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アメリカ便り「夢ー移住ー現実との戦い 上下」 富田さんからのお便りです。
和田さん&私たちの40年の皆さん、
今回はブラジル・クリチーバ在住の池田久成氏が、日本学生海外移住連盟OB会・会誌に寄稿した、「夢―移住―現実との戦い」をお届けします。
 私は、先月来日した池田さんが、母校日大・生物資源科学部で講演をする、というので藤沢まで聞きに行ってきました。彼の講演は、大学の授業「国際キャリア・デザイン論」の一環として実施されたもので、学生はレポートの提出が義務つけられる、と言う本格的なもので、実に興味深い内容でした。
 池田氏は大学出が海外移住するときの王道ともいうべき、「技術と資金」を持って移住しました。それにも係らず、「現実との戦い」はきびしく、彼は挫折を味合うのです。
 しかし、彼を救ったのは…、詳しくは下記のBLOGでご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/24818411.html
Shinzo Tomita
今回もリード部分は、富田さんの紹介文をそのまま使わせて頂きました。写真は、池田さんを真ん中にして新橋駅の蒸気機関車前での山添さんと富田さんの写真を使わせて貰いました。


夢―移住―現実との戦い
池田久成 (ブラジル パラナ州クリチーバ市在住、会社経営)
【まえがき】
池田久成氏は先月37年振りに母国を訪問、母校日大の藤沢キャンパス・生物資源科学部に於いて「国際キャリア・デザイン論」の講義の一環として、同氏の半生記を基に講演をおこない、海外雄飛を志す後輩諸君、諸嬢に多大の感銘を与えました。
池田久成氏は昭和18年生まれの富山県出身でブラジル・パラナ州・クリチーバ市在住。
日本大学農獣医学部(現生物資源科学部)卒、同大学・海外研究会OB。
NARITA香辛料株式会社社長、ドイツ人三世のカルメン夫人との間に三女一男の幸福な家庭を築いていています。なお、三人のお嬢さんは共に大学卒、長男は大学生。
池田氏は昭和40年、日本学生海外移住連盟(学移連)第六次海外派遣実習団員として一年間、ブラジルの農場で研修を経験後、昭和48年ブラジルへ移住。
 

母校日大で講演する、池田久成氏
随筆「夢―移住―現実との戦い」は二年前、学移連OB会会誌「我が青春の学移連」第一号に掲載されたものを、今回特別に池田久成氏の許可を得て、「アメリカ便り」に収録させていただきました。
 池田氏は淡々と「現実との戦い」と記していますが、ブラジル到着早々二度にわたる挫折を経験しました。それにもめげずに、池田氏は日本で習得した「専門技術」を駆使して、ブラジル食肉業界No.1企業の技術系幹部として活躍した事実こそが、学生諸君への励ましになった、すなわち「国際キャリア・デザイン」を描く上での良い手本になった、と日大藤沢キャンパスの講堂で感じたのでした。
感心したことは、講演後の懇親会で、日大海外研究会のメンバーの男女比率は6対4と女性会員が意外に多いと知ったことです。今どきの「大和なでしこ」が海外雄飛を志しているとは、実にうれしいサプライズでした。
まさに「この先輩にして、この後輩あり」です。では、「夢―移住―現実との戦い」を二回に分けてお届けします。(富田)

「夢―移住―現実との戦い」(上)

池田久成

10歳で南米に憧れる
 子供の頃、時々祖父から、第二次世界大戦前に叔父や叔母たちがブラジルに移住したことを聞かされていました。長い間手紙もなく何時も「どうしているのかな」と祖父は心配していました。
 私が10歳のとき、叔父が一人で訪日することを知り、皆で楽しみにその日が来るのをまちました。土産に、高価な南米特産品を沢山持ってきてくれたことをいまだに覚えています。
あのころから、「南米」という言葉が私の頭のひと隅に入り込んでいたようです。
 南米はどこにあり、どのような国であるかも知らず、想像し、知りたい国として、夢を抱き始めていました。
父は私が生まれてひと月余りで、中国で戦死し、私の名前だけを残して他界しました。私は、小学校時代は勉強を怠け、中学校でようやく取り戻すことができましたが、祖母に、大学でもう少し勉強したほうが良いと勧められ、農家育ちなので、農業科を選択しました。お蔭さまで、日本大学農獣医学部に入学でき、いろんなクラブがあることを知り、自由に選択できるとのことだったので海外研究部に飛び込み入会しました。伴内大先輩(日本学生海外移住連盟OB会会長)はじめ皆さんのことは、いまだに忘れたことはありません。

