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≪思いつくままに≫砂古さんの【想い出の記】連載(その3)
砂古さんの≪思いつくままに≫(6)リオ編最終と(7)サンパウロに舞台を移しての第1回に当たり戦後移住が始まり戦前のブラジルに残られた方からジャパンノーボ(日本から来た新来青年がこう呼ばれていた)への移行の時代に青春を謳歌された新来青年の当時の様子を活写しています。少し時代がずれますが、ブラジルに来た頃の1962年頃と重なります。呼び寄せ移民、コチア青年、産業開発隊員、花嫁移住者、土地を購入して遣って来た計画移住者、炭鉱離職者、まだ海外から引き揚げて来た潜在移住希望者がいるころで我々の乗った1962年3月の第12次航あるぜんちな丸が最後の大型移住者運搬で681名の同船者がベレン、サルバドール、リオ、サントスで下船(ブラジルとボリビア組)、最終港ブエノスアイレスでアルゼンチンとパラグアイ組が下船しました。砂古さんの≪思いつくままに≫を参照しながらお話しに付いて行ければと期待しています。
CASA東山で執務中?の若かりし頃の砂古さんの写真をお借りしました。恰好が良いですね。


≪思いつくままに(6)≫  砂古さんの第6回の原稿が届きました。

52年着伯当時のドル相場は公定が確か 17クルゼイロス位で、闇相場は20を少々上回る程度だったと、うろ覚えがあります。其のあとも伯貨は徐々に下落を続けました。ブラジルは大戦中の漁夫の利で得た余裕は早く失い、すでに財政困難の途上にあり、輸入業者は伯銀に申請する許可制度でしたが、それ以外に、伯銀の売り出す外貨にágioを上乗せするオークションで手当する、つまり輸入抑制の間接制限を受け始めました。輸入面では実質的には公定廃止です。                                               

それでも、凍結解除後に再発足して2〜3年程のカーザ東山は、農業用の噴霧器や散噴器等の輸入が次第に増し、人材不足になって、大使の満期を待たないで、砂古を引き取りたいと言う話がサンパウロから起こったのです。当時は日伯両語で事務の出来る20〜30才の2世は皆無でした。日本語が話せる夜間中等学校在学生は結構いましたが。                             53年12月にはサンパウロ行きになりました。 ホテル滞在の長い期間は寝食ともに御の字でしたが、公邸に移ってからも、日本から呼んだコック夫婦の作った昼夜の食事つきは、僕には有難たいものでした。                                                         

無理して給料の一部でも貯め、当時遥か彼方に Recreiode Bandeirantesを望む広大な灌木草原と 湿地&水以外には家一軒見あたらなかった Barra deTijuca に土地少し(lote)でも買っておれば、今はリオ一番の特等地に変貌したので、いい資産になったと思いますが、若い時はそうもいきませんね。  。 

イパネマにはコパカバーナの ポスト 6 辺りから曲がり込んだ初めの辺りだけ少し高層ビルがあって、あとは商店と民家がチョロチョロ、その先のレブロンに至っては大邸宅だけが、それも疎らに存在し、そよ風を受ける椰子とで優美な風景を構成していました。
                       
53年の9月ごろ、大使の家庭でも予定が変わって大使夫人の娘さんを急きょ休学させて、ブラジルに呼び寄せ、私用車を購入、娘さんが運転を始める予定となり、大使夫人はブラジル生活に心強さを感じ始められる段階でもあったと思います。サンパウロの申し出に合わせて私の通訳なしも、又良しと考え直される時期でもあったのでしょう。 ダウンタウンでの郵便局などの雑用は、蜂谷商会の篠又君のアルバイトに委任し、その代わりに毎夕、公邸でコックさんの作る夕食。この条件は篠又君にとっては実に有難かったと、今でも毎月、少なくとも4回会う彼も回顧します。

