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≪庭園文化こそ花つくりの原点≫ サンパウロ新聞WEB版より
『私たちの50年!!』のメーリングリストでは、元鹿児島大学農学部園芸学科教授でJICAシニアボランチアとしてアルゼンチンに4年2ヶ月間、園芸指導に行かれた経験のある有隅 健一先生にも参加頂き前田さん、杉井さん、小出さん、ブラジルサイドでは、松村さん、池田さん、園田さん、佐々木さん等が種を供給してジャカランダ、イッぺー、パウ ブラジル、海紅豆(セイボ)、牛蹄木、マナカ、カシア、ババス等ブラジルの植物を日本で育て日本からは、慶良間躑躅、ミヤマ霧島、ブーゲンビリア等を移植、花を咲かせる≪花咲爺さん≫が毎日意見交換をしていますが、サンパウロ新聞に『庭園文化こそ花つくりの原点』というブラジル帝政時代から現代までの花卉栽培に付いての歴史と≪日本人に足りない花を愛でる心≫を分かり易く説き解く恰好の読み物を見つけましたので参考に全文(全5回)を纏めて収録して置きたいと思います。
写真は、適当なものが見付かるまでMANACA da SERRAの花を使用する事にします。
筆者は、和泉 雅之さんとおっしゃる方で1996年に東京工業大学生命理工学研究科バイオサイエンス専攻を修了され理学博士の学位を取っておられるようで現在は、大阪大学/理学(系)研究科(研究院)講師をされているようです。


庭園文化こそ花つくりの原点(1) 庭園は貴族豪庭の見せどころ 14/09/09  サンパウロ新聞WEB版より

 草花の種類が豊富なブラジルではあるが、栽培の歴史は比較的新しい。商業目的の栽培は19世紀末に始まる。しかし、花卉(かき)産業として発展するのは1950年代に入ってからだった。ヨーロッパでも産業化は19世紀後半であり、農業史の中では新分野とされる。もともと草花は、「カネを払って買うものではない」とされていたから、商品化が遅れたのも当然といえよう。
 ヨーロッパで花卉栽培が注目されるのは、大航海時代に入ってからのこと。ポルトガルとスペインの探検隊や商船隊は、アフリカ、東洋、南北アメリカから珍しい草花を導入。それを貴族階級が大邸宅の前庭で栽培。珍品奇種を見せびらかしたことにより、特殊植物としてもてはやされた。いわゆる「庭園文化」の始まりである。17世紀には幼稚ながらも交配の試みがなされ、18世紀に入ると、新品種の作出が貴族趣味のひとつとして定着。とりわけ、イギリスとフランスの貴族は品種改良に熱心だった。
 これらの草花を誇示するため広大な庭園を造成する。庭園文化の精華を競いあったが、中でも有名なのは、1734年に再建されたスペイン王宮。豪華な大庭園が貴族社会の注目を集め、草花への関心はいやが上にも高まる。以後、ヨーロッパの貴族は庭園美を誇示するとともに、品種改良競争を演じた。こうした動きを通じて花の種類も増えていく。キク、ボタンなど、東洋の花が改良されたのもそのころである。
 一方、東洋ではヨーロッパと違う形で発展した。何ごとにつけスケールの大きい中国では、離宮と呼ばれる数百ヘクタールの庭園が殷末(前12世紀)からあり、4世紀後半には流觴曲水(りゅうしょうきょくすい)の宴が盛んになる。日本でも9世紀になると中国文化に学び、貴族の庭園と節会(せちえ)の遊興が流行。貴族社会が築き上げた平安文化のひとつに庭づくりがある。庭園文化は寺社へと広がり様式も多様化した。しかし、スケールの点で中国やヨーロッパに及ばないのは、小さな島国でちまちまと暮らす貧乏性のゆえか。
 洋の東西を問わず、風流な庭づくりが王侯貴族や地方豪族の特権であったことは否めない。それはともあれ、風流といっても東洋と西洋では情趣に大きな相違がある。中国と日本は樹木、石、池が中心で、瞑想的幽玄の美をめでる。西洋では草花に重きをおき、表層的彩色美を観賞した。草花が少ないほど深玄の境地を思わせるのに対し、百花繚乱の庭園はいかにも華麗で、見る人の目を楽しませる。抽象的概念と具象的概念の相違とでもいおうか。東西の思考的相違を示す一例でもある。
 ところで、ブラジルの庭園文化はどうだったのか。歴史の浅いブラジルは、19世紀初めまでポルトガルの植民地だったこともあり、庭園といっても本国あるいはスペイン、フランスのまねごとにすぎない。いわゆる「お仕着せ文化」でレベルは低かった。それにもかかわらず、熱帯植物をまじえる独自の移民文化を、比較的短期間につくり上げている。(つづく)〈文・和泉 雅之〉
2014年9月9日付


