチ先生と縁がある、強力な助っ人の登場を得て、JAP通り問題は大団円を迎えるのである。
(上)の終り



和田さん&私たちの40年の皆さん、
アメリカ便り「JAP通り名を変えたサンドラ先生」下をお送りします。
今回は通り名存続か撤回かの鍵を握る、公聴会で決定的な役割を果たした、442連隊の勇士、米国上院・最古参議員のイノウエ氏がジェファーソン郡の郡政委員(郡会議員)へ送った手紙の全文を掲載しました。
同氏は手紙の最後をこう結んでいます。「郡政委員の皆さま、皆さまの偉大なる叡智を用いて、JAPという道路の名前を廃止し、誰にとっても不快ではない名前に変えることが可能になるよう、願っています」
私はこの鮮やかな言い回しに感動し、ぜひ皆さまにこの手紙を読んでいただきたいと思い、全文を掲載しました。
 この件に関連して、タナマチ先生を強力に応援した団体に、「日系米国人退役軍人協会」があります。一年前、協会長のテリー・シマ氏(90才)は同協会長としての功績により、大統領市民勲章を授与されました。同氏の功績の一つはこのJAP通りの件だと思います。私はアメリカ人のこういう公平なところが好きですね。
とともに、父母の祖国である国と自分が生を享けた国が戦争状態になる、という悲劇的状況のなかで、「我々はアメリカ人である」として米軍に志願するという、日系二世の皆さんの苦渋に満ちた、しかし勇気ある決断に改めて感動しました。
こういう方々の支援があって、忌まわしい「JAP通り」名は撤回されたのです。
ご用とお急ぎでない方はぜひ下記のブログで、
アメリカ便り「JAP通り名を変えたサンドラ先生」(下)をご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/25379321.html

Shinzo Tomita

「JAP通り名を変えたサンドラ先生」下
 

日系米国人退役軍人協会長としての功績により大統領市民勲章を授与されたテリー・シマ氏
(javadc.org/)
 2004年に入って公聴会の日程が決まると、テリー・シマが指揮する「日系米国人退役軍人協会(JAVA)」に所属するベテランたちは、ジェファーソン郡の五人の郡政委員に対する手紙とE-メールによる、「JAP通り名を変える委員会」支援大作戦を開始した。
全米の日系退役軍人が洪水のように手紙、E-メールを「裁決に係る」五人の委員たちに送ったのである。
また、テリー・シマは全米のメディアとコンタクトを取り、「JAP通り名を変える委員会」の考えを代弁した。日系ベテラン即ち、Nisei Soldier (二世兵士)の言い分は、
「日本人を侮辱する言葉を付けた道路があることを思うだけで、大戦中我々が経験した
つらい思いを思い出す」に尽きた。

          7月19日、広聴会開催
     

 
 公聴会が開催された、ボーモント市のテキサス州・ジェファーソン郡庁ビル(citydata.com)
 公聴会の前日、テキサス地元紙は日系人側のニューワー弁護士談として、「両方が自分たちの主張が正しいと譲らない間は、通りの名は変わらないだろう」と悲観的な見方を示していた。
そしてジェファーソン郡の郡長(判事が兼任する習慣になっている)カール・グリフィス判事は、「JAP が人種的侮蔑語であると疑いの余地を残さずに証明されれば、私は名前変更に賛成票を投じるかも知れない」と記者に語った。
要するに当日の朝までは「どちらに転ぶか予断を許さない状況」だった。
 7月19日、いよいよ公聴会が開かれた。
意見を述べたものは、「JAP通り名を変える委員会」のタナマチ、クワハラを初めとする、ADL, JAVA, JACL, OCA,LULAC, NAACP, 陸軍36師団の代表者と442連隊のウイリー・タナマチとケリー・クワヤマ、テキサス大の学生・レベッカ・タナマチ、ボーモントの住民・ロレッタ・ギロリーさんたちだった。
そして最後にハワイ選出連邦上院議員・ダニエル・K・イノウエのジェファーソン郡郡長・グリフィス判事、及び郡政委員諸氏宛ての手紙を、サンドラ・タナマチ先生の義兄である、ノービン・パール博士が読み上げた。
 Inoue書簡は「JAP通り問題」を客観的に、冷静に論じて、グリフィス判事が述べた疑問「JAPは人種的侮辱語か?」に的確に答えるとともに、「442連隊を通じて、ハワイはテキサスと深い関係にあった」ことを示唆して、テキサス人の日系アメリカ人に対する考え方を根本的に変えたのである。以下イノウエ議員の手紙全文を紹介したい。
         
