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南米航路移民船B栗本さんの私のページから
栗本 克彦さんのHP 『人生・ロマン・メッセージ』を私たちのHPにもリンクさせて頂いておりますが、その中の私のページ 南米航路移民船@を見つけて掲載させて頂き今回その続きAとBを掲載させて頂きました。大阪商船の通信員として若い頃に移民船にも乗られた経験から暖かい目線で移住を見つめて下さっており感謝しています。栗本さんのHP第9章少女と共にクリスマスおよび第11章日本一周そして南米に出てくるE子さんとの出会いと別れには涙を誘われますが、この度サンパウロ新聞の尋ね人記事によりお元気なE子さん事、藤木エリ子さんの消息が掴めました。若々しいお声で溌剌としておられるエリ子さんとの電話の会話に人事ながら胸が詰まりました。1952年当時15歳と21歳だったお二人の50年後の再会が東京の国立ガンセンターで手術を受ける栗本さんを見舞う形で実現しようとしている。詳細は栗本さんのHPでフォロウ下さい。写真は今年8月に富士登頂記念に撮られたものです。

休暇下船の決まった最終航海・・・ 寒い日本に向かう私のために編んだ白いマフラーをE子さんから渡された・・・南半球は真夏だった。サントスを出港する夜、私達は泣きながら別れの言葉を交わした・・・その後、E子さんはどんな人生を歩まれたのか分からない。涙があふれたE子さんのつぶらな瞳が私の脳裏に蘇ることがある。生きている間にもう一度!サンパウロの街とサントスの港を歩きたい!!


第24章 南米航路・移民船 B
1908年(明治41年)4月、東洋汽船の笠戸丸がブラジル移民160余家族、781人を乗せて神戸を出港した。これが第1回目のブラジル移民である。
戦前の中南米移民の総数は24万4500人、そして戦後、1952年(昭和27年)から1973年(昭和48年)までの21年間で、6万2800人の日本人が中南米に移住した。
戦後、南米の日系人による近親者や雇用者の呼び寄せ移民が始まった。戦前の日本の客船は軍用船として沈没して残ってないので、戦後間もなく始まった移民の渡航は、オランダのRIL(ロイヤル・インターオーシャン・ライン)の客船だった。日本〜南アフリカ〜南米東岸航路で多くの日本人呼び寄せ移民が南米に渡った。当時航空路がないために、一般乗客も日本と南米を結ぶ唯一の交通手段としてこの船を利用していた。
南米から戦後の日本を訪れた勝ち組 負け組が乗船したのもこの船だった。RILの航路はインド洋〜南アフリカ経由で、横浜からサントスまで58日を要していた。就航していた客船は ボイスベイン号 テゲルベルグ号 ルイス号 チチャレンガ号 チサダネ号 の5隻だった。
1952年(昭和27年)大阪商船のさんとす丸(8281総トン)が戦後の大型外航客船の第1船として、新三菱神戸造船所で建造された。当時は1等12人2等54人の貨客船だった。(その後南米移民が多くなり500人余を運べるように改装された。)
南米航路に就航した1952年は、講和条約が発効した年である。日本の外務省は南米移民を復活させるために、神戸にあった移民収容所を神戸移民斡旋所として改装し、翌1953年から移民業務が始められた。
1952年(昭和27年)さんとす丸の処女航海でブラジルに向かった17家族、54人のアマゾン移民は日本政府が戦後初めて実施した最初の移民だった。
1953年(昭和28年)に「日本アルゼンチン通商協定」が成立し、沖縄からアルゼンチンへの呼び寄せなど移民も着実に増えていった。同年5月、大阪商船は北米、パナマ運河経由の東航南米航路を再開。さんとす丸が就航した。 大阪商船は「さんとす丸」に次いで、ニューヨーク航路に就航していた貨物船「あめりか丸」と姉妹船の「あふりか丸」を500人の移民が乗船できるように移民船に改装し、1953年の夏から東航南米航路に就航した。
1954年(昭和29年)大阪商船の「ぶらじる丸」10,101総トン、3等定員902人1958年(昭和33年)「あるぜんちな丸」 10,864総トン、3等定員960人が新三菱神戸造船所で建造され移民船として就航した。
移民船の就航ルートは、神戸、横浜、ロサンゼルス、クリストバル、ラグアイラ、ベレン、レシフェ、リオデジャネイロ、サントス、モンテビデオ、ブエノスアイレス、だった。サントスまでの肯定は12,500海里、サントスまで約40日の航海だった。1956年3月、横浜移住斡旋所が新設されて、日本最終港の横浜から多くの移住者が乗船するようになった。
大阪商船の南米航路移民船は、ぶらじる丸、あるぜんちな丸の就航によって、さんとす丸あめりか丸、あふりか丸の5隻で、年間12航海、毎月神戸、横浜から移民船が出港した。その後1963年(昭和38年)巡航見本市船として「さくら丸」12,628総トンが建造された。見本市船として巡航した外、3等定員800人の船室をもつ「さくら丸」は南米航路の移民船として就航した。
移住者が乗船した3等船室は、蚕棚式の仮設2段ベットで、移住者が下船した後、ベットは取り外し船室は貨物倉となって、資源の少ない日本への貨物、南米からの鉄鉱石等が積み込まれた。
日本の高度成長と共に、南米に移住する人は激減し、1971年(昭和46年)ぶらじる丸が移民109名を乗せて出港、これが南米航路移民船の最後になった。
1973年(昭和48年)あるぜんちな丸は客船「につぽん丸」に改装され、日本初の世界一周クルーズ航海に出港した。そして船客の中に、285人の南米移住者が乗っていた。この人達が船による最後の日本人移民となった
1908年(明治41年)4月、東洋汽船の笠戸丸がブラジル移民160余家族、781人を乗せて神戸を出港した。これが第1回目のブラジル移民である。笠戸丸以来63年に及ぶ南米移民が終わった。
戦前の中南米移民の総数は24万4500人、そして戦後、1952年(昭和27年)から1973年(昭和48年)までの21年間で、6万2800人の日本人が中南米に移住した。
1958年 あめりか丸第12航 のアルバムから                  日本最終港、横浜大桟橋の出港風景、横浜市警ブラスバンドが軽快なマーチ、そして船が岸壁を離れると別れの曲が演奏され、5色のテープが舞った。      
夢と不安を乗せて太平洋を横断、パナマ運河通過、サントスへ45日の航海です。運動会は子供達も大喜びで、デッキは歓声と笑顔で溢れました。
赤道祭は航海中の最大のイベント、ミス赤道選出、仮装行列、赤道通過時にテープが切られ、汽笛が鳴ります。45年も前の写真で・・・当時の子供達も50才を越えていると思います。サントスでは第1回のブラジル移民が笠戸丸で入港した1908年から丁度50年目で「日本移民50年祭」が開かれていました。        
ブラジルのベレン、サントス、そしてブェノスアイレスで船から流れる別れの曲と乗組員の声援を受け、手を振ってタラップを降り、新天地に向かった人々を思い出します。姉妹船 あふりか丸 とすれ違う南米航路の帰途、ブラジルのレシフェで鉄鉱石を満載して吃水線も下がり、資源の少ない日本に向かっていた。



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