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関 船長さんからの寄稿。
今回の『私たちの40年!!』計画では、日本側のあるぜんちな丸関係者、三井OSK社その他との連絡を骨身を惜しまず協力して下さった関 船長さん(現在は船を降りられて大手保険会社の海事訴訟担当弁護士事務所の調査員といて活躍されている)からもブラジルに寄せる暖かい原稿を頂いており下記ご披露します。写真は、雪山に挑戦している男らしさ爆発の関船長さん(何故か船長さんとの呼び方がぴったりの関さん)の勇姿です。


『私達の40年!!』
(あるぜんちな丸・第12次航/船内新聞特別号)

   40年前、「あるぜんちな丸」は私にとって希望の船であった。
昭和37年4月、私は山口県柳井市の東方沖合いに浮かぶ、瀬戸内海の島々の内では淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい周防大島とも屋代島とも称される島の西端に開校された国立大島商船高等学校(山口県大島郡小松町所在)航海科3年生に進級したばかりで、3年後の卒業の暁には当時の日本で唯一の客船2隻を所有する大阪商船に入社し「あるぜんちな丸」や「ぶらじる丸」の客船の航海士として乗船勤務できればいいなと漠然とした思いで勉学に励む17歳の小柄な青年であった。
 同時期に約700名の人々が「あるぜんちな丸」に乗船して南米各地に
移住し、夫々の場で刻んでこられた足跡を40年後の今「船内新聞特別号」として寄稿文の形で集うこの席上に、私が参画するようなことになろうとは何たる奇遇であろうか。

   この偶然の糸を解きほぐしつつ、私と海外移住者の接点やその折々に感じたことなどを可能な限り思い出しながら以下に綴ってみる。

1.初の海外移住者との交流;
 昭和38年4月、商船学校の専攻科生となった私には卒業までの2年間に運輸省
 の練習船で1年(本科課程で1ヶ月の実習を終了しており専攻科では11ヶ月)・
 船会社での汽船実習6ヶ月の外航船による海外乗船実習が義務付けられていた。
  
  まず、昭和38年4月1日から9月30日迄の6ヶ月間、運輸省練習船「銀河丸」
 に乗船し豪州のシドニーに向かい、次いで南太平洋のフィージー国ビチレブ島の
 スバ港を訪問したが、この間、日本からの移住者との接触、交流の記憶はない。
  二回目の乗船実習は、実習帆船「日本丸」に昭和38年10月1日から翌39年
 2月28日迄の5ヶ月間乗船し、昭和38年11月26日に東京港を出港しハワイの
 ホノルル港に12月末から新年を挟んで1週間滞在し昭和39年2月1日に東京港
 に帰港する遠洋航海を経験した。ホノルル入港までにハワイの歴史や日本からの
 移民者に関する講義を船内で受けたが(パイナップル栽培で苦労されたとの記憶
 が微かに残っている)その内容の殆どは忘却の彼方にあり定かでない。
 ホノルル滞在中の1月2日、新年を迎えた家庭を実習生が訪問し日本/ハワイ間
 の交流会が企画されていた。私が単身訪問した家庭は与那嶺宅であった。
  移民の二世として逆に日本で活躍中の巨人軍与那嶺選手を擁する家庭であった。
  オセチ料理のご馳走をいただきながら花札や将棋に興じた印象は今でも強烈な
  思い出として残っている。その時に説明を受けた移民の歴史は悲しいかな私の
  手帳には記録として残されていない。苗字からすれば沖縄からの移住者か。
    《これが私の最初の海外移住者との交流記録である》
2.実習生時代の海外移住者との交流;
 船会社で実地訓練を受ける際に、将来就職を希望する会社の船で実習をするのが
 船会社の要望でもあった当時はまだまだ所謂、売り手市場の様相を呈していた。
 とはいえ日本を代表する日本郵船や大阪商船は受け入れ枠も狭く、縁薄い私には
 希望する大阪商船と必ずや合併するであろうと世間の目に写っていた同じ関西に
 本社を置き、雑貨輸送定期航路をも擁する大同海運株式会社(神戸市生田区在)
 を希望するのが精一杯であった。折から海運不況を解消するため政府主導による
 外航海運会社の中核6社を中心とする集約合併劇の最終段階に至っていた。