ダニエル・イノウエの手紙 



ダニエル・K・イノウエ上院議員 (topics.nytimes.com)
 
アメリカ合衆国上院 ダニエル・K・イノウエ (ハワイ)
 2004年7月16日
ジェファーソン郡 ボーモント市
 テキサス州・ジェファーソン郡庁内、郡政委員の皆さま
 ジェファーソン郡裁判所判事・カール・グリフィス二世閣下
 親愛なる郡政委員の皆さま
2004年7月19日、ジェファーソン郡郡政委員の皆さまは、ファネット・タウンに設置された、JAP通りと呼ばれる道路標識問題について公聴会を開催される、と理解しております。またこの道路標識は永年に亘って、論争の的になっていることも理解しております。
ファネットの住民の皆さまは、日本人米作農が道路を建設する際にお手伝いをしたこと、そして日本人米作農・マユミさんに敬意を表して、道路を「JAP通り」と命名したことも承知しております。
これらのことは、すべて皆さまの心からの誠意の発露であり、日本人米作農は疑いもなく、テキサスの人々からファネット・タウンの一員と認められたことを、誇りに思ったに違いありません。
 しかしながら、時は移り今の時代、JAPの意味は軽蔑的であり、侮辱的な意味合いを持つに至っております。
1941年12月7日、日本による真珠湾攻撃以来、日本帝国国民は“JAP”と呼ばれるようになりました。そして「この言葉」は不当にもこの国に生を享けた、日系アメリカ人にも適用されています。
日系アメリカ人はアイルランド系アメリカ人、イタリア系アメリカ人またはアフリカ系アメリカ人と同様に純血のアメリカ人であります。“JAP”と呼ばれること、“JAP”という言葉の使用を容赦することは、たとえそれが悪意のないものであったとしても、我が民族にとって無礼であり、侮辱なのです。
彼らの忠誠心を証明し、民族的侮蔑を拭い去るために、日系アメリカ男子は欧州、アジア太平洋戦域において、アメリカ兵として従軍しました。
 442連隊はテキサスと特別な関係を持っています。何故ならば、フランスにおいて、我々はテキサス第36歩兵師団に編入されたのです。36師団の一部隊が、敵軍に包囲された36師団第一大隊の救出に失敗した際、442連隊がその任務を遂行するようにと命じられました。彼らは211名の友軍兵士を救出するために、その三倍の死傷者を出しながらも、立派に任務を成し遂げたのです。
 私はボーモントの公聴会で証言した、ケリー・クワヤマ及び、救出作戦で戦死した、これもボーモントの住民・サブロー・タニマチとともに、同じ442連隊・E中隊に所属していました。
元気だったころ、サブローは彼の家族、ジェファーソン郡、そして偉大なるテキサス州とアメリカ合衆国を誇りに思っていました。
郡政委員の皆さま、皆さまの偉大なる叡智を用いて、“JAP”という道路の名前を廃止し、誰にとっても不快ではない名前に変えることが可能になるよう、願っています。
この件についての皆さまのご配慮に感謝します。
              アロハ
              署名
              DANIEL K. INOUE
アメリカ合衆国 上院議員
cc: Sandra Tanamachi
Terry Shima

