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≪小野田元少尉殿との邂逅≫  麻生 悌三さんの寄稿
『ブラジル不思議発見』で御馴染の麻生 悌三さんが久しぶりに掲題のブラジルのマットグローソ州カンポグランデ近郊の小野田牧場で小野田元少尉と3日間過ごした時の事を思い出しながら1月16日に91歳で逝去された小野田寛郎氏を偲んで哀悼の意を表し一文を認めて送って呉れてています。ブラジル国内には生前小野田さんと直接接触を持たれた方が多いと思いますが、残念ながら私はその機会がありませんでした。日本最後の侍として尊敬されていた小野田さんの冥福を祈りたいと思います。
写真も麻生さんが送って呉れた小野田少尉投稿時の写真を使用させて貰いました。


2014年1月16日、小野田寛郎氏が逝去された。91歳だった。
今から20年程前に、小生は、小野田寛郎氏と南マットグロッソ州のカンポグランデ市より160km離れた、牧場で偶然出会い、3日余り、農場内の宿泊室で同室となった経緯
がある。
小野田寛郎氏は1922年和歌山県海南市に生まれ、男児4人の5人兄弟の3男、兄弟4人揃って、陸軍将校となった、当時の愛国一家である。旧制海難中学を卒業すると、貿易
会社、田島洋行に入社し、漢口支店勤務となり、中国に渡る。1942年、満20歳となり、徴兵検査を受け、地元和歌山の歩兵第61連隊に入営した。1944年、甲種幹部候補生試験に合格し、予備士官学校に入校。同年9月、中国語が堪能であった為、選抜され
陸軍中野学校(諜報員、特殊任務養成期間)に入校し、ゲリラ戦の訓練の後、少尉に任官。
同年12月、フィリッピン方面軍の第14軍第8師団参謀部付となって、12月31日
ルバング島に配属される。第8師団長横山中将から訓示があり、米軍が侵攻しても、絶対に玉砕はまかりならぬ、3年でも5年でも、残置諜者となり、戦えと命令された。
ルバング島は、マニラ湾の入り口に位置する長さ30km、巾10kmの島で、マニラから160kmの距離がある。マニラ湾に出入する艦船は全て視野にはいる要地である。
島の中央部は山間部で、海岸部には大きな村落が2箇所あった。日本軍はルバングに数百名の守備隊を置いていた。島には、椰子が豊富で、野生化した牛もいて、魚介類豊富な海岸に囲まれ、自給自足の可能な島であった。
島に赴任して3ヶ月後の1945年2月28日、米軍一個大隊が熾烈な艦砲射撃の援護の元に上陸してきた。日本軍守備隊は壊滅し、残存兵は山間部に逃れた。数グループごとの残存兵がいたが、掃討され、最終的には、小野田少尉グループの4名だけになった。部下
3名は、赤津一等兵(1950年にフィリッピン軍に投降)、島田伍長(1955年5月
警察軍と銃撃戦の末、戦死)、小塚上等兵(1973年警察軍と銃撃戦の末、戦死)であり、
この4名の残存兵がルバング島で29年間もゲリラ戦を展開することになる。
山間部に身を隠し、食糧、必需品を調達、貯蔵し、29年間の間に、銃撃戦は100数十回行はられ、フィリッピンの警察軍、民間人の殺傷は30数名。戦後、建設されたレーダー基地を襲い、司令官を狙撃し射殺している。
赤塚一等兵の投降により、残存兵の氏名と人数が判明され、日本側にも状況が明らかにされた。フィリッピン当局も度々、日本軍残存ゲリラの掃討を行った。特に、毎年3月には
フィリッピン陸軍士官学校の卒業演習が行はられ、大規模な掃討作戦が行はれた(この事実は小野田寛郎氏より小生が直接聴取した)。ジャングルで兵士の脇、2mの所に伏せて通り過ぎるまで、息を殺していたときもあったと述べている。
住民の住居や工事現場の宿舎に忍び込み、必需品を失敬していたが、トランジスターラジオを入手してからは、ワイヤーを樹間に張り、アンテナとして、日本の短波放送を聞き、
