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アメリカン青春グラフィティ No.28 「バス停での出来事 」
お馴染みのアメリカン青春グラフィティNo.28が届きました。ホームページに2回に分け残して置きたいと思います。53年も前の元旦の出来事を良くも克明に覚えているものだと感心します。
 『川越 しゅくこ 2016年10月1日 初めてのバス一人旅行。サンフランシスコからロスアンゼルスへ下るバスに乗った。2時間後、途中下車したそのバス停で、私は迎えの西本さんと会う約束をしていた。そのバスがグレイハウンドであったのか、バス停がどんな名前であったのか思い出せない。私の記憶作業は「あの出来事」だけに焦点を当てたあまり、周りのことを喪失してしまった。』


1)元旦のターミナル
1963年の元旦。日系2世の西川さんから日本らしいお正月を過ごしましょう、と招待されていた。
「バスの一人旅は不安でしょう?」と問われれば、答えはまったく逆であった。なぜなら当時の日本はすでに安全で便利なバスや電車が発達していて、日本人の足はそんな生活にすっかりなじんでいたからだ。ホストファミリーは申し分なく私を大切にしてくれてはいたが、外出のたびに車の便乗を頼まねばならない窮屈から少しは解放されたかった。いや、もしかして私のことだから一番の関心事は豪華なおせち料理だったかもしない。温暖なカリフォルニアとはいえ、めずらしく5度位まで冷え込んだまだ薄暗い朝だった。風がないのがありがたい。私は薄いセーターに軽いダウンジャケットをはおり、鳥かごから飛びたつ想いで出発した。

朝7時のサンフランシスコ・バスターミナルにきて、そんなのんきな気分はすべて吹っ飛んだ。それは見たこともないすさんだ地獄の風景だった。ボロボロの毛布にくるまった黒人たち。ある者は壁にもたれ、ある者はしゃがみこみ、無言のまま吹き溜まりのゴミと化していた。ときおり吹く冷たい風に空き缶がころがり、破れた新聞紙が舞った。あたりまえのように、いつでもどこでも耳に入る音楽や人々の声、それらがまだ薄暗い都会の中から消えていた。彼らの前を私のヒールの音だけがコツコツと響く。白い眼玉たちがごみ溜めに残った唯一の生き物のように私を追っている。
改めてバスターミナルを見回すと、倉庫のような箱が並び、その壁にはペンキのはげた1〜15番までの番号を行き先別に打ってある。No.15を自分の切符と照らし合わせて20人ほどの列の後ろに並んだ。
最後列は背の高い青年だった。体になじんだ渋茶の皮ジャンパーにジーンズ。イヤホーンの音楽にあわせて脚でリズムをとっている。とくに目をひいたのは、肩から腰まで届く長い黒いバッグだった。青年の分厚い縮れ髪の頭がまわって目があった。笑顔のしみ込んだ褐色に光る顔に厚い唇の口角が陽気な感じに上がった。「ハイ」彼はイヤホーンをはずした。長い濃い睫毛に囲われた瞳が笑っている。私の頬もつられて自然に緩んだ。私たちは他のくたびれた乗客たちとはまったく異なる若者どうしの匂いを互いに近しくかぎとっていた。
「ぼく、ニーリーです」。差し出された手を握り返し、私は「シュクコです」、と名乗った。「?ス、グ? ケ??」。わたしの名前を一度で覚えたアメリカ人は一人もいない。「ほ〜。君にぴったり。いい響きだね」「アリガト〜。よくバスを使うの?」「いや、初めてだよ」青年は話のきっかけを待っていたかのように、昨夜はサンフランシスコのホテルで大学連合の主催する新年音楽祭があってトロンボーンを吹きにいってきたと言った。「バッグの中身はトロンボーンだったのね」「そう。音楽祭が終わって友人と今朝まで飲み明かすつもりだったから今回の遠出はバスにしたんだ。でもいつもは車しか乗らない。今日も帰宅してから服を着替えてまた車で出かけるんだ」「日曜日でしょ、忙しいのね」もしかして、学費を稼ぐために日曜日もどこかで働いている貧乏学生かもしれない。それ以上個人的な事を聞くのを遠慮した。「そう、夜もまたコンサートがあるからね。で、君は一人旅?」「ええ」私は両親の旧友に会いに行くところだと答えた「気をつけたほうがいいよ」と、浮浪者の群れを横目でちらっと見た。「その人、迎えにきてくれるから大丈夫。日系二世の人たちがたくさん集まって、おせち料理をいただくのよ(Japanese specil dishes for New Year)それで今晩は泊めてもらって明日帰るの」。
まもなく車庫の扉が開き、列が動き始めた。お先にどうぞと譲られる。車内は暖房が効き、石鹸の匂いがした。プロレスラーのような黒人運転手が濃いひげ面を向けた。私は下車するバス停の名を書いた紙切れを示し、降りるときは教えてくれるように伝えた。座席は黒人とメキシコ系ヒスパニックで占められていたが、後ろに渡した2人が座れる空席は十分にあった。
その時、私の肘は強い力でつかまれた。一番前の席に陣取ったこぎれいな赤毛の白人中年婦人が私を知り合いか何かのような馴れ馴れしさで「あなた、ここにお座りなさいな」と隣の空いた席をさした。彼女がわたしを自分の相席に選んだ理由は察しがつく。いかにも無害な顔をした東洋人の娘であることは自分でも承知している。とりあえず私は無理やり指定席に落ち着いた。ニーリーはちょっと肩をすくめて笑いながら「じゃーね」と目配せをして一番後部の座席に進んだ。

