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ありがとう!ブラジルでの日々。ドトール・ピント・フェライス通り物語。
私たちのあるぜんちな丸第12次航より3年も先輩のあるぜんちな丸第2次航(1959年2月横浜出港)でブラジルに渡りリオとサンパウロで修行を重ね、帰国後1962年4月26日に現在の(株)ドトールコーヒーを創業された鳥羽博通(とりば ひろみち)さんのDoutor Story ドトール・ピント・フェライス通りが(株)ドトールコーヒーのHPに掲載されているのを見つけました。現在は801名の社員と年商500億円(平成14年3月期)の大社長さんの若かりし修行時代から現在のドトールコーヒーを創り上げるまでのお話です。写真もHPからの転載でサンパウロで住んでおられたドトール・ピント・フェライス通りです。字数制限の関係で2回に分けて掲載させて頂きます。


@ 青年は、ブラジルをめざす。
終戦から14年が経とうとしていました。荒廃の中から立ち上がった日本が少しずつ自信を持ちかけてきた頃、国民の心を一にする吉報が日本中を駆け巡りました。
 皇太子殿下(現、天皇)のご成婚。
ちょうどその慶事を4月にひかえて沸きたっていた1959(昭和34)年2月のある朝、一人の青年が、横浜の山下埠頭からブラジル行きの船に乗り込みました。「あるぜんちな丸」と名づけられたその船はその日が2回目の航海でしたが、20歳の青年にとっては“処女航海”でした。
 色とりどりの紙テープの中、船は緩慢な動きでしずしずと港を離れます。この時デッキで、将来のコーヒー業を夢見て「ついに、日本を出てやったぞ!」と静かに燃えていた青年こそ、ドトールコーヒーの創業者、鳥羽博道の若き日の姿でした。

A 毎日が刺激的
鳥羽青年を乗せた「あるぜんちな丸」は、横浜からロス、パナマ、ベネズエラと42日間の航海を経て、ついにリオデジャネイロの港に接岸しました。憧れのブラジルに第一歩をしるした鳥羽は、そののち、見るもの聞くものに感激と驚きの日々を送ることになります。
 道で知り合いに会うと「コモ・バイ!(やぁ、しばらく)」「トマ・カフェ(コーヒー飲もうか)」とバールと呼ばれるドトールコーヒーショップのような店に入ってサッカーの話に興じ、また時間をつくってはコーヒー農園を訪ねて作業工程を学び、現場監督として現地の労働者と共に汗を流しました。
 地平線の彼方まで広がる広大な農園。そこにお城のような農園主の家と自家用の飛行機が。そんな光景を目のあたりにした夢多き青年が、「いつの日か、自分も農園主になりたい!」と野望を抱いたとしても不思議ではありません。

B ありがとう!ブラジルでの日々
ブラジルでの日々は、コーヒーをはじめとする様々な異国の文化が、真綿に水がしみ込むように鳥羽の中に入り込み、刺激しました。その証拠に、20代のはじめにコーヒーの本場で体で学んでことは、なにものにも代えがたい財産となって今に生きています。
 リオに半年、サンパウロに2年のブラジル修業。その時にサンパウロで住んでいた住所が「ドトール・ピント・フェライス通り85番地」といいました。

C 喫茶業って、なんのためにある?
ブラジルから帰国した鳥羽は、約1年の準備期間を経て、コーヒー豆の焙煎会社を設立します。1962(昭和37)年、鳥羽24歳の春でした。社名は、サンパウロで住んでいた地名にちなんで「ドトールコーヒー」と名づけました。
時あたかも高度大衆消費社会の兆しが見えはじめていた頃。人々は、心身共にかつてない消耗を強いられる時代でもありました。
そんな流れを背景に、鳥羽はいつのころからか抱き続けてきた“喫茶業の意義”を、実現・追及してみたい欲求にかられはじめていました。その意義とは「一杯のおいしいコーヒーを通じて、お客さまに安らぎと活力を提供すること」。それこそが喫茶業の使命である、と。鳥羽の中で強く沸き上がってきたこの理念こそ、いまも「ドトール」の味づくり・店づくり・人づくりに脈々と息づいている基本精神でもあるのです。



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