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城島学校 あるブラジル日系企業の足跡(2)
城島学校には親しい友人、知人がそれぞれの証言、思い出等を寄稿しておりますがそのうちの一つ編集責任者で私と同級生の山下 日彬(テルアキ)さんの『クラブ活動で頑張った』
を転載させて貰います。写真は、昨年リオのBARRA de TIJUCAの海浜を早朝に二人で歩いた時に撮らせて貰ったものです。
現在の職業=ヤコングループ代表。中南米専門の経営コンサルタント、国際宅急便、情報サービス、エヤーカーゴサービス、宣伝プロモーションサービス、サンパウロ、リオ、ブラジリアに11拠点、国際空港に事務所。従業員=70名。1940年生。一男一女の父。マッケンジー大学経済卒。趣味=読書、水泳、パソコン。丸いボールは何をやらせてもダメな人。(1993年同書発行当時の資料)


 私がブラジルへ行くといいだしたのは中学のときだった。祖父が船舶関係の仕事で、若いときにブラジルヘ行ったことがあり、ブラジルでは土地を買うのに実測せずに、馬を走らせて決める、その時替馬をかくしておくと、大土地が手に入るとの話が気に入って、ぜひ孫を通じて実現しようとけしかけたからだ。
 中学の時は親の許可が出ず、社会科の先生が今時高校にも行かないのは将来悔いが残ることになるからと高校の入学願書を本人に無断で届けにいった。そうゆうわけでいやいや神戸高校に入り、もとより勉強等する気もない。放送委員会に入り授業は公認欠席届を出してさぼって遊んでいた。
 ある日ブラジルの実業家の校内講演があると知り参加したのが城島氏との出会いである。眼光するどく、声は低いが説得力あり、校長の説明では大実業家とのこと、すぐにブラジル移住を決めた。何の会社か聞いてみると貿易商社とのことなので、卒業後すぐに渡伯せずにちょっと勉強してからと許可をもらい、大阪の府立貿易専門学校に一年通ってから五九年月着伯した。 
 社員10名位で想像したより小さいが第一印象で、ペンソン住まいとなった。
 親父が町工場で真空管のベースなど製造していたので10才ごろから半田ゴテを持つチャンスがあり、高校時代でもテレビ組み立てなどで当時の大学初任給の数倍のアルバイト収入があったのが一挙に生活レベルが下がってしまった。
 それでも自分が好きで来たブラジルだから全然気にしないで真剣に働き始めた。
 最初は商品入荷を手伝ったりしたが、自転車の部品が多く、チーェンは一箱約100キロの木箱でブラジル人のカレガドールは平気で頭で運ぶが、こちらは転がすのがやっとでバタンバタンと転がして最後に必死の思いで積み上げる。そのうちフリーホイールの500個入りが入荷し、300キロ近くあり自分の力では押しても引いてもびくともしない。
 これはいくら何でも自分には無理である。もっとかるいものにしようと、中学時代から趣味でいじっていたテープレコーダーの取り扱いを社長に申し出た。
 一九五九年ころというとトランジスタラジオが出たばかり、テレビはまだ白黒で真空管式、テープレコーダーなど普通の人はさわったこともない時代である。
 その後何年もかかって軌道にのせたのが、趣味から始まり、後は松下電器の普及商品開発の波にのることができたことが運が良かったといえる。
 当時はのんびりした時代で、輸入事務も半日かけてコレポンを書き社長の添削を受けてカーボンを入れて清書する。電文など11字又は21字にまとめるのに数回書きなおす。輸入ライセンスのタイプは1日がかりで、もっとも大商社の新入社員でも封筒の上書きなどやらされていた時代だから業務内容に大差はなかったはずである。
 ちょうど日本は経営学書ブームで、かたっぱしから取り寄せた。1メートル四角くらいの本棚があって、東海林正和君と二人で、この本棚をいっぱいにしようなどといっていたらすぐいっぱいになった。
 経営学と松下システムを実践するのだから、営業の方はどんどん進んだ。仕事が面白いから残業手当はなかったが毎夜11時まで働いた。
 自分の資金を動かすのでないから資金繰りなど気にせずぐいぐい引っぱった。仕事の分担は自然に日本人が営業企画、ブラジル人が販売、二世が経理ということになったが、片や日本の経営学教科書と松下システムを勉強し14時間くらい働くのに対し資金繰り担当者は目のまわる忙しさであったと思う。
 それでも条件にかなって伸びているときは営業が暴走しても資金繰りはついてくるもので、最初のころは輸入するのに資金が一銭もなくても、輸入する商品を担保に銀行がL/Cを開けてくれた。南米銀行にもずいぶんお世話になった。
 そのうち売りが増えて、売り上げはそこらの銀行の資本金以上になり、手形を持って行っても一行では割引してくれなくなった。これは計算に入っていなかったが、取引銀行の数はどんどん増えて六〇行にもなり、財務が最大の人員を抱えるようになった。段々と不利な借入も行うようになった。通常であれば自己資本の強化が行われなければならないが、その逆の不運も何度かあった。
 1970年になって輸入制限、国産代替政策になり、ブラジルのみではだめだからと中南米への進出拠点を提言、マナウス高橋支店長、パナマ渡辺支店長、アルゼンチン森山支店長が選ばれて進出した。中南米への進出は私個人の夢でもあったが、金なしに一人で行って適当にやれの無茶な方針で城島商会の危機には間に合わなかったがその後独立しこれらの強者達は独力で軌道にのせたから大したものである。とにかくよく働いたが、趣味で昼夜努力した感があり学校のクラブ活動のような雰囲気で当然資本家より見ればツメの甘さはあったと思う。風船もふくらませつづければいつかは破裂する。色々と批判する人もあったが、しかしそれでなければ自転車雑貨取扱で終わり、社長も頻繁な海外旅行はできず、500人の従業員は雇えなかったとなぐさめてくれる人もいた。急成長の推進者である関係上、責任を感じて、輸入中止後のアフターサービスや残務処理の一切を引受けた。今の髭は税務署の監督に自ら居留守を使うための変装である。
 実に色々なことがあったが、まったく何も知らずにブラジルに来た若者にこれだけのチャンスと経験を与えた人もいないだろうと城島校長には心から感謝している。



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