庭園文化こそ花作りの原点(2) 留学生のおみやげは花の珍種 14/09/10

 ブラジルが発見されたのは1500年4月22日。報告を受けたポルトガル王宮は、ここを植民地として領有する。しばらく放置した後、1532年から組織的な開拓に着手したが、貴族階級の移住は極めて少ない。16世紀から17世紀にかけて、地域における政治経済の主導権を握ったのは、農業生産(とりわけ砂糖)でもうけた新興成金だった。
 彼らの多くは教養がなく、学問と階級に対するコンプレックスが極めて強い。開拓初期には、カネさえもうければそれでよかった。しかし、二代目、三代目になるとそうはいかない。地位と教養を求めヨーロッパへ留学したいと望む。親もまたそうさせたいと願い、息子をポルトガルやフランスへ送り出す。18世紀当時、学問と文化が進んでいたのはフランス。ブラジルの成金子弟は大半がコインブラ大学(ポルトガル)に留学し、一部はパリへ向かう。4年ないし5年の勉学期間中、休暇ともなればパリの社交界に出入りし最新情報を収集。卒業後も1年か2年とどまり、ヨーロッパ諸国を漫遊しては各国文化を学んだ。
 その時、親が言いつけた注文のひとつは、珍しい草花、あるいは新品種を手に入れること。18世紀のヨーロッパで、改良技術が最も進んでいたのはイギリスだった。普及の拠点はパリ。パリにいればヨーロッパの動きが分かる。社交界での交遊を通じて花の流行を調べた。息子が集めた草花の新品種は、幸便があるつどブラジルへ送られた。毎年、身近な誰か一人はヨーロッパへ遊びにいく。託送のチャンスは年に数回あったと推測される。
 ブラジルでは花の改良技術が発達せず、もっぱら庭づくりが進歩した。とりわけレシフェ(現ペルナンブコ州)の砂糖成金は熱心だった。温帯の花を熱帯で育てるのは難しい。たいがい失敗したが、熱帯の草花による庭園はますます立派なものになった。それをまねたのがサルバドール(現バイア州)の貴族階級である。1763年、植民地総督府がリオへ移転すると、バイアの貴族階級も総督に同行。新首府に庭園文化を移植した。
 19世紀前半を通じて、これら三大都市で庭園文化が発展。当時のサンパウロは、まだ小さな田舎町にすぎなかった。人口も1万には満たず、大半は粗野、粗暴なポルトガル人開拓者の子孫と、彼らが使役する黒人奴隷。ポルトガル本来の貴族、あるいはヨーロッパ諸国からの新規移民はごく少数で、町全体の文化レベルは低い。貴族趣味といえる高尚なものはほとんど見られなかった。それでも19世紀になると、少数ながらフランス人が移住したことにより、花の文化も徐々に取り入れられる。在来のポルトガル貴族に加えて、コーヒー成金が豪邸を建築。現在のレプブリカ広場からアウグスタ街、アンジェリカ大通りにかけて、成金屋敷が並んだ。花壇の美を競いながら、新品種や珍品の種子または株を分け合う。この交換が閉鎖社会で行われたため、一般社会へ普及することはなかった。1世紀の遅れはあったが、サンパウロの成金も、リオ貴族の後を追い始める。
 庭園を立派なものにしようとすれば園丁(庭師)が必要。雇用されたのはたいがいポルトガル人。前庭(ポルトガル語ではジャルディン)の花壇と裏庭(キンタ ル)の菜園を管理した。中庭(パチオ)は糸繰りや手芸、大工仕事などの作業用スペースだったが、ここに鉢花を並べる家もあった。したがって、園丁の仕事は なかなか多い。ジャルディン係(草花と花木担当)とキンタル係(野菜果樹担当)を雇用する屋敷もあり、ポルトガルから来る新着農家は引く手あまた。彼らは 日本人が移住する前の時代に活躍した、野菜と花づくりの職人である。 (つづく)〈文・和泉雅之〉
2014年9月10日付