   昭和39年3月10日から8月11日までの5ヶ月間、大同海運株式会社所有の
 貨物船「高武丸」(総トン数 9,202ton)に実習生として乗船しアメリカ西岸定期
 航路で種々の雑貨輸送を経験した。この間、アメリカ西岸で食料や船用品を補給
 する際に乗船してきた業者は日系人であった。恐らく戦前、戦中、戦後と種々の
 軋轢を乗り越えてこられたのであろうがテキパキとしたビジネスマン振りが印象
 に残っている。乗船中の4月1日に大同海運は JAPAN LINE と改名された。
《運命のいたずらか?大阪商船は三井船舶と合併》
 大同海運は日東商船というタンカー主力会社と合併し外航大手中核6社の一翼を 
 担う「JAPAN LINE,LTD」として昭和39年4月1日に産声をあげ
 東京・丸の内に本社を置いた。
   昭和39年8月13日から9月18日までの1ヶ月間、Japan Line, Ltd.所有の
 貨物船「高昌丸」(総トン数 4,685ton)に実習生として乗船、ボルネオ北東部の
 サンダカン港やラハダツ港から広島県宇品港や福井県敦賀港へのラワン材輸送を
 経験した。この間、ボルネオ各港では本船に貨物を積込む作業員の中に混じって
 日本人の顔つきをした若者を数人見かけた。おそらくは日本の軍人を父に持つの
 であろう(海外移住者ではないが一種の日系人ではある)、仲間内では隅っこに
 小さくなっている存在らしいが、我々船員に接する態度が妙に明るく人懐っこい
 表情を見せていた。挫けずに頑張れ、幸あれと同年代の親友の気持ちで祈った。
3.航海士時代の海外移住者との交流;
  昭和40年4月1日 JAPAN LINE 入社。社会人としての最初の乗船は
旧「大同海運」の流れを受けた「高育丸」(総トン数 8,500t)であった。
本船には昭和40年8月25日から昭和41年3月23日までの7ヶ月間を三等航海士として乗船勤務し不定期在来型雑貨船としてカナダからの輸入小麦輸送やサハリンからの石炭輸送等にも携わった。サハリンでは韓国・朝鮮家族との出会いが印象的であった。おそらく日本軍属として駐留し帰国できないでいる家族も含まれていたに相違ない。