 2).これがバス停?
ダウンジャケットを脱いで棚にあげると、やがてバスが走り出した。気分は旅のモードに替わった。赤毛婦人はロスにいる孫たちに会いに行くのだと誇らしげにそのアルバムを広げて見せる。私も問われるままに自己紹介をはじめた。昨年の夏、極東の島国、日本という国からあるぜんちな丸という貨客船でブラジルに移民する多くの日本人たちと一緒に神戸港を出港した。ロスの港まで太平洋を横断するには2週間かかったこと。いまはサンフランシスコの郊外にある大学の先生の家にホームステイしていることを話した。赤毛婦人は日本のことにとても興味を示し私を質問責めにした。今日、バス停に迎えに来てくれる日系二世の西川さんの写真を取り出し、日本の正月祝いに招かれていること。彼は両親の古い親友であり、二人の仲人でもある。日本には仲人という風習があることに彼女は大きい目をさらに開いて私の顔を穴のあくほど見つめるのだった。西川さんは第二次大戦後、生まれ故郷のロスアンゼルスに戻った。それ以後も私たち家族との交流が続き、今回の私の留学に力を貸してくれたうちの一人であるといういきさつなど話した。西川さんは90才になって股関節骨折のリハビリから無事恢復し、少々忘れっぽくなってはいるが私を娘のように思っていると渡米前から頻繁に手紙と写真を送ってきていた。決して達筆ではないが、その崩れて頼りなげな、しかし丁寧な漢字の筆跡から親戚のおじいちゃんのような親しみを感じていた。いまはここから2時間くらいの場所で養老院に入っている。ガールズ・トークは時間のたつのも忘れて盛り上がっていた。

