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大地に夢求めて ブラジル移民と平生釟三郎の軌跡 【書籍紹介】
関西の名門甲南大学の創設者平生釟三郎氏(昭和10年に初めて民間ブラジル経済使節団団長として渡伯)に付いての軌跡を「大地に夢求めて」と題して小川 守正さんと上村 多恵子さん(何れも甲南学園の理事)の共著で神戸新聞総合出版センターより2001年6月11日第1版発行しており、昨年の神戸での乗船記念碑『希望の船出』除幕式の際に取材に出向いていた娘が頂いたとのことで最近送って寄越しました。上村さんのお名刺が添付されておりメールアドレスがあったので上村さんに連絡をとり同書の“はじめに”の部分の転載をお願いした所、下記のご返事を頂きました。写真は、同書の表紙です。

『「大地に夢求めて」読んでいただき嬉しいです。
小川先生とブラジルにもまいりまして、あらためて平生さんにとり、なぜ、この地なのかを感じました。
壮大な夢半ばで戦争があり残念でした。満州移民との差を歴史の中で出したかったです。
hpでご紹介いただくのは、うれしいです。たくさんの方に読んでいただけたら幸いです。  上村多恵子』


はじめに            上村 多恵子
平生釟三郎とブラジルという国との関わりについて、今までほとんど知られていなかった。
私達は、前著『平生釟三郎伝』(小川守正・上村多恵子著、燃焼社)の中で、ブラジル経済使節団団長としての平生釟三郎が昭和10年に渡伯したこと、そして、その功績により、貴族院議員に選ばれ、文部大臣にも就任する契機となったことは記した。だが平生がブラジルにおいて実際どのような活動、活躍があったのかまで、思いが及んでいなかった。
むしろ日本から最も遠い国であるブラジルに、なぜ平生と関わりがあったのか、心の中にいぶかしいまま疑問として残っていた。又日本では、今でも暗く悲惨なイメージで語られることの多い移民と平生とが、どういかなるところで結びつくのか、理解できていなかった。
さらに、これはまったく不思議なことなのだが、平生の一八八冊にも及ぶ日記の中には、このブラジルについての記述は偶然なのか故意なのか、省かれている。
そんなことで、平生とその時代のブラジル移民についてもっと強く知りたいと願っていた。そんなときに、兵庫県民友好交流団が訪伯することになり、幸いにも小川・上村ともに、それに加えていただくことができた。
平生の呼ぶ声がした。
ブラジルの土の上で、今一度当時の移民と平生の歩んだ歴史の原点に立ち返ることを。それを平生が望み、呼寄せられたようにブラジルヘ出発した。
短い滞在日数ではあったが、平生ゆかりの人々の話や、現地での取材、資料によりどうにかバラバラの点であったものが一本の線となって浮かびあがってきた。
そして、資料を読み研究を進めるうちに、ブラジル移民支援の事業こそは平生の数多くの偉業の中で、国際性・歴史的意味、また政治的・経済的規模から、とてつもないスケールの事業であったことが分かってきた。また使節団は、平生の国際的視野に立つ高い見識に裏打ちされた理想プロジェクトであることも知った。
それと同時に,戦前20万人のブラジル移民は、日本人の大きなロマンと希望、それと無限の可能性を秘めた新天地を開くために蒔かれた種であったことも知った。
ブラジルにおいて平生が何を成したかったのか、また何を成し得なかったのか,それがおぼろげながら分かってきた。
そして,それを理解するためには、日本が明治以降において、近代国家建設を急ぎ、速いテンポで欧米に追いつくために富国強兵,中央集権,全体主義国家へと進めていった当時の状況,世界の状況を知らねばならぬことも知った。そのことの光と影も含めて。
その当時の日本の内部矛盾や閉塞状態における人々の苦悩と,それを打開しようとする希望の混合物として生れたのがブラジル移民であったのだ。
多くの日本人がささやかな家族の幸せを願う希望を抱き,海外へと雄飛していった。そういった背景の中で、平生は実業界における高い地位をすてて社会奉仕の念に燃えて,海外移住組合連合会会長に就任する。
そして、ブラジル拓殖組合(以降ブラ拓と称す)理事長にも就任し,宮坂国人(拾芳会メンバー)という自分の一番弟子をブラ拓の専務理事としてブラジルへ送り込む。宮坂は若いころより北海道、フィリピン、ペルーの開拓事業に従事し,広く世界に目を向けるうってつけの青年であった。彼による現地機関としてのブラ拓は,入植事業,教育,土木,治水,ダム建設,金融……などあらゆる開拓業務を行い,自作農集団としての日系コロニア社会建設のために力を尽くす。宮坂国人という,実に魅力的な冒険野郎も我々は知ることになる。
平生は日本のおいて日南産業という国策会社をブラ拓のために設立し、支援を続ける。このコンビによって戦前の日本ブラジル移民は、日本とブラジル両国の発展の柱となろうとした。
ところが,激しく展開する世界情勢の影響を受け、ブラジルの政策も変ってくる。1935年のある日、ブラジルが突然つきつけてきた移民制限(二分制限法)により、日本移民は10分の1に制限されたのである。この難局打開の使命を負わされたのが、後にも先にも例のないNPO外交団で、平生ミッションと呼ばれる民間人のみによる経済使節団であった。(中略)
だがその五〇年を経て、現在ブラジルは、日系人一五〇万人を有する国であり、戦前の二十万人に及んだ移民の後裔たちは、立派な日系社会を築き上げ、多民族国家ブラジルを支える存在となる。もう一つの日本人社会が世界に存在するといっても過言でない発展を見せている。
平生が目ざしたのは、まさしくブラジルという新しい国の、国づくりに参画することであったのだ。
それは白いキャンバスに日の丸を書き込むことによって、他の民族と共存共栄しながら南米大陸に国家建設の一員として参加することであった。未知なる荒野を切り開く開拓精神であり、ベンチャー魂とも言うべき者であらう。
戦前に勇敢に運命に挑戦した二十万人の人々と、平生や宮坂の蒔いた種は、今ブラジルの地で花咲いている。
人は去ったが、夢は残ったのだ。(中略)
個人と個人、個人と家族、個人と社会、個人と会社、個人と国家の関係を新たに創りあげてゆかねばならない。また、これから世界と日本がどういう関係を二一世紀に創りあげてゆくかを模索しなければならない。このような時期に平生の世界観、国家観、そしてブラジルへかけた大きな夢と理想、具体的な実行への道筋は、我々に大いなる指針を示してくれるに違いない。
そして同時に勇気と冒険心、さわやかな風を今一度、我々日本人に伝えてくれるのではないだろうか。
また、当然の成り行きではあろうが、第一回の移民から一〇〇年の歳月がたつと日系人の人達も自分のルーツについて、関心を失つたり、知らない人達も多くなる。いかなる経緯の中で移民政策が行われ、いかなる人達の血と汗と涙、希望と喜びの中で築き上げられたのか理解をするうえで、平生釟三郎の存在をぜひ強く記憶に残したい。まだ、平生ゆかりの人達や、資料が散らばらないうちに。
風化してしまわないうちに。
そういう願いをこめて私達はこの文章を綴った。
平生はブラジルという国に、日本民族のこれからの在り方、新しい可能性を視たのである。未来の日本の在り方、あり得るべき選択の一つの姿をそこに感じたのである。
平生釟三郎の熱い思いと未来社会へのインスピレーシオンは、澄みきったブラジルの蒼空の中で今なお輝き続け、我々に語りかけてくれることであろう。




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