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来た道 行く道 上園助監督の新聞連載より(1)
あるぜんちな丸第12次航の移住助監督として当時の海協連本部より派遣された弱冠29歳の若き上園助監督が私達の681名の兄貴分、仲間の一人として意気に燃えての初海外出張に緊張と責任感を一杯に新しい世界への挑戦意欲を持たれてご一緒して呉れました。御郷里の宮崎日日新聞社の「窓」欄に2001年4月21日から8月25日まで101回に渡って書き続けられた原稿をこの度2002年7月1日に自費出版に近い形で発行されました。同書にも何度か出てくる同船者の園田昭憲さんに謹呈の付箋を付けて送って来られたものを園田さんが郵送して呉れました。あるぜんちな丸第12次航の横浜、神戸からサントス港上陸までの41日間の移住者引率の苦労話10章を取り上げ4回に分けて少しずつタイプ・アップすることにしました。今回はその第1回目です。写真は、同書の表紙です。


南米向け横浜出発 三カ国を視察と調査
東京生活は四年間続いた。海協連の組織は会長、理事長、理事、総務部、広報部、業務部があり私は業務部募集課で外務省、農林省、移住振興KK等と協議し、海外支部から送られてくる諸資料をもとに上司の指示を仰ぎながら募集要項作成と現地事情説明会、書類選考などを主業務にしていた。私が海協連に入った六〇年頃は海外移住者も多く、また、移住者も多岐に渡っていたため、毎日のように書類選考の日が続いた。その結果、渡航前研修の回数も多くなった。
東京での生活中に少しでも親孝行の真似事でもしたいと父と叔父夫婦三人を東京に呼んだ。狭い六畳間に五人がザコ寝、田舎者の父の不自由な足腰を労わって妻が良く面倒を見てくれたのに感謝している。皇居は浅草など父も妻に案内してもらった事に笑顔で満足して帰郷してくれて有り難かった。父との面談はこの時が最後になった。親孝行になったであろうか?今でも心に残っている。
移住して行く人達は西日本地域は神戸市にある海外移住斡旋所(外務省)で十日間くらいの語学研修、手続き等を行い神戸港から、東日本地域は横浜移住斡旋所で研修を受けて横浜港から出発し、オランダ船の場合には月半ばで西回りでアフリカのケープタウン経由で約二カ月間、大阪商船の場合は、東回りで月始めの出発でハワイ、パナマ運河経由で約四五日間の日数を要した。従って当時は毎月二航海で出発していた。
渡航費は政府貸付で十年据え置きとされていたが、戦後移住は国策としての海外移であったので、その後政府支給となった。
東京に勤務するようになって二年目の年度末、六二年三月三十日横浜港出発の大阪商船(OSK)の「あるぜんちな丸」で移住して行かれる移住者引率の助監督として、三カ月間の南米出張を命ぜられた。移住者六八一名の人達と共に横浜港を出港した。ブラジルのサントス港で皆さんをサンパウロ支部に事務引継ぎ後は、南米3カ国の視察と調査の機会に恵まれた。
私はカメラを持てるような経済状況ではなかったので記録の写真はない。
三月三十日、外務省横浜移住斡旋所の講堂で移住者の退所式と壮行会、外務大臣代理の祝辞、監督者側の紹介、移住者代表の謝礼挨拶等の式典があり午後五時半、汽笛とドラの鳴り響くなか、移住者の皆さんは大勢の見送りの人達と別れの涙を流し合いながら、静かに神戸港に向けて出港した。翌日午後に神戸港に着く、夜は神戸斡旋所に合同宿泊し、夜は送別会やお国自慢の演芸会などで楽しく過した。
私自身も初めての仕事であり不安の中にも一寸ばかり興奮気味であった。

祖国日本に別れ 未来を夢見て南米へ
この三ヶ月間の出張中カメラを所持していなかったので記録写真はない。やむをえず他の写真を掲載する事をご了承願いたい。
翌4月1日、午前十時二十分から合同退所式兼壮行会は横浜の式典と変りはなかったが、来賓祝辞として僧侶であり、当時の人気作家であった今東光氏は次のような主旨の話をされたと私の日記にメモしている。
「南米は人種差別のない国であり、日常の生活ものんびりしている国柄であるので、移住後は少しでも早く現地の生活に馴染むことが大切である。また、排他主義の強い日本人としての考え方は早く捨てるべきである」などとユーモアたっぷりの話に、移住者のみなさんの顔には悲壮感はなかった。午後はそれぞれに荷物の整理や見送りの人達との尽きる事のない話で日本最後の夜となる。
4月2日午後四時、汽笛とドラの鳴りひびく中に数千の五色のテープの乱舞、別れのマーチも周囲の騒音に打ち消されて行く。止めどなく湧き出る涙は押え切れず、目頭を押えている姿は痛々しい。小雨降る中六八一人の移住して行く人、数千人の見送る人、涙声を張り上げての別れ言葉を後に船は次第に岸壁を静かに離れ、「あるぜんちな丸」は一路南米へと針路を早めた。
斡旋所生活中、壮言を吐いていた元気な青年らも、遠ざかって行く陸地を見ながら涙ぐんでいる姿が忘れられない光景であった。南米大陸に自己の青春や家族の未来を夢見て旅立つ人々らは、船が岸壁を離れるこの時、何を考えていたのであろうか?
陸地が遠ざかって行くにもかかわらず、何時までも甲板に佇んで日本との別れを惜しんでいる姿は、見るに耐え難い心境になった。
午後六時、初めての船の夕食。お頭付きの魚に舌鼓を打ちながら、早くも南米の話に花が咲いていた。同じ目的を持った者同士の和気藹々とした和やかな雰囲気に包まれていた。大部分の人は夜十一時頃に床に就いていた。
冬の海は荒れる。甲板には出られない。夜半頃になると船酔いに悩まされているものが続出して、一寸ばかり忙しくなった。船内を巡視すると特に婦女子の船酔いが多く見られた。朝食に出てきた数は少なかったように思われた。
船の第一夜はどんな夢をみたのだろうか?船酔いで夢見る間もなかったのかもしれない。実は監督陣も船酔いし、私も吐き気を覚えながらフラフラしながらも船内の見回りに数日間は苦労した。大きな船がこんなに揺れるとは思いもよらなかった。吐き気を押えるのに苦労した。

