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≪ブラジル留学を終えて≫ 高田 瑠実
私が卒業したRS州カトリック大学は、上智大学と交換留学生制度を締結しており毎年上智大学から交換留学生がポルトアガル語習得、ブラジル生活を目指してポルトアレグレに遣って来ているようです。もう2年前になる2014年度にサンパウロの上智大学先輩のブンバの細川多美子さんの紹介で1年間のポルトアレグレ滞在中に付かず離れずその成長振りを見守らせて貰った高田 瑠美さんから交換留学生として過ごしたポルトアレグレの1年間を振り返ってその体験記を送って頂いていました。直ぐにホームページにと思いながら1年が過ぎてしまいましたが、貴重な体験記ですので残して置くことにしました。
写真は、瑠美さんがポルトアレグレ滞在中の誕生日にホームステイ先の家族と海浜に出掛けた時に撮ったビーチサンダルを手にしている写真をFACEBOOKからお借りしました。


1 はじめに
私は2014年2月から約1年間、ブラジルのリオグランデ・ド・スル州のカトリック大学に交換留学しました。上智大学外国語学部ポルトガル語学科に在籍しており、二年間学習したポルトガル語を伸ばし、新たなことに挑戦するという意味で留学を決意しました。
当初、ブラジルについて治安が悪くまだまだ未開の地という偏見があり、様々な方にブラジルの状況をお聞きしたり、ご尽力いただきました。ホームステイ先もなかなか見つからず苦労していたところ、JTBの市川様からブラジル在住の上智大学OBの細川様をご紹介戴き、細川様からポルトアレグレにお住まいの和田様をご紹介戴き、和田様にはホームステイ先探しのお世話をして戴きました。また、現地のブラジル人の方々も、初め大学での履修の仕方が良くわからなかったとき、バスの乗り換えや道に迷った際に親切に手助けをしてくれました。大きな怪我や事故に遭うことなく帰国できましたこと、皆様に大変感謝申し上げます。

2 リオのカーニバル
 ブラジルに到着して間もなくの頃、リオ・デ・ジャネイロのカーニバルに行ってきました。カーニバルは日本にいる時からテレビや雑誌で何度も目にしたことがあり、私の中でのブラジルの象徴そのものだったので、細川様からカーニバルへの参加を勧められたとき、直ぐに参加を決めました。町中がカーニバルの熱気に包まれ、朝から晩まで人々が酒を片手に街中でお祭り騒ぎをしていて、ブラジルの陽気さを感じました。リオの人々は、一年に一度きり数日間のカーニバルに多くの時間をかけて準備をしていて、どの団体の山車も豪華で出演者の踊りは情熱的でした。実際にマンゲイラの衣装を着て会場を踊りきった時、汗だくで足はパンパンになっていましたが、大勢の人に見られているという興奮とカーニバルを見るだけではなく、作り上げることができた喜びで満たされました。
ところで、カーニバル期間中のリオは観光客目当てにすべての料金が通常の何倍も値上げされ、すりや強盗といった犯罪も多発しています。ブラジル滞在中、私はできるだけ小さなカバンを使用し、お金はセーフティポケットという腰巻のようなものに入れて細心の注意を払っていました。アイフォンはブラジルでは高価なため、日本のように歩きながら操作しないで、簡易携帯を現地で購入し、写真を撮るなど必要な時だけ使用していました。ブラジルは治安が良くないことは事実ですが、犯罪被害に遭うかどうかは個人の心がけが重要で、様々な危険な場合を想定しておくことも大切だと思いました。

3 カトリック大学
留学中、大学の授業におけるブラジル人とのグループワークやホームステイを通し、ポルトガル語を短期間で習得することができました。今では、現地のブラジル人と不自由なく意思疎通ができますが、ブラジルに到着した二月から四月あたりまで、ブラジル人の学生とうける授業についていくことが全くできませんでした。
分からない単語を必死にノートに書き出し、友達や家族と話をするにも会話を想定し、文を組み立ててから切り出していました。前期の授業中、グループワークにおいてクラスメイトとの議論を円滑に行うことができず、歯がゆい思いをいたり、プレゼンテーションの割り振られて書き上げた文章がなぜか発表時に百八十度変更されていたりもしました。しかし、めげることなく勉強を続けていった結果、次第に議論の中心にいるようになり、すべての科目をパスすることができました。
日本では主にポルトガル語の文法やブラジル・ポルトガルの社会・政治といった座学の授業を受講していましたが、ブラジルでは様々な学科の科目を取得できることから、映画製作・テレビ番組制作など実践的な授業にもチャレンジしました。映画のセリフやテレビ用語など様々なポルトガル語に触れることができ、貴重な体験でした。

