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南米開拓前線を行く。その4 松栄 孝
南米開拓前線を行く。その4は、15から26までの松栄さんの毎日の貴重な写経です。第1章第2節の用語及び訳語に関しから始まり第2章第1節農業拓殖学の定義と研究対象までの途中までとなります。毎日の仕事の合間を見つけ写経を続ける松栄さんの呟きが時々入り、難しい論文を離れほっとする時間がありこれがまた面白いです。その日その日の松栄さんの呟きを聞きながらのんびりFLWして行きましょう。写真は、カリフォルニアの村松さんが送って呉れたものがその5までありますがその後がありません。何方か適当な写真を送って下さい。お願いします。


南米開拓前線を行く 15 
第一章 学論研究の序説
第二節 用語及び訳語に関し
ーーーーーーここから4月24日記入(23日空白)
東京農業大学は、昭和12年専門部に農業拓殖科を設けたことがある。これは満州事変後、当時満州移住がようやく盛んになり始めた時代で、所謂国策による移住政が強化されようとしていた時代であるが、かかる時代に敢えて拓殖の文字を用いたのは如何なる意味なのか、当時世をあげてそれこそ大和民族の volk planting を叫ぶ時に、殖の字を用いたのは勇気を要した事と思う。或は繁殖の殖であると説明されたのかも知れない。しかし今日においては、拓地殖産の義と確定すべきであろう。確かに人間が繁殖もするが、それは結果現象であって、拓殖活動それ自身はその基礎たるべき拓地殖産の活動であるからである。
 「拓殖」と「農業拓殖」ーー前記の如く、拓殖の文字が土地を開拓し、産物を増殖するためであるが、この産物が何であるかによって農業拓殖にもなれば、もっと広い意味にもなる。ただ人類が太古以来四散して、土地を開き産業を興した歴史の主流は食物の確保が根本動因と考える所から、人々は慣習的に拓殖と言えば土地を開拓して農産物の増産を図る事と解釈しがちである。東京農業大学の学生同士が、態態農業拓殖学科と正称せず、ただ拓殖と略称する場合の如き、この略称の中に、すでに農業拓殖の意味があるものと思うからに他ならぬ。これは柘殖=農業拓殖同義説である。
 しかし私は、これは厳に区別すべきものと思う。拓殖の概念はこれを広義に解すれば、つまり殖産の意味を動植物に限らず、鉱業、工業の産物、或はそれらの産物をして価値を高める商業や交通、又は、自然物を価値あらしめるだけでなく、要開発地域の人的資源の能力の開発増進と言う事も含ましめると、教育や医療に至るまでも含み得る。拓殖の概念の広い仕様を考えると、これらの各般の拓殖活動の中から、農業を目的とした拓殖活動を限定する場合に農業拓殖活動をとらえる事が出来る。それは知識を整理し、農業拓殖活動とは何かを明かにする責任上からもこの概念を区別せねばならぬ。太古においては拓殖即ち農業拓殖でよかったかも知れぬが、現代では、拓殖活動は益々広く,益々複雑なる形相を呈しつつある。よって、拓殖は広義であり、農業拓殖はその一部であるとせねばならぬ。しかし一部ではあるが、拓殖と同義語の時代もあったと言う事が出来る。

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。みなさん、また失礼しました。25日記入に際し、夕べ(24日深夜)送信させてもらった書き込みを再編集しようと思っていて、再編集を押したつもりが送信になってしまい、同じものを2回送りました。すみません。
夕べ深夜(日付けが変わって)、またも不明な字が現れ、理解できず、そこまでにしました。
奄う という字の読み方も、意味も分からなくてストップしてしまいまして、区切りの良いところで切りました。
奄は 音読みで エン とよむのだそうです、訓読みは おお と読んで 覆うの意味らしい。(音読みは呉音・漢音ともに『エン』、訓読みは『奄(おお)う』です)

