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しゅくこさんとの対話を通じての古谷敬冶さんの『青春日記』(中編)
好評のしゅくこさんと古谷さんの『青春日記』を巡る会話は、佳境に入り2回で終了しないようで後編として第3部も掲載することにしました。今回は、丸木さん、藤沢さん、山下さんの手拍子、足拍子も加わり賑わっています。古谷さんの幼稚園、小学校1年生の頃から大学受験、大学時代、商社マンとしての中米駐在時の話まで飛び出しメーリングリスト50年‼の皆さんを喜ばせています。丸木さんが云われるようにしゅくこさんの話を引き出す絶妙のコメントは、さすが作家、写真家、馬の調教師の技のなすところです。しゅくこさんが1962年8月にアメリカ留学時に乗ったあるぜんちな丸の写真を今回は使わせて貰う事にしました。


しゅくこさ〜ん  古谷です
青春日記 第八話をお届けします。今日の第八話は、私に似合わぬ超真面目な
話です。
記憶が薄れて正確でない点はご容赦願うとして、大学の後期の専門課程以外に、選択科目に「教職課程」というのがありました。中学・高校の英語の教師を養成するコースです。確か、四若しくは六単位/年程度の課程だったと思います。
このコースを経て国家試験に合格すれば、教師の資格が得られる訳です。
これは、本来は「子供好きで一生学校の先生でいたい」とか「教職を学問として研究したい」とか言った教職を真面目に考える学生向きのコースです。処がです、「滑り止めに教職課程でも取っておくか、と言った不埒な学生がいました。本当は、卒業後商社かメーカーに勤めたいが、しくじった場合のすべり止めに教職課程を取ると言う不届きな考えです。私は、そう言った学生を唾棄したくなる程心底から軽蔑しました。
私に大学進学を指導してくれた高校の英語の教師、大学で英語勉学の姿勢を説いた羽田講師、後に触れる予定の西語の山田善郎教授(後に学長になった)と言った方々は、講義の内容だけでなく、学生に薫陶を与えた先生方でした。
「三尺下がって師の影を踏まず」どころか十尺下がって猶頭の下げっぱなしの崇高な存在でした。私は、「師」とはそう言った存在と理解しておりましたので、自分のチャランポランな性格から、恐れ多くて教職課程など学ぶ気は無かったのです。
昭和49年12月より二年間文部大臣を務めた教育学者永井道雄氏が、大臣時代に述べた言葉「教科書を教えるか」「教科書で教えるか」。後者は、教師の資質を問うた言葉です。「教科書で何を教えるか」。大臣は教師に問うたのです。
私なりに「何」を考え、意味する所の崇高さに恐れ慄き、私はとても教師にはなれないと考えました。今も、その考えは変わっていません。
しゅくこさん、今日は大変硬い内容のメールになりました。ご容赦願います。
田圃の蛙も、今日は鳴かずに、じっと私の言葉に耳を傾けていました。


