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桜井悌司さんの『ブラジルを理解するために』(その5-その8)
桜井悌司さんの『ブラジルを理解するために』の第2弾(その5−その8)を40年‼寄稿集に収録して置きます。40年‼寄稿集は、着伯40周年の集いと共に開設しこの5月11日で15年経過、その間457万回のアクセスを記録しており桜井さんの寄稿もアクセス数増に大いに貢献して頂いており感謝しております。桜井さんのようにブラジル始めチリ―、イタリア他に駐在しJETROの職員として日夜任地で活躍した経験を総合的に綴り後から来る人達にその貴重な経験を書き残す作業をしておられるのに頭が下がります。これからも継続して日本ブラジル中央協会常務理事として機関紙に寄稿を続けられるそうですのでBLOGに掲載し4回分づつをこのホームページに残して行く事にしております。
写真は、新しい近影も送って頂いているのですが、敢えて勤務地だったサンパウロのテアトロ ムニシパルの写真をお借りして掲載することにしました。


連載エッセイ5
変化に強くなる―即興力強化の勧め
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

今は激動する時代と言っても決して言い過ぎではないだろう。安定的な世界ではなく、何が起こっても不思議ではない世界である。日本も江戸時代は、安定的な社会であったが、明治維新のころは激動する時代であったと思われる。その後も富国強兵や軍国主義路線をまっしぐらに進み、結局第2次世界大戦に突入し、敗北する。戦後は、経済大国の道を歩むことになり、世界でも稀にみる成功を収めることになる。その間、社会も安定し、安定が通常の状況と考えるようになった。その結果、あらゆる局面で、決めたことを少しでも変更しようとすると、大きな抵抗に会うことになる。身近な例で言うと、イベントなどで式次第を変えると大いに嫌がられる。急に指名して挨拶してもらおうものなら。固辞されるし、受けてもらっても前置きが長くなる。アポイントをキャンセルすると叱られる。社会のニーズが変わっているにも関わらず、前例に固執し、前例通りに進めようとする。日本国内だけであれば、問題は少ないが、外国が絡むと厄介である。私が今まで相手にしてきた発展途上国や新興国では、日々変化しており、変化や変更が普通である。そのような国から見ると日本人の変化・変更嫌いはかなり奇妙に見えるようである。どちらが世界で通用するかと言うと、圧倒的に発展途上国・新興国の変化・変更型スタイルであろう。なぜなら絶対多数であるからだ。そこで日本人が心しておくべきことは、日本を一歩でも離れると、変化・変更型世界が待っていることをしっかり認識することと、変化・変更に強くなることだ。
 日本人は、ブラジル人やラテンアメリカ人や他の外国人と比較して、即興性に欠けるようである。即興性とは、ポルトガル語のImprovisacao、スペイン語のimprovisacionで、それほど準備せずに、その場で物事に対処できる能力を意味する。日本人は、何かを行う場合、十分な準備をする。なぜなら十分な準備をしないと失敗する可能性が高く心配だからだ。その点、ブラジル人等ラテンの人々(欧米人、アラブ人、中国人等も同様であるが)は、日本人ほどには準備しているようには思えない。適当量の準備で本番を迎えても堂々とやり遂げるのである。セレモニーなどを行う場合でも、日本人は徹底的にリハーサルを行う。ブラジルでは、それほどではない。日本人は、例えば、何かの機会に急にスピーチを頼まれた場合、一部の例外を除いて大いに困惑する。準備をしていないからである。ラテンの人も困惑すると思うが、一端引き受けるとあたかも準備してきたかの如く、スピーチを始める。セレモニーなども同様である。日本ではすべてシナリオや進行表に従い、その通りの手順で行う。ラテンの国々でも大まかな進行表に従うことになるが、それほど厳密ではない。日本流でやると失敗はまずないが、盛り上がりに欠ける可能性がある。ラテン流は、うまくいかない可能性もあるが、うまくいくと大いに盛り上がることになる。
 どちらが良いかは一概に言えないが、日本人は即興性に欠けていること、ラテン人は即興性に富んでいることをしっかり認識しておく必要があろう。日本人がラテンの人々と仕事を一緒すると準備状況を巡ってイライラすることが多い。しかしラテン人の持つ即興性という特質を理解していれば、それほどイライラすることもない。
 では、日本人は、ブラジル人やラテン系人の持つ即興性にどのように対処すればいいのだろうか?すべての事柄に対し、しっかり準備をすることである。十分な準備をすると日本人は安心することができる。そのうえで、可能であれば、臨機応変にやるのである。日本人は、準備せずに臨機応変に振る舞うことはまずできない。しかし、訓練を積めば少しずつ即興性が身につくようになる。
2015年11月上旬