 その後、昭和61年3月31日にJAPAN LINE を退職するまでの21年間に在来貨物船、在来油送船、鉱石専用船、鉱油兼用船、コンテナ船、及びVLCC
(超大型原油輸送船)など計16隻に歴乗し、ほぼ全世界の海上交易国を巡ってきた。
 その内から中米・南米諸国の港を訪れた際の海外移住者や日系人との交流に的を絞って微かに残る記憶を呼び戻すこととする。
1) 最初の中南米訪問は1967年6月30日から1968年3月21日までの約9ヶ月間 
 に、「高定丸」(総トン数9,096t)でメキシコ及びパナマに寄港したことに端を発 
 する。本船での中南米体験はラテン系人種との交流が妙に楽しかったという印象
 だけで、日系人や日本からの移住者との接触があったのかどうか定かでない。
2)1968年5月17日から1969年1月24日までの8ヶ月間に、「San Martin丸」
(総トン数33,325t)でペルーのSan Nicolas港で鉄鉱石を、チリ最北部のArica港
 Patilos桟橋で岩塩を日本向けに専用船として輸送した。Arica港では漁船員から
 転身し魚屋を営む日本人と交流を重ねたが、人はそれぞれの事情を選択決断して
 人生を重ねていけるものだと感じいった。1969年1月5日に姉妹船「ぼりばあ丸」
 が同じSan Nicolas港で同じ鉱石を満載して本船の1週間分前を川崎向け航行中
 に野島沖で荒天に遭遇し沈没した。その1週間後に同じ海域を通過した時には、
 さすがに楽天家の私の胸中にも拭いきれない暗い影が焼きついた。
3)1971年5月24日から1972年5月22日までの1年間に、在来貨物船「高来丸」(総トン数7,346t)でMexico, Guatemala, El Salvador, Nicaragua, Costa Rica,
Panama, Colombia, Venezuela, Trinidad and Tobago及びカリブ海諸島の各国を
 巡る中南米定期航路に従事し日本からは電気製品、織物などの雑貨を、日本向け
 には主としてアメリカGulf地域からの肥料、穀物類の輸送にあたった。
  メキシコのGuaymas港で日本向け綿花を積み込むため10日間停泊し、床屋を
 営む日系人の主人と共に夜通しで杯を重ねたこと、コスタリカのPuntarenas港
 で雑貨屋を経営する日系人の主人と流しのバンドをバックに日本の歌をラテン調
 にアレンジして歌いまくったこと等など印象に残る出会いが十数回はあったが、
 何故か移住の歴史など個人的に突っ込んだ質問をするのが躊躇われ、詳細な記録
 として残されていないのが残念である。
4)1973年10月31日から1974年7月25日までの9ヶ月間、アメリカ管理の
 リベリア国籍油送船「ANIA」(総トン数47,810t)で初めてブラジル入りした。
  ペルシャ湾や紅海の沿岸から原油を積み、ヨーロッパやブラジルに荷揚げする
 航海に従事した。ブラジルでの揚荷港はサントス港から約100km東方に位置する
 Ilha de Sao Sebastiao(サンセバスチャン島)でPetrobras社所有の揚荷桟橋
 ・貯油タンクに揚荷するものである。同島には2回寄港したが、1974年2月の
 2度目の入港時は、カーニバル期にあたり約1ヶ月間の沖待ちを余儀なくされた。
  傭船者は経費が嵩み気が気ではなっかたのであろうが、本船乗組員には滅多に
 味わえない保養となった。昼間8時間の船内整備作業も、整備材料の枯渇を防止
 するため、拭き掃除や掃き掃除でお茶を濁す日々となっていった。船内乗組員を
 2分し本船装備の小型ボートで半舷上陸し英気を養ったり、付近でダイビングや
 釣りを楽しんだり、カーニバル最盛期には握り飯を片手に素泊まり覚悟でお祭り
 気分を満喫した。私が上陸した日は近場のホテル、民宿など全て満杯で海岸近く
 の芝生に場所を定め、夜通し続くお祭りに酔いしれたものだ。日系の若い男女も
 多数見かけたが、日本人船員の節操の無さや堕落した姿を晒けだし顰蹙をかって
 いたのではないかと今更ながら気になっている。
5)1974年10月23日から1975年6月8日まで鉱油兼用船「JAPAN MAGNOLIA」
 (総トン数54,857t)でペルシャ湾や紅海の沿岸から原油を積み、或はブラジルの
 Vitoria港(Tubarao)やRecife港で鉄鉱石を積載しヨーロッパ諸港で揚荷する、
 三国間輸送に従事した。補給のためRio de Janeiro港に立ち寄ったこともある。
 しかし、鉱油兼用船の特殊性から貨物倉内の整備、積荷準備作業に追われており
 ブラジルで上陸して鋭気を養ったという記憶は薄い。
6)その後北米西岸〜日本間のコンテナ船に1回乗船した以外、1986年3月31日に
 Japan Lineを退職するまではペルシャ湾〜日本の原油ピストン輸送のため5隻の
 載貨重量20数万トンのVLCCに歴乗し、中南米訪問の機会は訪れなかった。 上述のように私は中南米諸国を度々歴訪したが、日系人や移民者達の経てきた苦難・
喜怒哀楽などについて深く思いを馳せる意識が私の胸中に去来することはなかった。
《世話だけ掛けておいて申し訳無い気持ちで一杯です》
《この場を借りて皆様から頂いたご厚情に感謝します》
  その後Japan Lineは外航海運中核6社の再編成の気運に飲みこまれ平成元年
 6月1日、同じ中核体の一翼を担ってきた山下新日本汽船との合併に踏み切り
 NAVIX LINE, LTD.として更なる発展に努力したが最終的には1999年4月1日、(株)商船三井に吸収される形で合併し今日に至っている。
 私の全乗船履歴はホームペーwww.fujii-muto-captseki.gr.jpを参照されたい。">Whttp://www.fujii-muto-captseki.gr.jpを参照されたい。
 《私の夢はここに形式上は終結したが、更なる偶然が私を
『私達の40年』「船内新聞特別号」へと引き寄せることになる》
4.海事補佐人への転身と海外移住者との交流;
 Japan Lineを早期退職し縁あって新たな職場に赴任したのは昭和61年4月半ばであった。勤務地は東京都港区赤坂で開業中の「藤井・戸田法律事務所」である。
 幼年期、小学、中学と山口県美祢郡大嶺町(現在の美祢市)の中国山地真っ只中で外航船を一度も見ずに山猿同然に育った一少年が、海に希望を託すべく商船学校に進み、日本の中核をなす海運会社で無難に業を重ねた挙句が東京のど真ん中での
弁護士の手伝いへの転身であった。果たして無事勤まるかどうか不安な船出となり
“陸に揚がった河童”と蔑まれる事態に陥らなければ良いがと暫くは気の休まる暇もなかった。

