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【早大海外移住研究会創立60周年記念誌】ALVORADAへの投稿原稿。
早稲田在学中は、政治学会、雄弁会、ESS、神戸高校稲門会等のサークル活動と早慶戦、デモと色々な多感な学生生活を楽しみましたが、2年の秋に入部した海外移住研究は、その後の私の人生の選択としてのブラジル移住へと繋がり今も多くの仲間との交流の続く貴重な存在であり今回60周年記念誌発行に当たり【移住研と私と谷広海】との題で纏めて見ました。折角なのでホームページにも残して置くことにしました。写真は、広海君の長男息子彬君が最近三度目のポルトアレグレ訪問時に携帯電話にあったお父さんとの記念写真を提供して呉れたものです。近々【谷広海伝】を作家、大浦 玄さんが執筆されるとの事で参考になればとの意向もあります。


【移住研と私と谷広海】

はじめに 
1940年1月1日に宮崎で生まれた谷広海君と1日遅れの1月2日に神戸で生まれた私は、1958年4月に東京の戸塚若山町の下宿で彼と知り合い2013年10月2日に交通事故で不慮の死を遂げた谷君の惜しまれる早逝まで付きつ離れつの55年の人生を共にブラジルで歩んで来た。いずれブラジルの土となりあの世で『またお前も来たか?!』と肩を叩きあって語れる日が来るとのではないかと楽しみにしている。
今年の3月に移住研記念誌発行の通知を受けて置きながらすっかり忘れていたが菅間会長からの連絡を受け締め切りの8月末を控えて最終週に書き始めている。題を【移住研と私と谷広海】と決めて書き出すことにする。

移住研との巡り合い 
谷君とは、1958年4月、早稲田を目指し宮崎と神戸から大きな夢?を抱き上京して来た時に戸塚の若山町の下宿で巡り合う。1年間早稲田ゼミナールと云う予備校で机を並べ早稲田をめざす。苦学❔の甲斐があり翌1959年4月に早稲田大学第1政経学部政治学科と自治行政学科に入学し早慶戦、安保デモの洗礼を受け早稲田マンに育って行く。1960年安保で政治への情熱を喪失し目を海外に向ける。1960年の秋の早稲田祭で海外移住研究会の存在をしり谷君と直ぐ入会する。

九州7県の移住思想啓蒙遊説実施 
1961年2月ー3月に九州出身の谷君を中心にやはり早稲田ゼミナールから共に生活していた坂本翼君(佐賀高校出身―政経経済)と黒木麓(宮崎大宮高校―教育学部)、田辺重徳(神戸高校―法学部)の九州と神戸出身の5人で九州7県21日間の【移住思想啓蒙遊説】を企て各県3日ずつ県の外事課、海協連を通じて農業高校、工業高校、水産高校等にブラジルを中心とした移住思想啓蒙の演説を5人の弁士で熱く語って回る。講堂の地べたに座り目を輝やかせて話を聞いている坊主頭の高校生を見ていて若者に移住を進めるだけでなしに自ら移住して行くべきだとの罪滅ぼしの気持ちでブラジル移住を目指す。

ブラジル移住への道 
在学中にブラジル移住を実現すべく谷君は学生移住連盟の実習生を目指し連盟に顔を出し頭角を現し始める。私は、東京都の農業移住者を目指し保谷の酪農農家、桜井農場に住み込みで入り牛乳絞りを早朝から実施、住み込みの若夫婦の休暇中は、現学移連のOB会会長の松田潤治郎さんに拓大寮から住み込みで手伝いに来て貰い10日間程二人で牛の乳絞りを担当した思い出がある。御蔭で保谷の村役場から農業従事証明書を発行して貰い東京都の農業移住者として10万2千円の渡航費の貸し付けを受け山本勝造さんのカッポンボニートの農場で働く呼び寄せ移民として1962年3月末横浜出港のあるぜんちな丸第12次航の681名の同船者(谷家の家族8人も一緒)と共にブラジルに移住する。

