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僚友駒形秀雄さんコロナで急逝!! 【後編】
駒形さんのコロナによる急逝は、驚きの一言に尽きますが、時間と共に忘れられコメントを待っても字数が埋まらないので前編に入らなかった榎原さんの一文から始めしゅくこさんの駒形さんを偲ぶ鎮魂歌、松栄さんの一期一会の駒形さんのこと、直接存じ上げない垣花さんのブラジル日報WEB版よりお借りした「駒形さんの事」等を纏めて古谷さんが再現されたブラジル日報の記事にある駒形の写真を使ってこの後編を纏めて40年!!寄稿集に残して置くことにしました。字数がまだ2000字程残っているのでコメントがあれば宜しく。追加させて頂きます。


榎原:: 和田さん 今回は返信ありがとうございました。今朝は駒形さんの訃報で一日が始まりましたが、午後一番には少し嬉しい投稿も入ってきました。実は、ここ2年間で当地の親しかったり御世話になった方10人が亡くなられた旨の投稿をしましたが、その中の一人は先月1周忌を迎えられた柔道の岡野さんです。(死因はコロナではありません)そして、先ほど、和田さんが投稿されたブラジル日報転載は、特別寄稿「岡野脩平さんを偲ぶ」となっていました。この特別寄稿でなんかもやもやしていた気持ちから解放された気持ちになりました。添付の写真は、先月15日に開催された岡野さん1周忌法要(お別れか会)の岡野さんご遺族への招待状と彼のお墓の写真です。もし、必要ならば、添付写真は和田さん&ブラジル日報経由寄稿者の田尻様が希望されるならば、田尻様宛に転送されても結構です。(未だ、添付しなかった写真が数枚あります)
さて、午前中投稿しました地方紙の「お悔やみ欄」についてです。私なりに当地ブラジルでこの「お悔やみ欄」が良いと思うのは、先ず1世のご不幸の際に、或る1世は邦字新聞に訃報が載る、他の1世の訃報は載らないの不公平感がなくなることです。有名無名にかかわらず、皆ある意味戦友でもあります。数10万人以上の多くの1世が活躍された時代は、物理的にも「お悔やみ欄」を実施するのは不可能だったと思うし、又人数が多い分不公平感も無かったのではと想像も出来ます。しかし、今ならやろうと思えば、領事館や文化協会(人文研)の共同作業等で1世の名簿作成は出来ない話ではありません。そして、この名簿を元に「お悔やみ欄」の記載が可能となるのではと思います。更に、この「お悔やみ欄」の利点は、ご遺族の亡くなられた1世を尊び敬う気持ちが増すことです。ブラジル生まれの日系人には、様々な事情(ここでは長くなるので省略)から1世のご両親や日本政府を感情的に快く思っていない方もおられます。(親不孝、親孝行とは別の話)この「お悔やみ欄」は、このブラジル生まれのご遺族の日本への感情的な不満や不平を和らげる効果にもなると思います。最後の添付資料は、「お悔やみ欄」のコピーです。
和田さん、そんな弱気な発言は困ります。私はこのオミクロン株は感染も早いが終息も早いと希望を持ってみています。もう少しの辛抱でコロナ危機が終焉します。会員皆さん全員が無事この危機を乗り越えることを切に願っています。皆さん、頑張りましょう。

丸木で〜す 先日、日系移民のリーダーから山梨日日新聞掲載のマスターズ競技に百歳過ぎて参加された記事が届きました。以前に、日本の取引先の創業者が息子の社長室で富山新聞を読んでから長老の重役とお昼ご飯を食べるだけに出勤されてました。地方新聞は故郷の記事があるので若い頃に故郷を出た方には懐かしいのでしょうね。
代表的な地方紙は河北新報、信濃毎日新聞、神戸新聞、西日本新聞でしょうか。カナダ最大の夕刊紙トロントスター死亡記事には写真入りで経歴が掲載されます。カナダ生まれの日系人は載りますが何故か日系1世の死亡記事は見たことがありません。実は僕が麻生さんと知り合ったきっかけは岡野さんでした。岡野さんが僕より5歳若い従弟の丸木英二が史上世界最強の背負い投げ柔道家と言われたそうです。英二は1967年にアメリカのユタ州ソートレークで開催された柔道世界選手権大会でオランダの巨漢をぶん投げ優勝してます、為念。