 幸いにも海事事件を主として取り扱う法律事務所であり、私の21年間の海上経験を生かすこともでき、差し当たり都会の喧騒への馴化と仕事への情熱向上を如何に維持するかという課題をクリアーすることが求められた。
その後、曲がりなりに海事補佐人として海難審判での事故原因の究明に参画できる
技量も備わり、海難原因究明の為の私的な調査にも力を注ぐこととなった。

 韓国、台湾、中国、フィリッピン、ボルネオ、マレーシア、ドイツ、アメリカ、ロシア、パプア・ニューギニアと調査範囲が広がるにつれて、私の勤め先も発展的離合集散を経て藤井・戸田・土田法律事務所、藤井郁也法律事務所から新宿御苑を眼下の借景とする新宿1丁目の10階建てビル最上階に藤井・武藤法律事務所として改名・移転し現在に至っている。
この間、何名かの日系人や海外移住者との出会いがあったが割愛する。
平成11年2月26日三菱商事の依頼で成田空港を出発しエクアドルのGuayaquil港へ調査のため赴いたのが1975年以来24年ぶりの南米との再会となった。その後、
引き続き、三井物産の依頼で調査のためブラジル各地を巡り4月6日に帰国した。
《ブラジル移住者との出会い》
2月26日(金)成田出発
2月27日(土)Miami一泊/Ecuador, Guayaquil到着
2月28日(日)Guayaquil Country Clubにて親善ゴルフ大会
3月13日(土)Guayaquil出発(Santiago経由、Buenos Aires一泊)
14日(日)10:40 Porto Alegre到着。
15日(月)さわやか商会(SS)を基点と定め調査準備。
      三井物産ブラジル(MB)への訪問日程など打ち合わせ。
16日(火)現地(Rio Grande)調査準備。  22:40 Rio Grande到着(通訳同行)
17日(水)Rio Grande港湾視察。Agencia Maritima Orion Ltda(Orion社)訪問。

