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『船の旅』 ポルトアレグレ地区会員 杉村士朗さんの寄稿
南日伯援護協会の援協ニュース317号(9月17日発行)の5ページに『船の旅』と題してポルトアレグレ総領事館勤務の杉村士朗さんの旅行記が掲載されております。我々より2年程早い1960年6月着伯の先輩ですがほぼ同時期をブラジルに過してきた仲間の一人として杉村さんの移民船ボイスベン号(オランダのRIL=ローヤルインターオーシアンライン)での船旅の思い出と郷愁は40数年を経た今でも忘れがたいとの記述を掲載させて貰いました。杉村さんは1939年11月15日東京に生まれた江戸っ子ですが20歳でブラジルに移住、農業から始め日本語学校の先生、経済的な理由もありリオとポルトアレグレの日本国総領事館に都合三〇年近く勤務、後二年で退職予定との事でその後は気力と体力の続く限り世界中を寝袋を担いで歩いて回りたいとの事で私も一度位は杉村さんにお供して寝袋担いでの安行?の旅に出たいと願ってますが実現するでしょうか。杉村さんの近影をと思ったのですが断られましたので日本の豪華客船『飛鳥』のリオデジャネイロ停泊中の写真を旅行ジャーナリストで写真家のDaniel R Carneiro さんからお借りしました。2000年にリオで撮影したものだそうです。


私は二〇歳の時、数百人の移民集団の一人となって、横浜港からオランダ船に乗った。「ボイスベン号」という名の極東と南米をアフリカ経由で結ぶ定期航路の貨客船で、沖縄、シンガポール、ペナン、モーリシャス、ダーバン、ケープタウン等に寄港した後、サントス港へ着いた。当時の旅券をみると、乗船日は四月十三日、下船日は六月八日だから五十五日間の船旅であった。それが私の初めての船旅であり、また同時に初めての異国への旅でもあった。
 だが地球を半周以上もするその船旅は、「世界発見」への旅立ちではなかった。それは戦争に敗れた貧しい国の貧しい家庭に生まれ育った己の「過去」に別れを告げるためであった。私には船の目的地がアメリカであろうが、ブラジルであろうが、どうでもよかった。私はただ出自によって受け継いだ「貧困」という遺産から逃れたかったのである。だから、出港を知らせる汽笛が鳴り、五万トンほどの船体がゆっくりゆっくりと岸壁を離れていった時、一粒の涙もこぼれおちなかった。私は過去の絆を断ち切り、新しい人生へと船出する期待と喜びで胸がいっぱいであった。海の彼方の遠くにある、未知の国の未知の人生がこれまで母国で味わった人生より素晴らしくない筈がない、と私は理由もなく確信していた。
 それから時が過ぎ、私は変わり、若き日の「夢想」は朝霧のごとく消え去った。
 だが、船旅の思い出と郷愁は時と共に消え去らなかった。とりわけ、マラッカ海峡の夕焼けの絢爛さと、月夜のインド洋の神々しさは、今も脳裡に焼きついている。
 移民船を別にして、私は長い間「船旅は金持ちの旅」と思い込んでいた。しかし、いろいろ情報を集めてみると、そのような時代は過去のものとなっていた。現在では1人1日1000ドルもするような豪華船旅から1人1日100ドル程度の安船旅まで、旅人の好みと懐具合に応じてさまざまな選択肢があることを知った。私は豪華さとか高級感とかにはまるっきり興味も関心もないので、船底の窓なし客室に寝泊りする安船旅をここ数年間に何回かした。オランダ領アルーバ島からカリブ海、コペンハーゲンからバルチック海、またはニューヨークからセント・ローレンス湾河を通ってモントリオールまで等、いずれも一週間程度の船旅であった。その他に、リオ・デ・ジャネイロからジェノバまで十八日間に渡る大西洋横断の船旅もした。
 この船旅は「食べる」「寝る」「移動する」という旅の基本的要素すべてを満たして、一日一人一〇〇ドルにもつかなかった。イタリア船で、北半球の春夏秋には地中海クルーズ、冬になると南半球へ移動してブラジル沿岸クルーズで金を稼ぐ体制になっているので、ジェノバとリオ・デ・ジャネイロ間の往復航路には採算を度外視した格安料金を提供しているのである。その上、旅を急がずあちこちへ寄港するので、北半球と南半球あるいは南米、アフリカ、ヨーロッパ大陸間の自然の変化と文明の相違をまざまざと体験することができた。レシーフェを出航して五日後には、大西洋を横断してセネガルのダカールへ到着したが、ブラジルとアフリカが近い隣人同士であることをつくづく実感した。
 船旅をすると海は人々を隔てる以上に人々を結ぶ道であることを思う。その昔、アメリカやカナダの東岸地方と西岸地方は、南米大陸の最南端を迂回する海路によってのみ結ばれていた。また、南極に近いビーグル海峡の港ウシュアイアで見かけた同じ船を、再びバルチック海の港で見かけた時には「地球は一つ」との思いを強くした。
 ところでその「一なる地球」の北東アジアに位置する島国日本から、海をつたって赤道を越え、大洋を横断し、はるばる南米大陸のブラジルまで大移動した我々移民とはいったい何者なのであろうか・・・?
 横浜を船出してから四〇年以上の歳月が流れた今、ふと私はそんな物思いにとりつかれることがある。



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