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≪思いつくままに≫砂古さんの【想い出の記】連載(その1)
『私たちの50年!!』のMLメンバーには、特異な方が参加されており戦後移住史を語るに相応しい方がおられます。ブラジル在住63年目を迎えられる砂古友久さんにお願いして≪思いつくままに≫と題して戦後日本とブラジルが外交関係を復活させ初代大使として1952年に赴任して来られた君塚 慎大使の私設秘書として大使赴任に同行飛行機移民として戦後移住者の第1号的な歴史に残る方から戦後政府計画移民第1号のさんとす丸の処女航海をリオに君塚大使と共に出迎えれた砂古さんの『想い出の記』1,2,3とコメント集を(その1)として纏めました。
使用する写真に迷いましたが、砂古さんの飛行機のタラップで両手に荷物を抱えシルクハットを被ったままの写真をと思ったのですが、やはり公共性の観点から初代ブラジルの君塚 慎日本大使の砂古さんがパケタ島に遊ぶ大使を馬車の中で日本から持参した蛇腹のカメラに収められた貴重な写真を使わせて頂く事にしました。


≪思いつくままに≫  戦後移住者の第1号?の砂古さんの【思い出の記】連載が始まりました。
砂古です。
勝ち負け闘争での「偽の宮様」を書いたら、和田さんに戦後初期移住に関わる投稿を、分割で良いから「気楽に」とお勧め頂きました。あれから考えました。書ける程のネタがあるのか? と記憶を解きほぐして見ました。不十分と案じましたが、一応やってみます。 
私は東山のサラリーマン移民です。TOZANの名前は今ではカンピーナスの、映画「ハルとナツ」のロケになった農場 & 酒の 東麒麟の工場が残っているだけです。  
渡伯前後の自己紹介が必要ですが、その背景が伴わざるを得ないので、ちょっと長くなるのをご容赦願います。
戦前は農場だけでも、W50の吉田さん現住のピンダの、米作水田を含み10000ヘクタールです。 1ヘクタールは100m x 100mですから、サンパウロ大都市近辺での10キロ真四角の面積をご想像ください。酒以外に繊維一貫行程の工場と鉄工の2工業、銀行、更に特筆すべきは「カーザ東山」で、奥地に手広く支店を布石し、コーヒー・綿の青田買いと精選、サントスでは其の輸出商として知名度最高、サンパウロ本店では一般商品輸出入リオでは三菱商事の代理店として鉱物資源の買い付け・輸出を引き 受け日本実業界のブラジルでの代表的存在でした。                             
これらが戦後資産凍結解除となり、極めてささやかながら再稼働に取りかかり始めました。
元本社の岩崎家の東山農事は三菱財閥として解体されていたので、
「東山企業」が在伯資産管理の本社的存在として、旧丸ビル内に 設立され、私は1951年に東京外語ポ語を卒業し、就職しました。
入社一年目に、その社長の君塚さんがブラジル大使に任命され幸運にも私設秘書として渡伯同行のチャンスが私に訪れたのです。
君塚さんは1920年代はロンドンで三菱銀行駐在員、30年代は上記の多分野に渡る事業に着手・運営する傍ら、平野植民地となった 土地購入希望者全員への 一括立て替え払い、また日系青年層のスポーツ奨励への援助に努力、コローニアとは大変密接な関係がありました。大使赴任に当っては、戦前関係のあったスポーツグループに数個の持ち回りのトロッヒーを後送荷物にしました。                デヴィスカップの明大出身の藤倉選手をサントス勤務に本社で採用させ、同市のテニスクラブに貢献、同クラブや社交界でも名高い釣りクラブの会長にもおされ、ブラジル人社会にも人望の高い方でした。大使として赴任間もなくSHIN(慎)と記したエンジン付きの釣り船がサントスのクラブから回送されて来て、治安問題皆無の当時で、官邸の目の前(今のアテーロなき頃)のフラメンゴの岸壁に係留され時折大使夫妻がむつまじく釣りを興じられたのを覚えています。
大戦争中はスマトラの東山農事勤務で、日本に残した英国人夫人は敵国人として苦難の思いで過ごされ、高じて戦後早々離婚し英国に帰国、僕が入社当初、社長は独身でのち再婚されました。
パーティーなどで、外交官生活無経験の新夫人の通訳をキャリアー の本官に依頼するのを心良しと出来なかったのでしょう、それが私設秘書を帯同された理由の一つだったと思えます。それと大使帰国にさいしては、再稼働の「カーザ東山」に僕は残留する、事前了解がありました。 経緯から長い自己紹介になり失礼しました。(続)