後藤連一先生が農獣医学部にこられて以降、一層力強い研究部になり、思い出す度にいつも懐かしさで胸が熱く燃え上がります。残念ながら数人の方が他界されましたが、どこに居ようが、この開拓精神は変わらないものだと思います。後藤先生から教えられたT・S・Wはいまだに実践しております。青い三角布に黄金のTSWがある旗と「教えの言葉」を持ってまいりました。Tはthink, Sはstudy, Wはwork を意味します。
連盟の六次団(第六次連盟海外派遣実習団)に参加できたのも森本先輩、杉野先生始め、日本に残られた方々の後押しのお蔭ですので、この機会を利用してお礼申し上げます。

パラナ州クリチーバ市はサンパウロ市の南部に位置し、人口170万。日系人も多い(google.com.br)
                
 ブラジルで農業実習一年間
  昭和40年六次団の農業部門でブラジル国、ポルトアレグレ市に住んでカーネーション栽培をされていた児玉桂一郎農園(鹿児島出身)で研修させていただきました。
あのころ栗原さん(早大卒)、小川さん(農高卒)たちに心温かい指導をしていただきました。食事などは、移住者としての質素なもので、サラダも、その辺にある雑草で、食べられるものを探して塩とレモンで味付けして食べましたが、とても美味しいことがわかりました。
 実習が終わる前、領事館の世話でリオグランデ・ド・スール州カシアス・ド・スール市のブラジル銀行支店長のアパートに住みながらイタリア人の家庭生活に接触することができました。
最後の三週間を利用してパラグアイに移住された四方先輩夫妻の開拓地と、マットグロッソ州ドラードス町、サンパウロ州ぺレイラバヘット町とスザーノ町に住んでいた叔父家族を訪問することにしました。

 昭和40年12月26日午後7時ポルトアレグレ市からバスに乗りサンタローザ町へ、アルゼンチン経由でパラグアイのエンカルナシオンに着き、事業団(現JICA)の協力で四方夫妻の汗と血と根性が染み込んだ開拓地を踏み、大原始林の伐採された小さな空間に大豆、タピオカ、トウモロコシ等を作付けされ、安定した生活への一歩を確保しておられました。
当時、私にはとても真似の出来ないことだなーと感じました。
後藤先生からのお守りと外研や連盟の精神と多大な奥様の支えのもとに大農場経営まで到達されたことは本当に喜ばしいことです。

 パラグアイを後にし、日本の親族代表として初めて叔父、叔母宅を訪問することができ、皆健康で立派な生活をしていたので安心しましたが、大切なものが不足していることも感じました。それは新しい知識、技術、改革のための機会を見つける能力などです。
それは私にとっても同様でした。大学での勉強は大して役に立たない事をしみじみ感じました。大半の移住者は子供の躾と教育に力を入れ成功されていますが、私は、これらの子供たちより、半歩か一歩上の能力、才能がなければ将来のブラジル国の発展速度に追いついていけないのではと感じました。

家族の反対を受け、日本で就職

クリチーバ市中心街、ブラジル南部最大の市(transport-lab.cocolog-nifty.com)
 「日本にいればそんなに苦労しなくても」と大半の家族の反対もあり、卒業後、日本で働いてお金を貯めることと、移住する能力が会得できるまで働くことにしました。幸いに茨城県土浦市のプリマハム新東京工場に入社でき、六年間働き、その間生産部門を経て品質管理課に移り、北米の新しい経営方式の特別講習訓練や、食品衛生試験所で化学検査、細菌分析検査の専門技術を身につけることが出来ました。
当時同居していた友人はプリマハムから東京銀行に転職しましたが、私は残りました。このとき、サラリーマンの人生や年俸を考えて、なんだか「物足りない人生になるのでは」と感じるようになり、移住したい意志を未だ捨てていないことを重役の皆さんも承知だったこともあり、円満退職することができました。

 移住する前に伯父の常盤コンクリート株式会社で、もう一つ知識をプラスしたいので働かせてほしいと頼みました。社内で寝起きして早朝から従業員と変わらない重労働、それぞれのコツの大切なことや仕事の難しさなど、しみじみ肌に感じました。冬季の寒さにも文句言わず、可愛がられるようにしました。あおの時伯父から沢山の俸給をもらい、今亡き伯父にもっと協力してあげればよかったと後悔しています。齢をとってようやく感じ始めました。
 伯父は、私の目を見て一言「久成…おれはどうして一流の丸紅を辞め、小さな商売に手を掛けたか、それは上司から命令されて働くのが嫌だったからだ」と教えてくれました。この一言は未だに忘れないで身体に染み込んでいます。神様から授かった我が家族のDNAなのかもしれません。  (つづく)