連載エッセイ6
サンパウロ駐在生活の楽しみ方
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

 私は、駐在の終了時には、各地の駐在員やその夫人を対象に、「駐在生活の楽しみ方」というテーマで報告会・講演会を開くのを常としていた。サンテイアゴでは、駐在員夫人の集まりである「コピウエ会」メンバー40名を対象に行い、ミラノでは、イタリア日本商工会議所のセミナーの一環として、2回に分けて行った。サンパウロでは、ブラジル日本商工会議所・ブラジルを知る会・BUMBAの3者共催でセミナーを開催した。サンパウロ州・市の観光局からバッグやパンフレットを多数入手し、10レアルの参加費を徴収した。100名を上回る参加があった。開催理由は、各地で少しずつ異なるが、共通して言えることは、多くの駐在員が駐在生活を十分にエンジョイしていないことである。単身赴任であるとか、ご主人がゴルフに夢中で家族を十分にアテンドしないとか、子供が小さいので自由に動けない等の理由からである。ミラノは、見るもの、聞くもの、食べるもの、買うもの等魅力に満ちた都市であったが、スカラ座でオペラを一度も見たことがない、サンシーロ・スタジアムでサッカーのセリエAを見たことがない駐在員が少なからずいた。スペインでも闘牛やサッカーを見ていない駐在員も結構いる。サンテイアゴやサンパウロには、見る物が何もないあるいは少ないと本当に思っている駐在員も少なくなかった。私はチリとイタリアではすべての州を訪問した。それぞれの州や都市は、魅力に満ちており、何かしら興味あることを発見した。ブラジルは駐在期間が2年5カ月と短期間であったため、全27州は回れなかったが、それでも19州を駆け巡った。土曜や日曜には、家内と極力出かけるようにした。ショッピング、食べ歩き、テアトロ・ムニシパルやサラ・サンパウロでのオペラやコンサート、テアトロ・アブリルでのミュージカル鑑賞をエンジョイできた。日系コロ二ア社会は数多くのイベントを組織してくれる。「日本フェステイバル」、「アチバイヤの花とイチゴの祭り」、「桜まつり」などの郊外で行われる大規模なイベントには嬉々として出かけた。文協の大ホール等では「紅白歌合戦」、「全国民謡大会」、「カラオケ大会」、「全国太鼓大会」、他の会場でも「よさこいソーラン」もやってくれる。「全国民謡大会」に2日間通えば、北は北海道から南の沖縄までの民謡を鑑賞できる。日本でもそのような機会はほぼ皆無である。博物館や美術館にしても、欧米の有名な博物館や美術館とは規模、内容において比較すべくもないが、それなりに楽しめる。「サンパウロ移民博物館」を見学すれば、あらゆる移住者の中で日本人がいかに重要な役割を果たしたがわかる。「ブラジル日本移民資料館」を見れば、日本人の辿ってきた足跡がよく理解できる。世界的に有名な「サンパウロ美術館」(MASP)に出かければ、ルノアール、モネ、マネ、モジリアーニ、セザンヌ、ゴッホ等印象派を中心とした絵画を鑑賞できるし、特別展も頻繁に組織されている。サンパウロ州立美術館の「ピナコテカ」に行けば、ポルチナリ、カルカヴァンチ、マルファッチ等ブラジル人の著名な画家の展示のほか、マナベ・マベやトミエ・オータケなど日系人の作品が沢山展示されており、ブラジル画壇でいかに日系画家が強い影響力を持っていたかがわかる。建築も植民地時代の建築に加え、少し前に亡くなったオスカル・ニーマイヤーの作品がセントロやイビラプエラ公園に行けば見られる。日系のルイ・オータケの作品も所々で見られユニークである。イピランガ独立記念塔とパウリスタ博物館も必見である。忘れてはならないのは、フェイラ(見本市)である。サンパウロは南米最大の見本市都市であり、日本のレベルを相当上回る。駐在員の奥さまからみても、観光、ビューテイ、靴・ハンドバッグの見本市は興味津々であろう。さらに習い事の天国でもある。刺繍、料理、装飾、ダンス、サンバ、パンデイロ等たくさん学べるものがある。ショッピングセンター巡りも特に女性にとって喜びであろう。主として日曜に開催される骨董市にも出かけることをお勧めする。レプブリカ広場、リベルダージ広場、サンパウロ美術館界隈である。旅行も駐在員の楽しみであろう。ブラジルには世界遺産が19あり、日本と並んで世界で11番目である。メキシコの33には及ばないが、中南米では堂々第2位で、ペルーを上回る。自然遺産、文化遺産がバランスよく存在している。数年前には,パカエンブー・スタジアムにサッカー博物館もできたし、水族館もオープンした。子供連れには動物園や植物園もある。
 そう考えてみると退屈している暇はないのである。しかし、駐在生活を楽しむには、次のような心構えが必要となってくる。
@ 計画を立てること(3〜5年計画)。
A あらゆるチャンスを逃さないこと。
B 生活、趣味、仕事のバランスをとること(ゴルフのみに集中しないこと)。
C 旅行、博物館等に行く場合は、事前にある程度の情報を収集しておくこと。
D フットワークを軽くするために日頃訓練を積むこと。気楽に出かける 習慣をつけること。
E 主人が多忙な場合は、女性だけで旅行できる仲間をつくっておくこと。
F 情報の提供はGIVE& TAKEを心がけること。
G 情報収集ネットワークを常日頃心がけておくこと。
H 治安状況に留意し、自分 の身は自分で守ること。
2015年11月下旬