競馬の実況等も聞いたそうである。後年、日本の捜索隊が雑誌、新聞等を残していったので、かなりの情報も入手できた。
1974年になり、日本の捜索活動に触発された、一青年、鈴木紀夫氏が現れ、接触に成功する。鈴木青年は、日本の敗戦を伝え、帰国を促した。丁度、少尉自体、前年に最後の部下を失い。孤独感にむしばなれていた時期だった。少尉は、直属上官の命令解除があれば、任務を離れると述べ、鈴木青年は帰国し、日本政府に伝えた。
同年3月9日、直属上官である谷口元少佐は、山下奉文司令官の名で命令解除、帰国命令が下達された。少尉はフィリッピン軍に投降し、3月12日、日本に帰国した。
1975年、最後の日本兵である小野田寛郎氏は復員後、一年たらずで、次兄、小野田核郎氏が移住してきているブラジルに兄を頼って移住してきた。ブラジルで牧場をやる夢の
実現が動機である。格郎氏はサンパウロの郊外リベイロン ピーレスで花卉栽培をやっていた。それ以上にマスコミから追い駆けられ、パンダみたいに見世物にされる環境に愛想が尽きたのだろうと思う。移住し、南マットグロッソに牧場を購入し、牧場を始めるも
牧場の造成、整備、牛の導入等、資金の要ることばかりで、軌道に乗るまでは、10年位掛るのは普通である。資金稼ぎの一環として、日本において、小野田自然塾を主宰し、日本とブラジルを行ったり、来たりしていた。
小野田自然塾のスポンサーである、日本の健康食品会社Anew社が所有する牧場は、小野田牧場とも距離的に近く、宿泊設備も完備されている。社員の研修会が開かれ、小野田寛郎氏も講師として招かれ、小生も、偶々、同席したのが縁だった。
小野田寛郎氏の印象は、大企業の定年退職者と言うイメージで、柔和な物腰は、とても、
軍人と云う印象の片鱗も感じられなかった。
小生も1960−63年に、アマゾンの奥地と言われる、大僻地で生活した経験もあり、
石器時代に近い、社会も、それに染まると、人間の思考能力の退化が進行する様も体験した。カボクロより一段下の原始社会に同化し、数年で、日本語もおぼ付かなくなった日本人も見ている。隔絶した、ジャングルの中で、同じように生活すれば、同化するのは必然であり、同化しなければ生きて行けない。
小野田寛郎氏に会ったとき、この人が、本当にフィリッピンのジャングルで、世間と社会的接触がなく、30年余りも過ごしてきた人かと耳目を疑った。正直言って、今でも、信じられません。
小野田寛郎氏はブラジルに移住する際、国から支給された、見舞金、軍人恩給等100万円を靖国神社に奉納してきています。印税、寄付金等でえた資金でブルトーザーを購入し、
それを、農場造成業者(土建屋)にリースし、牧場経営の資金源の一部とし、始めて10数年で畜牛1千頭を所有し、経営を軌道に乗せた、才覚と商才は、並のレベルではありません。、(ルバング島でゲリラの傍ら、商売でもやっていたのではと勘ぐる程です)
ブラジルの牧場地帯では牛泥棒が多く、夜陰に乗じて、トラックで放牧地に侵入し、牛
をトラックに載せて逃走する泥棒で、ライフルで武装しており、抵抗されれば、射殺する
武装強盗団です。小野田牧場も一度,襲われました
小野田元少尉はトラックの侵入に気がつくと、間髪をいれず、ライフルを取り出し、星明りの夜道を走り、トラックの射程距離に入ると、ブッパナシました。撃っては、位置を替え、3人組の武装強盗団を沈黙させ、遁走させました。さすがは、ルバングで29年間
現役で戦ってきた兵士です。それから、小野田牧場は泥棒に襲われたことは無いそうです。
きっと、泥棒仲間で、あの牧場には、腕利きのガンマンがいるから赤信号だと、話がひろがったのでしょう。
合掌
麻生
2014年1月19日

以上



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