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シャペコ現地ルポ=「カンペオン・ヴォウトウ!」  沢田啓明
ブラジリア時間の11月29日未明にコロンビアで飛行機が墜落し、サンタカタリーナ州のサッカーチーム、シャペコエンセの選手ら71人が死亡、6人が負傷した事件は、世界中を深い悲しみに陥れた。日本の雑誌社の依頼でサンパウロ在住のスポーツ記者沢田啓明さんがシャペコに飛び現地ルポを書いておられる。沢田さんは、以前からブラジルサッカー事情を報告して呉れておりホームページにも多数掲載させて頂ている。シャペコエンセの惨事に付いては、連日、色々報告されているが沢田さんの現地ルポを50年!!ホームページにも掲載残して置こうと思う。
写真も沢田さん自身が撮られた『悲しみに包まれたシャペコエンセのスタジアム』を使わせて貰いました。(沢田啓明さん撮影)


シャペコ現地ルポ=「カンペオン・ヴォウトウ!」=街角にあふれるクラブ愛=聖市在住ジャーナリスト 沢田啓明(ひろあき)=(上)=天も号泣したシャペコ  ニッケイ新聞WEB版より
2016年12月13日
悲しみに包まれたシャペコエンセのスタジアム(写真=沢田啓明さん撮影)
 12月3日、シャペコでは朝から冷たい雨が降り続いていた。
 正午過ぎ、シャペコエンセのホームスタジアム「アレーナ・コンダ」に最初の棺が到着すると、スタンドを埋め尽くした観衆が総立ちになり、自然発生的に「カンペオン・ヴォウトウ!」(チャンピオンが帰ってきた!)と大声で歌い始めた。涙声も混じっている。

儀仗兵が一人ひとりの遺体を運び込むと、会場からは「カンペオン・ヴォウトウ!」(チャンピオンが帰ってきた!)の大合唱がわいた(写真=沢田啓明さん撮影)

 ブラジルへ渡ってからちょうど30年間、ほぼ毎週1、2回、数え切れないぐらい各地のスタジアムへ通っている。だが、これほどまでに強い感情がこもったチャント(短い応援歌)を聞いたことがない。サポーターの無念さとクラブへの愛情が心に突き刺さり、目頭が熱くなった。
 この場合の「カンペオン」とは、「優勝チーム」ではなく「偉業を達成した人、ヒーロー」という意味だろう。
 また、もし11月30日にコロンビアのメデジンで行われるはずだった試合に勝っていたら、彼らは「ほぼチャンピオン」として凱旋していたはずだ。それが、今、クラブの旗で覆われた小さな棺の中に横たわり、冷たい雨に打たれ、無言で帰国したのである。
 雨が激しくなった。涙雨、などという生易しいものではなく、天も号泣しているようだった。

日本でも関心を呼んだ突然の悲劇
スタジアムには顕彰をささげる品々がところ狭しと並べられた(写真=沢田啓明さん撮影)
 サンタカタリーナ州のほぼ西端に位置するシャペコ――。ブラジル在住の日本人はもとより、ほとんどのブラジル人もまず行ったことがないのではないか。かくいう私も、今回、初めて訪れた。
 これといった観光名所などない人口約21万人の町で、主な産業は食品加工。住民の大半はイタリア系移民の子孫だ。
 この平凡な町が、不幸な出来事のせいで、一躍、世界中にその名を知られることとなった。
 11月28日夜(ブラジル時間では29日未明)この町に本拠を置くブラジル全国リーグ1部のシャペコエンセの一行を乗せた飛行機が、コロンビアのメデジン空港手前の山岳地帯に墜落。乗客・乗員77人のうち71人が死亡したのである(内訳は、選手19人、会長、監督、コーチらクラブ関係者26人、取材のためチームに同行していたマスコミ関係者20人、乗員6人)。
 生き残ったのは、選手3人、マスコミ関係者1人、乗員2人の6人だけだった。
 シャペコエンセは、南米のクラブカップ戦であるコパ・スルアメリカーナの決勝第1レグでアトレティコ・ナシオナル(コロンビア)と対戦するため、メデジンへ向かう途中だった。
 犠牲者の中にはカイオ・ジュニオール監督、主将のMFクレベル・サンタナらJリーグ経験者が5人もいたせいもあり、日本でも大きな関心を集めた。
 私はサンパウロ在住のサッカージャーナリストで、日本の新聞、雑誌、インターネットメディアなどにブラジルと南米のサッカーに関する記事を送っている。事故があった11月29日、その第一報をあるスポーツサイトに書いた。
 すると、翌30日、別のメディアから「シャペコエンセについて、何か書いてくれ」という依頼が舞い込んだ。「犠牲者の遺体がシャペコに戻ってきたときに現地にいて取材をしたい」と伝えたところ、即座に了承してくれた。大急ぎで情報を集めたところ、その日の夜にも遺体が到着する可能性があるとわかり、すぐにシャペコへ飛んだ。