駒形さん へ 22年2月3日の逢山峡から 天国の駒形さん & 50年の みなさまへ しゅくこです
みちこさんの投稿にありましたが、2月3日は自然観察の日で逢山峡の渓流沿いをせせらぎの音をききながら散策していました。春のぬくもりと冬の冷気が、安心と不安をはらみながら、互いに遠慮しつつせめぎ合っている、そんな山の空気の中を、ネコヤナギの花に触れたり、オニグルミの冬芽のコミカルな顔に笑いながらの、いつもの愉しい自然観察の日でした。
葉や花にあふれる春、緑に染まる夏、紅葉の燃える秋。なのに、冬だけは殺風景な墨絵、という固定観念がずっとありました。
でも、その日は、樹々たちの 生きている冬の素顔に生まれてはじめて気が付いたのです。
歩道から眼下に流れる渓流までの険しい坂を埋めるさまざまな樹々は、どれもが素っ裸の胴体をさらけだしているように見えて、ふと胸騒ぎがしたのはなぜでしょう。
そんなとき、話の流れのなかに、なぜか駒形さんの名前が出てきたことが、いまはっきりとよみがえってきます
みちこさんの駒形さんについてのお話に同感しながら、わたしもかれの文章の読みやすさについて心のなかでいろんなことを思っていました。駒形さんの文型は内容が難しくても、わたしのようなオツムに、わかりやすく頭に入るように、巧妙に仕組まれた文章だとずっと思っていました。
時々、その意図がみえて、ふと頬がゆるんでしまい、でも柔らかいので噛みやすく、そのまま最後まで読ませてしまう力に感嘆していました。
4年位前だったか、はじめてわたし 宛てに駒形さんからのコメントが50年にとどいたことがありました。
詳しい内容は よく覚えていませんが、わたしの投稿した「The last Christmas song (ザ、ラスト、クリスマス、ソング)」に眼をとめていただき、ご自分の関係している読書会でみんなで一緒に読むのに使っていいか、というお訊ねでした。
もちろん光栄です、こんな嬉しいことはありません、というようなお返事をしました。
それはわたしの父への鎮魂歌みたいなエッセイでしたが、まさかブラジルで読んで下さる方もいるんだ、と感激したことを思い出します。
しばらくしてそのメンバーのお1人から感想を送っていただいて、わたしの人生でいい思い出の1つになりました。
いまおもうと、もしかして、駒形さんがその方に送ったらどうかとサゼスチョンされたのかもしれませんね。
おもえば、はなさんも、美知子さんも、わたしも、直接お会いしたことのない方なのに、きめ細かい心配りの対応をしてくださるお人柄だつたのですね。
これが、日本の片田舎の小さな山の中で、駒形さんを想い、語った 2月3日の昼下がりでした。
その翌日、わたしはパソコンの中に駒形さんの訃報をしりました。
まさか何かの間違いでは? と最初おもい、みなさんの投稿を読んでいるうちに事実であることをしりました。
伝えたこと、が伝わったことではない、という書くことのお手本だった駒形さん。もう、その名文を楽しむことはできないのですね。ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

和田:しゅくこさん 天国の駒形さん 有難う。これは40年!!寄稿集に別途掲載させて貰います。写真は5枚ありますが、オニグルミの冬の芽を使わせて貰います。
駒形さんの急逝には、ほんとに驚かされたですね。彼の書いたコメントが見られなくなるのは寂しいですね。コロナ犠牲者は、これが最初で最後で有ってほしいです。気を付けましょう。

丸木さん 久留米からはなです
この写真は私も大事に持っています。
確か麻生さんがお亡くなりになった時に和田さん宛に送付した記憶があります。
駒形さんが私のブラジルの親戚を探しておられるときに福岡出身のこの写真の中の村上さんの話をしてくださって
彼女の母方の旧姓が倉八で武士であったというお話を聞き同じ先祖だろうと駒形さんと話したものでした。
ブラジルから届いた写真をもとにブラジルの新聞に載せてくださったり、遠く離れている私のちょっとした話から親身になって動いてくださいました。

丸木で~す ブラジル日報の記者コラムによれば、駒形さんと会食された深澤編集長もコロナウイルスに感染されてるとか。伝染病は人に会わなければ感染しませんから誰にも会わない、出勤しない、営業しない、不急不要の外出しない、ないないづくしより他に防止法はなさそうです。当地オンタリオ州(日本より広い)では、全ての交通機関を運行停止して感染防止してますので、トロントの街は閑古鳥が鳴いてます。

