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ビデオレター発言原稿。
記録映像作家の岡村 淳さんがあるぜんちな丸第12次航『同船者の皆さんへ 40年目のビデオ・レター』第一次企画アマゾン編の編集に必要との判断で2月1日、2日の予定でポルトアレグレに取材に来られます。ポルトアレグレの町を字幕で紹介するにふさわしい景色、『私たちの40年!!』の言い出しぺでもある和田の日常生活、本企画に掛ける熱い思い等を取材したいとのことで一応その準備と言う形で現在の心境等を纏めて見ました。写真はポルトアレグレ市のシンボルとして町の入り口に立つLACADOR(カーボイ=ガウショ)です。


ビデオ・レターへの挨拶 5月11日で着伯40年になります。一口に40年とは云えそれぞれの皆さん681人とそのご家族の歴史があります。
そのそれぞれの歴史が私たちが移り住んできた各国各地の歴史の一部を刻んで来たと思います。40年という一つの区切の年に先に逝かれた方達の御霊を偲ぶ慰霊祭と生きている私たちの喜びを分かち合う同船者会を開き通過点の一つを祝い合えればと思います。
私たちの40年を書き物として記録に残すと共に映像を通じて生の声と姿をビデオ・レターの形で残して置けるのは、非常に有意義で後世への遺産として誇れるものではないかと思います。


同船者へのこだわり 同船者との繋がりは、この40年の間殆どなかったと言っても良い状況で日伯交流協会の研修生をお世話している高野さんが同船者のひとりである事を発見?その後高野さんの音頭で数年前に高野さん、北田さん、龍川一恵、いく子さん、吉田和子さん達が集まって呉れたのが最初でした。そろそろ40年になろうとしているので一度皆で同船者会を開いたらどうだろうとの話がその時にも出たと思います。昨年、5月に高野書店で話している時ニッケイ新聞社の刈谷記者が来られ同船者会の話が出てあるぜんちな丸第12次航の同船者会に付いて記事(5月12日付)にして頂いたのが最初でその後も渡伯40年後につくる“船内新聞”同船者どう歩んだか、アンケートして記事集め(10月10日付け)更にサンパウロ新聞でも戦後移住を後世の記録に あるぜんちな丸船内新聞号外を計画(11月1日)として記事にして戴きました。平均月に1度のサンパウロでの集まりに立ち代り入れ替わり同船者の皆さんが集まってくれ何時も40年振りに近い懐かしい同船者が集まり昔話を共有しながら5月のエベントに付いて打ち合わせをしております。20年ほど前に吉川 元さん(元長崎県人会長)が同じような主旨で同船会開催を計画されたとお聞きしておりますが、当時私が誘いを受けていたとしても何処までお手伝いできたか疑問です。着伯20年では、まだ定着への課程で私自身猛烈社員振りを発揮して家庭も顧みない程、会社人間として我武者羅に働いていた頃で仕事に育児に懸命の時期だったと思います。では何故40年なのか?10年後の50年では当時家長(単身移民も含め)は、その動きが取れないほど老齢化していると想像され、40年の今が最初で最後の時期ではないかとの思いに駆られ今だから出来る、今でないと出来ないとの気持ちでこの『私たちの40年!!』誌発行と40年目のビデオ・レター企画を推進している。この同船者の絆が今後何らかの形で同じあるぜんちな丸で南米に移住した681名の各国への定着の課程、大きなファミリーのルーツとして後世に残って行けばこれに過ぎた幸せはない。出来る限りの資料の蓄積を計り次代に引き継いで行きたい。


船内新聞と私 当時早稲田大学の海外移住研究会という泥臭いサークルのメンバーとしてブラジル呼寄せ農業移住者の1員として移民船あるぜんちな丸第12次航に乗り込み、その経緯は覚えていませんが船内新聞の編集委員長として寄港中も含め一日も休まずサントス入港まで船内新聞を発行したのを覚えています。字の下手な私はもっぱら走り書き、協力者からの原稿集め等に従事、ガリ版切りの皆さんガリ版刷りの皆さんに迷惑を掛けていたのではないかと想像します。リオのフンシャル移住地にその当時の新聞の何部かが残っていたとの事で、それを聞いた時には飛び上がって喜ぶと共に見るのも恥ずかしいような変な気持ちを抱きました。得てして単調な船内生活に船内新聞発行と云う仕事が出来、仲間との船内新聞編集室での生活が快適であったようです。正直云ってディーテールは全く覚えておりません。何枚かの写真が当時を思い出させてくれる縁です。