「上昇に上昇を続け、ついに天まで」
しかし、30日夜、遺体は到着しなかった。まだメデジンを出てもいない。
 いったい、遺体はいつ到着するのか。宿泊したホテルからシャペコセンセのスタジアムまでそう遠くないとわかり、翌朝、情報収集を兼ねて徒歩でスタジアムへ向かった。
 町を歩き始めてすぐに気付いたのは、通りが清潔で、物乞いがおらず、ファヴェーラも見当たらないこと。これだけでもサンパウロの住民にとってはかなり新鮮だが、もっと驚いたことがあった。
 信号がない交差点で、歩道の端に歩行者がいるとほぼ例外なく車が停車し、先に渡らせてくれるのである。これは、世界でも先進国のごく一部でしか見られない光景だ。
 交通道徳がでたらめなブラジルにこんな町があろうとは、全く思いもしなかった(サンパウロへ帰ってこんな話をしても、おそらく誰も信用しないだろう)。
 黒人がほとんどおらず、日本人、日系人も見当たらない(後になって、シャペコ日伯協会という日系団体があり、会員が80人近くいることを知った)。
 市民の大半が緑のシャペコエンセのユニフォームを着ており、ほぼすべての店が緑と黒を組み合わせた飾りを付けて犠牲者を悼んでいる。町中が事故を心から悲しみ、喪に服していた。
 セントロの広場に面して大きなカテドラル(サント・アントニオ大聖堂)があり、その手前を左へ折れて15分ほど歩くとスタジアムに着いた。
 すでに多くの報道陣が詰めかけている。クラブの広報担当者を探して今後のスケジュールについてたずねると、「明日(2日)の正午に着く予定」という。また、「報道陣の数があまりにも多いので、午後、記者パスを発行する」とのことだった(最終的に、世界22カ国からやってきた約1000人が取材した)。
スタジアムの内部にある通路の片側の壁に、たくさんの追悼メッセージが貼られている。亡くなった選手やクラブ関係者らの写真が飾ってあり、花束が手向けられている。
 メッセージを丹念に読んでいくと、途中から涙が止まらなくなった。それは、たとえばこんなメッセージがあったからだ。
「きっと神様が天国でサッカーの試合をしたくなって、地上で最高のチームを呼んだのでしょうね。シャペ(シャペコエンセの愛称)、愛してるわ」
「2009年4部、2010年3部、2013年2部、2014年1部、2016年コパ・スルアメリカーナ決勝進出…。あなたたちは上昇に上昇を続け、ついに天まで昇ってしまった」
(つづく)

シャペコ現地ルポ=「カンペオン・ヴォウトウ!」=街角にあふれるクラブ愛=聖市在住ジャーナリスト 沢田啓明(ひろあき)=(下)=パイロットの苗字は「ムラカミ」  ニッケイ新聞WEB版より
2016年12月14日
ラミア機の墜落現場に駆け付けるコロンビア空軍のヘリコプター(Foto: Fuerza Aérea Colombiana)

 ふと横を見ると、二人用の小さなテントが二つ張ってあり、中から足が何本も突き出ている。
 テントの前にいた若い男性と女性に声をかけた。
「君たち、ここで何してるの?」
「『トルシーダ・ジョーベン』というサポーターグループのメンバーなんだ。事故の第一報を聞いた29日朝から、ここで寝泊りしてる。毎日、みんなでお祈りしたり、クラブソングを歌ったり、市内で行なわれる追悼ミサなどのイベントに参加している」
「みんな、学生?それとも社会人?」
「学生も社会人もいるわ」
「とすると、学校の授業や仕事はどうなってるの?」
「もちろん、行ってない。どうせ何もする気になれないから、同じことさ」
 ブラジル人は、良くも悪くも自分の感情に素直に行動することが多い。それはよくわかっているつもりだったが、まさかここまでやるとは…。彼らの「シャペ愛」に驚いた。
 2日もスタジアムへやってきたが、また予定が変わっていた。「3日朝、ブラジル人の犠牲者65人中シャペコエンセに直接関係のある50人の遺体がシャペコ空港へ到着する。棺を飛行機から下ろして3台のトラックに積み替え、市内を走って市民に別れを告げ、正午前後にスタジアムに到着し、それから合同のお葬式をする」ということだった。これ以上の変更は、さすがにもうなさそうだった。