(コメント集)
和田: 砂古 さん 【思いつくままに】始まりましたね。第1回の自己紹介(ブラジルに来られるきっかけ)大変興味深く読ませて頂きました。戦前の東山農場、戦後のカーザ東山の紹介は、勿論のこととして手持ちの日本ブラジル交流史の年表によると1952年日本人のブラジル移住再開。戦後初代大使君塚慎着任と出て居りその私設秘書として来伯された戦後移住者第1号的な、砂古さんの存在は歴史上に特筆されるべき貴重なお方だと分かっただけで大満悦で原稿料も払わず当時の貴重な戦後移住の歴史を生き字引的な砂古さんに連載で書き綴って頂けるとの事で大変嬉しく存じます。宜しくお願いします。
『私たち40年!!』寄稿集への収録は、1回1万ごとの制限が有りますので少し纏まってからになると思いますが、もし適当な写真等が有りましたらお貸下さい。
砂古さん
≪思いつくままに≫は、連載として気が向いた時に思い出す時にゆっくりと書き綴って頂けたらと願っています。これは『私たちの40年!!』に収録させて頂く予定ですので年末年始のバーチャル座談会には含みませんのでご了承下さい。
第1回を下記BLOGに掲載して置きました。下記注を付けています。
≪適当な写真が送られて来るまで昨年の9月にブラジル書道愛好者展に来賓として参加されておられた時に恵子が書いた作品の前で撮らせて頂いた写真を貼り付けて置きます。≫
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/47952341.html

砂古: 和田さん、 はい、バーチャル外と分っております。 お薦め頂いて、時間が経過しすぎると悪いので先ず、渡伯の経緯だけ、やむを得ず書きました。身分不相応な時期でしたので、何時も「最初のリオ時代」でぼかしていた事でした。新春放談が終わる頃からがいいかと、思っております。

和田: 砂古さん 急ぎません。2015年度の期待の欄としてゆっくりと熟成させて行きたいと思いますので≪思いつくままに≫自由に書き残して頂ければ嬉しいです。宜しくお願いします。

都賀: 砂古さん 東山農場の話を興味深く読みました。小性のカンピーナス市の自宅から東山農場は目と鼻の間です。

吉田: 砂古さん ピンダの農場は1915年に鹿児島出身の安田良一氏が開墾したところです。その当時は藤崎商会のものだったそうです。砂古さんが東山に入られた頃は安田氏は存命だったと思いますが、安田氏と面識はあったのでしょうか?

砂古: 吉田さん、 はい、藤崎商会のものでした。どういう経緯かしりませんが、戦前に東山が譲りうけました。その折、藤崎商会の後藤武夫さんも東山の社員になられました。私のリオ時代は、後藤さんは東山のリオの事務所におられ、其の自宅で、安田良一さんの息子で医学生だった確か Nelson?に何回か会いました。ピンダの医大の先生になりました。 彼の同僚のブラジル人の教授が 私の例のカンポスの家を買ってくれました。 其の兄の商工大臣を短期間やったFabio安田にも、私の息子の所属ゴルフクラブ会った事があります、でも良一さんとはお目にかかった事はありません。
戦前の岩崎家は大変温情深い考え方で東山農事を運営されたと聞きます。で、移民がピンがで体を痛めるか ら酒造に踏み切ったと、言われているのは本当だと思います。が、ピンダの米が余剰になったのも理由の一つと言う説があります。
今は、和田さんの説明では、弥勒米を酒造に使っているようで、日本の麒麟の参加もあって、今の東麒麟の SAQUE DOURADO はすごく美味く、私も時折たしなみます。 揶揄されたアタマ・キリンは、昔のレッテルのまま売られていますが、一般には調味料用に使われているようです。

吉田: 砂古さん 早速の返信ありがとうございます。ネルソン氏はタウバテの病院長をしていました。その弟のヘナト氏は歯科大学教授や市会議員をつとめました。お二人には忘年会や会館の催し物の時お会いします。移民の健康を考えて酒造に踏み切ったなどという話ははじめて聞きます。おそらくほんとうでしょう。
温情深い家系だからそこの娘さんがアレキサンダーズ・ホームを創ったのでしょうね。一度ヘナト氏に会ったときにどうして兄弟の誰もが日系人と結婚しなかったのか聞くと、お父さんがピンダに来た最初の日本人でまだ二世の娘さんは誰もいなかったとこたえました。馬鹿なことを聞いたものだとおもいました。
ファビオ氏が商工相、エドワルド氏が州の公務長官兄弟皆怱々たる人物です。この兄弟のお母さんはどのような方だったのか知りたいと思います。あまり時間はありませんが今度聞いてみたいと思います。