(コメント集)
和田:富田さん 良いお仕事をされていますね。池田さんの37年振りの訪日を追って日大藤沢キャンパスまで取材に行かれ彼の母校での講演原稿を纏めて紹介して下さっており、佳境に入る続編が大変楽しみです。
今回初めて知ったのですが、池田さんのブラジルでの最初の研修先がポルトアレグレだったとは意外です。パトロンだった児玉桂一郎さんは、先年亡くなられましたが、栗原さん、小川さんは、現在も健在ですので池田さんには、一度ご挨拶にポルトアレグレに来て貰う事にします。
奥さまがRS州内の世界遺産として唯一のイエズス会のインヂオ教化部落の≪サンミゲル廃墟≫のあるサントアンジエロの隣町のサンタローザ出身とお聞きしているので続編でその接点が分かるのを楽しみにしています。
是非この池田さんの原稿は、『私たちの40年!!』寄稿集にも収録させて貰いたいと思いますが、先ずは富田さんのBLOGから下記にトラックバックを貼らせて頂きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/33151073.html

富田:和田さんから「良い仕事」とお褒めにあずかり、率直に喜んでいます。徳力さん同様、池田さんの「作品」も好評なので、気を良くしています。そのうちに和田さんにも「奮闘記」を書いてほしいものです。
日大生物資源科学部に「国際キャリア・デザイン論」という授業があることを知り、感激しました。世界規模でやりたい仕事を探す、若者たちがいることにも感動しました。
それも会社勤めだけではなく、国際的NGO関係の職を希望する、若者が多いようです。
さて、その講座を持つ教授が、池田さんに自分の授業時間を割いて、講演の機会を作ってくれたのです。今の日本の若者たちはしっかりしていますよ。安心しました。
女性の方が元気が良いところがちょっと気にくいませんが。今後もよろしくお願いします。

和田:富田さん ご返信有難う御座います。
メーリングリスト関係者の紹介にも力を入れて頂いており嬉しい次第です。これからも同じような主旨で沢山の仲間の皆さんを紹介して下さると有難いです。
私の「奮闘記」とのご要望も有難ですが、私に付いては、寄稿集に『管理者和田関係の話題』の欄があり都合96件もの自他による関係話題が掲載されておりますのでこれを参考にして頂けるのであれば有難いですが、今更書き降ろしの文を書く積りは御座いませんのでご放免下さい。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biogcat.php?cod=2

オランダ香織: 富田さん、ネタが良いと料理人の腕も冴えるという感じですね。
ここで言うネタは池田氏、料理人は、富田さん。
もっと知りたい願望でさーっと読ませていただきました。
最後まで、迫力の文才発揮でお願いします。
いつもありがとうございます、楽しく勉強させていただいています。

アメリカ便り「夢ー移住ー現実との戦い(下)」 富田さんからのお便りです。

和田さん&私たちの40年の皆さん、お待ちかねの池田久成氏「夢―移住―現実との戦い(下)」をお届けします。
池田さんの半生記を読み、彼と話してみて印象深かったことの一つは、学生時代に「学移連」から南米に派遣された、「海外派遣実習団」の仲間たちとのきずなの深さでした。

 サンパウロまでの往復数か月の船旅中、同じ釜のめしを食い、ともに理想を語り、異国の南米でともに働いた同志間のきずながこれほど深いとは想像もできませんでした。池田さんは実に良い仲間を持ったものです。
  さて、「夢―移住―現実との戦い(下)」は、池田さんの移住40日前、ブラジルの身元引受人がサインを拒否する事態の発生から、話が始まります。
さあ、池田青年の運命はどうなるのか? くわしくは、下記のBLOGでご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/24825408.html
なお、見落とした方のために「夢―移住―現実との戦い(上)」のURLも載せておきます。
http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/24818411.html
Shinzo Tomita

夢―移住―現実との戦い (下)
池田久成(ブラジル パラナ州クリチーバ市在住、会社経営)

【まえがき】
ブラジル到着早々二度にわたる挫折を味合った池田青年は、プリマハムで身に着けた技術を活かして、食肉会社に就職しました。会社のある、ブラジル南部のリオ・グランデ州は日本人がいない地域だったため、以後20年間、日本語を使うことはありませんでした。
さあ、いよいよ、池田青年のブラジル奮闘記の始まりです。