古谷さ〜ん & みなさま   しゅくこです
6話、7話で、英語教育について古谷さんの熱い心の内が伝わってきて、そして8話には、叫びともとれる教育者への理想の姿を、まるでみなさまに訴えるような、古谷さんの生の声がひしひしと感じさせられるお話でした。
わたしには固いお話とはまったく思えませんでしたけど・・・。
古谷さんの青年時代は理想的な教育者との出会いがあったんですね。これは宝物ですね。
私は実家が幼稚園をしていたこともあって、幼児教育専門のクリスチャン系の短大に入り、大学のある丘の上の寮で青春時代をおくりました。
とてもアットホームで、少人数の目的を同じくした学生たちが全国から集まっていました。
とくに沖縄、広島、岡山からの学生が多かったようです。
女性学長は50代くらいの独身者で、彼女の住む瀟洒な洋館もすぐ近くの雑木林の中にあり、友人たちと冬の夜によくおしかけたものです。立派な学長室で大きな椅子にゆったり座っている威厳のある学長とは違い、ちゃんちゃんこを羽織った寛いだ姿で、わたしたちを迎えてくれ、一緒にこたつに足を突っ込んで将来の夢を語った思い出があります。
今から思えば、お忙しい学長のつごうなど考えず、ずいぶん厚かましい若者たちでした。
学長は当時の女性にしては大柄でいつもニコニコと美しいおたふく顔で迎えてくれました。
私達の話を迷惑がらずに(などと、わたしたちは思い込んで)しずかに聞いてくれる学長の笑顔はわすれられません。
少人数だからできる、細かいところまでケアの行き届いた大学。
なので、わたしのようなできそこないでも、学長や教師たちとの距離は母親に接するように非常に近く、そんな雰囲気のなか、偶然のきっかけで留学の話が舞い込んできたのでした。
1962年8月、あるぜんちな丸で渡米し、人生が急展開しました。
サンフランシスコから約一時間東に入った留学先は、当時はまだ日本人学生ははじめてで、アメリカ人の先生たちも日本での先生たち以上によくしてくれました。
わたしの1つ前のメリケン波止場から出航したあるぜんちな丸には和田さんが乗船されてました。
それを知ったのは帰国して50年近くたってブログにいれていただいてからでした。
それが導線になり「アメリカン青春グラフィティ」を載せていただけるきっかけになりましたので、なにがどうなるか。人生は面白い偶然や出会いに満ちていますね。
マスプロダクションの有名大学に入っていたら(もちろん私の頭では入れませんでしたが)
また、中学や高校のように、いじけて暗い迷路に沈没していたことでしょう。
古谷さんの青春日記を拝読していると、わたしにもよい教師たちとの出会いがあったからこそ、いま生きる支えになっていると、今回の青春日記でしみじみと思い出させていただきました。 感謝。
さて、次の話がどうなるか、🎶、たのしみ 🎶 


丸木で~す
しゅくこさんは日米両国で理想的な学生生活を体験されてますね。
日本の有名大学は受験地獄で入るのが難しいけれど出るのは易しい大人の幼稚園です。
両国ともに規模は小さくてもユニークな学校があり、ボストン近郊のロブソンカレッジなんかは就職斡旋は一切せず、卒業と同時に起業家になる教育をしてます。
姫路の県立大学なんかもユニークな教育をしてると聞き及びます。
それにしても、うら若きハタチの女性が単身で移民船に乗ってアメリカに渡航された勇気には敬服します。
現在ここトロントには多数の若い日本人がワーキングホリデーのビザを利用して滞在してますが、殆どが何も学ばずに日本に帰ってからはフリーターとかになるらしいです。


丸木さ〜ん & みなさま      しゅくこです
読んでいただいてありがとうございました。
1962年、8月。あるぜんちな丸に乗るまで、移民の方たちの存在をしりませんでした。
高校までは受験勉強、それから短大の寮生活。そしていきなり留学。
それまでは移民のイの字も私の住む世界では話題にのぼったことも、聞いたこともありませんでした。
それとも、世間一般の方たちはご存知だつたのでしょうか?
その辺の時代は、ちょうど船から飛行機に移るはざま期で、まだたくさんの貧乏留学生が船で海を渡ったものです。
女の子だからといって念のため4人部屋の二等船室でしたが、甲板の卓球台はだれもが使える緩い規則だけで、わたしは三等船室の同世代の青年たちと毎日ピンポンに興じました。
白い玉が弾けて太平洋に飛んで行ったその先には鯨が潮を吹いていて 私たちは歓声をあげたものです。
ロスに着いたときは父母の仲人をしたN氏が迎えに来てくれていました。
N氏というのは、もと母の婚約者であった日系の方で、健康上の事情があってアメリカに帰り、その後もなにかと戦後の困窮のなかの私たち家族を支え続けてくれました。
すべてお膳立てされた、なまっちょろい留学生だったわたしに、同船の移民の方たちの今まで目にしたこともない爆発的なエネルギーに圧倒され、その後の人生になにかの啓示を与えてくれたのかもしれません。
いまになって飛行機ではなく、あるぜんちな丸でよかったなとつくづく思います。
       

