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半世紀の歳月を経て再会へ!! 栗本さんのHPにある幻のE子さん見つかる。
『私たちの40年!!』HPに紹介している大分県在住の栗本克彦さんのHP『人生・ロマン・メッセージ』の《私のページ》第9章、第11章に出てくるE子さんの消息を調べて挙げたいとの気持が強く栗本さんに御相談した所、是非どうしているか消息だけでも知りたいとの気持と今更探してE子さんに迷惑を掛けるのではないかとの危惧の板挟みでで決めかねておられた。コロニアの生き字引サンパウロ新聞内山編集長にお電話でお聞きしたが昔の話で判らないとの返事で殆ど諦めていたのですがサンパウロ新聞の10月22日版で簡単な尋ね人記事を掲載して頂いたところ、新聞の威力でご本人から電話を頂き思わず声が上ずる驚きを覚えました。同じサンパウロ新聞の10月31日付けの社会面で53年前のサントスと撮ったお二人の写真と共に大きなスペースの記事として掲載されました。ご本人が写真を提供し取材に応じられ新聞記事になっているのであればHPに公開するもの私は問題ないとの栗木さんの了解も得てここに紹介する次第です。これからの進展は、栗木さんご自身の問題として見守って行きたいと思います。写真は、訪日準備に忙しいエリ子さんをサンパウロのご自宅に同船者の小山徳さんに訪ねて頂き、撮られせて頂いたものです。


サンパウロ新聞10月22日社会面に掲載された記事です。
藤木エリ子さんの消息 元大阪商船の栗本さんが尋ねる。
大分県在住の元大阪商船通信員を勤めていた栗本克彦さんが藤木エリ子さんの消息を尋ねている。エリ子さんは1940年渡伯の柴田みさ子さんの長女。柴田さんは最初の夫と死別、その後、エリ子さんを連れて沖田道晴氏(個人)とし再婚した。
40年前、シンガポールに停泊中の栗本さんが地元のパーティー会場で偶然、帰国中のみさ子、エリ子さんと知り合い、その後、文通をしていたが、70年ころから消息不明となった。エリ子さんは15歳頃からバレエで活躍したという。
本人または消息を知っている人は和田好司さん(電話0**51・3325・6816)まで連絡下さい。