ブラジル移住!
 待ちに待った技術移住に関する手続書類を移住事業団から入手し、サンパウロ在住の叔父が保証引受人になるように事前に相談し決めてあったのですが、急に叔父の考えが変ってサンパウロの事業団からはサインを拒否されたとの連絡を受けました。それは出航する40日ほど前だったと思います。
移住しても叔父の世話になるつもりはなかったし、きっかけがあれば協力してあげたいと考えていただけに、その気持ちが理解されなかったことが残念でした。もう時間の余裕もなく移住出来るかどうかの瀬戸際にたっていた時に、ふっと思い出したのがサンパウロでお会いしたJICAに勤めておられた連盟の先輩である松田潤次郎(拓大卒)さんでした。そこで松田さんに移住の意志と将来の計画を手紙で説明し、解決をお願いしました。

新橋で開催された、池田氏歓迎会であいさつする恩人の松田潤次郎氏

数日経ち東京の事業団から「池田さん、移住の準備をしてくれ」との連絡がありました。
松田先輩!いまだに直接お礼もできず、この機会に心からお礼を申し上げます。(池田さんは今回の訪日で松田先輩に再会しました)
移住に対する親戚からの反対も、連盟のフロンティア精神で解決しました。

 昭和48年11月サンパウロのコンゴニアス空港に着き、叔父が迎えに来てくれました。とても嬉しかった。叔父の家族に再会できるのだなあと考えていたところ、タクシーに乗る前に「久成、おまえ何処に行くのか」と突然言われ、驚きはしなかったが心底から寂しい思いがしました。
特に考えもなく、「リベルダーデ日本人街にあるホテルに数日宿泊して、そのうちソロカバ市へ行きます」と答えました。ホテルに着いた後、叔父は帰宅しましたが、特に反感もなく、戦争前に移住し大変苦労した叔父のことでもあり、いつか小遣いでもあげたいと思いました。(14年後、サンパウロでゆっくりする機会があり、昔の思いを実現しました)

計画を実行に移す

日大海外研究会OB,OGと現役学生と記念撮影、於:日大藤沢キャンパス

お金を節約するため、下宿に移り高等学校の時の先生がくれた手紙を再度読み直しました。その中に「もし必要があればソロカバ市に会社を持っている従兄弟の所へ行ってみられたら…」と書いてありました。先生は、私の移住直前の事情をご存じでしたので、従兄弟に自分の教え子のことをよろしくと頼んであったようで、ソロカバへ行き私の計画について交渉したところ、すぐ賛同をしていただくことができほっとしました。

 私の計画とは、共同でコンクリート・ブロック会社を新設することでした。11か月間ミカンの木を抜き、整地しながら半自動式機械を自作完成いたしましたが、同時に預金もなくなり始めました。彼が30%出資だったが話が変わり、日本の大型の機械を購入してはじめないかと話かけられ、半々でなく、80%欲しいとのことだったので、倒産の危険をうすうす感じたので彼にみんな譲り中断しゼロからスタートすることにしました。

サラリーマンで再出発
 プリマハムで身につけたあの技術を生かしサラリーマンで再出発しようと思い、下宿で同室していた販売部門担当の知人に話しかけたところ、販売部(社)長に話してくれた。二週間後、返答を受け「リオグランデ・ド・スール州にある最大食肉加工会社の社長に会って話してくれ」とのことだったので、バスで18時間、サンタローザ町に着きホテルで迎えを待ちました。話し合いの結果、働いてお互いに試してみましょうと言うことになり、トンボ帰りし移転の準備をした。
 町はドイツ人、イタリア人系で日本人がいない地域なので、20年間日本語を話すことはありませんでした。サンタローザで10年間働き、その間品質管理開発の仕事が認められ国立大学(リオデジャネイロ、カンピーナス、サンタマリア等)最終学年での必修研修のため毎年数人の学生を受け入れ、大学では教えられないような研究開発に関する試験、実験を教えるまでになり、国営の食肉衛生管理試験所との接触も多くなりました。

 その後ブラジル最大の食肉品加工会社ペルチガン(PERDIGAO)からマラウ(MARAU)町にある加工工場のジェレンテ(Gerente-マネージャー)に迎えられ、もう一段昇給するので喜んで引き受けました。あの時私の分野ではなかったが鶏肉を日本向けに輸出するため、いろいろお手伝いすると同時に日本向けカット技術を身につけ協力することが出来ました。


海外実習六次団員の山添さん(OSK−OG)との再会を喜ぶ池田氏、左は富田
 
 私の移住目的は自営事業と将来の子供の教育なので、パラナ州に移住するため友人の協力で酪農加工と食肉加工するバタボ(BATAVO)本社に話しかけてもらったが、給料が高いのでちょっと難しいとの返事。数回の話し合い後、給料を下げ、その後の実績次第で昇給をということで入社決定。苦境の道が素晴らしい道になりました。