連載エッセイ7
ブラジルやラテン世界でフラストレーションなく仕事をする方法
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

ブラジルやラテンの世界でフラストレーションなく仕事をすることは容易ではない。日本や米国から直接ブラジルに赴任した駐在員は、特にそうであろう。よく言われる言葉に、「アテ・アマニャン」や「アスタ・マニャーナ」(明日またね)というのがある。例えば、誰かに仕事を頼み、約束の日に出かけてみると、完了していない。「アテ・アマニャン」とか「アスタ・マニャーナ」と言われ、翌日また行くと、同じ言葉で追い返されるという経験をした日本人も多い。私も同様で大いに苦労したが、徐々に彼らと仕事をすることに慣れてきた。その結果、ラテンの世界でフラストレーションを感じることは比較的少なくなった。常に彼等の生産性や効率性を考えて仕事をすることにしたのである。例えば、ブラジル人やブラジルの組織に依頼してやってもらう仕事があるとする。その場合、同じこと日本でやれば、どのくらいの日数がかかるのかを考える。日本だと10日間くらいかかるとしよう。とすると10日以上前から始めればよい。では、ブラジルやラテンの国ではどれくらいでできるか。アミーゴも知り合いも少ないブラジルでは、常識的に考えて、日本より少ない日数でできるはずはない。仮に15日間かかると仮定する。とすれば、15日以上前に準備を開始すればいいのである。ただ、それだけではうまくいかない。10日くらいたったところで、依頼した人物に進捗状況を聞いてみることが必要だ。そこでの会話によってしっかりやっているかどうかが判断できる。されに5日前くらいに挨拶代わりにご機嫌伺いをする。さらに前日か前々日に最終の再確認をするとうまくいくケースが多い。相手に嫌味を感じさせないで、少しずつ追い詰め、仕事を完了してもらうのである。これは、通常のやり方であるが、ラテンの世界はアミーゴ社会である。一緒に食事をしたり、情報交換をしたりして、アミーゴ関係になれば、新しい展開が始まる。アミーゴ・ネットワークがうまく機能すれば、日本の10日間よりもっと早く、場合によっては、7日とか8日でできることも珍しくない。ラテン世界の不思議である。
 楽観主義もラテンの世界で仕事をする上で有効である。ここで楽観主義と言った場合、最初から運を天に任すということでは決してない。自分でできることは、あらかじめ最大限行っておくことが前提である。さらに他人に物事を頼む場合でも、可能な限り彼が実行に移しやすいように仕向け、最後は運を天に任せると言う方法である。悲観主義の人は、ブラジルやラテン系の国々には向いていない。             
2015年12月上旬