その娘さんが横浜のフェーリス女学院に復学した時、偶然にも私の家内が一年後輩でした。日比谷公園の前角にあった第一通商(のち三井物産)を辞めて移住したいと言う理想主義の父親の家族問題を抱え、家内はその娘さんにブラジルはどんな処か?と伺いに行ったと言います。 父親の移住希望の動機の一つは、東山の総裁の山本博士の東大農学部時代に顔見知りで後輩だった、戦前の移民で、リオの郊外、車で2時間の高原都市 Nova Friburgoの日本人パイオニアといわれ柿園をやっていた、家内の伯父の春日家の呼び寄せ形式の手段があったからです。其の伯父は柿園を買ったまま、叔母に任せ、戦前の鐘紡アマゾン移民の農業指導に呼ばれ何年か家を空けていた人です。                                                                

1999年に外語同窓会の銀座事務所で50点のブラジル風景水彩個展をした時に我々2人は君塚さんの娘、晴美さんと再会しました。彼女は美人で解放的でポジティブな性格でしたが、オールドミスに見受けました。 バレーで尚活躍中との近況。そう言はれれば、大使の希望で、彼女のサイズのバレーシューズを探し求めて、イタリア製を見つけて郵便局で発送した事を思い出しました。 
 

リオの日本人社会 については、戦前派の白土貫治、蜂谷吾輔、後藤武夫、画廊の長澤栄三郎と丸木さんが世話になった二テロイの眞木さん(戦後渡来)、5名に触れましたが、主なところで紹介漏れは、横浜正金(東京銀行)の唯一残留戦前駐在員の大谷氏と経理担当だったとかの長身のテニスの上手い紳士の渚さんの2人に、ブラジルではおそらく初めての日系大手工務店(二テロイ)の山縣3人兄弟。この3男、富士男さんは戦争を挟んで日本留学で暁星〜慶應に学び、後にサンパウで我が家の近くに居を変え、戦後のコローニヤ・テニスへの貢献者で私の家族もテニスを通じ大変世話になりました。それに山縣グル―プの別部門のカーボフリオの塩田の責任者だったかの福井さんでした。 戦後派では、そのころ篠又君以外に は、戦争前に引 き揚げて、石川島が引き渡したサルテ 号乗船通訳(石川島の責任技師とブラジル乗組員との間の)で来伯して定着した、私の外語先輩、高橋定太郎氏くらいで、他に一時的に訪伯滞在中の多賀、落選代議士。ほぼ以上がリオ・二テロイの日本人社会で知られた人達でした。日本人は55年ごろから少し増え始め、60年頃からうんと増えたのはないでしょうか?

今回でリオ編を終わりますが、君塚さんの大使としての功労は、正金(東京)銀行など凍結資産の解除以外に、アメリカの資金と日本の労働力でブラジルを開発する案を持って、NYに飛び、訪米中の吉田総理と2時間懇談陳情し、それが対米借款による移住振興会社JAMIC設立となって実現した事にあるのは一般には知られていません.                                          

しかも、遺憾なこと14年前に、サンパウロの移民資料館で戦後初代の大使の紹介の寫眞が間違っていたのを発見したのです。 応対者は二世のMuseologista、しかも彼女が其のディスプレイへの資料選択の責任者だったらしいのです。寫眞の内容は、明らかに1930年前半頃のもので、東山農事の本社重役夫妻が中央に座っている訪伯歓迎の記念写真で、君塚夫妻は最前列の両端に座り、若き頃の農場長山本さん(山本博士、初代文協会長)や後藤武夫さんその他スタフが2列目3列目に立つ寫眞でした。予算がないとの理由で、右端の君塚さんに赤丸を書きこんでの一時解決でした。それが数年で薄くなって消えてきた頃、 和田さんが博物館行きと褒めて頂いた寫眞を持ってK委員長 と交渉 しましたが、それは慇懃無礼で一年間私を振り回し未解決で、辞任。

再度申し入れてあった、後任の森口委員長から、寫眞をアクリル板・ディスプレイに貼り付け技術面で解決が付かなかったので別方法ででも遂行仕上げるから安心してくれとの確言を、ついこの土曜日に連絡受け安堵している処です。