松栄:一期一会 「駒形さんのこと」 みなさん 駒形さんとは、確か2−3度お目にかかっただけです。もっぱら時々いただくメールのやり取りだったのですが。確か、麻生さんのご紹介で、和田さんの50年ネットに入れて貰ってから、そこにおられた駒形さんと出会えた、と記憶しています。
レストラン始めたのが2008年だったのですが、自分は今でも昨日のことのように覚えているのですが、しかしそんな時間がいつのまにか、その記憶が(斑)まだら になっているのを。最近自覚しています。
和田さんの50年メールをしばらくたのしませていただいた後、麻生さんが独自のネットメール組織【展望台】を始める、と言われたので、そちらにも入れてもらって、総勢10名程度でいろいろやり取りを楽しませて頂きました。
麻生さんの元来の博識で、戦前からの戦争勃発から日本が負けるまでの経緯、アメリカの本心と敗戦国日本経営(植民地日本)なんかのコメントで、知らなかった事実(日本の教育がゆがめられてゆく)をいろいろ教えていただきました。
麻生さんの持論として、徹頭徹尾、日本はアメリカに嵌められた、と言われながらその経緯や証拠を提示されていました。
同時に徹底した嫌韓が自論でした。
駒形さんも時折ご投稿されて、あれー 麻生さんタイプの方がもう1人おられる、と思いました。
駒形さんから時々メールをいただき、色々教えていただきニッケイ新聞にも投稿されており、文体の柔らかさから、すごいひとだなー、と思っていましたら、突然私のお店に見えられたことがあって、しばらくお話させていただいた感じでした。
自分が未だ現役気分でいましたので、年に一度、丸木さんが見えた折麻生さんが主体で、丸木さんを囲んで一献やる、という会をもたれたのですが、それが土曜日で毎回欠席、ということになっていました。
今考えたら、無理しても、「丸木さんを囲む会」に寄せてもらってたら良かった、と所謂「後で気の付くバカの知恵」 みたいな状況でした。
毎年毎回。丸木さんには別個で私の店に来ていただき、一緒に見えたのが駒形さんもおられた、伊豆山さんも、私には面識がなくて失礼していたのですが・・・古谷さんにも来て頂きました。
そんな感じで、いつの日か駒形さんとじっくりお話しできることをいつも思っていたのですが、結局先日、それもかなわなくなってしまいました。
結局。メールを通して良く存じ上げている、と思っていたわけです。。
今考えたら、駒形さんとも。一期一会のこと になってしまったなー。と反省の念で後悔しています。
確か、駒形さんから頂いたメールが残っている、と思います。ゆっくり見直されせて頂くつもりです。
そんなことを思っているここ3日です。残念です。

丸木で~す 1979年にトロントで創刊された日加タイムスに駒形さんが寄稿された「勝ち組負け組」の物語が日加文学賞に入選されたのを覚えてますが、初めて駒形さんにお会いしたのは黒木さんの叙情歌の集いではなかったかと思いますので古い事ではありません。麻生さんの展望台グループの会食にニッケイ新聞に小説を連載されてた広橋さんや村上さんを招いてくれたり、西風会の中島さんに紹介してくれたり、面倒見の良い方でした。松栄さんから天寿司に一人で来いと招かれた時にも途中が危険だからと案内して下さいました。僕の自伝小説をニッケイ編集長の深沢さんにおもろいから連載させたり色々とお世話になったのでした。昔の満州では岸あるところ椎名ありと称せられたように、サンパウロでは丸木あるところ駒形ありの様でしたので、断腸の思いがします

和田: 駒形さん急逝の件、【前編】として纏めました。しゅくこさんのコメントを別件として40年!!に掲載する積りでしたが、これも含め【後編】として皆さんのこれからのコメントも一緒に残して置くことにしました。出来ればもう一枚駒形さん関係の写真を募集させて下さい。探せば幾らでも見つかると思うのですが、仲間に選んで頂きたいと願っています。1万語に達するまではオープンとして置きます。駒形さんとの逸話等があれば聞かせて下さい。お待ちしています。

皆さん 古谷です 我が盟友駒形秀雄さんが、03日に逝去しました。悲しみ、これに卓る想いは無く唯々故人の御霊の安らかならん事を祈るのみです。完。

和田: 古谷さん 駒形さんの写真付きのブラジル日報有難う。上手くコピペ―できました。後編に適当な写真が届かなかった場合は、この写真を使わせて貰います。
今晩7時半から初7日のミサがあるのですね。飛行機が不通に飛んで居れば行くのですが。。。今の状況では、行きたくともいけません。遠くからご冥福を祈ります。機会があればご家族の皆さんに宜しくお伝えください。