しゅくこさ〜ん  古谷です。 青春日記その9
硬い話ばかり続きましたので、今日は柔らか〜〜い話をします。
大外大のスペイン語の卒業生は、企業の駐在員として、中南米各地に駐在していました。大学の某教授、夏休みを利用して、中南米各地を漫遊旅行を楽しみました。
各都市の卒業生を訪ねて旧交を温めるとは表向きの口上で、嘗ての教え子の世話で、各地を漫遊旅行するのが目的でした。下手に旅行代理店のプランに乗ると目を剥く程お金を取られますが、某教授の場合、負担は航空運賃とホテル代の実費だけ。しかも、某航空会社に卒業生が勤めているときたら・・、言うだけヤボ。各地の駐在員は旅行代理店以上に観光案内に詳しく、しかも毎日食事は自宅かレストランで饗します。丁寧な空港への送り迎え。しかも、土産物付き。外大教授の特権(?)を利用した至れり尽くせりの大名旅行とは、正しくこの事。
NYからCaracas に飛び、Buenos Aires から、Santiago, Lima, Bogota, Panama, San Jose, San Salvador, Guatemala City, Mexico City, Los Angeles と行ったルートで北上したのですが、スペイン語の卒業生が居る事を確かめた上での旅程の設定。旅程は事前に各地に連絡されているので、空港での送迎に抜かりはありません。
当時、私はGuatemala に駐在していましたので、Chichicastenango と Antigua に案内しました。Chichicastenango には有名な教会があり、毎日Indio がカンテラを炊きながら、礼拝しているのですが、表向きは征服者(スペイン人)に強制されたキリスト教で礼拝しているものの、心の底では、インデイオ伝来の宗教に沿った祈りを捧げていると言う「逆隠れキリスタン」で溢れた教会でした。キリスト教の様な明るい雰囲気は無く、何とも言いようの無い陰鬱な、抑圧された’雰囲気が漂った教会でした。


その後、教授を Antigua へ案内しました。
Antigua は、スペイン統治時代にメキシコの南部から中米の略全体に亘る広範囲の行政府でしたが1717年・1773年の二度に亘る大地震で、街は廃墟と化し、首都が今のGuatemala City に遷都した経緯があります。なまじ、地震で廃墟と化したため、遺跡が当時の姿を留める事となり、逆に観光資源として復活する事になりました。 
メキシコから南米大陸に住む三大インデイオ族に、Mexico の Azteca 族、ユカタン’半島からGuatemala 北部にかけて分布した Maya 族、Bolivia の Inca 族があります。
同じマヤ族と言っても、更に部落が細分化されていて、一山超えると言葉が通じないと言った恐ろしい世界でもあります。彼らは、街から遠く離れた山の裾野に建てた藁葺の掘立小屋に住み、水道・電気・ガスなど無い縄文時代の様な生活を送っていました。グアテマラ政府が、彼らの生活様式の近代化を図ろうと市の外れにアパートを建て、半ば強制的に住まわせようとしましたが、インデイオはアパート生活に馴染めず、皆山へ逃げて帰った経緯があったとの事。
逆に、Nicaragua を共産主義化したキューバのゲリラ分子が、グアテマラの山中でインデイオを洗脳しようと図りましたが、インデイオは生活の変化を好まず、警察に通報、軍がゲリラを討伐した歴史があります。所詮、インデイオとは、白人社会と土産物の売買等で僅かに接点があるだけの別社会の人種。
教授は、白人とインデイオの別世界が共存するGuatemala の様な話は、恐らく他国では聞かれなかったのでしょう、半ば感に耐えかねた様子で、「フルタニ君、有難う。お陰で、この歳になって猶新しい事を学んだ。だから、教授と乞食は3日もすれば、止められないと言うのだよ」。「教授、お役に立てて光栄です。」 


しゅくこさ〜ん  古谷です。 青春日記 第十話をお届けします。 
一寸、イライラした話です。
高槻の下宿で色気たっぷりの若後家に散々世話になったA君、三年生になって、大阪本校に移動、近くに新たな下宿を求めました。色
気抜きのまともな下宿でした。
根はマジメなA君、三年生になってから、猛烈に勉学に励んだ結果、優秀な成績で卒業。市内の家電メーカーに就職しました。
私が、七年間の海外勤務を経て、泉北NTの自宅から大阪本社に勤務していた時の事。帰宅時南海難波駅の改札口で、何年振りか偶然に
A君に出会ったのです。風の噂でA君はLima に出向いていると聞いていたので「よーツ、久しぶり! いつ戻ったのか? リマでの後家殺しの成果は?」と聞いている時に、これ又、偶然に山田教授にバッタリ出会いました。「おーツ、君たち、随分と久しぶりだね。懐かしい。
一寸、そこらでコーヒーでも飲まないか?」近くの喫茶店へ、其処では、教授ヒトリで喋りづめ。教授は全く尊大な処は無く、まるで八百屋のオッサン風。それでいて、滅法記憶力が良く、卒業生一人々々の名前を覚えているから始末が悪い。
喫茶店を出て、再度改札口を通って、三者三様の行き先。別れる直前まで、教授の独演会。到頭、後家殺しの成果を聞けず仕舞い。
兼好法師「徒然草」(19段)「思しき事言はぬは腹膨れる業なり」「言はぬ」も「聞かぬ」も私には同じ事。 