実は日系ボリビア人だったパイロット
 時間がたつにつれて、事故の原因が明らかになってきた。
 当初は「電気系統の故障」とされていたが、実際には燃料不足だったらしい。
 シャペコエンセの一行は、11月27日にブラジル全国リーグの試合のためサンパウロに滞在し(実は、私はこの試合を取材している)、翌28日、サンパウロからサンタクルス・デ・ラ・シエラ(ボリビア)を経てボリビアの小さな航空会社「ラミア」のシャーター便でメデジンへ向かったのだが、サンタクルス・デ・ラ・シエラからメデジンまで約3000キロ。
 一方、事故を起こした飛行機が燃料補給をしない場合の飛行距離も、約3000キロ。
 つまり、燃料に全く余裕がなく、航空専門家によれば、本来ならメデジンの手前の地方空港に降りて燃料を補給するべきだった。
 ところが、「ラミア」のパイロットが会社の共同経営者の一人でもあり、出費を抑えようとして燃料補給を断念したらしい。
 そのパイロットの名前は、一般に「ミゲル・キロガ」と報じられていた。南米人によくある名前だ。ところが、サンパウロへ帰ってから調べたところ、彼のフルネームは「ミゲル・アレハンドロ・キロガ・ムラカミ」。
 つまり、日系ボリビア人だった。そう思って彼の写真を見直すと、日本人の血が幾分か含まれているように思える。
 ホテルへの帰り道、シャペコセンセの選手のユニフォームをたくさん天井から吊るしているギフト店を見つけ、中へ入ってみた。
 ほぼ全選手のユニフォームがあった。中年の上品な女性オーナーは、「この店にも、選手たちが買い物に来てくれたわ。みんな、とってもいい人たち。自分の家族か親しい友人が亡くなったようなショックを受けている」と涙ぐんだ。
 ここでも、大いなる「シャペ愛」を感じた。

まわり全員、もらい泣きしながら取材
 3日のセレモニーでは、クラブを代表してイヴァン・トッゾ会長代理(副会長だったが、クラブを躍進させた最大の立役者であるサンドロ・パラオーロ会長が死亡したため昇格)が世界中のサッカー関係者とファンからの激励に感謝し、「選手たちは英雄として旅立ち、伝説となって帰還した」と述べた。「犠牲者に心からの祈りを捧げたい」というローマ法王からのメッセージが代読され、このセレモニーに出席するためブラジルを訪れたジャンニ・インファンティーノFIFA会長が「我々はシャペコエンセのことを永遠に忘れない。クラブ再建のために協力する」と語った。
 追悼セレモニーのプログラムがすべて終わったとき、ハプニングが起きた。遺族たちが選手の写真やユニフォームを掲げ、セレモニーのために仕切られたピッチ全体の四分の一ほどのスペースを行進したのである。妻、幼い子供たち、両親…。みんな、泣いている。スタンドからは、選手一人ひとりの名前がコールされた。
 そして、突然、若い小柄な女性がGKダニーロの写真を掲げてピッチ中央へ歩き始めた。顔をくしゃくしゃにして、泣きじゃくっている。
 ダニーロは、コパ・スルアメリカーナで奇跡的なセーブを連発してチームのピンチを何度となく救い、サポーターから最も人気があった選手だ。女性は、彼の奥さんに違いない。総立ちのサポーターたちが、ダニーロの名前を叫んだ。
 彼女が目指したのは、かつて愛する夫が数々のビッグセーブでサポーターを狂喜させた場所だった。ゴールの中に写真を置き、短い祈りを捧げた。
 彼女の痛み、思いが痛いほど伝わってきた。涙が止まらない。周りを見ると、他の取材者も泣きながら写真を撮り、彼女にマイクを突きつけて話を聞こうとしていた。
 長年、サッカーを取材しているが、こんな経験は初めてだ。今後も、まずないだろう。

生きること、死ぬこと、そしてフットボール
 帰りのサンパウロ行きの飛行機は、3日後まで満席だった。サンパウロからも取材者が大勢やってきたせいだろう。
 ただし、僕の本当の仕事はここから始まる。日本の雑誌へ送る原稿を書かなければならないのだが、ホテルではどうにも落ち着かない。いろいろ考えた末、帰りの飛行機のチケットをキャンセルし、バスで帰ることにした。ただ、サンパウロへの直行バスは午後の早い時間に1本あるだけで、もう出ていた。やむなく、その日の夜行バスでクリチーバまで出て、そこからサンパウロ行きに乗ることにした。乗り継ぎを含めて約15時間かかるが、仕方がない。
 バスに乗っている間、それまでに集めていたシャペコエンセとその事故に関する資料を読み込んだ。疲れると眠り、目が覚めるとまた資料を手に取った。
 この4日間、シャペコで実に多くのものを見て、多くのことを考えた。心優しい人々と、彼らの悲しみ、涙、激しい雨の中で繰り返されるチャントとコール…。
 生きるとはどういうことなのか、死ぬとはどんなことなのか、フットボールとは一体何なのか…。
 もちろん、そう簡単に答えなど出ない。それでも、自分にとって、日常から離れてこれらのことをじっくり考えたことに意味があるような気がした。(終わり)

【著者紹介】61歳。1955年山口県防府市生まれ。上智大学外国語学部仏語学科卒。1986年のW杯メキシコ大会をフル観戦。「これが本当のフットボールだったんだ」と驚愕。1986年末にサンパウロへ移住、以来、南米のフットボールを見続け、日本のフットボール専門誌、スポーツ紙、一般紙、ウェブサイトに寄稿。著書に「マラカナンの悲劇」(新潮社)、「情熱のブラジルサッカー」(平凡社新書)など。シャペコエンセのルポ詳報は12月12日発売の「週刊プレイボーイ」に掲載された。



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