南米開拓前線を行く 16 
第一章 学論研究の序説
第二節 用語及び訳語に関し
―――――――ここから4月25日、昨日の続きです
それは拓殖活動の未分化の時代であり、農業が拓地殖産活動の全てを 奄うた時代である。拓殖と農業拓殖と往々区別せられるのは、この様な歴史的な理由があるのであるが。区別して用うべきである。
「農業拓殖」とその訳語についてーー植民なる日本語がコロニー(Colony)なる欧語の訳出から生まれ、はじめこれを volk plantingと蘭語の説明のまま用いた事が、やがて植民或は植民なる語となった事は、(マツエ注・同じ字 植民と植民、となるがここは後の文字は殖民ではか・と思いますが…? 原文のままで)
新渡戸博士の研究によって明らかにされたが、今度は新しい時代の植民学たる拓殖学に於いて、或は農業拓殖学においては、これと如何に欧文に訳出すべきかである。旧植民学は Science of Colonization とか Colonial Science とか、或は独語ではKolonial Wissenshaft と言ってもいたし、それで通用した。何故なら、正に植民地主義華やかなりし時代であったからである。しかし、現代はすでに植民地の独立時代であり、曾っての植民帝国は従来の所謂植民政策を変えなくてはならなくなり、従って、何等が所謂植民学Colonial Science に代わる科学を必要として来ている時代に、所謂この農業拓殖学を Agrarkolonial Wissenschaft だの或いは Agricultural Colonial Scirnce では果たして国際的に通用するかどうかである。学科創設間もない頃、英文の大家に学科を紹介する手紙を学校当局が依頼した時農業拓殖学科を、Faculty of Colonization とやられた事がある。正に昼間の幽霊である。又、大いに誤解される憂いなしとせぬ。

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。こうして再確認させて頂く学生時代に読んだ覚えのある論文ですが、改めて詳細を理解するために文章を追い始めると、50年前当時、何を理解していたのか、と自分に対する疑問が湧き出してきます。
要するに、分からぬ語句、字の意味、読み方はすべて流してしまって、分かる部分を意識で追いながら読んでいた(流し読み)と言う事が分かって来ました。
一方なぜ、この遺稿集が私の手元に来ていたのかを考えてみたのですが・・・3年前に亡くなられた拓殖3期の沖先輩から頂いた「桜の蔵書」に紛れ込んでいたのかもしれない、と思い至りました。何かの縁みたいなものの感じがあります。
杉野先生ご健在だった農業拓殖10期までの学科内容と、杉野先生が亡くなられた後の学科内容では、全く流れが変わってしまっていた、ようです。
先生が当論文で、何とか戦前の植民思想から脱却して、新しい人間の生き方、後進国農業援助の在り方、個人の希望を実現する、夢を持った移住、に変えてゆこうと決心された部分が消えてしまった、要です。(日本から海外移住思想が消えていった原因かも?)
我々が学生時代(杉野先生亡くなられてから4年たった段階)で、学科を引き継がれた教師を代表してこられたはずの栗田先生、の苦悩がそれを感じさせていました。当時ヤルかたない不満を我々学生に漏らしておられました。学科内の杉野、栗田路線反対派が、跋扈し始めていた感じが、いま思うと強く再認識されます。これは私個人が感じた事なので、ご了承願います。そんなことが、杉野先生の書かれた論文内容から伝わってきます。全く、現代においても、理解できない思想の学科に変質していったものと推測できるからです。
先日起きた、アフリカ・モザンビークの農民代表が日本まで自費で訪ねて行って、日本政府の農業援助打ち切りを請願したことです。この様なことは、杉野・栗田路線であれば、ありえないことだと思われるからです。。
南米開拓前線を行く 17 
第一章 学論研究の序説
第二節 用語及び訳語に関し
ここから26日書き込み、昨日の続きです。
そこで私は、この農業拓殖学を如何に訳出すべきかを研究せざるを得なかったのである。学生が卒業後赴任線とする地域はこれことごとく独立国の領域であり、日本の所謂一片もない。曾つての欧州の植民帝国の植民地も続々と独立して、植民(Colonization)の文字は悪夢の如き思い出がまつわっている。それで、訳語については農業拓殖学の実質的内容に着眼して種々勘案した。Science of Rural Rehabilitation , Science of Rural Development , Science of Land Reclamation, Science of Rural Settlement 等、いろいろ浮かんだ。そして結局、Science of Land Reclamation をもって農業拓殖学の英訳語とした。これに落ち着いた理由は、Rural Settlement (Agrarsiendelung) は、日本語で新開土着と訳され、殆んど内容的には農業拓殖活動と同じであると言ってよいが、古い植民地主義時代に盛んに用いられた点で Colonization と大差なく、誤解の種となり易い事と、所謂移住植民地の経営が主なる内容となり、開発への協力は希望しても、他国民の移住植民地化する事を好まざるナショナリズムの勃興期にある新独立国に於いては、殊に誤解され易いと考えてこれをとらぬ事とした。