1955年3月の中ごろに、君塚大使は予定より早く帰国される事になりました。 吉田内閣の退陣で、吉田、林衆議長への情誼から辞意を表明したものです。私は公邸の後整理のためリオへDC-3で飛び、大使の出発はカーニバルのど真ん中でした。画廊の長澤さんがマドロス仮装でガレオン空港に昼間見送りに来たのが目立ちました。其の夜は蜂谷の篠又君とfooting で誘った若いモッサ3名モッソ1名合計6人で、当時のフラメンゴのクラブハウスのカルナバルで踊りました。伊豆山さんが毎年欠かさないサンボドロモがなかった頃です。 footingとは、フラメンゴやコパカバーナの海岸通り、 Cateteの広場などで、夕刻〜夜にかけて若い人がそぞろ歩きして、話し相手や恋人探しのチャンスを求める、当時の風習で、解放的な雰囲気のサントス海岸通りや、昼間は暑いが夕方気温が気持よく下がる奥地のバウルー のような都市にもあったようです。
公邸のベランダでの、大使夫人と晴美さんの寫眞を添付します。国旗も入れるために、上向きに撮りました。 Pão de Açucarのほんの一部が夫人の腕の右にかすかに覗いています。

(寄稿集)
和田:砂古 さん  思いつくままに(6)有難う御座います。自己紹介とリオ編は今回で終了ですか。この次から舞台をサンパウロに移しCASA TOZANを中心に商活動で活躍される砂古さんの御話を聞かせて貰える事になりますね。大変楽しみです。
当時のリオの日系社会の戦前派のお一人として紹介されておられる横浜正金(東京銀行)の唯一残留戦前駐在員の大谷氏の名前が出ていますが、実は1962年のあるぜんちな丸でサントスに着き2年間ブラジルと近隣諸国をほつっき歩いた私はリオで大谷さんのコパカバーナのマンションの女中部屋に数日御世話になった事があります。確か海外協会連合会(海協連)の現地責任者として移住者のドルを管理しておられ何かと文句を云う移住者もいましたが奥さまお嬢さんとも優しい方で色々御世話を頂きました。懐かしい方々です。
貴重な写真と共に下記BLOGに掲載して置きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35577121.html

井川: 砂古さん、和田さん 文中に懐かしい方のお名前を拝見しました。海協連代表だった(?)大谷さんです。
私も和田さんと同じく、大谷さんのご厚意で、1963−64 リオのFLAMENGO海岸近くのRUA DO CATETE のビルのワンフロアを無料でお借りし、拓大佐藤和男助教授(当時)と二人自炊生活を送りました。大谷さんは学生だった私を方々へ連れまわして、いろいろな偉い人に紹介してくださいました。また、大谷さんのご依頼で、帰国後東京へ留学中の娘さんと赤坂でお会いしたこともあります。
リオは青春の思い出がいっぱいの懐かしい街です。空手の田中、瓜生両先輩にもお世話になり、ボアッテやマンゲの色町へもよく行きましたし、ニテロイにいたヨット仲間のシュミット兄弟の船であちこちへ航海したのも良い思い出です。できればもう一度ゆっくり訪れたいのですが、家族の介護などで、もう十年もごぶさたしています。
ファベイラへも入れるようになって、日本の若者が住みついているそうですね。
伊豆山さんがカルナバルでサンバを踊られるのをぜひ見たいですね。
またいろいろリオの様子を教えてください。

砂古: 井川さん、 僕もリオはすごく懐かしいです。二テロイとフリブルゴに家内の親戚があるのですが、7〜8年前に行ったのが最後です。家内が今年で Nova Friburgo に着いて60年になるので、今年は二テロイとリオも含めて訪問しようかと言っております。
Hotel Novo Mundo は、今は知りませんが、あの頃は入ってすぐにバーがあり、大谷さんと飲んだ記憶があり
ます。気取らないひとでしたね。 あのホテルの横が 地味なSilveira Martins でした。Catete は 始めのほうから S.Martins の角との間は家具屋が多かったです。 Largo de Catete に近くなるほど雰囲気が良くなって、 footing が盛んでした。
瓜生さんはサンパウロで聞いたか会った方ですが、同じ人でしょうか? 帰国された記憶があります。 はっきり覚えていませんが、ブラスコット社?だったかもしれませんが・・・

