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拓 跡  リオ・グランデ・ド・スール 日本移民第1回 1956-1996
移民船ブラジル丸は、リオ・グランデ港に初寄港。23人の単身青年移住者を運ぶために23人が下船した後、ブラジル産大豆をからになった船倉に吸い込むように積んだ。夕闇せまる埠頭には引受人のない23人の青年が50日間のわが家だった船と別れ、正直言って置き去りにされた感じだった。船上からは壮途の祝詞、別れの曲が流れてくる。岸壁の青年達は大きな声で手を振り、さようならと叫んだ。ブラジル丸がシルエットを小さくしてゆく。ボーツと最後の汽笛を鳴らした時は、皆沈黙の直立不動で涙をふくてはもち得なかった。66ページの『拓跡』に掲載された戦後最初のリオ・グランデ・ド・スール州への移住者23名の単身青年を乗せてリオ・グランデ港に寄港したブラジル丸の写真の説明文である。
この単身青年23名のブラジル定着40年を豊富な写真と共に記録した記念誌『拓跡』を編集者の栗原 隆之さんから寄贈して頂いた。貴重な資料でもあり出来るだけ転載させて頂きたいと思いますが、まず『拓跡』の表紙と栗原さんのご挨拶を掲載して置きます。栗原さんは現在も南日伯援護協会の事務局長として南伯の日系コロニアの皆さんのお世話をして下さっています。


ごあいさつ   栗原 隆之
 ブラジルの最南端、リオ・グランデ・ド・スール州に、40年前我々23名の単身青年が上陸し、戦前からの先輩移住者の方々と力を合わせ今日まで頑張って来ました。着伯当時の我々は、先輩諸氏には大変な負担となり、迷惑となり、やっかいな存在だった事と充分想像出来ます。箸にも棒にもかからぬ“新来青年”だったわけです。ここに40年を迎えた現在でも、新来青年と言う、この名称には胸の熱くなるロマンの響きを感じます。
 この様な我々の今日あるのも、又、現在の日系コロニアの繁栄も、全て開拓先住先輩の皆様のお陰であると思考します。今は亡き先没先輩の霊に対しお礼の詞を申し述べ感謝の意を表したいと思います。
 昭和31年(1956)6月30日神戸を出帆した第7次航海ぶらじる丸は、第1次ドミニカ移住者のために途中ドミニカに寄港し、8月14日サントスに入港、入国手続きなどを終え、目的地リオグランデ上陸は8月20日でした。単身青年移住二三名がブラジルに新天地を求め、当時日本移民を始めて受け入れる為に門扉を開いたこのリオ・グランデ・ド・スール州へ、我々は直接に第一歩を印しました。以来40年、ブラジル国造りの一翼を担い、それぞれの分野で活躍し、各自の生活を築いて来ました。想い起こせば、当時日本は外貨制限の時代でした。一人当りの携行ドルは50ドルと制約がありました。
 我々は生活の基盤造りにも単身と言う大きなハンディがあり、長い時間が必要でした。それぞれ60を数える年齢に達しましたが、これから先も、今日までの足跡を振り返り、同時に今後の課題を考え、移住の意義を探求しもって、次世代の育成に優先努力し、日伯交流の地域社会の拠点作りに貢献して行きたいと思慮しています。気候風土、風俗習慣の異なる、言葉の通じない、日本の反対側にある、一番遠い国、ブラジルへ親兄弟と離別し単身で、トランクと、49レアル55センターボスを携行資金に(現在の換算率)良く渡伯して来たものだと思います。40年前の若さとロマンのなせるワザでしょうか。この様な我々にも立派な伴侶がさずかりました。神の祝福によるものでしょう。今日に至る事が出来たわけで、何は共あれ、それぞれのベターハーフにここらで感謝の念と、より以上の親愛の情を、何らかの形で表現し、家内安全、世界平和の為に!! 今後益々共存共栄有効親善に努力して行きたいものです。
 (平成14年8月12日タイプアップ 和田 好司)



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