心砕いた船中生活 世話人選び問題処理
「あるぜんちな丸」(八〇〇〇トン級)は当時の貨客船としては日本最大級であり、移住者専用船として多くの移住者を輸送している。この他にブラジル丸、あふりか丸、さんとす丸等があった。また、オランダ船も数船あり交互に移住者を輸送していた。
船の中は特殊な社会環境下にある。移住者の皆さんは限られた船室での生活は極めて不自由であろうと思われた。独身青年が多く何かと話題や問題を提供してその処理に忙しさが日毎に増して来た。
船酔いが多くなる中で船内の世話人を選出する事になった。自治会的な組織として色々と発生する問題などを船側、監督者側と移住者の三者で協議しながら処理したいとして結成してもらった。
また、学童児も多く自由時間が多すぎると、何かと話題も複雑になるので、この子供らにも勉強できる場を与える必要がある。更に少しでもブラジル語やスペイン語の研修も必要であろう。
再渡航者を囲み現地事情の勉強も大事であるので是非実施したい。加えてある程度の南米の生活週間を身に着けて置くのも大事である。
狭い船の中での五十日近い生活となれば、全く予期しない問題が発生しかねないので、事前にその対策を樹立して置くべきであろう。特に花嫁として渡航して行く人が十六人もいたので、独身男性とのトラブルがないようにしなければと心を砕いた。
夜は時間の許す限り座談会、研修会、茶話会(婦女子)、映画会、演芸会などを開催して、楽しい船旅にしたいと協議し、実行できる事から1日でも早く実施する事になった。新聞発行もして日本や南米のニュースを知らしめる事とした。
船側に何事も積極的に協力して頂いた事は有難かった。監督(一人)助監督(四人)と言えども船旅は始めてである。事ある度にパーサー(船の事務長)を交えての協議となる。
朝は甲板で青年らが中心になり、ラジオ体操を始めてくれたので船内生活に活気が沸いてきた。この元気な青年らとの対応が一番心配の種になるであろうと監督側では思っていた事は確かであった。
船中生活の対策案を樹立中に船はハワイ港に着く。監督側のみが下船が許され、私ら五人は在ハワイ日本総領事館に移住引率の報告に行く。

初の外国に感激 疲れ一挙に吹き飛ぶ
移住船の監督陣は外務省職員、助監督は移住して行く人数によりその人数は決められていた。この「あるぜんちな丸」では六八一人(百十八家族五百七十二人、単身百八人(内花嫁十六人)(難民救済法移住者一人))の大所帯だったので、四人の助監督陣になった。
助監督には建設省(産業開発青年隊関係)三井炭坑KK、長崎県海外協会と私で他の四人は五十歳余り?、二十代の私は何でもしなければならず、船酔いしながらも悪戦苦闘の船中生活になった。三井炭坑KKからの助監督は当時移住者に各地の炭鉱離職者が多く、移住していた事から起用されたものである。
宮崎県からの谷出治家族(八人)、那須浩家族(八人)、江藤忠勝君らはブラジル国、福留重利家族(五人)、小野一男家族(五人)らはアルゼンチン国移住の二十七人が乗船されていた。
寄港する総領事館や大使館に提出する報告書作成も私の役割になり、きめ細かに船内状況を把握して置かなければならず、満足な報告書を作るために痩せる思いをしたが、今になって見れば極めて貴重な勉強と体験をさせていただいた。
在ハワイ日本国総領事館で簡単な報告を済ませて時間の関係もあり総領事の好意で主な観光地を案内していただいた。この世に生を受けて二十九年、初めて外国(アメリカ)の土地を踏む事が出来たのに感動すら覚えた。これまでの疲れは一挙に吹き飛んだ。
私が初めて「海」を見たのは小学校四年生の時の宮崎修学旅行である。この旅行も苦しい家計では行かして呉れないのではないかと思い、是非行かせてくれと両親に懇願して実現しただけに旅行実現は嬉しかった。青島の海岸で一番に「海の塩味」を確かめた事と「海の向こう」にどんな国があるのだろうかと思った日が鮮明に思い出され、それ以来「海」や「海の向こう」にいつも夢を託していた日々が懐かしく思いだされた。こうして現実に「海の向こう」のハワイに来た事をこれまでの人生で最高の喜びをあらためて味わった。
ハワイを出ると海も穏やかになる。移住者の人達も元気になり甲板に出てくる人が日増しに増加。今度は元気を取り戻した子供らが船内を騒々しく駆け回るため一ー二等船客より苦情続出に悩まされた。
監督は一等船室、助監督は二等船室、移住者の皆さんは三等船室でカーテンで仕切った大小の部屋にそれぞれの家族数による部屋、新婚夫婦、花嫁さん、独身青年の部屋になっているため、部屋同士間の揉め事も続発し、その度に仲裁役を若造の私がする事が多く、楽しい筈の船旅も疲労困憊の生活となった。





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