井川: 砂古さん 瓜生定さんは、リオで(たしかVila Isabelというような場所で空手の道場を持っておられました。
ブラジル空軍の兵士に空手を教えておられ、アマゾン川へパラシュートで降下しておられました。もうお一人の田中康隆さんはかつてのブラジル・チャンピオンで大統領からスポーツ功労者として名誉賞を受けておられます。いまもTIJUCAに道場があるはずです。その他、リオには懐かしい方々が多いので、ぜひまた訪れて、再会を果たしたいと思います。

丸木で〜す  ひょっとして、砂古さんのコックさんは多田さんではなかったでしょうか。ニューヨークの日本クラブで働いてた頃に同じアパートから一緒に通勤してた多田さんが田附大使のコックしてたそうです。去年、フェリス女学院中学に甥の娘が入学しましたが、高校大学まで無試験で進級できるのでしょうか?

砂古:: 丸木さん、コックさんは片平と申しました。
トコロテン進学かどうか存じません。 家内は、アメリカからの有名建築家で近江八幡に住み、新教を普及したボーリスさん直々の3代目の新教クリスちゃんで、高校は、矢張り横浜の別のミッションスクールでした。 戦前、父親が三井で北京に駐在していた5歳の時にピアノを買って貰ったそうです。北京では小澤征爾家族とも付き合いがあって、征爾の兄さんには教会で可愛がられたそうです。
以来馴染んだピアノ科に進みたかったので、フェー リスを受験しました。 そのピアノは、下船のリオの税関に一時預かりのまま行方不明でどうにもなら無かったそうです。
和田さんが大谷さんの家に世話になった頃は、ニテロイからコパカバーナへ移っておられたのですね?
後リオに駐在員が増えた頃、奥さんはピアノの斡旋・売買をされていたと聞きました。大谷さんは関西弁で気楽な方でしたね。 〜するわいなー と聞いた声を思い出します。