浅海:拝復、砂古さまへ、私は来伯後田舎回りの生活をし、ブラジル日系コロニアの歴史を底辺からみる事は、田舎の連中から色々教えられました。
今回、其の歴史の中心におられた砂古さんから、今までとは違った角度から、ブラジルの日本移民の歴史についてご意見を拝聴できるのは何とも光栄です。特に第二次大戦終結直後からの日系史について教えて下さい。又、砂古さんの長い在伯の、日本移民の移民生活、移住観などについて、忌憚のないご意見おききできれば幸いです。宜しくお願いいたします。 御自愛下さい。

和田: 砂古さん 吉田さん 浅海さん 皆さん
砂古さんの≪思いつくままに≫にをベースに当時の出来事、史実を皆さんで語り合い直接質問させて頂く機会が有るので皆さんの参加により砂古さんの想い出話しが生きて来ると思いますので皆さん遠慮なくこの機会を利用して大いに勉強しましょう。来年のMLの大きな楽しみに成るようで大変嬉しいですね。皆さん宜しくお願いします。



≪思いつくままに(2)≫ 砂古さんからのお便りです。
和田さん、みなさん、和田さんの年始バーチャル終了宣言で、「思いつくままに(2)」を送信します。今回もまだ本題に入り込めない序文めいた雑文で失礼します。
1952年9月29日、.羽田より同行の中屋理事官と3人で、リオのガレオン空港に到着。
出迎えにタラップに上がって来られた先発着任の原参事官と4人並んだ寫眞では、私だけが帽子を被ったまま。信任状が入った大使の鞄と自分の手荷物が両手にあり、帽子が取れなかったのです(添付写真)。
ブラジル帰りのオシャレ氏の薦めで、給 費の支度金で購入した白のパナマに、白のスーツは良しとしても、おかしな寫眞です。
両手に2人分の手荷物、カメラや三脚まで体に巻き付けた、体重56キロ身長174でスマートだったがチンドン屋です。 預け荷物は一個20キロまでのプロペラ時代でしたから。
ちなみに、シスコまでのB-29改造機内は螺旋階段を降りると飲み物・タバコがおいてある休憩室で、爆弾の貯蔵庫だったと読みました。長崎県の大村湾に面した川棚の海軍工廠に旧制佐賀中学から学徒動員され、身近に原爆の惨事を感じた僕には、その休憩室は違和感をもたらすモノでした。                
リオ着は羽田以来一週間目でした。航続距離が少なく、激戦地ミッドウエイ空軍基地に着陸、給油中はお盆をもらって給食に並び、ハ ワイでは総領事歓迎昼食のレストランの傍で見かけた超ショートパンツで真っ白に伸びた2本の脚の娘さんが、まるで路上のビキニ姿のように 目に飛び込んできました。
サンフランシコでは朝チェックインし夜のフライトに備え休憩だけ。  
生まれて初めてのホテルが、名ある Fairmontで、リヴィングを挟
んだ二つの寝室。
NYも総領事公邸で晩餐、二日目はワシントンに出向き元日銀総裁の新木大使を表敬・晩餐。 昼食の後「おみ足をお伸ばし・・・」 と「御」の字3個の高官の夫人のオ言葉、肘を張ってガツガツ食べない、スープをすすらない、外務省の儀典課でもらったマニュアルの実習、すべてが勉強でした。                              NYに戻り一泊フリーの休憩。プエルトリッコのサンフアン、カラカス、ベレンで給油。ズボ ンの裾から熱気がサーっと入り込み、冷たい水を注文すると、ポルトガル語が通じ、ブラジルを実感しました。
リオで借物の公邸が決まるまでは、2か月程は、ホテルグローリア。
同レストランに入るたびに、ピアノとバイオリンで東洋風のメロディーでの歓迎演奏。大使がこれは「宮さん、宮さん…」の曲だよと僕に説明。のち、サンパウロで原曲は「ペルシャの市場」と分かり、其の昔、外来曲を「宮さん宮さん」と替え歌にして日本で一時流行ったものと解釈しました。 一生忘れられないメロディーです。
空軍大臣として有名だったエドワルド・ゴーメスがいつも一人で食事
する姿も記憶に鮮明です。彼の名前は、後にできたアテーロに沿った
新しい往復高速道路に残っています。
9階の角の応接間909号室を挟んで911が大使の寝室、私は907 
と繋がっていました。同じころ新任の諸外国大使からの慣例の表敬 訪問はこの909号室でうけ、又反対に他国の官邸に私が表敬のアポイントを取りました。丸木さんが聞いたら呵呵大笑の英語だったでしょう。
My Wayを歌うとドイツ語と評され、ポルトガル語をしゃべるとスペイン語風と言われ、 O sole mio を歌うとポルトガル語にきこえる・・・?
これが今も変わらない私の外国語レベルです。(続く)

