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「いつか いつか」 皆さんの秋は如何ですか? 神山典士さんからのお便り。
ノンフィクション作家として健筆を振るっておられる神山典士さんよりお便りを頂きました。神山さんの文章は既に寄稿集70番《浅草ロック座ブラジル親善公演》、カンボジャのアンコールワットの戦場で若くして散った写真家一ノ瀬泰三さに付いて書かれた82番《タイゾータイゾー タイゾー》131番の《生きること、演じることの後書き「決着の夏」》を掲載させて頂いておりますが、今回は日本シリーズで屈辱の4連敗を喫した失意の人、西武ライオンズの伊原春樹監督を取り上げておられます。現役時代選手としての「いつかの日」を見ることなく31歳で指導者への道を自ら選び監督初年度で西武をリーグ優勝に導いた伊原さんの手腕は高く評価されており今回日本一に成れなかったことをバネに更なる上を目指す知将、来年は是非星野阪神との日本シリーズを期待したい。
神山さんのお便りの最後に『伊原氏の姿を通して学んだ、この秋の一つの収穫でした。皆さんの秋は如何ですか?』とありますが、決着の夏、考える秋これからもお便りお待ちします。写真は、西武ライオンズの公式HPからお借りした伊原監督です。


「先輩、俺、自分が何とかもう一つ弾け切れないかといつも思ってるんすよね」
「あぁ、俺もだよ。こんな自分でいいはずない、いいはずないと思ってるんだけどな」
街がすっかり色づいた札幌の夜、二人の男がカウンターで会話を交わしています。恥ずかしながら、一人は僕です。久しぶりに会った先輩を前に、少しグチってみました。
新聞記者をしている大学時代の先輩は、今年赴任先のシンガポールから戻ったばかり。二年間の赴任中、東チモールあり、パレスチナあり、アジアの現場を隈なく歩き続け、社会面にたくさんの記事を書いて来ました。ところが戻されたのは、札幌本社のデスク。サラリーマンとしては出世なのでしょうが、現場から遠ざかってしまった焦りが時折会話の節々に滲みます。
「もっとがむしゃらにやらんといかんですよね」
「このポストと生活に慣れちゃうのが一番恐いよ」
会話というよりも、二つの独り言が平行して彷徨って行きます。それでも心に温もりが広がったのは、二人の中に「いつか、いつか」という同じ呟きが巣くっていたからなのでしょう。
「あいつが監督になるなんて、誰も思っていませんでしたよ。大学時代は長嶋さんに憧れて、三塁からの送球は掌をヒラヒラさせている男でした」
折しも、この日札幌であった元社会人野球日本一の監督は、「支社長室」のソファーでそう語り出しました。時は日本シリーズ直前。球界では異色の監督といわれる西武伊原春樹氏の取材で、僕は大学時代の同級生に会っていたのです。
振り返れば伊原の53年間の半生もまた、「いつか、いつか」の連続だったと見ることができます。高校時代は広島の古葉監督の弟に鍛えられ、県大会の決勝迄進みますが広島商業に敗れます。進んだ芝浦工業大学では常に六大学を眩しく睨み続け、監督が社会人野球に去った四年時には主将、監督代行、そして寮長も務めます。結果は五位。四年間の成績は、ベストナインが一度だけ。プロ入りした西鉄ライオンズも黒い霧事件の直後。首位阪急に40数ゲーム離される弱小チームと散々な歩みです。
一つだけ気になるのは新人時代、伊原は何かの理由で東尾を殴ったという噂です。調べてみると、東尾は歳は下でもすでに西鉄のエース。新人でありながらそんなことができるのか。不思議ではありますが、学生時代には打席からサインを出し、曲がったことをした先輩は寮の裏に連れ出して殴ったという一本気な性格がそうさせたのだとしたら納得もできます。
とはいえ現役中は二年間のジャイアンツ移籍時代も含めて、伊原には「いつかの日」はきませんでした。ジャイアンツに移籍した年、新監督となっていた憧れの長嶋には、ただひと言「バットに当てるのがうまいね」と言われただけだったとか。結局、ここでも代打で数試合出場しただけで、伊原は二年後にひっそりと西武ライオンズに戻ります。