2年間の南米7ヵ国の放浪と帰国、早稲田卒業 
手元に残っている主意書によると2年間の南米視察の旅と明記されており東京都の農業移住者としてブラジルに渡ったが鍬を持ったのは、谷一家が入植したサンパウロの近郊のジャカレー移住地滞在中位で後は、同船者が入植した北からロンドニア州のエフゼニオサーレス移住地、トメアス移住地、マラニオン州のロザリオ移住地、レシフェ―近郊のボニト移住地、バイヤ州のウナ移住地、サルバドールのJK移住地、リオ近郊のフンシャル移住地、サンパウロのグアタパラ移住地、アルゼンチンのグララッペスの移住地、パラグアイのピラポ移住地、ボリビアのサンファン移住地等を中心に訪ねて歩いた。62年11月にアルゼンチンのグアララぺスの移住地訪問途中雨が降ってバスが動かなくなり27qの道を移住地まで歩いている時にケネデイ暗殺のニュースを聞く。渡航費の貸し付けを返す意思があるとの意思表示として一部をサンパウロ総領事館を通じて返金して無事帰国。1964年に早稲田に復学する。休学から中退手続きしてそのままブラジルに住み着いても良かったのですが、一応のケジメとして親との約束でもありオリンピック開催に沸く東京に戻る。

大学卒業とテレビ結婚、再渡航
帰国第1声が『ブラジルに戻るための準備に帰って来ました』と神戸の移民船のタラップで叫んだために親から勘当を受け生活費を送って貰えなくなり大山の毎日新聞の配達所に住み込み家賃なしで食事に有り付けて朝刊配達と新規購読者開拓の仕事をやらせて貰いながら自活?何とか卒業が出来ました。春の早慶戦を谷君と満員の外野席に入り込み谷が『私は。後1週間でブラジルに移住する最後の早慶戦です。日本の良き思いでに皆さんと一緒に早稲田の勝利を祝いたいと思います。何とか我々2人の席を都合して下さい』との呼びかけに席を空けて呉れた文学部の女子学生の中に石塚のぞみさんがいました。試合の結果は覚えても居ませんが、その後のぞみさんと交際を始め『貴女の一生を私とブラジルの大地に掛けて下さい』と家出までさせて文学部のドイツ文学科を3年で中退させ4月の徳川無声、中村メイ子媒酌のテレビ結婚式を挙げて居所の有るブラジルにテゲルベルグ号でブラジルに戻る。確か田中秀幸君が横浜で送って呉れてサントスで出迎えてくれたのも懐かし思い出です。

トカンチーンス州での牛飼いと挫折、リオのイシブラス勤務とその後
ブラジルに於ける高度の土地利用には牛飼い以外にないとの意気込みで北ゴヤスのグルピーの町に入り50ヘクタールの農地を購入し牛飼いを始める。慣れない農作業に健康を害し『街に出てペンを握れば食って行ける』とのインテリの弱さに負けて2年で牛飼いを断念、ブラジルで通用する資格を取ってまた戻って来ると自分を納得させて1967年にリオに出てイシブラスの造船所勤務1年、休暇中にサンパウロ総領事館におけるポルトアレグレ総領事館勤務の政治、経済、移住担当現地補助員の選抜試験を受け日本の大学卒業資格保持者7名の候補者より選ばれて1968年9月よりポルトアレグレ総領事館勤務を始める。リオ出始めた大学受験予備校の勉強をポルトアレグレ移動後も続け高校卒業資格試験に合格、翌年大学受験するも不合格。1年間予備校に通う。1970年無事カトリック大学法学部に入学5年後に法学部卒業。RS州の弁護士協会に8088番で弁護士として登録する。1974年1月に開設された丸紅ブラジル会社ポルトアレグレ出張所に現地職員として入社。1995年まで21年間お世話になる。その間、丸紅ポルトアレグレ出張所長、現地役員を務め1995年10月にさわやか商会を
設立、今年の9月末で創立20周年を迎える。
1976年西村恵子と再婚、弥生(77年3月)、茜(80年2月)小百合(81年10月)の3女に恵まれる。

ブラジルに於ける谷 広海君略歴と遺構紹介
1973年 アラゴヤス州連邦大学法学部卒業。同州弁護士協会登録番号。
1975年 涼子さんと結婚。3男1女を授かる
2005年 ブラジル日本文化協会会長職に立候補。一次選挙で71票差で敗れ決戦投票を断念。
2013年10月2日 サンパウロ市ブリガデイロ ルイス アントニオ街でバスに弾かれて死亡。享年73歳
2014年7月 マセオ市に置いて納骨式が行われ出かける。
谷君の書いた文章は幾らも残されていると思うが『私たちの40年!!』に投稿して呉れた『モグリ同船者??!!』が格好の谷君を偲ばせる書き物と思うので出来れば彼の遺稿として収録して貰えると喜ぶと思う。書きたいことは色々あるが字数の制限もありこれで終わらせて頂く。

モグリ同船者??!!  谷 広海さんの投稿。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=24

戦いすんで日が暮れて・・・…(顛末記5)
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=802



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