庭園文化こそ花つくりの原点(3) ポルトガル人による花づくり 14/09/11

 リオでもサンパウロでも、19世紀後半における貴族屋敷の園丁(庭師)といえば、普通の農家より社会的地位が高い。ポルトガル人はこれを名誉とし忠勤した。貴族社会が発展するにつれ、庭づくりの仕事は増える。花卉(かき)栽培技術はなかなか進歩しないが、草花の種類はどんどん増えていく。ヨーロッパから来た移民が、多種多様な種子を持ち込んだ。
 庭園のさまざまな花は、格子柵を通して表の通りからよく見える。前庭はもともと、見せるためにこしらえたもの。家の格式にふさわしい、立派なものでなければならない。屋敷の前を歩く庶民は、貴族趣味の一端をかいまみて楽しんだ。同時に草花へのあこがれも強まる。しかし、自分で栽培するだけのスペースはない。なぜなら、庶民の家に前庭はなく、裏庭はニワトリとブタに占領されていたからである。
 貴族の庭園文化は19世紀末に大きく変わった。1889年の共和革命で階級制度が廃止されると、多くの貴族が没落。広大な屋敷は小さく仕切って分譲され、前庭も中庭もない長屋式の建て売り住宅があらわれる。庭園と菜園を管理していたポルトガル人は失職。郊外の借地でささやかな野菜づくりを始めた。かたわら、ダリア、グラジオラスなどの草花も栽培。リオとサンパウロ市内のフェイラ(午前中に立つ青空市場)で直売した。
 商売用の花卉栽培がいつから始まったのか、よく分からない。1880年代以降、ヨーロッパからの移民がサンパウロ市内に定着し始めた。それから後のことと推測される。なぜなら、新着のヨーロッパ人が、切り花の主要な消費者だったからである。彼らは商業または手工業でもうけ、野菜と花の消費者になった。花を買う消費者が増え始め、20世紀になると、バラ、ダリア、カーネーション、キクが商品としての需要を伸ばす。
 そのころには、ポルトガル人のほかにドイツ人、イタリア人も生産の仲間入りをする。とはいえ、今日のように「誰でも買う」ということではない。客の中心は新興成金。奥地から来る貧民により人口は膨張しても、富裕層が増えるわけではない。花は「ぜいたく品」であるから消費量は限定された。
 室内に花を飾る習慣がなかったのだから当然であろう。生産者は販売に苦労したようだ。ましてや、20世紀初めのコーヒー不況期には、サンパウロ市民の購買力も低下したため、花も野菜も売りにくかった。むしろリオのほうが市場は大きく、切り花需要は伸びる一方。リオでは1904年の都市化計画で建築ラッシュが起こり、1907年ころから手工業が機械を導入し始めた。町工場でもうけた成金族が増えると花の消費も増えていく。
 サンパウロの事情が好転するのは1915年以降のこと。第一次世界大戦の勃発をきっかけとする。ヨーロッパ人移民による小規模工業が発展。1920年代は建築ブーム。以後、サンパウロも大都市の仲間入りをし、リオとともに急速な経済成長を遂げる。ただし、外国人移民の多いサンパウロの発展が目覚ましかったことはいうまでもない。
 工業化による経済発展は、都市近郊農業を大きく変えた。野菜果樹はもとより、花卉栽培も揺籃(ようらん)期から脱して勃興期へと移行。売れなかったはずの野菜は1920年代後半、果実と切り花は1930年代後半から消費が増える。日本人は1908年から野菜づくりを始めていたが、1910年代の農家数はジャガイモ栽培を除いて20戸には至らなかったろう。花卉栽培はゼロ。日本人が草花を手がけるのは1920年代半ばからだった。そのころ、ポルトガル人、ドイツ人、イタリア人が、数種類の切り花を商品として販売しながら、成金階層の間に浸透させつつあった。日本人もその一角へもぐり込み、やがて市場拡大の原動力となる。(つづく)〈文・和泉雅之〉
2014年9月11日付