古谷さ〜ん & みなさま    しゅくこです
9話の「ちゃっかり教授」の話、10話の「山田教授の独演会」たのしみながら読ませていただきました。
これは、たまたましゅくこ宛てになっていますが、個性豊かな古谷さんのこと、「青春日記」をみなさんが見逃すわけがありません。
きっと多くのメンバーの方がクスクス笑ったり、そうそう、とうなづいたりして楽しんでらっしゃると思います。
「硬い話ですが、」とか前書きがいつもありますが、中身がすべて私の期待を裏切って(笑)柔らかくて読みやすい内容でした。書かれる中身が堅苦しい内容であっても、それをうまく料理して食べやすい形で出される技をご存知で見習いたいものです。
9話は、海外に赴任している教え子たちをちゃっかり利用して海外旅行をする教授の話。
最後のグアテマラにいらした古谷さんのもてなしのオチのつけ方はピカッと光るエピソードでした。
また教え子たちも教授のもてなしを断らずにお世話する。
ホントに嫌な人なら、なんとでも断る理由があるはずなのに。
きっと憎めないところもあった教授のようですが・・。
10話は難波駅の改札口で偶然であったA君とまた偶然にであった山田教授と喫茶店へ。
難波から出て、階段をおりた左側に1960年代からまだいまでもあるはずの、あの喫茶店(名前はわすれましたが、)ではないかと想像しながら拝読しました。
私も一番苦手なのは一人で演説する人です。自分もそうならないように気をつけなきゃ、と思いました。
こんなときには、わたしなら「ちょっとA君と個人的に話したいことがありますので、」とさっさと山田教授をあとにして、A君を促すかもしれません。
でも、古谷さんはもっと優しいタイプの方なんでしょうね。
9話も10話もちょっと気の利かないでも憎めない教授と、やさしい生徒たちの風景が彷彿といたしました。obrigada
写真は有馬富士です
   

古谷さん  藤沢です
お若かった日々の生き生きした描写、楽しませていただいています。いつもとは異なる趣の、古谷さんではない別人のお話かと思うほどです。多彩さに脱帽です。これからも楽しみです。


藤沢さん 古谷です
お褒めに預かり、恐縮しております。汗顔の至りです。
私は神戸市の生まれ、しゅくこさんの話に親近感を覚え、メールをお送りしたのが、隘路に落ち込む羽目に。
此方は、彼女の太鼓の音に合わせて踊るサル。調子に乗って、拾話まで来ましたが、もうネタ切れです。
第一走者として百米を走りました。第二走者にバトンを渡したいのですが、何方か居られないでしょうか?


丸木で〜す お会いした古谷さんはユーモアに溢れた好人物ですから青春日記が彼の本性でしょう。ブログでの異常なまでの強力なディベート論法は鎧禿を被った姿だと思います。しゅくこさんの叩く太鼓にほだされ本当の古谷さんが浮き彫りにされなによりでした。
終戦直後の日本のGNPがグアテマラ以下だったそうですが、その様な国で駐在員をされてた体験なんかは貴重な逸話です。続編が楽しみです。