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 18 
第一章 学論研究の序説
第二節 用語及び訳語に関し
ーーーーーーここから27日書き込み、 昨日の続きです。
 また、Rural Rehabilitation は、わが国では従来、農村更生と訳されており農業拓殖とはまったく別個の感がるが、私がこれを一応候補にあげたのには理由がある。 それは数十万年にわたる人類の地球上への分布の結果、今日では無主無人の土地は実は案外少ない。15世紀末以来の近世植民運動にしても、実は欧州人以外の民族がすでの住んでいた地方に武力侵入をして植民したものである。南北アメリカ然りであり、東南アジア、アフリカ然りであり、オーストラリヤその例外ではない。原住民を駆逐するか、皆殺しにするか、奴隷化するかして新しい社会を作っていっている。吾々の農村更生運動から見れば甚だしいちなまぐさい過程を経ているが、これを一種の Re-habilitation と言えぬでもない。しかし、私がこれからの農業拓殖を一個の Rehabilitation movement としてとらえようと考えたのは、これからの農業拓殖活動は、世界の未開発地域や低利用地域でも、完全に無人の地域なりゃ大なる疑問があり、より高い農業文化をもって、Re-habilitate する所に我々の活動の特色があるのではないだろうか。又、高度に工業化し、農村地帯が荒廃に帰するか、或は農業経営が粗放化して、その土地の生産力が発揮できない地域も、先進国には珍しくはなくなっている。曾つての英国、そして現在のアメリカの如きその好き例である。又、東南アジアの諸国には極めて古い文化があり、人類の文化史上は欧州よりも先進国とも言えるのである。これらの国々は人口稠密、しかも土地の生産力極めて低く、古き農村の新生が未利用の地の開発以上に切望されている。インドの如きその尤もたるものである。かかる地域においては、Rural-Rehabilitation と言う方が、むしろ我々の企画し、構想する農業拓殖活動の実態に即した名であろうと思った。しかし、言葉は一般に
通用する事が必要であるので、この様な Rural-Rehabilitation が一般に農業拓殖活動の名にふさわしいと客観的な証認を得るまでは控えることにした。

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 19
第一章 学論研究の序説
第二節 用語及び訳語に関し
ーーーーーーここから28日書き込み、 昨日の続きです
 Rural - Development は Rural - Rehabilitation より見れば、まだ説明の労を必要とせぬ位に、これからの開発活動の意義が明白であるが、植民地たりし桎梏(しっこく【桎梏】 「桎」は足かせ、「梏」は手かせの意味。 人の行動を厳しく制限して自由を束縛するもの。)を脱して、独立しつつある国々に於けるナショナリズムは、しばしばこの Development という言葉に反揆がある。たとえば、東南アジア諸国の如きには極めて古き土着文化があり、西欧化即ち進歩とは考えられず、自国の文化に対する誇がある。未開発国と言われるのを好まぬ傾向が強い。Underdevelopedとか Undeveloped とか形容されるのを嫌い Developing Country と自負している。また世界史を西欧中心の進化の過程と考えず、種々なる文明の類型の併進を認めんとするアーノルド・トインビー(A.J.Toynbee)の如き歴史観の立場に立てば、西欧化が進んでいないから develope していないとは言えない。ともあれこれからの農業拓殖活動の国際的発展を考えると、この Rural Developementも無用の摩擦はさけるべきであるとした。
しかし昭和38年(1963年)日本大学の拓殖学科は Faculty of Land Developement と英訳された。逆に和訳すると農地開発学科となるであろう。その授業内容は東京農業大学の農業拓殖学科と大同小異である。どの様な国際的な反響があるか、まだ判明するには至らぬ。