転機は31歳の時でした。「コーチにしてください」。夏のある日。二軍落ちを言って来た当時の根本監督に対して、伊原はかねて考えていた「指導者」への道を進言します。「10年間現役でがんばろう。その後は指導者としてユニフォームを着続けよう」。プロへの入団時からそれを目標にしていたと言うのです。
翌日から、伊原のフィールドは二軍の球場となりました。守備コーチ「補佐」。その役割は練習の手助けと試合時のスコア付け。けれどこの時、ベンチに入れずネット裏から相手チームの投手を凝視し続けたことが、今にして思えば三塁コーチとしての資質を鍛える場となりました。
やがて87年、伝説となった日本シリーズ、対ジャイアンツ戦でのスーパープレーが飛び出します。ジャイアンツのセンター・クロマティの緩慢な動きと、中継したショート川合の送球の癖を見抜いた伊原が三塁コーチスボックスで大胆に腕を廻すと、一塁ランナー辻が一気にホームをついたのです。結果は「セーフ」。西武ライオンズ黄金時代の幕開けでした。
ここで見落としてはならないのは、伊原はこの年初めて一軍の三塁コーチを務めているという点です。今年、新聞紙上で辻(現・ベイスターズ三塁コーチ)が言っていました。
「今年初めて三塁コーチを経験してその難しさがわかった。常に伊原さんの姿を思い描いている」。つまり辻は自分がコーチスボックスに立ってみて始めて、一年目にしてあの大
胆な指示を出せた伊原の凄さを知ったのです。
取材中、僕は西武ドームの三塁コーチスボックスに立ってみました。今更ながら気付くのは、相手ベンチと応援団を背にして、そこは孤立無援の場所だということです。その地で相手投手の癖を見抜き二、三塁のランナーへの指示をだし、ホームへ突入するか否かのギリギリの判断を瞬時に行う。その反射神経は、他のプレーヤーに勝るとも劣らぬものが要求されます。まして今期は監督として、大将自らがたった一人でこの地にたち続けたのです。戦略論から言えば、少々常識を逸脱してもいます。けれど伊原は、「あの場所が一番ゲームを客観的に見られる」と涼しい顔で言います。その図太い神経はどこから来ているのか。あの決断力の源は何なのか−−−−。
「結局ハルキはね、自分をしっかりと持っているからできるんですよ」
シリーズ第一戦のプレイボール直前、ドームホテルのロビーで会った伊原の仲人でもある旧友はそう言いました。大学時代からプロを目指して猛練習を続け、コーチとなってからも夜10時には必ず宿舎に戻って勉強を続けていた伊原の姿を、彼はもう30年間も見ています。
−−−その生い立ちを含めて、伊原サンの半生は常に自分より上の存在を目指して「いつか、いつか」と呟いていた歩みではありませんか?僕の質問に、彼はこういいました。「その通りです。でもあいつには自分があるから、そのいつかを目指して腐らずに濁らずに歩いてこれたんです」自分がある。彼はその言葉を何度か使いました。僕はそのことをどう理解しどう表現しようか、ずっと考え続けています。
それにしても、あの札幌の日から僅か一週間。あれほど燃えていた伊原の周囲の空気は、あっと言う間に秋の冷たい風に変わりました。一つもいいところなく惨敗を重ねた大将は、「むしろさっぱりしています」とひと言残して球場から愛妻の元に帰って行きました。
聞いてみたいことはいくつもあります。今度会う事ができたなら、その最初の質問は「敗れたあの日の夜もいつものように試合データのノート整理をしたのですか?」。「いつか、いつか」と思い続けているならば、この敗戦もその過程にすぎない。伊原がそのことをどう行動に現したのか、僕の興味はその一点にあります。そして「自分がある」と言わしめるその「自分」とは何なのか。これはいささか抽象論となりますが、それをテーマに一本書いてみたい。そんな思いです。
その文章ができたなら、まず札幌の先輩へ送ろうと思います。それはおそらく、僕自身に対する「いつか」の答えでもあり、「自分」というものへの問いかけでもあるはずです。
「いつか」を思うのはたやすい。けれど濁らずにそれを支えきれる「自分」がいるのかどうか。
伊原氏の姿を通して学んだ、この秋の一つの収穫でした。
皆さんの秋は如何ですか?

神山典士
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