垣花:特別寄稿=駒形秀雄さんの事=サンパウロ市  垣花八洋夫(かきのはな やよお)  ブラジル日報WEB版より
私が駒形さんと初めて出会ったのは、10年ほど前に「文章会」に入会した時である。文章会は現在「たちばなの会」という名称になっており、月に一度作品を持ち寄って朗読し、感想を述べたり批評し合う会である。
 この会で、駒形さんの提起した「日本文の縦書き、横書き」論争が印象的であった。駒形さんの主張は、すべての日本語表記を横書きにするのが進歩的であり「新聞、小説などの文芸作品」を除いてほとんどの文書がすでに横書きであり、最近の中国語の新聞も横書きであると述べた。
 文章会会員の中にはコロニア文芸界で有名な方々もおられ、結局、この文章会では、数式などを扱う理科系の作品には横書きでも良いという事になった。
 駒形さんは新潟大学の文科系学部を卒業なされ、1958年にブラジルに移住された。総合商社「丸紅」に勤められ、ウジミナス製鉄所建設などに携わられた。仕事柄工学系の知識も豊富になられたようである。
 私も大学では電気工学科を出て、技術移住でブラジルに来た身で、文章会での駒形さんとは工学系の知識がある点で特別なひいきをいただきました。駒形さんはブラジルに帰化なされており、奥さんはミナス出身の方です。
 彼はポルトガル語も堪能でブラジルの現地新聞をすらすら読み、ブラジルの政治、経済にも詳しい事は日本語新聞に投稿されている記事を読めば良く分かります。投稿した文が新聞に載ると、いつも電話をかけてきて、「記事に対するあなたの率直な意見を聞かせてくれ」と聞くのが常でした。
 私は「我々日系人にとって、日常の新聞記事ではよく理解できないが政治などの経緯が、あなたの文章を読んで解るようになりました」と答え、疑問点があれば聞き返したものです。
 最近の投稿文は今年のブラジル大統領選挙候補者の支持率や特徴を挙げており、その中に「身長」という項目があったので、不思議に思い聞いてみたところ、「有権者の中にはハンサムであるとか、体格が良いなどの理由で候補者を選ぶ人もいるものだ」という返事でした。
 駒形さんは去年の中頃まで2年程「新潟県人会長」を務めておられました。県人会の活動もコロナウィルス感染防止の自粛で制限されていたようですが、母県とのやりとりや、県人会員とのやり取りは忙しかったようです。彼の任期中に新潟県人会の餅つき大会で、出来たての餅を買って食べたことがあります。
 DVDで「孤独のグルメ」というシリーズものがあり、駒形さんは主演の「松重豊」にそっくりであった。ただ違う点は、駒形さんは食事をする前は必ず手を洗い、「ゆっくり食べましょう」と言うのが口癖であった。
 それは彼が歯の治療でインプラントを受けたものの、2年程も完成せず、食べ物が良く噛めなかったせいで、特に早飯の私を牽制していたのです。
 コロナウィルス感染防止のため、文章会も2年程休会しておりましたが、休会中もメールで小作品を配信したものです。
 その中で、私が配信した次の川柳を駒形さんは気に入ってくださりました。 
*インド株 株で儲ける 人もいて
*時は今 ピンピンコロナ 望む君
*パンデミア ボロクソのせい 鍋たたく
 駒形さんは近頃は体力が衰えて、歩く速度が女子供にも劣るとぼやいて、いつ死んでも本望だとおしゃっておりました。それを聞いた友人たち皆が冗談だと思っていたのです。
 駒形さんはコロナに罹り、入院した病院から、何度か電話をかけてくださいました。話の内容は病院の食事がまずいとか、看護婦がうるさいとか他愛のないものでした。
 私は「あと数日で退院できるだろうから我慢して下さい」と慰める事しかできませんでした。駒形さんは3回もワクチン接種を受けておられるので、そのうち退院できるものと楽観していました。
 2月3日の夜、駒形さんの奥さんから訃報が入り、「まさか」本当とは信じられず、うろうろするばかりでした。私の人生に大きな穴がぽっかり開いた気分です。
 駒形さんは私に取って無二の先輩でした。享年88歳でした。今はただ冥福を祈るばかりです。
(2022年2月7日記)

和田:垣花さんを直接存じ上げませんが、駒形さんの事を語るとの事でブラジル日報掲載文を40年!!寄稿集の僚友駒形秀雄さんコロナで急逝!! 【後編】に掲載させて貰いました。まだ2000字程スペースが残っていますが、駒形さん関係の書き込みがなければこれで閉めて40年!!寄稿集に残して置きたいと思います。適当な写真と共に送って頂けると助かります。宜しくお願いします。



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