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 20
第一章 学論研究の序説
第二節 用語及び訳語に関し
ーーーーーーここから29日書き込み、 昨日の続きです
Land - Reclamation は従来、開拓或は開拓開墾と訳出した事例はない。しかし、加州大学の Frank Adams(⁴)は社会科学百科事典に、Reclamationの最も進歩的なる目的であるとしている。彼の定義によれば、Reclamation 一字で私の意味せんとする農業拓殖を意味するのである。あえて Land の字を冠するのは蛇足であるかも知れないが、水域や宇宙の開発競争の時代を考えると、土地の生産力開発を基底とする Reclamation に Land をつけて意味を限定した方が対象を確認するによいと考えて Rand - Reclamationとった。Reclamation をかくの如く広義に解する事の妥当なる事は、合衆国の開発局の機関紙にあつかっている問題からも言えると思う。(⁵)
参考文献
(1)矢内原忠雄編 1943年「新渡戸博士植民政策講 義及論文集」
(2)長田三郎 1935年「植民政策研究」
(3)矢内原忠雄編 1943年「新渡戸博士植民政策講 義及論文集」
(4)Frank Adams : 1953, Reclamation , Encyclopedia of the Social Science.
(5)United States Department of the Interior, Bureau of Reclamation 1955. 以降The Reclamation Era(quarierly)

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。
杉野先生の論文の本題に入ります。
南米開拓前線を行く 21
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
29日記入 先ほどの続き。
 前章で述べた様な諸理由から、農業拓殖学は如何なる学問たる事を社会的に要求されているかと言う事は略略明らかになったと思う。そして、それは旧植民学から脱皮すると共に、新しく科学として構成されねばならぬ段階にあった事も明らかになったと思うが、それが独立の科学たる為には如何なる条件を備えねばならぬだろうか、を吟味せねばならぬ。旧植民学をして独立の科学たらしめる為には多くの資料の蒐集と同時に、強く要求されていたことは Colonial とは何かと言う概念の精緻さであったが、それが二つながら充分の発育を遂げないうちに研究が中断された。今ここで新しい植民学とも言うべき農業拓殖学の科学化 Scientification を企てるに当たって、考えられることは、先ず研究対象を確定する事である。即ち、何を研究するのかという問題である。歴史の古い学問では長い間の蓄積と淘汰が行われて、その学問の成立史を見れば、自ら研究対象が何であるか議論の余地がないほどである。例えば農学の如きそれである。農学の研究対象が農業と言う人間の営みであると規定して疑う人がない有様であり、その成立史も多くの業績がある(¹)。研究対象として農業の本質や特質がどこにあるか、その研究方法はどうか等々殆んど常識化していると言うのは過言であるかも知れないが、今農業拓殖学の学としての独立宣言を企てようと言う時、その学問としての研究の浅さを痛感せざるを得ぬのである。勿論、農業拓殖活動の歴史が浅いと言う意味ではない。それは人類の創成期に始まるが,(²)科学化の企てが非常に浅く、成立史と考えられる前史的研究が非常に乏しいという意味である。それで、先ず研究すべきものとして、農業拓殖学の研究対象とする農業拓殖現象と、旧植民学が対象とした植民現象とどう異なるかを明かにする事が、問題とされるべきである。(つづく) 