≪思いつくままに(7)≫  砂古さんの第7回の原稿が届きました。

サンパウロの大寺院があるセー広場と、裁判所旧館のある広いクローヴィス広場とは、今は繋がって一つの大広場に見えますが、当時は5階くらいの古い建物群で仕切られていました。大寺院の2つの主塔は片方だけが仕上がリ、他方はうんと低く未完成でした。 
東山銀行は其のクローヴィス広場から入るRua SilveiraMartins 64にありました。 今でも、その建物の鉄扉には、本来は三菱のスリーダイアモンドだったと判る、変形加工された模様が残っています。
SilveiraMartinsの斜め裏通りはRua Tabatingueraで、沖中書店(10数年後に閉店)など日本人の商店のほかに移民呼び寄せ専門の長谷川法律事務所も存在しました。日本人街がガルボンに移り始める頃の日本人界隈の一端です。            
法律事務所の長谷川さんは外語の明治45年スペイン語卒で、戦前は外務省との半官半民の移民会社、海外興業の外交部長としてリオに駐在し、日本移民排斥問題でブラジル議会筋に対しての裏工作に努力をされましたが、アメリカの強い策動もあって結果を出せず、爾来、日本人移民は禁止になりました。しかし、戦後の一時呼び寄せ滞在者に法的に永住権を獲得させる方法に成功した功労者です。          
亡くなった、アマゾンの生薬と文筆で有名だった中隅さんがサンパウロ新聞に数回にわたって、詳しくその功績を讃え、社会評価が低すぎたと, 毎回1/4ページを割いて論じられました。 私もパスポートからの永住に切り替えは勿論、同窓会や御自宅の食事に呼ばれたり、後述の同級生太田君と2人で押し掛け食事も頂いたり、お世話になりました。                                            計画移民枠外で、戦後の一時滞在ヴィザーしか得られなっかた渡伯者は、永住資格移民に切り替えに、直接間接、長谷川さんの世話になっているはずです。 サンパウロ郊外のイタケーラの篤農家が青年を一時滞在で呼び寄せ、青年の持つ農業技術が今後とも必要だとする請願書を持って、1947年以後何回もリオを往復し前例を作ったのが始まりだそうです。
脱線しましたね、閑話休題。 銀行と言っても、 Banco に昇格するのに、それから1年程を要したCasa Bancária でした。 かって東山全体のグループ総称にも転用され、表玄関名称でもあったCasaTozan は小さくく再発足し、本末転倒して商事部とも別称され、その銀行の一番奥の方に経理もあわせてテーブル10足らずでした。   私の営業部では、上司3名は戦前のベテランでした。新来では入社早々の金谷君がいて、のち、彼はコロニア野球でも有名になりました。ずっと後にリオに移り石川島に入り、独立して何かやっている噂でしたが、早死の風の便りがありました。 同じく、話すのは日本語も上手い、2世の吉井ツヨシ?君がいました。やはり後リオに移り丸紅に入り、夜の大学や英語もマスターしたのでしょう、20年程前に伯 国丸紅副社長の名詞を貰いま したが、和田さんと駒形さん、ご存じないですか?  この吉井君も亡くなったようです。
営業は日本からの直輸入と国内で仕入れた在庫商品の販売以外に、三菱商事を通じてオファーしてくる 鬼針金、ブリキ板,伸線用の銅の棒塊(wire rod)や、東山企業からの住友化学や他社の染料などの売り込みと珈琲の輸出で、私は後者の輸出入の担当でした。 日本との取引はすべて、Italcableか Westernか Radiobras の電報経由です。電報が毎朝入電。出来れば商談の進展状況か結果をその日の夕方に返信します。 市外電話は何時繋がるか判りません。珈琲の電報が入ると、クロービス広場にある Lotação と呼称する4・5人乗りの乗合車を捕まえサントスに下り商談し、午後帰社と言った具合です。 納入先は商事経由の明治屋とかでしたが、一回の船積量が100俵前後から200俵まで。当時の日本の消費量は少なかったです。
事務所では、輸出入以外の電話でも、私も出るので、勉強させられました。全然見当のつかない未知の商品の問い合わせ電話には困りました。
当時ジャポンノーヴォと呼ばれ始めた新来が、電話で大きな地声で変な発音のポ語を変にしゃべるので、大勢の若い銀行員(夜学生が大半)は始めは驚いたような顔つきでした。  戦後早々の外語では外人教師はポルトガル人だけでしたし、リオの発音もサンパウロとは又違い、リオでは mesmaを メジマ サンパウロでは メズマ  と言った調子です。
商事部門以外に、別に3人新来がいました。私がリオにいる間に着伯した、いずれも父親が戦前からのブラジル関係者なので呼び寄せ方式で、政府計画移民の始まる前に来れたのです。新来は原則として慣れるまで、幼年学校と称する、同じビルの一階にある、酒の東麒麟の事務所で、ポルトガル語で記入整理する伝票を通じ見習い修業をしますが、來伯順で、すでに見習いを終えた三矢君は銀行に配属され、後に退職するまで長くリオ支店長をやり、リオのまま役員にもなりました。
後の二人の見習終了者も銀行に下りてきました。 その一人は父親が海外興業の戦前派遣社員だったので、生まれはブラジルだが青山学院卒の中野君で、東山銀行が吸収されて三菱銀行時代に役員になり退職。  あとの一人、永田君は、移民送り出しで有名な力行会の会長の永田凋さんの息子、おなじく青山学院卒の陸郎君です。 進出の日特NGK自動車プラグの販売をカーザ東山が担当し、当初は東山銀行も少し出資した関係か、永田君は50年代末にNGKに出向し、結局最後まで留まり、NGKの専務で退職しましたが、 早死にしました。 強い酒が好きでした。飲む折に殆ど食べない人は食べる人に較べ短命の感じですね。 私は両方とも過ぎます。私たち50年の和田さんは美食過ぎに見受けします。でも 、あれだけ 歩かれ るので すから、オーヴァーカロリーは吹っ飛びそうなものですがネー。
私のサンパウロ転勤少し前に、ガルボン街100番(=100メートル)辺りに、最初の日本映画館 CINE NITEROI が出来上がり、今の東洋街、かっての日本人街形成の基になりました。 地階が映画館、1・2・3・4階がホテルで5階がレストラン。  このレストランでは、時折一部を仕切って新聞社主催の俳句の会とか、ブラジル社会にも有名だった日系の画壇、聖美会主催の展覧会もあり50年代終わり頃、小生の水彩一点が初めて入選しました。
同じく50年代の終わりから60年代の話に飛びますが、レストランでTさんと言う、体躯堂々、色白で、気品のある紳士を見かけました。奥さんはガルボン街で後に美容院を娘さんたちと始められました。どの娘さんの名前も月姫とか○姫でした。一人すごく積極的な ○姫さんが、勝海舟の系図をもって総領事館を訪問し、58年ブラジル訪問の三笠宮妃殿下だったか67年の美智子妃殿下かの整髪を承りたいと申しいでた記事を読んだ記憶があります。パライーゾ区の赤坂のマダムや駐在員のトップ達の夫人が利用してた美容院だと、家内が申しますので、皇族の御用もたす事になったかと想像します。
この CINE NITEROI は鳥居のある赤い橋が始まる辺りでしたから、後にあの下の高速道路建設のためガルボンを寸断し掘り下げのため 、取り壊しになり、移転先が近いようで場外れの Av.Liberdadeの角でしたし、他にも映画館が出来て閉館しました。
ガルボン街は100番あたりまでに小さい商店が数軒あるか無いかで、大半はは民家のたたずまい でした。その一軒が看板なしの岡田食堂なるペンソンで、母屋と奥の車庫の階上は下宿人が住んでいました。 下宿の二世たち、外来の南米銀行、東山、サンパウロ新聞及びパウリスタ新聞の新来社員が、特に昼には大半が同じ時間に集まるので、楽しい時間でした。当時は休憩時間は1時間半が普通で、前庭のベンチに食後座り、車量も歩行者も数少なかったガルボンの通りを向いて、美人の娘さんが通ると、目を瞠り、話題に事欠きませんでした。
東山のデスクでの砂古と CINE NITEROI の寫眞を添付します。