『私たちの40年!!』誌の意義 5月11日の合同慰霊祭、同船者会の開催に合わせ多岐多様の移民形態と日本41都道府県から同じ船に乗り込みブラジル、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの4カ国に渡った681名の40年の生き様を戦後移住史の一部として書き残して置きたいとの気持ちから40年後の船内新聞の特別号として原稿、資料(写真、船内新聞の一部)等を収集しておりますが、5月11日までに何処まで纏められるか分りません。少なくとも同船者名簿の完備は、最低必要条件として皆さんのご協力のもと、総力を尽くして作業を続けております。昨年の秋、神戸高校の同級生からのメールが『ブラジルに40年を在りし人は、落ち葉踏む音恋しからずや』と結ばれていましたが、落ち葉踏む音に象徴される日本の秋、残して来た祖国日本を思う気持ちは、人並みに持ち合わせていますが、このブラジルに置ける40年は、私なりに納得行くものであったが681人の同船者の皆さん一人一人にはどうだったのか、南米を第2の故国として選んだ40年前の選択をどう評価しているのか、同船者の皆さん一人一人に『落ち葉踏む音恋しからずや』と聞いて見たい気持ちで一杯ですが、こればこのあるぜんちな丸第12次航の40年後の船内新聞発刊の根底に流れる主題であり一人でも多くの同船者が40年前の選択を肯定できる方で過ごしてこられた事を願う気持ちで一杯です。


ビデオ・レターの意義 初期の計画では、あるぜんちな丸第12次航の同船者681名を通した戦後40年史を何らかの形で書き残したいとの主旨で40年後の船内新聞特別号を発行、それを基に単行本、自主出版等の書籍としての出版を皆で話し合えればとの目的で原稿、資料(船内新聞、写真その他)集めを始めましたが、参加、協力の気持ちはあっても日本語を書く習慣から遠ざかり書くのは億劫、苦手との方々が多く思うような原稿が挙がって来ないのが現状です。困り果てていた時に縁がありコロニアの著名な記録映像作家の岡村 淳さんに12月の編集委員会に参加戴き皆で話し合っている時に、映像を通じての生の声と姿をビデオ・レターと言う手段を用いて同船者の皆さんに一言ずつでも語って貰ってはどうかとのアイデアが生まれ岡村さんもそれに協力して戴けるとの事でお願いしようと話が盛り上がりましたが、実際にはそれを実現させるための最低の実費だけでも何処からか捻出する必要があることに気づきはたと困りました。参加者の一人が自分の名前を公表しないと言う条件付でビデオ・レターを含む同船者会の企画に1万ドルを基金として贈与するとの発言があり皆を感激させました。この基金を何らかの形で後世に残しえるものとして温存したいとの願いで岡村さんにご無理を承知で協力戴いている。このビデオ・レター企画は、その第一次計画として同船者会開催地サンパウロより一番遠いアマゾン編、ボリビア編、日本編を作成、5月に公開する予定で参加者皆さんとの話し合いにより第2次計画(サンパウロを中心としたブラジル編、パラグアイ編、アルゼンチン編等)の実施の可能性も出てくる壮大なものでその実現を望む次第です。


さわやか商会と私 さわやか商会は、1995年に丸紅ブラジル会社退職後に生涯現役として働く為の場所として家族のみの出資による有限会社として発足しました。現在は、女房、娘三人、義妹と私の6人の出資による資本金82千レアイスの会社です。小百合、弥生、茜の3人の娘の頭文字SAYAKAにファミリ・ネームのWAを入れたSAWAYAKA商会は看板を挙げて7年目に入りお陰様で多くの企業、会社のご支援の基に黒字基調のささやかな会社として働かせて戴いております。第2の人生を爽やかな気持ちで過ごしたいとの願いを込めての命名は、成功したと言えます。ファミリー会社であるだけに経営審議会長の女房の意見が最強(女性軍総ての出資額を握っており経営権を持っている)で他人に遠慮する必要はなくても女房の協力、同意がないと何も出来ない状況で『私たちの40年!!』誌発行計画に付いても、アマゾン、ボリビア、日本への私の青春との邂逅、同船者を訪ねる旅は、今年のさわやか商会決算が赤字転落の可能性を秘めての実施であり、『道楽もそこそこにして、本業もしっかりやってや』との注文を付けながらも応援して呉れる伴侶に頭が下がる思いが強い。5月の同船者会開催までは、『私たちの40年!!』に没頭して見たいと思っている。

         平成14年1月28日
『私たちの40年!!』編纂委員会
                  和田 好司



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