18日(木)Rio Grande港長訪問、 PSC検査資料入手。
     Orion社再訪、同社Mr.Marceloの案内によりTermasa Terminal視察。
     Rio Grande連邦大学訪問(FURG)。
19日(金)FURG(ヒオグランジ連邦大学の略)訪問、資料入手。
      Orion社再訪、資料入手。
【20日〜21日:休息(入手資料検討)】
22日(月)Supermar S.A.訪問(Rio Grande港でのShipper’s Agent)
      RioGrande港Super Port地区内Termasa Terminal再訪。
23日(火)Temasa Terminal再訪。 Porto Alegreに戻る。
     Paranagua港視察および三井サンパウロ(MB社)訪問準備。
24日(水)Curitiba空港着。タクシーにてParanagua港着、午後、埠頭施設視察。
25日(木)Paranagua港視察。Curitiba経由、夕刻サンパウロ着。
26日(金)MB社訪問。[午前:Mr. Minet ( Consignee手配のSurveyor )と面談]
        [午後:Ms.Nomura Naomy(MBの穀物担当者)と面談]
27日(土)Ms.N.Naomyの案内によりSantos港を視察。
28日(日)Uberlandia到着(以後の調査日程はMs.Naomyの手配による)
29日(月)Sao Gotardo地区の農場および農協施設(サイロ等)視察。
30日(火)Uberlandia → Gio Grande移動( Sao Paulo, Porto Alegre.経由)
31日(水)10:00〜11:00 Termasa Terminal再訪。
      17:10〜17:30 Mr.Dirceu(Mr.Minetの下請け検査員)と面談。
4月1日(木)Porto Alegre帰着。さわやか商会にて穀物事情の説明を受ける。
4月2日(金)18:20 Porto Alegre空港発、帰国の途につく。
4月3日(土)14:30 Miami到着。
4月5日(月)07:45 Miami発。
4月6日(火)15:40成田到着。
《ブラジル渡航でお世話になった方々》
和田好司:PORTO ALEGRE在/さわやか商会経営。
     ブラジル入国時の出迎え、さわやか商会を連絡事務所として使用する
     便宜を図ってもらう等など出国まで家族ぐるみでお世話になりました。
安藤佳哉:RIO GRANDE港への2度に亘る調査に通訳兼ガイドとして同行してもらい
     大変助かりました。父親の経営するPORTO ALEGRE市内の写真店を手伝い
     ながら大学に通う好青年でした。
Nomura Naomy:三井ブラジル社(Sao Paulo)の農産・畜産部に勤務する有能女史。
       Santos港視察に同行してもらった際、その有能振りに感激しました。
Sannomiya H.Takatoshi:三井肥料ブラジル(株)勤務、農場への肥料供給手配など
       のため各農場との繋がりが深い。Sao Gotardo地区の農場視察など
       一切のサポートに心のこもった便宜を尽くしていただきました。
J. Nobuhico Kiryu:COOPADAP(日本では農協/約30年前にJAICA指導により設立)
      の組合長。貯蔵施設の視察に便宜を図っていただきました。
富永夫妻:PORTO ALEGRE在、表敬訪問し一般家庭の雰囲気を味わいました。娘さん
     (古瀬との子)が結婚され東京の日本ブラジル協会で勤務されており、
     ブラジルに向かう前の事前準備に種々の情報を古瀬様から提供いただき
     大変助かりました。

 上記の方々以外にPORTO ALEGREでは ARIKAWATURの高橋さかお様ほかスタッフの
 皆様に国内線の手配や帰国便の変更調整等で親切な配慮を受け、RIO GRANDEでは
 食堂や食品店の方々との交流、CRUTIBAからPARANAGUA港まで移民の苦労話などを
 話してもらいながら案内してくれたタクシー運転手、SAO GOTARDO地区で出会った
 農民の方など、日本からの移住者や後継者の方々との数多い出会いがありました。