(寄稿集)
和田: 砂古さん 後先になってしまいましたが、『思いつくままに』7を下記BLOGに写真と共に掲載しました。
砂古さんの若い頃のカーザ東山勤務中の写真恰好良いですね。サラリーマンで若い頃のこんなに恰好の良い写真を撮り残しているのは砂古さん位でしょう。ミスタ―新来青年、ジャパンノーボの写真として博物館入りさせたい写真です。まだまだお倉には珍しいお宝的な写真が残っているのでしょうね。大変楽しみにしています。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35629878.html

池田: 砂古さん 日系商社などの事知らず過ごしている私には皆さんの苦労と楽しみの中私たち新人の基盤ずくりされたことしみじみ感じております。
今はブラジル市民の中で日本人として胸を張って生きられるのは皆さんのお陰なんですね。有難いことです。

丸木で〜す  ニテロイホテルはこんなに大きかったのですか、同船者の韓国人が滞在してたので入ったことがありますが、小さなホテルだった覚えがあります。半世紀近くも前の記憶はええ加減なもんですね。

和田: 舞台がサンパウロに移り砂古さんの青春群像、思いつくままに面白く成って来ましたね。初めの方に出てくる吉井ツヨシさんは、丸紅ブラジル会社の現地採用組では一番の出世頭でした。初代サルバドールの出張所長として敏腕を奮い合金鉄の原料の輸出、合金鉄工場への合弁参加等の仕事を手掛けておられサンパウロに戻ってからは機械部門、新しいプロジェクトの開発等を担当されて副社長をしておられました。
駒形さんも退職前は、副社長をしておられたのではないかと思います。私は、ポルトアレグレ出張所長を17年間遣らせて貰い最後の数年は現地役員の一員に入っていましたが、小さい出張所とは云え当時112の海外店を持っていた丸紅の海外店の一つで主管者社宅には、女中と運転手が付いていました。都合21年間丸紅ブラジル会社にお世話になり間口が広く奥行きの深い商社の仕事を存分に遣らせて貰いました。もう20年も前の話です。



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