4 日本人祭り
和田様にポルトアレグレの日本人会に招待していただいたことで、日系ブラジル人の友達ができ、彼らと日本祭りの企画、運営に参加致しました。
サンパウロから太鼓のグループを招待し、祭り中雀踊りを披露しました。何か月にも渡り、練習や振付に関し議論を重ね濃密な時間を共に過ごしました。お別れ会では友達の一人がお寿司をにぎってみんなにふるまってくれたり、帰国前夜もバーで明け方近くまでビールを飲みました。
今ブラジルでは、日本の食べ物・寿司や焼きそば、アニメといったサブカルチャーが大ブームになっています。祭りを通して、ブラジル流に日本文化がアレンジされていることも分かりました。寿司にはフルーツやクリームチーズ入りのみならず、揚げたものもあり、最初に食べたときはなんとも奇妙な感じがしましたが、だんだん慣れてしまいました。しかし、今まで箸の持ち方も知らなかったブラジル人の友達やホームステイ先の家族が、日本に興味をもち、寿司を食べようと誘ってくれるようになった時の嬉しさはまだ忘れられません。ホストシスターの彼氏は今まで寿司を食べたこともなかったのに、週に三度は食べるようになりました。

5 カルチャーショックについて
ブラジルに行ったばかりのころは、日本との生活習慣、価値観、社会システムの違いに戸惑うこともありました。
例えば、ブラジルの大部分のトイレは水洗ではなく、汚れた紙を別の箱に捨てなければなりません。水洗式の全自動快適なトイレに慣れた日本人にとっては、衝撃的な事実でした。習慣にしてしまえば不便はありませんでしたが、サンパウロやリオの空港のトイレは多くの外国人が訪れることもあり、改善すべきだと考えます。
また、交通手段に関して、ブラジルの主要な公共交通機関はバスか自家用車です。メトロがあるのはサンパウロのみで、雨の日や時間帯による遅延・ストライキは頻繁に発生していました。ポルトアレグレにはバスの時刻表がないため、バスが見えたら全速力で走ったり、大学の前でバスを約一時間ほど待ちました。
時間に無頓着な点は、友達との約束にも表れます。日本人は待ち合わせ時間もしくは少し早めに到着しますが、ブラジル人の友達はいつも10から30分程度遅刻していました。一時間以上おくれない限りたいていの人は遅刻に寛容であり、ブラジル人の国民性が感じられました。そのため、数か月してからはブラジル人の友達との待ち合わせにあえて5分ほど遅れて到着するようにしていました。このようなゆったりとした生活リズムに慣れていたことで、帰国当初、日本の公共交通機関の正確さ、待ち合わせ時間の厳守という常識を少し堅苦しく、余裕をもった生き方をなつかしく思いました。しかし、このような日本人気質のおかげで日本社会、経済はめまぐるしい発展を遂げたのであり、むしろ日本が世界に誇れる美点なのだと考えます。
前述では比較的ブラジルの負の側面を述べましたが、我々日本人が見習うべき習慣もたくさんあると気づきました。ブラジル人は家族や親戚をとても大切にし、記念日だけでなく定期的に集まって交流を行っています。私のホストファミリーは毎月誰かの家で食事会をおこなっており、家族の恋人や友達も招待します。彼らは親戚間で誰が何をしているなどといった細かい情報なども共有しており、自分のことのように喜び悩み、悲しみます。今や日本では親戚一同が会する機会は盆もしくは正月と限られており、私も従弟とはここ二年程全く連絡を取っておりません。母の日や誕生日といった記念日は、花やプレゼントを買ってただ渡すだけでなく、サプライズの演出を加えたり、ハグやキスをいつも以上に行うなど感情を素直に表現していました。私たちも恥ずかしがることなく、大切な人には自分の気持ちを正直に伝えることが大切だと考えさせられました。
ブラジルの衣食住に関する文化においてどちらが優れていると考えるのではなく、お互い認め合い良い部分を補い合えたら良いのではないかと考えます。とりわけ、食において、ガウーショのホストファミリーがつくってくれたシュハスコの美味しさを家族や友人に紹介できたらと思い、帰国後ブラジルレストランでバイトを始めました。