庭園文化こそ花つくりの原点(4) 日本人が手がけた花の改良種 14/09/12

 日本人による花卉(かき)栽培は、1920年代半ばから始まった。数は少なく30年ころでもまだ数家族にすぎない。いずれも野菜が主力で花は副業。ドイツ人の中にはバラ専業生産者もいて、サンパウロ市内における花の消費は増えつつあった。とはいえ、バラを除く草花は需要が確定していないため、零細規模の生産しかできない。野菜の販売ルートがはっきりしていない時期に、花の販売はもっと難しく、苦労話が伝わっている。
 1930年代の花といえば、富裕層の庭園にはサンパウロ市内だけでも500種類以上あった。青空市場で売るのは、バラ、カーネーション、ダリア、キク、グラジオラス、ケイトウ、キンセンカ、スイートピーなど10数種類の切り花。それも、季節的なもので周年栽培はできない。したがって、冬季になると商品の種類は激減する。
 ランは19世紀以来人気があっても、愛好家だけの特殊な草花とされていた。高価だから買い手がないということではない。愛好家同士が珍品を交換することに喜びを感じていたということ。つまり、「どんな高値をつけても売らない」という点が重要で、そこに所有者としての意気と誇りが存する。彼らは高所得層に属するので、経済価値を無視することに意義を感じていた。貴族階級は廃止されても、貴族趣味はこういうところに存続。ブラジルにおける花の文化は、特権意識に支えられ発展したということもできる。
 商品化された花のうち、バラだけは19世紀末から品種改良が盛んになった。ほかの草花については、ヨーロッパの一般的栽培種を持ち込んだにすぎず、ほとんど改良されていない。花の改良品種に注目したのは、遅れて参入したはずの日本人が早かった。
 1940年代の終わりころ、石橋初雄(スザノ市)がグラジオラスの優良品種を栽培したのに始まる。1950年代半ばに、松岡春寿がシム系カーネーションとキクをアルゼンチンから導入。これに刺激され、ほかの日本人もそれぞれ新品種を求めるようになり、サンパウロの花卉市場はどんどん変わっていく。1960年代の花卉生産で、日本人は産業化のリーダーシップをとった。もっとも、バラだけはドイツ人にかなわなかったが。
 サンパウロ近郊には日本人の花つくりだけで数百家族もいた。1970年代を通じて1000戸近くまで増える。ただし、全国数と比較すれば1割ちょっとで、生産量における主力になっていたわけではない。日本人の傑出した点は栽培技術とされる。日本の技術情報をあさった。1970年代初め、オランブラ農協が花卉市場に参入してからは、オランダの技術も導入される。オランダ人と日本人は生産面で競争。切磋琢磨しながら、新たな品種と技術を本国から取り入れ、業界全体のレベルアップをもたらした。
 近年、ブラジルの花卉類が輸出市場で認められるに至ったのは、日本とオランダの技術によるもの。最初は日本、後からはオランダの技術が主流になる。 1960年代から1970年代にかけて日本人が技術水準を高めた。その結果、花卉産業が発展し、今日の隆盛をみるに至った。日本人の努力があってのことで ある。1990年代に入ると日本人と子弟は、経営上の遅れをとり市場の変化に対応できなくなった。次々と廃業。その間にオランダ人が業績を伸ばす。とりわ け、輸出商品をつくり上げた点で、オランダ人の努力は評価される。
 21世紀になると日系の花卉栽培は目立って後退。サンパウロ近郊の日系花卉生産農家は、2011年現在およそ400戸。家族数が半減しただけでなく、生産量はもっと大きく落ち込んでいる。市場競争についていけず、収益性の悪化によ り転業したケースは多い。あるいは子弟が事業を継承せず廃業した。なんとか続いているのはランと芝草。その他の草花で傑出したものは見当たらない。かつて新品種の導入と市場開拓で活躍したことも、今では遠い昔話になってしまった。あと10年もすると、日本人の功績は忘れられ、オランダ人だけが称えられるこ とになろう。パイオニアである父祖の事業を、オランダ人子弟は継承するが、日本人子弟は抛棄(ほうき)する。この点もまた思考と文化の相違であろうか。(つづく)〈文・和泉雅之〉
2014年9月12日付