しゅくこさ〜ん  古谷です。 青春日記その11 「闘牛士」 
駐米のサン・サルヴァドールに駐在していた折、所要でメキシコに出張しました。仕事を終えた日曜日、同地に駐在する大学の先輩に闘牛を見に連れて行って貰いました。無論、私は闘牛を見るのは初めてです。
本場スペインの闘牛士達は、シーズンオフは、メキシコや南米に遠征します。私がメキシコで見た闘牛士は本場の一流の闘牛士でした。三組の闘牛士達が、二回ずつ実演を行い、約三時間のショウでした。
闘牛の実演に就いては、下記のURLをご参照下さい。これは、スペインでの闘牛のユーチューブです。メキシコの適当なユーチューブが無かったので、代用しました。
スペインの闘牛場の客席の勾配は緩やかです。
www.youtube.com/watch?v=_zaqK_SunHw">https://www.youtube.com/watch?v=_zaqK_SunHw
Matador (闘牛士)が牛の命を絶つ瞬間が、実演最大の華で、その技術の巧拙で、闘牛士の評価が決まります。牛は、槍・銛で背中を刺され、息絶え絶えに弱っていますが、未だ生きています。闘牛士は、サーベルで牛の延髄を断ち切って絶命させます。
牛は即死で、どう〜っと横転します。延髄を完全に断ち切らず、傷つけるだけだと、牛は座りこんで、非常に苦しみます。この巧拙が闘牛士の評価を分けます。前者の場合、闘牛場割れんばかりの大拍手。後者の場合、耳を塞ぎたくなるほどのピーピーという侮蔑の口笛。
闘牛士がとどめを刺す直前、観衆に向かって、サーベルを高く掲げて見栄を切ります。
観衆は「Mátelo.,Mátelo!(殺せ)」の大合唱。
先輩は、「古谷さん、真面目に前ばかり見ないで、偶には後ろも見なさい」と。何と普段は淑やかな良家のお嬢さんと思しき女性が、「マテロ!マテロ!」と叫び、興奮して脚を踏みならず余り、スカートが跳ね上がって、中が丸見え。これも高い入場料の一部か? メキシコの女性を嫁さんに貰うと、踏んづけられたかも。


古谷さ〜ん & みなさま     しゅくこです
No.11 の「闘牛の話」 古谷さんがエル・サルバドルに駐在中、メキシコで観戦された闘牛場での話。
はずかしながら、中南米は旅行したことがなく、今回は地図でみながら楽しませていただきました。アメリカではメキシコやコスタリカ出身の学生たちと仲良くしてもらった経験があり、とくにコスタリカの女性は世界でいちばん気持ちのいい陽気な人で忘れることができません。
なので一度は行ってみたいとおもいつつ、そのうち忘れられた存在になっていました。
さて、 普段は淑やかな良家のお嬢さんと思しき女性たちが、「マテロ!マテロ!(殺せ、殺せ)」と叫びとありましたが、その感覚は日本人にはないのでは? すくなくとも私のまわりではゾッとするような光景だと思う人がほとんどです。You Tube をみましたが、「殺せ、殺せ」と絶叫する観客の中で、(ほんとはやめたいのだけど・・・と)泣きっ面でとまどっている牛の動きをみていると、悲しくなりました。
闘牛をはじめ、闘犬、闘鶏、競馬、など動物を戦わせて、お金を払ってそれをみて喜ぶ趣味は、文化の違いといわれればそれまでですが、生理的にうけつけず、たぶんまわりの女性友人たちも、こんなのなにがたのしいの?というでしょう。(かといって、わたしは牛肉も鶏肉も好きなのですが)
最後のオチで興奮して脚を踏みならす余り、スカートが跳ね上がって、中が丸見え。これも高い入場料の一部か? メキシコの女性を嫁さんに貰うと、踏んづけられたかも。と、古谷さんの小粒でびりっと効いた笑いが入り、読んでいて気持ちが救われました。

古谷さん みなさん 山下@リオです
古谷さんのシリーズは文句なしの5つ星。ぜひ継続してください。
私も、闘牛場で、牛が痛さに泣くのには、びっくり、見るに忍びませんでしたが、血が出て、泣く牛を見て、若いスペイン女性が、大興奮するのには、恐ろしさを感じました。


山下さん  古谷です
お褒めに預かって恐縮しております。
しかし、恐れていた事が現実になりました。「もっと続けろ」と言うご要求です。
猿回しのサルも、調子に乗ってシュクコさんの太鼓に合わせて踊っているうちに疲れ果てました。暫く、休ませて下さい。
財布の隅にへばり付いていた小銭が見つかりましたので、これを打ち止め(?)として別信でお送りします。
貴別信で仰っているポルトガルの闘牛。仰せの通り、ポルトガルでは、闘牛を殺しません。生きた儘退場させます。要は、スペイン/ポルトガルの民族性の違い、つまり、闘牛に対する感覚の違いであろうと。
両国の違いに就いては、下記のURLをご参照下さい。
スペイン人が「闘牛」に就いて語るのは、「闘牛士と牛の命を懸けた戦いであり、勝負は一瞬で決めねばならぬ」と。それが為、闘牛士が牛を仕留める際、瞬時にトドメを刺す要があり、苦しめてはならない。これが芸術と言われる所以である、と。
日本人に取って理解しがたい概念ですが・・・・。