(コメント集)
和田: 砂古さん 愈々始まりましたね。貴重な戦後移住史の幕開けです。こうして戦後初代日本大使が着任され日伯外交、移住史が始まったのですね。その第1歩から身近で大使の私設通訳をしておられた砂古さんの回顧録≪思いつくままに≫を連載して頂けるとは大変光栄です。この企画を思いつき上手く砂古さんを引っ張り出した私の手腕も戦後移住史の一部なりとも残して置きたいとの日頃の強い思いのなせる技、砂古さんの今後の書き込みを皆さんとともに楽しみにしていますので無理をせずに≪思いつくまま≫書き続けて頂けると嬉しいです。
第2回を下記BLOGに掲載して置きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35508627.html

丸木で〜す まるでフジヤマの飛び魚の一行がハワイに着かれた様な写真ですね。僕等のような舟底移民からみれば夢の様な光景です。僕は仕事を辞めてから英語を使わなくなって最近は頓珍漢な英語を使うようになってます。カリブ海に向かう機中で水を頼んだらビールを持って来ました。ウオーターがコロナと聴こえたそうです。イギリス訛でウオーターなんか云ってもアメリカ人には通じないので、ワラ(藁)と云えば通じるのです。



≪思いつくままに(3)≫ 砂古さんからのお便りです。皆さん、
和田さんのお勧めで、未来のない、過去の話だけで心苦しくも感じますが、(3)を送ります。
戦前から君塚さんと親しい多士済々も来訪。そのうちの一人、伯国海軍に石川島のタンカー数隻をすでに売り込み引き渡し実績のあった敗戦認識派でシブラン社長の藤平正義氏(のち、ブラジル豊和社長)は戦前陸上競技選手で君塚さんに大変目をかけられた人です。アナピオ・ゴーメス将軍とも親しかったので政商と言っていいでしょう。勝ち組テロの狙撃を幸いまぬかれた一人です。
ある夕、同氏が大使に「砂古君をかります」で、案内された先は Laranjeiras地区の奥高い Rua Alice の「上院」と通称される、最高級の夜の館でした。のちにサンパウロで大変お世話になり、結婚式での仲人役もしていただきました。
「別に下院」が Lapa の Rua Candido Mendes にあり、現在のサンボドロモに近いマンゲには極めて大衆的な zona があると聞きました。
日系2世の最初の政治家、サンパウロで市会議員から州議員になって間もない田村幸重氏(のち連邦議員)も東山の後藤さんともう一人誰かと見えました。当時、サンパウロには日本人と2世子弟家族で構成する洗濯業(チンツレイロ)が軒並みでした。日本の戦勝と日本船が迎えに来るのを信じ、農地を処分してサントス辺りで待機し、諦め、サンパウロに居つき、家族労働力だけの小資本で始められるこの仕事を選んだ人達でした。
彼らは田村州議の大事な選挙地盤であったので、同州議の言動に曖昧があったのが問題にされていた頃です。
こうした傾向は、邦字新聞社と日系の銀行にもありました。
パウリスタ紙(日伯と合併、現在のニッケイ)は認識派の立場で偽の宮様追求探訪や厳しい社説を載せたのに対し、サンパウロ紙は鷹揚で戦勝派の購読者も積極的に獲得の経営方針でした。 
銀行では地味な東山に対し南銀は増資を戦勝派にも求め支店拡張を先行、50年代後半の終わり頃は、東山南銀と言われていたのが南銀東山と逆転しました。
この南銀も消え、東山は三菱銀行に合併され、更に東京三菱となり、一般顧客業務を廃止しビジネスバンクに変貌、隔世の感ありです。
公邸探しは、その昔の脱走船員で、大変親切で気前良しの、でもズケズケ物を言う、宝石商で、リオの顔役、白土貫治さんと東山の後藤さんが奔走。
決まったのはグローリアホテルに向かって左100メーターの建物に、屋上には使用人部屋と倉庫付きの、最終6階の全フロワー占有のアパートが決まりました。車が2台ユックリ入る専用の車庫も有り、古いが良い建物でした。内装、家具を整え、ホテル滞在2か月半後に引っ越し、僕はブラジル人宅に下宿しました。大使夫人の到着も、それから間もなくでした。
添付の大使の寫眞はGuanabara湾の奥の宋美齢が逗留したと聞くパケタ島に大使を案内し、レトロ観光馬車上で僕が前の馭者台に移って体を後ろ向きに直して撮りました。Made in occupied Japan の刻印のある Leotax という、普通値段の蛇腹付き写真機で、日本出国前に求めたものです。
この島には鳳凰樹が多く、珍しい事に、花が赤だけでなく、真っ黄色のも2〜3本あるのを十数年前に行って確認しました。 見た樹相は花の赤・黄に全然関係なく、同じでした。(続)