6 留学生同士の交流 
留学先大学で出会った世界各国からの留学生と交流を深め、共に近隣諸国を巡り、その地の文化や自然を体験しました。
必修である外国人のためのポルトガル語の授業や大学の留学生支援機関の主催するアクティビティを通し、仲を深めることができました。
毎週末集まり、お互いの国の料理や音楽を紹介し合ったり、生活習慣について語り合いました。メキシコ人の友達が、メキシコの独立記念日にお祝いとしてメキシコ料理をふるまってくれたのですが、本場の唐辛子を使用して作ったことで、留学生の大半は辛すぎて水をがぶ飲みしていました。
旅行する際は、留学生仲間の国により文化、経済的な考え方の違いにより、意見の食い違いもありましたが、話し合いを重ね妥協案を見出しました。日本人とではなくドイツ人、フランス人と一緒に旅行することで、また楽しみ方を体験できた気がします。サンタカタリーナ州の有名なビーチに遊びに行ったとき、朝7時に起こされ夕方までビーチを転々とし、夜はみんなで自炊した後、朝の4時までフェスタに行くというとてもアクティブな生活をしていました。日本に帰国した現在でも、留学中に親交を深めたホームステイ家族や友人とフエイスブックの電話やスカイプで連絡を取り合っています。
日本にいる時に、外国人との関わりを自分から積極的にもとうとしなかったことを後悔し、四月から上智大学の交換留学生のサポートを行っています。

7 ホームステイを通した自立心
留学中言語だけでなく、自分で積極的に社会に関わり、生活していく力も身に着けることができたと考えています。
日本にいる時の私は実家に住んでいることもあり、自分を厳しく律したり、家事を進んで行うことがあまりできていませんでした。しかし、ホームステイでブラジル人の家族と生活を共にすることで、自分が家族に一員として何ができるかを考えるようになりました。彼らは私のポルトガル語の間違いを訂正するだけでなく、日頃の悩み相談にも乗ってくれました。他人との共同生活は楽しいことばかりではありませんが、人間的に成長するきっかけになったと思います。洗濯物の時間や食事についてなど細かい規定が家族ごとにあり、家族特有のルールに慣れることに苦労しました。家族の仕事やプラーベートで問題が発生したときは、日本人の得意な家族間の空気を読んで行動するようにしていました。今まで実の家族と暮らしていた分、相手の気持ちになって物事を考えるということの難しさを感じました。
訳あって約十か月足らずの留学生活中に二回もホストファミリーを変えることになりましたが、どの家族とも縁あって知り合い、それぞれかけがえのない時間と思い出を私に与えてくれました。最初のホストシスターとは何度か喧嘩をし、口を利かない期間もあったものの最終的に一緒にブエノスアイレスに旅行や日本食レストランなどたくさんの場所に出かけました。英語が堪能でアクティブな彼女との旅行は刺激的で、ポルトガル語もみっちり鍛えられました。次のホストシスターとは、買い物をしたり、友達のパーティに出かけたり、女子会トークで盛り上がりました。最後のホストマザーは、料理が得意でケーキやブラジル料理を丁寧に教えてくれました。ホームステイをすることでの利点は、他の留学生よりも飛躍的な言語習得と、ブラジル人の生活様式に対する理解がはやく行えたという事でした。家族と普通に会話をしたい、仲良くでかけたいという思いと日常生活から生きたポルトガル語のシャワーをあびることがポルトガル語の上達に大きく起因していると思います。

7 新たな挑戦
課外活動で力を入れた旅行の中では、ボリビアのウユニ塩湖に行ったことが、一番の思い出です。テレビや旅雑誌で何度も特集が組まれている理由が分かりました。あたり一面透明な塩の湖が広がり、青い空との色のコントラスとが美しく、作られたのではない手つかずの自然を体全体で感じることができました。この旅行は、既存のツアーに申し込んだのではなく、ブラジル人の友達とホステル探しから、ウユニ塩湖に行くガイドさんの手配など全て自分たちで行いました。ボリビアは標高が高く、高山病の薬を事前に飲んだにもかかわらず友達が坂の多い整備されていない町に疲れ寝込むハプニングに見舞われました。留学する前は、海外旅行はツアーでないと不安と思っていたのが遠い昔に感じられるほど、大きなリュックを背負って、同じホステルに泊まった外国人や町の人との関わりを大切にするスタイルが気に入りました。その時に長期間ポルトガル語のみを話していたこともあり、欧米のバックパッカーの人と英語で円滑なコミュニケーションがとれず、何が言いたいのかわからないという顔をされた時に歯がゆい思いを感じました。英語は全世界共通言語であり、使いこなすことができれば世界中を相手に仕事ができるだけでなく、様々な国の人との会話や文献から見識を深めることができると考え、英語圏に半年留学する事を決意しました。
この留学生活は私のこれまでの人生の中で一番濃い時間でした。留学中限られた時間の中で精いっぱい様々なことを吸収するため、精力的に外出し、交友関係を広め深めることができました。今まで受け身だった自分を捨てて、積極的にイベントに参加したり、友達を誘ったりと一日に予定を二・三個詰め込んでいました。様々なことに触れ、考え、悩み、自分がいかに狭い世界で生活していたかが分かりました。
卒業後はブラジルと日本の懸け橋になるような仕事をしたいと考えております。
家族、和田様、友達はじめ、私を支えてくださったすべての方に改めて御礼申し上げます。



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