全会一致で「JAP通り名撤回」を承認



タナマチ一家、後列左からレナ、ウイリー、サブロー、ジロー(サンドラの父)、ゴロ―、フミ、前列左からユリ、クマゾウ(父)、ウォルター、マサ、アサオ(母)、クミ、マリコ。イチローはカリフォルニアにいて留守(hirasaki.net/family)
 
イノウエ議員の手紙は郡政委員諸氏に「JAPの意味すること」と「日系アメリカ人がどういう存在であるか」をはっきりと気づかせてくれた。もう一つ、「ハワイのよそ者が何の権利があってテキサス問題に口を出すのか」という疑問も氷解させた。
ところで公聴会で名前が出た、ウイリーとサブロー・タナマチはサンドラの親族なのか、いう疑問が生じた。サンドラ先生は彼らについて言及していないからだ。そこで調べてみると、次のことが判明した。
サンドラの父ジローはタニマチ・クマゾウとアサオの二男であり、長兄イチローと共に農場に残り、軍隊には行かなかったこと、彼の三人の弟、サブロー、ゴロ―とウイリーは442連隊に所属し、そろって合衆国最高の勲章である議会黄金勲章(Congressional Gold Medal)を受章していること、及びサンドラの母方の叔父・タイラ・ナカオも同じ勲章を受章していること等が判明した。
ということは、サンドラの母親が敵性外国人として収容所に収監されていた時期、彼女の実弟と後義弟となるタニマチ三兄弟も欧州戦線で米兵として、戦っていたことになる。
 さて、公聴会に戻る。イノウエ議員の手紙の言葉「日系アメリカ人は純血のアメリカ人であります。“JAP”と呼ばれることは、たとえそれが悪意のないものであったとしても、我が民族にとって無礼であり、侮辱なのです」が五人の郡政治委員の胸を打ったことは間違いなかった。
 公聴会の終了後、五人の委員は住民側の反対にも係らず、全会一致で「JAP通り名撤回」を承認した。自治体ではないファネットの住民に「住民投票」という選択肢はなく、この種の決定権は住民が公選で選んだ、郡政委員(郡会議員)が持っているのだ。
       
       442連隊とダニエル・イノウエ

左)442連隊の日系兵士(think.quest.com) 右)名誉勲章 (homeofheroes.com)
 ここで442連隊について触れておきたい。
442連隊は、米国陸軍史上最多の勲章受章者を擁した部隊だった。連隊として7回の大統領感状を獲得した上、米軍最高の名誉であり、大統領が叙勲する名誉勲章(Medal of Honor)受章者はサブロー・タナマチ、イノウエを含む21兵士に上った。
連隊の“ニックネーム”は「名誉の負傷勲章部隊-Purple Heart Battalion」であり、連隊のモットーは「当たって砕けろ!-Go for Broke」であった。そして442は米軍の連隊のなかで、最も戦死者数が多かった英雄的連隊として、教科書に載る存在なのだ。
 同隊員の一人、ダニエル・イノウエ大尉はハワイ大学在学中、陸軍に志願し442に入隊。戦闘で右腕を失ったため、医師を断念して弁護士に転向、政治を志した。イノウエは1959年、日系人初の連邦下院議員となり、後上院に転じ50年以上の連続当選を果たした。イノウエは2010年、上院最古参議員として、大統領継承順位3位の上院仮議長に選出された民主党の重鎮だったが、2012年88才の生涯を閉じた。

        新しい通りの名前は…
 さて公聴会後、グリフィス判事はマユミ兄弟に敬意を表する、「歴史的しるし-marker」を通りにつけるようファネットの住民に提案した。数か月後、四つの候補名、Mayumi Road, Japan Road, Japanese Road, Boondocks Roadが住民投票にかけられた結果、170票中、Boondocksが100票を獲得した。こうしてJAP通りは、Boondocks 通りになった。なお、Boondocks は10年前に廃業した地元の「なまず料理店」の名前だった。

 こうして、サンドラ・タナマチ先生の宿願は叶い、「彼女の14年間の戦い」は終わった。
(下)の終り



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