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「クリスマスの馬」 川越 しゅくこ 23.12. 25
私たちの40年の寄稿集を始めてもう何年になるのだろうか?暫く休んでいる内にPCに慣れている筈なのに書き込みが出来なくなりアブラオンの責任者ロジェリオさんに助けて貰い使いやすいように直して貰い再開する事にした。その第1号が川越しゅくこさんの「クリスマスの馬」です。子供の頃お母さんのオルガンの音と共に覚えている「聖しこの夜」のクリスマスの歌と共に思い出す優しい馬の眼差しと馬との長い交流を語るクリスマスの馬は、何時もながらの出来栄えで40年寄稿集に残して置きたい書き物です。これが上手く40年寄稿集の再開を飾る第1号に成って呉れると嬉しいです。写真は優しい眼差しの馬とじゃれているしゅくこさんの写真を送って貰いました。
旨く行くと嬉しいですね。


「クリスマスの馬」 川越 しゅくこ 23.12. 25

早朝の弥生が丘小路を今日も散歩した。人とすれ違うのがやっとの一本道は、東西に数 キロも伸び、北側はさざんかの垣根がずっとつづき、いまはワインカラーの花が一人で 見るには惜しいほど見事に咲きつらなっている。わたしは、落ち葉のじゅうたんを踏む 自分の足音を聞きながら、そして、南側の柵からもっと深い林の高いところに、小鳥た ちが自由に群れてふざけるさえずりを聞きながら、時には立ち止まって空を仰ぐ。裸木 が林立し、硬い黒い枝のむこうに青く染めた空がまばゆく広がり、白い雲もくっきりと 浮かんでいる。わたしは柵にもたれて、そのむこうに横たわる六甲山を眺める。同じ山 であってもその日、その時刻によって変わる山容。 その朝、わたしは不思議な目覚めを経験した。いつもは、朝日とともに
2 その日の日課をおさらいしながらよっこいしょと起き上がる。特別にわきあがるワクワ クやドキドキ感はこの数年はなく、ごく普通に新しい朝が始まるのだった。 しかし、その日は違った。 なぜかとても幸せで温かい気持ちで目が覚めたのである。理由も原因もなにもない。 それは、ゆっくりと胸に満ち、具体的になにかといえない、ある種の生き物のような不 思議なあったかい熱があった。 一体なんなのだろう。目覚めの瞬間を、もういちどなんども反芻し、その時の残像のか けらをつなぎあわせてみる。でも抽象的なかけらがちらちらして、筋書のない、具体化 されていない温かいなにかだけが、抽象画の一部のように残っていた。 それにしても、この愛情のようなものに満ち溢れたふわりとつつみこむような熱が、 どこからわたしのなかにたどりついたのか、夢とは言えないなにか特別なもの、訳が分 からないけれど、そんなありがたいものが突然、プレゼントのように舞い降りた。そん なふいにわいてきたものに戸惑いすらおぼえた。目にみえないもの。夢であって夢でな かったようなもの。だれにも話すことないまま、二度と現れなかったけれど、その余韻 はいまでも呼び覚ますことができる。そして、こんな種類の目覚めがあったのか・・ これさえしっかり掴んでいれば、この後の人生でどんな悲しいことや怒りに見舞われて も生きていける、とおもえるほどはじめて体感した強いインスピレーションであった。 ふと、あれは、馬のまなざしの断片だったのかもしれないと思った。
3 クリスマスが近づいているせいなのだろうか・・・。 まだ少女だったころ、クリスマス会の紙芝居のなかで見た、馬の穏やかな眼差しの一 部のようであった。 スーパーに入ると珍しくポップスではなく、聖歌の「諸人こぞりて」が流れていた。 「Jingle Bells (1857 作)」は繁華街のパチンコ店から。マライアキャリーの「All I want for Xmas ♬ (1994 年)」もスポーツクラブやレストランなどから。 クリスマスの歌はポップスも聖歌もふくめ、どの曲も美しい。 そのなかでも「Silent night(きよしこの夜)」は私が一番好きな聖歌である。 クリスマス の歌としては世界中でどこででも愛されている名曲といえる。 それは 1818 年オーストリアのある片田舎ではじめて演奏されたとある。クリスマス・ イブに教会のオルガンがネズミにかじられたために、オルガンの音がでなくなり、ミサ がはじまる数時間前に、ギターで伴奏できる曲を即興でその場しのぎで作られた曲だと きいた。それが 200 年たったいまもクリスマスの定番としてとどれだけ広く世界中の 幼児から老人までの唇から流れているであろう。 この時期がくると、わたしは、物心つく頃から母の弾くオルガンに合わせて、「きよ しこの夜」を童謡とはまた違った気持ちで歌っていたことをおもいだす。「すくいのみ 子は、まぶね(飼い葉おけ)のなかにねむりたもう♬」と。幼子イエスがその中にすやす やと眠っているという内容である。