香辛料会社設立
 あのころパラグアイの農協(コロニア)から一世の方が牛乳加工の研修にこられ、横田善則さんのことを話したら、知っているとのことでバタボの製品をプレゼントとして託送しました。
その後彼のお蔭で連盟の友人達と連絡が出来るようになったのです。それまではブラジル人とポルトガル語だけの世界でした。
漸くチャンスが来て、バタボ社を退職し、妻の協力のもとに、平成7年11月20日香辛料会社を設立し、それまで働いていた会社から大量発注をいただき、スーパーマーケットにも販売拡張できました。

 筆不精なので皆さまに失礼しており、この機会を利用させていただき一言書きました。本当にありがとう。最後に杉野先生、後藤先生、先輩方々の教えを今なお人生の教訓の一部として実践してきたことをお伝えしておきます。
(終わり)

(コメント集)
和田: 富田さん 池田久成氏「夢―移住―現実との戦い(下)」送付有難う御座います。
中々読ませる工夫をしておられますね。富田さんの解説、紙芝居風手法とても魅力的です。是非これからもこの種、人物紹介は、継続して欲しいですね。特に良く知っている仲間だと興味をそそります。女性編も良いですね。今後とも宜しくお願いします。
昨夜、下記BLOGに転載する作業は終わらせたのですが、昨日は朝から飛行場に行き一日忙しくしていたので疲れてしまい紹介文の掲載が今朝になってしまいました。
下記にトラックバックを貼らせて頂いています。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/33161392.html
富田さん 池田さん関係記事の中で池田さんの恩人として登場している松田潤二郎さんは、私の青春の一齣を飾る懐かしい人です。
1961年(もう52年も前)に私が東京都の農業移住者としてブラジルに移住しするために保谷の役場で農業従事証明書を得るために酪農農家に住み込みで毎日牛乳の乳搾りの作業をしている時に松田君が確か拓大の寮に住んでいて週末には泊まり込みで手伝いに来て呉れていました。或る晩、喉が渇き翌日出荷予定の牛乳の冷えたのを大きな保存缶から直接汲み出して飲んでいるところを農場主の桜井さんに見つけられこっぴどく叱られたのを思い出します。松田さんは、JICAをリタイアーした後も横浜の旧移住センターの移民史料館にヴォルンタリアとして訪問者への説明、解説等を担当しておられると聞いていますが、富田さんの撮られた写真では白髪の良いおじーちゃんで我々も年相応の風貌に成ったとものだと感心しています。
富田さん 昔を思い出す縁を送って呉れ有難う。

オランダ香織: 移住して人生を竹のように節々を重ねて大成されたご様子が分かりました。一生懸命に目前のことと向き合ってまじめに精一杯生きてこられたことが伝わってきました。
富田さん、お疲れ様でした。池田さん素晴らしい人生、これからもさらに輝きを増されることを祈っております。様々な方に再会が出来て本当に良かったですね。

富田: オランダ香織さん、
心のこもったコメントを送っていただき、ありがとうございます。
池田さんもきっと読んでくれた、とおもいます。
5がつには、徳力さんの皇居奉仕団のレポート、そして今回は池田さんの半生記を皆さんにお届けすることが出来ました。ブラジルの日系人は皆さん素晴らしいですね。

前田: 富田さん、和田さん 最後に池田さん
前田です
二年前に、学移連OB会会誌「我が青春の学移連」の第一号に掲載された「夢―移住―現実との戦い」の上下編とも、すごい迫力でした。
富田さん、つい先日お会いした、我が池田さんの若き日の雄姿が彷彿と致します。
このようなすばらしい友人を得られたことをすべての皆様に感謝いたします。
皆様、それぞれの背景とご覚悟での決断だったことでしょう。満州引き揚げ民の私にはよくわかります。

しゅくこ: 富田さん、池田さん 池田さんの半世紀を読ませていただきました。
なによりも出会いを大事になさることが、夢の実現につながっていくのですね。教えられます。
これからのあと半世紀がどんなふうに展開していくか、池田さん、楽しみにしていますね。
関係ないですが、先日、放牧中の馬たちがお互いに背中を掻き合っている姿を撮りました。
みんなどでかい子たちばかりです。

池田: しゆくこさん ありがとう。から始まります。今回の訪日は夢と奇跡に近い事が実現しました。一日一日の出会いは他にない充実した幸せ頂きました。筆不精な私を助けてくださった富田真三先輩より兄貴と申したほうが妥当、そう感じております。馬達の気持良く感じます。 感謝。



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