どのくらいの時間が過ぎたであろうか。外はまばゆいくらいに輝いている。凍り付いた朝の風景はなんだったのか。バスが小さなクリーニング店やコーヒーショップなどに囲まれたロータリーで停まった。肩にだれかの手がかかった。見上げるとニーリーが横に高く立っていた。「じゃ、ぼくはここで」「ここ?」「そう、ここから家までは歩いて5-6分だ。気を付けて」と手を差し出して握手をするとステップを弾んで降りて行った。彼が振り返ってもう一度窓越しの私に手を振った。その後ろ姿が、質素だがこぎれいな住宅地の中に消えたとき、私
の胸に思いがけない切なさの入り混じった感情が通り過ぎて行った。
バスの時計を見ると8:45amを指している。西川さんとの待ち合わせは9時。まもなくだ。バスはいきなり殺風景な丘陵に入った。砂漠のような荒れ地の中に住宅というより箱型の木造バラックがポコポコと目につくばかりだ。ほどなく人気のない寂れた大通りでバスは停まった。
いつかけたのかサングラスの運転手がここだよ、と首をまわした。立ち上がって窓外を見た。西川さんの姿がない。遅れてくるのだろうか。私はもう一度目を凝らした。「おかしいな。知人が迎えに来ているはずなんだけど」。自分の声がうろたえている。隣席の赤毛婦人はわたしの手から紙切れをもぎ取るようにして身を乗り出し「ね、運転手さん、たしかにここが○○バス停なのね? だれもいないわよ」と咎めるような口調で言った。
「7ブロック先にもう一つ別のバス停があるけど。乗っていくかい?」面倒くさそうに、ガムを噛みながら軽くハンドルに手をかけ発車態勢をとる。乗客たちが私たちのやりとりに耳を澄まし始めた。腕時計を見ると西川さんとの約束の9amぴったりだ、ここに間違いない。運転手はドアを開けたまま私のうろたえなど無関係といった視線を投げかける。降りるしかなかった。
辺りを見るとペンキのはげた停留所の表示板だけが立っていた。何の字かわからない。遠くまで続く一本の車道。寄る辺ないカリフォルニアの蒼い冬空は無常なほど冷ややかに澄み切っていた。この場を離れて西川さんとすれ違いになったらどうなるのか。どちらに足を向ければ彼の住所を訊ける人に会えるのか。
振り向くと出たとばかり思っていたバスはまだそこに居てなぜかギョッとした。乗車口から赤毛婦人が降りてきた。ハイヒールでつんのめりそうになりながら私の手を掴みせかせかと言った。「あなた、ここにいなさいよ。動いちゃだめよ」。彼女はその一言を私に言うために、運転手にバスを停めさせて様子をみていたのだ。そして振り返りながらもう一度同じことを言って、バスの中に姿を消した。私は中途半端に手をふり、運転手にどうぞ行ってください、ととりあえずの礼をのべた。
ドアが閉まりバスは動き出した。窓に貼りついた乗客たちの浅黒い顔、赤毛婦人の厚化粧の白い顔が遠ざかっていく。早朝の冷え込みはなんだったのか。暑いくらいだ。私は飲み水もチョコレートの一かけらも持ち合わせていないことに気づいた。それほど脳天気に日本のバス旅行と同じように思っていたのだ。バスはたちまち小さくなっていき、角で曲がって姿を消した。
広い通りはときおりすれ違う車だけ。車窓のむこうに見えるのはどれもドレスアップした黒人たち家族である。今日は日曜日。どこかの教会に行くのだろうか。しかし、西川さんの姿はどこにもない。途方に暮れたまま、遠くの地平線から現れるはずの西川さんの車を待った。
20分ほど過ぎた。やがて通りにはもう一台の車も現れなくなった。

3)陽炎(かげろう)にゆれる案山子(かかし)
その時、とつぜん、地平線の陽炎の中にゆらゆら揺れる不吉な影法師のようなものが見え、たちまち輪郭が現れた。くたびれた長い黒いマントをアスファルト道路にひきずっている。目深にかぶった毛糸のスキー帽。その下の目は鋭く私に固定されている。手にホームレスの生活荷物らしき大きな紙袋をさげ、ボロボロに抜けた歯を見せ、ドラッグでもやっているのかおぼつかない足取りでこちらに向かってくる。わたしはいそいでその場から離れることにした。そのよれた足取りには凶暴に飛びかかってくるような殺気はない。しかし、充血した赤い目は狙いを定めた猛獣に似て異様にギラギラとして、なにかを決心したかのような空気をはらんでいる。その脚の速度が加わった。私はとっさに逃げ道を探した。500メートルほど先に交差点があるらしい。車が一台、現れてはまたたくまに前方に小さくなっていく。人っ子一人いない車道に死神のような黒い影がついてくる。私は陽の当たる右側の歩道へ車道を斜めに横切った。影も同じようについてくる。再び左側に移ってはまた右へ。ZigZagに走って相手を疲れさせる作戦だ。しかし、私は焦るばかりで、まるで足かせをはめられたように重く感じた。コートの擦れる音と紙袋のカサつく音に対して、私のヒールの音が情けない抵抗をしている。(どうしょう、どうしょう)恐怖で張り裂けそうな自分の声が胸いっぱいに広がる。その男の並外れた脚の長さが意外な速さで背後にひたひたと迫ってくる。いざとなったらバッグを叩き付けてやる! 不思議にもそんなことを考える余裕がまだ残っていた。それは自分では気づかなかった「若さの力」だったのか。後ろで含み笑いが聞こえた。黒い影が足元に落ちたと思った次の瞬間、首に生ぬるいものが触れた。私は叫び声をあげ、振り向きざまに金具のついたハンドバッグを相手の顔に満身の力を振り絞って叩き付けた。ドスンという鈍い音がして男が怯(ひる)んだ。その瞬間、饐えた(すえた)匂いと埃(ほこり)が私を霧のように包んだ。
私はとっさに靴を脱ぎ、片手にそれをつかんで走りはじめた。足の裏はコンクリートのザラザラした地肌をしっかり噛んで、意外にもその心地よい感触をどこか楽しんでいるようなもう一人の自分がいる。奇妙なことに、とつぜん恐怖を通り越して笑いたくなった。恐怖と笑いが同居しているなんて、どういうことなのか。さらにこんなやつには負けない、という根拠のない確信。若者ゆえに備わった無謀なほどの特性・・。まるで正気の沙汰ではない。
案山子(かかし)はまだ糸で結ばれた凧(たこ)のようについてくる。やがて予感した通り、交差点の角にさびれたガス・ステイション(ガソリン・スタンド)がポツンと現れた。