4 月夜の荒野にポツンと建つ貧し気な農家。そのそばの木造の馬小屋、まぶね(飼い葉お け)の中のふかふかの藁 わら 床に眠るあかちゃんのイエス、横でそっと見守るマリアとヨセ フ。しかし、子供のわたしがもっとも惹かれたのは、イエスのそばに寄り添う一頭の鹿 毛の絵だった。歌詞とその馬の優しいまなざしが、一つになって物語の世界が子供の心 のひだのなかに織り込まれた。そこにいるのは牛でも、羊でも、犬や猫でもない。なぜ 馬なのだろう? と不思議に思っていたが、なぜかだれにもその謎を訊いたことがない。 紙芝居は単なる物語かもしれないが、そのころから、クリスマスにでてくる馬は特別な 生き物としてわたしのなかに静かに存在しはじめた。 子供は言葉でうまく表現できない分を、子供なりに聖なるおごそかな気持ちと胸があた たまるようなうっとりした感動を大人よりもっと深く感じていたのではないだろうか? 日頃意識していないのに、その馬の眼差しは時を経ても、ずっとどこか心の底で存在し ていて、いまでも「きよしこの夜」を歌うと、鹿毛の大きな眼差しがわたしの心によみ がえる。もし、わたしの人生を支えてきた幸せ感の基になったのはなんでしょう? と訊 かれたらまちがいなく「きよしこの夜」の歌であり、紙芝居のなかの馬の記憶が、その 一部であることに間違いはない。 しかし、まさか、この馬という脇役がわたしの一生にずっとよりそって、大きな部分 を占めるとは思ってもみなかった。
5 はじめて馬に乗ったのは、20 才の時。留学先のアメリカ人の友人が誕生祝いに両親 からプレゼントされたという馬。それは大型のポニーのようで、派手なパッチワークの ような模様をしていた。初めて乗るにはとても安全な馬だった。 そして帰国して結婚し、夫は山歩きに参加し、わたしは小学生の息子たちといっしょ に埼玉で「愛馬の会」というグループに入り、馬のことをもっと知るようになる。 そのうち夫の転勤で関西に移ってからは乗馬クラブに入り、ついに自分の馬を持つま でにいたった。 -++--それから乗馬歴はもう 40 年以上にもなる。 といっても、わたしの趣味は、けっして馬術競技にはなかった。乗るよりもブラシか けをしたり、首を抱いて話しかけたり。そんな付き合い方が楽しかった。あの飼い葉お けの横の馬が、付き合う馬の見本のように潜在的に存在していた。 一生懸命働いて、馬友と日本中はおろか、三田の姉妹都市があるオーストラリア、ア メリカ、韓国をはじめ、イギリスのコッツウォルズにある乗馬学校にも短期滞在するな ど、あちこちの国で馬に乗る旅を楽しんだ。勢いに乗って、馬の小説も 4-5 編書いてし まった。なんと、バブルが弾ける前の景気のいい時代、1985-1991 までのわたしの活動 は多岐に及んで実に活発に動いていた。 バブルが弾けて、運のまかせるままに時代に寄り添って生きていた。
6 手にいれた自分の馬は天寿をまっとうし、その後、わたしは乗馬クラブに属すること を辞め、それまで持っていた鞍や乗馬靴などを信頼のおける若者の経営する乗馬クラブ にもらっていただき、方向転換をすることになった。 もう、自馬ももつこともなく、クラブに通うこともなくなったが、馬とのつきあいは ずっと静かに続けられていた。 実は最近も、コロナがようやく収束の気配を見せたころ、わたしは友人と小淵沢にあ る S 牧場にむかっていた。 そこは毎年一度は訪れていたなじみの牧場で、八ヶ岳の麓の林のなかを外乗するのが 常だった。新宿からあずさ号に乗って山梨県の小淵沢で下車。富士山が見える八ヶ岳の 麓を森や林のなかを馬上で散策する久しぶりの乗馬が再開した。 その日、わたしは初めて騎乗する、若くはないが艶に輝いた鹿毛に乗せてもらった。 なんと優しい目をしたずっと前から知り合いであったかのような空気がその鹿毛が伝 えてきた。わたしは親密的な気持ちで馬上の人となった。 木漏れ日がキラキラする森のなかに出発した。「老婆が老馬に乗ってる」「ロ―婆の休 日」なんて、年に一度のおなじみのダジャレが自然に唇からでてくる。親友の馬友もわ たしも、そんな年齢になってしまっていた。それでも「きよしこの夜」の中にでてきた 一頭の鹿毛の静かな眼差しは、少女の頃から人生の終末になろうとも、時と空間を飛び 越えて、わたしのなかでいまでもつながって生きている。
7 私たち以外誰もいない森のなかを若いガイド嬢を先頭にときには速足や駆け足。ときに は鹿のファミリーに偶然鉢合わせになったが、わたしたちの馬は落ち着いて彼らが去る まで静かにたたずんで草を食んだりして待っていた。またいでいく倒木、石ころがごろ ごろころがっている湿った坂。せせらぎの中の小さな岩を一歩一歩ていねいによけて進 んだり、珍しいきのこをみつけたり。ふと、「きよしこの夜」の鹿毛といま、木漏れ日 のかがやく林の中を散策しているような錯覚を覚えた。そしてあの目覚めの時の温かい ものが、胸いっぱいにひろがっていくのを感じた。 かなうなら、また来年のいまごろもこのやさしい鹿毛に乗り、穏やかで聖なるクリス マスを馬と過ごしてみたいと思っている。



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