庭園文化こそ花つくりの原点(終) 花をめでる心とは遠い日本人 14/09/13
 
日本人は確かに、ブラジルの花卉(かき)栽培の牽引力となった。今日のブラジルは、世界的な輸出国へと変貌しつつある。それにもかかわらず、生産分野における日系人の後退が目立つ。親の仕事を子が継承しても、維持できないケースが多いようだ。
 かつては、「花つくりといえば日本人」ともてはやされた。それほど、サンパウロ近郊には多くの生産農家が集中し、花卉類専業農家として技術の素晴らしさを誇っていたものである(1970年代まで非日系花卉生産農家は、大半が野菜果樹との兼業だった)。最近の日系農家は、都市近郊農業から撤退しつつある。サンパウロ近郊における花卉栽培で、日系人の活躍はほとんど目立たない。収益性の悪化による「じり貧」に悩まされ、廃業または転業するケースが増えてきた。
 その傾向は仕方ないとしても、ヨーロッパ人と比較する時、日本人には重大な欠陥がひとつある。「花を愛する心」の欠如は、日本人農家の大半に共通する問題。花を愛さずして花を生産する。「カネの切れ目が縁の切れ目」と同じで、もうからなければすぐにやめてしまう。現代経営学では当然のことだが、それでは仕事も長続きしない。「好きこそ物の上手」で、愛好心こそ事業の大前提。花卉栽培にもあてはまる。
 多くの農家は、「花が好きだから花つくりを始めた」という。だが、家の近くに花壇をつくったり、農場内に観賞用の花木を植えるケースは極めて少ない。日系の花卉農家をみると、大声で「好きだ」といえる生産者はほとんどいないといってよい。そう叫ぶことができるのは盆栽愛好家くらいなものか。花壇や庭園はぜいたくな趣味。だからそんなところへカネを使わず、生産に直結する部分へ投資するのが常識。確かにそうだが、利益優先主義への回帰は避けられず、花を愛する心からますます遠ざかる。
 経営学の講釈はさておき、いいたいのは、生産者が花の文化をどこまで理解しているかということ。あらゆる分野でめまぐるしい変化がみられる今日のブラジル社会で、芝草や苗木を含めた花卉類の需要はますます増大する。個人屋敷の庭園は激減したが、アパート内の観葉植物は増えてきた。オフィス街の事務所でも鉢物を置き、イベント会場は切り花で華やかさを醸し出す。花卉類による装飾は高級な趣味と考えられる。かつて、貴族社会の庭園文化は至高の芸術と考えられた。今日では庭園だけでなく、インテリアデザインとして花の価値が高い。これを日本人は「ぜいたく」の一語で片付けてしまう。ヨーロッパ人は貴賎貧富を問わず「素晴らしい」とほめそやし、花へのあこがれを強調する。美的感覚の相違といえばそれまでのことだが、日本人の貧乏性も無視できない。
 ブラジルに住む日本人は、一般に成金趣味はあっても貴族趣味に欠ける。ブラジル向け移住が始まった明治の末以来、この国へ来た日本人の99%以上が「花の文化」とは縁遠い存在だった。なぜなら、移住者の圧倒的多数が、高尚な文化とは無縁な農村地帯の出身者だったからである。「海外雄飛」と「錦衣帰郷」を目指し、カネもうけに忙しかったのも当然であろう。しかし、カネはなかなかもうからない。稼ぐために時間を取られ、あるいは日々の生活に追われていれば、花をめでる心も芽生えようがない。
 さらに、歴史上の問題もある。長い武家政治の時代を通じ、平民が雲上人である貴族階級と接触できるのは特異なケースだった。したがって、日常生活の中で貴族文化に触れる機会はなく、高尚な趣味を知ることはできない。ブラジルへ移住した日本人は、ブラジルの貴族社会(あるいはその流れをくむ家族)との交遊を 考えなかった。たとえその気があったとしても、相手にされなかったであろう。教養格差があまりにも大きすぎる。
 貴族趣味を理解できなければ、花木や草花をめでる心のゆとりも乏しいのはあたりまえ。ブラジルでそれを学ぶことはできたが、日本人は一般に非日系人との交遊を敬遠する。富裕層との接触に は関心を示しても、高尚な文化を吸収しようとは考えない。貴族文化にあこがれる人なら、この国でヨーロッパ的生活を観察していれば、高尚な趣味も理解でき るはず。経済的余裕ができれば実践を志向するであろう。ヨーロッパからきた移民子弟はこの傾向が強い。日系子弟には貴族趣味へのあこがれが乏しい。
 同じことを日本人と子弟ができないのは、文化と教養の問題であろうか。日本人に共通する欠点のようでもある。「子は親の背を見て育つ」という。親に成金趣味しかなければ、子も当然、金銭にのみあこがれる。それが悪いということではない。金銭欲が強ければ、花を愛する心とは懸け離れた存在になってしまう。 しょせんは日系子弟も、「日本的成金趣味」から脱皮できないのであろうか。いかにもわびしいことではある。だが、見方を変えれば、それもまた時代の流れというべきかもしれない。(おわり)〈文・和泉雅之〉
2014年9月13日付



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