4)英語を「読み書き会話」のできない女
だれでもいい、人がそこにいるなら。肩でドアを押して中に飛び込んだ。重いガラス戸が背後で閉まった。ジャケットを脱ぎ、ヒールの靴を履(は)く手が震えている。12畳くらいの店内のテレビから知らない言葉でドラマが流れていた。太ったヒスパニック系の17〜8才くらいの女がテレビの向こうから顔を出した。助かったのだ。
「あの、すみません。道に迷ったのですが」ホッとして藁をもつかむ思いで紙切れの西川さんの住所をみせた。「この住所を知っていますか?」。「○△×・・」「あの、ここに地図を置いていますか 」、「○△×・・」。彼女はどうしたことか、なにを訊いても肩をすくめ、両手をあげて私の初めて耳にする単語を吐き捨てるばかりだ。その顔には面倒くさいことは一秒たりとも関わりたくないと
書いてある。
それは予想もしなかった、まさかであった。腰から力が抜けそうになった。彼女は英語で話はおろか読み書きもできなかったのである。望みは見事に断たれた。その反動で、私の心に失望に混ざった苛立ちがわきあがってきた。こんなことってあっていいものか? 英語はカリフォルニアの共通語である。その国の世話になっている生活者なら、だれもが片言でもいい、ジェスチャーでもいい。少なくともその努力をしなくてはならないだろう。それができないのなら、せめて道に迷っている他人に力になろうという、日本人なら大抵持っている感情、困っている者への親切心や配慮、そんなものなど持ちあわせてしかるべきである。
意地悪の連鎖反応で私の言葉もきつくなる。「あなた、英語は?」、「・・・」、「読めない? 書けない?」、「・・・」、「No, kidding! (まさか)」。彼女は両手をあげ肩をすくめた。不機嫌を通り越した憎悪の目つきを私にむけたまま、たばこに火をつけるやプイとテレビの向こうに戻っていった。そして私の存在を煙で遮断してテレビの画面に見入っている。ガムや菓子類などを置いた陳列棚の横に黒い古びた電話器があった。その上の時計が10時を回っていた。西川さんの住む養老院の自宅の番号を回す。2度、3度、ノーアンサーだ。家にいないということは、バス停に行ったことだろうか?
電話のむこうのサッシ越しに、黒いコートを引きずりながらさっきの案山子が赤信号を無視して道路を渡っていく。その先に別の4〜5人の似たような黒人浮浪者たちがたむろしている。そのうち彼らは一緒になって、走行車を急停車させて、道路の真ん中で罵倒しあい、もつれあいながら私の視界から消えていった。
まさか、アメリカに来てこんなときに英語の読み書きができない人に遭遇するなんて、信じられなかった。「世界一の識字率を誇る日本人」その私がいまここではただ立ちつくしたままなすすべもなく無力な姿をさらけ出しているとは。私はその場にうずくまって涙がでないほど途方に暮れてしまった。
あらためて辺りを見回す。西川さんの送ってきた写真は、緑に囲まれた瀟洒な一階建ての施設である。そんな養老院はまさかこんなところにあるとは思えない。しかし彼が自宅にいないとなると、さっきのバス停に遅れて来て、入れ違いになっているのかもしれない。そこで途方に暮れて立ち尽くしている90歳の老人を想った。そんなことあってはならないことだ。気をとりなおして、私はもとの道を戻りはじめた。しかし、そこにたどり着くとバス停の前はやはりさっきと同じでからっぽだった。腕時計は11時を過ぎていた。



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