連載エッセイ8
ブラジルの新イメージ浸透作戦
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

2003年11月にジェトロの所長としてサンパウロに赴任した。その当時は、日本とブラジルの経済関係は「失われた20年」と呼ばれ、信じられないくらい冷却していた。
1980年代は、ブラジル経済が停滞し、1990年代は、日本経済がバブル崩壊によって、元気をなくしていた。日本の企業の対ブラジル関心度はほぼゼロに近い感じであった。日本や米国から日本人ビジネスマンの訪伯もほとんどなかった。そこでどうすれば、日本企業にブラジルへ来てもらうかを真剣に考えた。日本企業の対ブラジル投資の誘致をすることがジェトロの重要な仕事であるが、ブラジルのイメージと言えば、「コーヒー、サッカー、サンバ・カーニバル」である。これらのイメージは、観光振興には有効であっても投資誘致には全く役立たない。
 せっかくブラジルに赴任したからには、何とかして日伯の経済関係の緊密化に貢献したいと真面目に考えた結果、たどり着いた結論は、ブラジルについての新しいイメージを作り出し、それを日本企業にアピールすることであった。「コーヒー、サッカー、サンバ・カーニバル、」という昔からのイメージからの脱却である。ジェトロ所内で議論した結果、「技術の国ブラジル」で打って出ることにした。ブラジルには、世界に誇る技術が少なくとも3つある。航空機製造技術、エタノール製造技術、石油の深海掘削技術である。その当時、それぞれの技術については、関係者の知るところであったが、ブラジル政府を含め、パッケージとして「技術の国」を売り出そうと考える人は皆無であった。最初の具体的行動は、2004年5月にサンパウロ工業連盟(FIESP)が日本に大ミッションを派遣し、ジェトロが全面的に受け入れ協力を行うことになった。東京でのブラジル・セミナーには、ジェトロ・サンパウロの澤田吉啓次長(ポルトガル語の達人であった)を講師として送り込み、初めて、ブラジルの新イメージを日本企業に訴えた。
 その後、上記3つの技術に関連した技術情報や企業情報の作成提供を強化した。航空機技術については、世界3位の航空機メーカーであるエンブラエール社の横田聡副社長(当時)に「大阪ものづくりサミット2005」に講師として自費で参加していただいた。05年12月にジェトロが派遣したブラジル投資ミッションでもエンブラエール社を見学し、横田副社長から同社の戦略や技術について説明を受けた。エタノール生産技術についても、サンパウロ・サトウキビ生産者連盟(UNICA)が派遣する日本へのテクニカル・ミッションの受け入れを一手に引き受け、石油元売り等関係先にブラジルのエタノール生産技術の優秀性を広く紹介した。その後もUNICA(サンパウロ・サトウキビ製造業者連合)のカルヴァーリョ会長、ブラジル科学アカデミーのクリーゲル会長、サンパウロ州環境庁のゴールデンベルグ長官などを京都で開催されたSTS科学技術フォーラムに招待し、ブラジルの環境技術や医療技術の発展につき、日本や世界からの参加者にプレゼンテーションしてもらった。ペトロブラス社を取り巻くブラジルのエネルギー事情についても積極的に情報提供したほか、「知られざる技術大国ブラジル」と題する15分のテレビ番組を2006年12月に制作し、ブラジルのエンブラエール社とペトロブラス社の技術力を紹介した。それ以前もエタノール技術についてのテレビ番組を制作していたので、ブラジルの優れた技術をすべて紹介することができた。上記ビデオは、在京のブラジル大使他大使館員に試写したところ、大使から非常によくできているというコメントをいただいた。
 そうこうしているうちに、小泉総理が04年秋に、ルーラ大統領が、05年春に相互訪問が行われ、ゴールドマンサックス社のBRICS論が広まり、05年秋頃から、ブラジルを訪問する日本人ビジネスマンが急激に増加し始めた。ブラジルの航空機も日本航空が10機プラス5機オプション、鈴与が2機購入することが決定した。エタノールの輸入も決断が相当遅れたが、ようやく本格的に輸入する体制になった。ペトロブラスも06年に石油自給を達成した。さらに沖縄の南西石油を買収し、10億ドル規模の投資を行うことになった。その後、2008年の移住100周年、日伯交流年にあたり、日本とブラジルで多くの記念行事が開催され、日本のテレビ、新聞、雑誌でもブラジルを積極的に取り上げられるようになった。徐々に「技術の国ブラジル」に焦点をあてたものが増加していった。このようにして、「ブラジル新イメージ浸透作戦」がようやく功を奏し始めるようになった。
(アジア経済研究所レポート2008年VOL25NO2を基にして加筆修正したものである)
2015年12月下旬



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