サンパウロ新聞10月31日(木曜日)社会面2ページに掲載された記事。
半世紀の歳月を経て再会へ シンガポールで宿命の出会い 商船員と二世娘割かれた初恋 青春の思い出語りたい 病床から懐かしい人の消息を探して
本紙22日付け社会面の尋ね人記事は、一読者からの連絡で尋ね人の消息が判り、半世紀ぶりの対面が実現する事になった。一人はブラジルから初めて松竹歌劇の試験に挑戦した元バレエ少女、かたや元大阪商船の乗組員。初恋の女性を忘れがたく、人生の終焉を迎える前にもう一度会いたいと願う元乗組員のもとに「何か運命というものを感じる」と話す元バレエ少女は11月に訪日する。
東京で3回目のガン手術を受ける大分県在住の元大阪商船通信員栗本克彦さん(71)から、手術台に上がる前に、青春の出遭の一ページを飾った明朗で清楚な忘れがたいあの日系人少女に会いたいと、ホームページで知り合ったポルトアレグレ在住の和田好司さんに調査を依頼した。
栗本さんが捜し求める人はサンパウロ在住の渡辺・藤木エリ子さん(67)。
二人の馴れ初めは半世紀をさかのぼる1950年のシンガポール。
松竹歌劇の入試のためにオランダ船ルイス号で母親のふみ子さんと訪日する藤木エリ子さんは当時15歳。シンガポール入港時、母娘は大阪商船通信員栗本さんとパーティ会場で知り合い、栗本さんが乗船する「ちはや丸」を訪れ歓待された。
それから3年後、サンパウロのエリ子さん宅を栗本さんが訪れ、いきなり母親にエリ子さんとの結婚を申し込んでいる。母親から詳細を聞いていないエリ子さんは、ただ、懐かしいお兄さんが遠路訪ねて来たと思い一日だけサントスとブタンタン毒蛇研究所に案内した。一人娘のため祖国に嫁がすことはできないと言われたのか、栗本さんは数日後に帰国している。エリ子さんは後日、母から栗本さんの来伯目的を聞いたが感激もわかずいつしか忘れ去り今日に至っている。
それから半世紀、和田さんを通じて栗本さんからエリ子さんの消息捜しとなったが、本紙の報道でエリ子さんの消息がわかった。
24日午後、エリ子さんは和田さんと電話で話し、和田さんから栗本さんは11月初旬、3回目のガン手術のために入院するが、その前に忘れがたいエリ子さんの消息をどうしても知りたいと言っていると聞き驚いた。
エリ子さんは日本在住の子息に子供が生まれたため、11月6日に訪日予定で航空切符もすでに購入していた。その訪日直前に、半世紀前にプロポーズしてきた男性から、最後にもう一度会いたがっていることに「少し時期がずれれば再会は実現しなかった。運命ですね」と驚き、また米系健康食品会社の優秀な外交員でもあるエリ子さんは「ガンに効く薬も扱っており、特効薬を持っていきます。運命ですね」と再び縁の不思議さにびっくり。さらに「かって一年十ヶ月、出稼ぎで付き添い看護婦の経験もあり看護婦の経験もあり、向こうの家族が許可してくれれば付き添って介護もしてあげたい。本当に運命ですね・・・」と三度目の運命の言葉が口からでた。母親が首を縦に振っていれば夫婦となっていたかもしれない栗本さんの世話を、出会いから半世紀後にすることの縁に改めて驚く。
昭和のはじめ、ラプラタ丸の吐き出す乗客にまじってサントス港に一人の少女が上陸した。その名を柴田みさ子といい、愛知県岡崎生まれで齢は数えの17歳。まだ女学校を出きっていない身で、しかも単身。ノロエステ線奥地のチエテで所持金を使い果たし一軒の菓子店に奉公に入る。それからコーヒー園、綿園と渡り歩き、この間に日本人と結婚、エリ子という可愛い子も授かり幸せな生活が始まろうとする矢先、夫は妻・娘を残して死亡した。その後、サンパウロ新聞社員だった沖田道晴氏(故人)と再婚、子宝に恵まれない夫婦は、エリ子さんを掌中の宝といつくしんで育てられた。
両親の愛に育まれ15歳の乙女に成長したエリ子さんは、学業のかたわら将来のバレリーナを目指し、石井獏氏の門下だった大谷康夫の大谷舞踊研究所に通い汗を流した。その間、一千人の中から五十人しか採らない難関な市立劇場のバレエ研究生試験を突破、ラフェー師の愛弟子として三年間修行。将来はバレリーナとして名声も・・・と思われたが、映画や雑誌で知った宝塚や松竹歌劇の絢爛な舞台が頭から去らず、松竹歌劇団での踊りに執着、ついに両親を説き伏せ受験を許された。松竹歌劇受験は友人たちをも驚かせ、その中の一人、女優・京マチコの妹石田千枝子さんは特に羨ましがった。なお千枝子さんの父・石田治三郎さんは当時、聖市で洋服店を営んでいた。
昭和25年12月31日、横浜港でオランダ船ルイス号から下船したみさ子、エリ子親娘はみさ子さんの故郷岡崎で1ヶ月滞在、その後上京して世田谷区に家を借り受験に備え、「ブラジルから日系美人歌劇に受験」とラジオ及び雑誌で紹介され、本人も合格の確信を持って試験に臨んだ。南米で伸伸と育ったエリ子さんの肢体は他の受験生を圧倒したが、合格者五十人の中にはその名はなかった。なお受験生は約1700人。
当時をふりかえり、「日本語が全くできず、試験管も困っていた」とエリ子さん。
その後進駐軍のクラブで踊りとして生活の糧を得、また鶴田浩二主演の映画に踊り子のチョイ役でも出演している。松竹歌劇の夢破れて1953年に帰伯。1963年に結婚、二児をもうけるが11年目に離婚。母とは異なり再婚はしなかった。



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