 《仕事で渡伯しており皆様の住所・氏名・来歴を記録に留めておらず失礼しました》
《船内新聞特別号の寄稿文に綴られておられば幸いですが》

5.海外移住者への思い;
 前述のように私は一般の日本市民よりも海外移住者や日系人の方々と接触・交流する機会が多い方ではなかったかと思っております。しかし、筆不精が災いしてか持続した奥深い交流もできず、自己中心的な性格のせいか皆様の背後に積み重ねられてきた異国での盛衰の歴史を思い遣る気持ちが薄かったように思います。

 思い起せば今から42年前の昭和35年春、私は中学を卒業するにあたり同窓生130名中半数を占める就職組生徒(女子41名、男子21名)の内の一人でした。卒業直前になり縁あって国立大島商船高等学校に急遽進学できることになり人生の一大転機が訪れていたのです。
私の親元である九州の大分県では、同年代の中学校卒業生が就職列車ならぬ就職船(関西汽船の別府/大阪航路客船)に乗船して大歓送会とテープの束で別れを惜しまれつつ故郷を後にして、関西の町工場や中京圏の織物工場に集団就職する光景が未だに続いておりました。

昭和37年4月に神戸港を出港し、遥か地球の裏側の未だ見たこともない南米諸国
を目指した方々の心情は集団就職学生のものとは雲泥の差があったものと察します。
大部分の方々は成人でしたでしょうし、故郷を捨てるような背水の陣ともいうべき覚悟と仄かな希望を心中に抱いての船出だったのではないでしょうか。
《勝手な憶測をして申し訳ありません》
 最近はグローバルスタンダードの名の元でのリストラや新卒者の就職難もあって
失業率が徐々に増加する傾向です。未だ日本の若者に3K(危険、キツイ、汚い、)の職場を敬遠する風潮が蔓延しており、世間では1億総中流意識がこびりついていることも失業率の増加の一因をなしているのではないかと思っております。加えて、特殊技能者とか留学の名の陰で発展途上国から入国・滞在する多くの外国労働者を諸処に見かけるようになりました。日本の外航海運は20数年前既に労働の国際化に晒され(私の転職もその空洞化現象と無縁ではありません)、現在は国際船舶制度という名の元で空洞化現象が正当化され外国船員が日本籍船内で就労しております。
 南米諸国から移民者の血を引く若者が日本に職を求めてやってきて苦労する様子を時々ニュースで見受けますが、悲しく切ない思いです。

 私は昭和46年に小さな我が家を九州の福岡県内で手に入れるまでは数回の転居を繰り返し、21年間の船員生活で1年に1回の2〜3ヶ月の休暇では地元にとけこむことも薄く、昭和61年の転職を機に東京に引っ越してからも地元との交流は未だ深まりません。核家族現象が蔓延し高齢者社会が迫り来る現在、年金受給者の中には余生を海外で過ごそうかなという気運も一部ではあるようです。

 現在、地方分権政治を推し進めようとの政治的気運が高まっております。一方でインターネットという高速度情報社会が世界的な広まりをみせております。
 又、現在日本で広まりつつあるNGOやボランティア活動は、40年後や50年後には、形を変えて県人会などを足掛かりに南米諸国や他の国々に職を求める若者として増加してくる時代が来るのではないかと推測するのは穿った見方でしょうか。
 その際には、過去から将来に亘り培われた日本からの移民後継者が各地で主導者としての協力を余儀なくされる時代が来ることも満更空想ではないような気がしています。
≪住めば都≫  ≪一期一会≫
      ≪袖触れ合うも他生の縁≫  ≪遠くの親戚より近くの他人≫
などの諺は今も南米諸国では生きた言葉として語り継がれているのでしょうか?
今の日本の若者にも少しは生き残こっているものと信じたいものです。

最後は愚痴っぽくなりましたが、皆様の健康を願うと共に、未来永劫枯れることのない皆様の強い根っ子が南米の大地深くに拡がりますことを祈念しております。
以 上
2002年  正 月
東京都 町田市 野津田町1877番地4
海事補佐人  関 計比児



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