丸木で〜す イギリスがアメリカ原住民を攻撃した西部劇さながら、スペインも原住民を殺戮しました。ポルトガル人は原住民とだけでなく移入されたアフリカ人とも混血してます。ブラジルの日系も最近では混血が増えて姓名の姓が日本語でない方が多くなってますね。新田次郎原作で息子の藤原教授が完結した小説サウダーデでもポルトガル人は情緒的で日本女性を崇拝し嫁にしてます。


しゅくこさん  古谷です
山下さんから、「青春日記」をもっと続けろとのご用命を頂戴しましたが、正直に申して、元々、ネタは多くなく、財布が空っぽになりました。
下記を最後の最後としてお送りします。
「青春日記」 第12話
グアテマラ駐在時、長男の高校受験を控えて、女房が子供を連れて先に帰国し、数ヶ月私は一人任地に残った時の事でした。
連休を利用して、日本人六家族が隣国のホンジュラスに旅行した時の事。
夕食後ホテルのプールサイドの長椅子に寝そべっていて、不注意にも体長四センチくらいの大きな蚊に刺されました。帰宅して、2−3日後、猛烈な高熱に魘されました。女中が、私の好きなうどんを作って呉れたのに、1−2本のうどんしか食べられません。白い壁と天井の仕切り線が見えず、ずんべらぼー。会社から、人事部長と運転手が来てくれ、立てない私を担いで病院へ。
医者は、私の茹で蛸みたいな顔を見るなり、即座に「マラリアだ」と一言。
女子プロレスラーみたいな大女の看護婦にパジャマのズボンを引き下げられ俺の童貞を犯すのかとの懸念などお構いなしに、ムンズと縦四方固め。何と医者が陸上競技のリレーのバトンくらい大きさの注射器で、右の臀部にブッツリ突き刺しどくどくと注射を打ちました。イタイと言うより、注射液の多さに目を剥きか細いケツに入る訳がないとぼやくも何のその、無理に押し込んだ結果、脚が棒の様に攣って感覚が無くなりました。
医者はニッコリ笑って、「セニョール、フルタニ、これでよくなるよ」と。
注射液に睡眠薬が入っていたのでしょう、直ぐ眠気が襲ってきました。何時間寝たのでしょうか、目覚めた時は、注射のお陰で頭痛も悪寒も無くなっており、出されたパンとスープをケロッと平らげました。流石、マラリア多発国の医者だけの事はある、治療の慣れた事。
退院後、一ヶ月ほどして、帰国命令を受け、念の為に医者に「マラリア完治」の証明書を書いて貰って、本社の診療室で見せた処、保健婦曰く「フルタニさん、よくなって良かったね。日本にマラリアの治療薬などありませんヨ」と。
三途の川を途中から引き返したのは宜しいが、文明国日本にマラリアの治療薬が無いとは。アメーバの潜伏期間中に帰国する旅行者への対応は?


古谷さ〜ん     しゅくこです
クスクス笑いました。もうネタがきれた。終わります、とおっしゃりながら、
断り切れず? 、では、もう一つ、では番外編、と人のよさそうな古谷さんの一面が垣間見えてほほえましいです。
ところで、ホンデュラス? ? どこだ? と今回も地図のお世話に。
いかに中南米を知らないか。 
マラリア! 4cmもの蚊  <ーーーーーーーーー> というとこれくらい。
大きすぎる。強烈ですね。 うちのイペの葉にくる青春のカマキリのサイズです。
女子プロレスラーのような看護婦にはがいじめにされ、リレーのバトンほどの長さの注射器を臀部にブスリ。
申し訳ないですが想像して笑ってしまいました。
25-6年前のお話でしょうか。 
写真は聖路加国際病院。105才の名誉院長であり、また現役医師であった日野原dr.が亡くなられた。
敬愛していた先生だけにいつかは来るだろうと思っていた日がきてしまいました。 



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