みなさん 杉野先生論文 昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 22
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーーーーーーーー30日記入 昨日の続きです。
 旧植民学において嘆かれた事は、植民とは何かという精緻な概念が未だ明確に規定されなかったとされているが、私は農業拓殖現象、私はこれを現象と称せず活動と称したが、この農業拓殖活動と言う概念には、特定の時代、特定の社会において具体的な形態をとるけれども、その本質は何かを追求すると、人類の生本能に基く超歴史的、超社会的な活動たる意味がある。農業拓殖活動が人類の創生と共に始まるというのはそのような意味を持つ。植民活動域は植民現象と如何にとらえるか、頗る多義にわたる結果、Colonial とは何かの反省が必要になって来たのである。研究対象がはっきりしないでは科学は成立しないのは当然である。(つづく)

みなさん 杉野先生論文 一昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 23
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーーーーーーーー5月2日記入 一昨日の続きです。
 さて農業拓殖学の対象とする農業拓殖活動を起動するものは生本能であるが、それは人口の増加となってあらわれる。そしてそれは自己保存と種族保存の為の食物の要求を伴う。その為の道具の必要や、衣や住の必要、労働の組織化の必要などから、色々人類の生活は複雑になる。欲望の向上は生活の質の向上よりも、生活水準がたとえ停滞していても、より多くの食糧を得んとする欲望の形であらわれるのが基礎的である。私は飢餓の恐怖が生本能に伴っていると考えた。飢餓に迫られる前にその恐怖心が人類を農業拓殖活動に駆り立てる。旧石器時代以来百万年近い現代までの人類史に色々な変化のある文化を与えているのは根本的にはこの飢餓の恐怖であると考えた。民族の移動も(₃)民族闘争も、階級闘争も、植民地の制服も、国家間の戦争や植民地の争奪、種々の経済競争も、経済現象や政治現象として捉えて学問の対象とする事が出来るが、是等一切の現象を更に一つの視点から或は一つの側面(Einseitig)からとらえると言うか、分析して動因をつきとめるのである。かくの如く動因分析(factor analisation)を行ってみると、生本能の中に人間は飢餓の恐怖を内蔵している事に気が付くのである。人類以外の動物の生本能を観察すると、飢餓を感ずるときには餌をあさって歩くが、一旦満腹すると安全地帯で眠る事は飼い犬の例で誰でも知っている。動物にも餌を貯蔵する例は珍しくない。或は飢餓の恐怖があるのかも知れないが、人類において強烈に発見される。同じ人類でも食物が容易に得られる所では比較的この恐怖心は弱く、食糧確保に対する努力工夫は余り行わず、一定の生活水準と様式とが停滞する傾向がある。現代に生存する原始民族のあるもの――すべてとは言えないーーはこの様な状態にある。(⁴)又、過去において亡び去った原始民族もこの様にして、より強烈な恐怖心の為に移住や征服を企てた民族の為に滅ぼされたと考えられる。
(つづく)

みなさん 杉野先生論文 一昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 24
パソコンの具合がいまいちで。なかなか思うように進みませんが、ご容赦お願いします。
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーーーーーー5月3日記入 一昨日の続きです。
 茲で説明を加えたいのは、原始時代のかくの如き人類の生活は農業ではなくて、自然物の採集生活ではなかったかという質問である。農業という人類の営みを、自然物の採集、たとえば食用となる木の実や草の根、或は昆虫や魚や獣や鳥等、蛇やカエルの如き生物の捕獲まで含めて理解するや否やである。経済史家は人類の歴史を数段の段階に区分している事は周知の通りである,(₅) そして通常農業時代の前に自然物の採集経済の時代を置く。そして狩猟漁労時代についで牧畜時代を置き、人類が定住時代に入って大いに農業が発達するとなすのである。(₆) だからこそこの見解に従えば、農業時代は新しい時代――新しいと言っても7,8千年前の昔にさかのぼるががーーから始まる事になる。それは土地の耕作によって食物を得る人間の活動であるAgricurtureがラテン語の Agricultura に基つき、Agri は耕地の義、cultura は耕す義にして、耕地を耕転する事が農業の本質というのも一応もっともである。しかし。人類は最初から耕地を持っていたのではない。所謂農耕の始まる以前の何万年の間、それは文字のない時代である。又、石器以外の道具もことごとく消え去ってしまった長年月である。そのような時代の生活をどの様にとらえるか。採集経済や牧畜経済の時代に拓殖活動はなかったのかと考えてみると、すくなくとも人類はその生活圏の確保を必要としたと思われる。自分の住む場所をたとえ一時的にせよ確保する必要がある。このような事実の有無は単なる想像ではなく現代における原始民族の生活観察をした学者の報告に基づいても知る事が出来る。又、最も単純な木の実の採集にあたっても、漫然と拾ってあるくのでなく、一定の生活圏が設定される。(つづく)