(コメント集)
和田:砂古 さん 連載3回目、楽しく読ませて頂きました。戦後コロニア史の中心地サンパウロに住んだ事がなく、北ゴヤス(現トカンチンス)での牛飼い2年、リオの石川島播磨造船所勤務1年の後はポルトアレグレ総領事館、丸紅ポルトアレグレ出張所とずっとポルトアレグレ住まいですので戦後コロニア史に出て来られる著名の士は、新聞では存じ上げていますが、直接お会いした方は少ないです。
蛇腹のカメラで砂古さん御自身がパケタ島で撮られた初代ブラジル大使の君塚さんの写真は、博物館にでも飾られるべき貴重な写真ですね。これからの続きが楽しみです。
下記BLOGに写真とともに掲載して置きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35519883.html

駒形: 砂古様 白土・リオ氏とか藤平・spl氏とか戦前からの豪傑の名前が出て来て懐かしいですね。
君塚、田村とか往年の名士も登場です。砂古さんは戦前と戦後を繋ぐ50年代を経験された歴史的人物ですね。
戦後の新移民草創期のことを語れる人はもう少なくなっているので、先生もそのころの日系社会・人物についてもう少し語られたら如何でしょう。

丸木で〜す 南米銀行と東山銀行が同じ会社とは知りませんでした。東山の頭取されてた藤井さんの甥が慶應在学中に僕の家内からポルトガル語を習ってました。卒業してから入社された三菱銀行ではブラジルに派遣されずニューヨーク駐在員になり、ゴールドマンサックスにスカウトされ(経緯は繁田一家の残党参照)、超巨大M&Aを手掛けたのでチェースマンハッタン銀行にスカウトされ、日本支店長に赴任後はスイスのワールブルグ系(悪グループ)ジロンリード投資銀行の代表となり、日本では外資系金融界の重鎮になられました。

砂古: 丸木さん 東山(銀行)と南銀は最後まで別銀行です。 50年代は東山南銀と邦字新聞が2行をまとめて呼称したのに、60年代には社会的ステイタス評価が逆転して東山南銀でなく南銀東山と、新聞にかかれるようになった意味です。
「東山、南銀」「南銀、東山」が正しかったのですね。失礼しました。邦字新聞にも「、」があったのでしょう。アタマに残っていた4文字だけを羅列して失礼しました。
ハーバードのビジネススクールを卒業し、世界漫遊奨学金?かを得て、岩崎家の薦めでブラジル東山で3〜4か月過ごし、後に三菱商事社長をやり、経団連入りした、槙原稔の息子もゴールドマンサックスに入社、20数年前に初任給5000ドルと、親父さんから聞きましたが、その後どうしたか聞きません。丸木さんの奥さんの教え子の藤井さんの息子はすごいキャリアーですね。
子供の時ポルトアレッグレへコーラスツアーで和田さんにお世話になった私の次男は、ヒューストンの大学へテニスの誘いで在学中に、ゴールドマンサックスに次ぐスミスバーニーから話があり(柳川高校にテニス留学卒業でしたから)、東京事務所に直接赴任しましたが、後に同業のキャンターフリッツ東京事務所に移り、中国派遣の話のあっ後、仕事を変え、現在はアメリカでグリーンカードを得て地味にやっております。

和田: 砂古さん 随分昔の話が出て来ましたね。御子息がThe Little Singerのメンバとして吉田指揮の下で歌って居られたのは何時頃の話になりますかね。高井先輩が団長で来られたのが最初で2度目の時は高井夫人が引率で確か砂古さんの奥さまもご一緒だったと思います。御子息はその後、高井義昭さんと一緒に我が家に来られインテルの試合が見たいとの事でBEIRA RIOに3人で出掛けダフ屋から高い入場券を購入したらそれが何と当時コレイアと呼ばれていた立見席で雨に濡れながら観戦しました。
当時からサッカーよりテニスで頭角を現しているとの事でしたが、現在はアメリカに住んでおられるのですか。月日の経過を感じます。当時は、ご尊父の砂古さんを存じ上げて居なかったのでコロニアの貴重な存在とは知らずに失礼しました。



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