みなさん 杉野先生論文 一昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 25
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーーーーーー5月4日記入 昨日の続きです。
人類以外の動物の場合でも一定の生活圏を確保して一種の縄張りを自覚して、彼自身の猟場に他の動物の侵入を許さぬ本能的習性がある事は動物学者が良く報告しているが原始民族が原始林を拓いて一定の生活圏を確立し、そこで食物の確保に努める活動を、拓殖現象と言い得るのではないか。そして、土地を耕すところまで発達せぬまでも、若し食物獲得活動を広い意味で農業行為に含ましめるならば、人類の最初の活動ーーそれは動物と分離して最初の活動は原始的な旧石器を武器として外敵を追いしりぞけ、洞窟を作るか、或は火を放つかしてその生活の場を確保して食物採集をすることであるとするならば、人類の歴史は農業拓殖にはじまると言いえるのではなかろうか。自然物の採集行為は、今日でも広い意味の農業に入ってるとする学者がいる、柏祐賢博士がその農学原論に於いて、「農業と言う人間の営為は、先ず自然あるいは土地に単に存在している植物又は動物を、採取することから始まる」 として経済史家の農業時代以前の時代とした自然物の採集時代からすでに農業時代がはじまるものとされるのは、博士は農業を 「有機的生命体の獲得という目的的な人間の営為である」 とされるからに他ならぬ。土地に定住し、耕転する事を知ったのはずっと後の世になってからの出来事とされるのでる。この点は、はからずも私の農業拓殖の本質追求と一致する点である。
(つづく)

みなさん 杉野先生論文 一昨日の続きです。
南米開拓前線を行く 26
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
ーーーーーーーーーーーー5月5日記入 昨日の続きです。
 しかし、然らば農家と農業拓殖とは同一物かと言うと決してそうではない。同一物ならば、農業を研究する農学とどう異なるか説明がつかなくなる。この問題は更に後に展開するであろう。茲で対象論として先ず解決しようとしているのは、植民学の対象とする植民現象は農業拓殖現象或いは活動とは異なる事を言わんとしているのである。即ち、植民現象そのものは勿論極めて古くから存在したものであって、旧石器時代以来の農業拓殖活動も一種の植民活動であるかも知れないのである。それは実に人類の異動及び異動に伴う生活現象を,如何に理解するかにある。又、現在までの植民現象も、農業拓殖活動を含むものと言う事が出来る。事実農業拓殖活動が植民政策としては重要な施策の対象でもあった。私は、所謂植民学を日本のみならず諸外国の学者の所説を比較検討して見ると、一個共通の視点から見る事が出来るのを発見する。それはすくなくとも十九世に入って後半以後、列強の勢力伸張し所謂帝国主義の時代となり、競って植民地の獲得或いは争奪を行う様になってからの学問であると言う事であると言う事である。我が国も遅ればせ乍ら台湾を入手し、更に満州の一角に租借地を得てからであり、大東亜戦争が開始され(1941年)て以来の所謂植民学の隆盛となったことは今にして思えばはかない一場の夢の如くであるが、矢張り国権の拡張に伴う植民地の拡張に伴う植民地の経営学であり、国家学の一部であると言う事が出来る。勿論かくの如きものとしての植民学の批判は行われていた。矢内原博士も東畑博士も多分に批判的であった。。(つづく)



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