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【カルナヴァルと日系人】 (1)、(2)、(3)ニッケイ新聞記者、深沢正雪さんのレポート
第6回バーチャル座談会として『ブラジルカーニバルを語る!!』をUPしましたが、ブラジルのカーニバルを正面からでなくちょっと変わった側面から取材し【カルナヴァルと日系人】という3回に渡ってのニッケイ新聞記者、深沢正雪さんのレポートが2月22日、25日、26日に掲載されておりました。バーチャル座談会の触れられていない日系初のサンビスタ(サンバの踊り手)、日系初のカーニバルの審査員、日系初のカルナヴアレスコ(パレードの総監督)と実在の人達に光を当てての取材レポートはカーニバルを知る上で大いに役立つ貴重なレポートです。深沢さんならではのレポートをまたお借りしました。有難う御座います。写真は、カーニバルのパレードの写真です。


カルナヴァルと日系人(1)=「ボヘミアンな父でした」=日系初のサンビスタは戦前移民

2月22日(土)
 現在ではTV中継を見ていても二世、三世の顔があちこちに散見されるようになったサンパウロのカルナヴァル。それでも、演奏しているサンバのリズムが崩れると「Japones entrou no samba(ジャポネーズが入った)」と哄笑するサンビスタはまだいる。ブラジル社会の中でも、特に黒人文化の影響を色濃く残し、伝統を重んじるサンバ関係者にとって、もともと日系人は身近な人々ではなかった。移民側からもそうだ、と思っていた。しかし、歴史の奥底には意外な接点が潜んでいた。日本移民九十周年を迎えた九八年には、サンパウロ最強のエスコーラ(サンバ学校)の一つ、ヴァイ・ヴァイが〃日本〃をテーマにして見事優勝したことは記憶に新しい。その間には、お互いを理解しあうための、様々な試みがあった。日系人が踊るサンバには、どんな想いが込められていたのか。カルナヴァルを通して見た、日系人とブラジル社会との関わりを本連載では追ってみた。
【ラヴァペス】
「ボヘミアンな父でした」
日系初のサンビスタは戦前移民
★日系初のサンビスタ★
 「ジョアン・ジャポネース――。やつが日本人で最初のサンビスタだ。あの当時、日本人でエスコーラに入ってくるようなのは、他にいなかった。彼はクイッカやタンボリンが上手かった」。サンバ界の生き字引ともいわれる、エヴァリスト・デ・カルヴァーリョ(七二)さんは証言する。
 エヴァリストさんはレージ・ナショナル・デ・サンバというラジオ番組を二十二年間続けており、かつてはカルナヴァル時期以外にテレビやラジオで扱われることのなかった大衆音楽サンバを、現在の地位に引き上げた功労者だ。
 ジョアン・ジャポネースこと山本マサヨシさんは、娘のトゥーリア(二世、四二)さんに言わせると「本当のBoemio(ボヘミアン=自由奔放な暮らしをする人)で、サンバをやりに行くと朝まで帰ってこない人だった」と述懐する。どれほどボヘミアンかといえば、実の娘でさえ、父の生年月日や渡伯年はおろか死亡年月日が分からないほど。破天荒、型破りな移民だったようだ。
★黒人コミュニティへ★
 「父がエスコーラに通いはじめたのは戦争中だったと聞いてます」。『サンパウロのエスコーラ・デ・サンバ』(一九七八年、77P ※1)には「六七年以前、サンパウロのエスコーラは、ほぼ全てが貧困層である黒人やムラート(黒人と伯人の混血)によって占められていた」とある。
 「当時の黒人コミュニティは閉鎖的で、地元育ちでも非黒人はなかなか仲間として認められないくらいでした。まして、父は日本で生まれたよそ者。認められるまでは時間がかかっただろうと思います」
 トゥーリアさんが生まれたのは一九六〇年。「私が五歳ぐらいの時には、ラヴァペス、ヴァイ・ヴァイ、インペーリオ・ド・カンブシなどいろいろなエスコーラに連れて行ってもらったのを憶えています」。その頃には、サンパウロのサンバ界では知られた存在になっていた。
★リベルダーデにある聖市最古のエスコーラ★
 当時、リベルダーデに住んでいたマサヨシさんは、ラヴァペスでサンバを習いはじめた。このエスコーラは現存するサンパウロ最古の団体で、一九三七年に創立された。五〇年代のラヴァペスは飛ぶ鳥を落とす勢いだった。カルナヴァルのチャンピオン歴代リストを見ると、ラヴァペスが五〇年、五一年、五二年、五三年と四年連続優勝している。
 五〇年代のカルナヴァルの舞台はサンジョアン大通りやアニャンガバウーだったが「子どもの頃は、グローリア街でもパレードをやっていました」と思い出す。
 マサヨシさんがクイッカを習ったのは、サンパウロを代表する名サンビスタの一人〃オズワルジーニョ・ダ・クイッカ〃からだった。「六五年頃、父はオズワルジーニョと一緒に、よくショーをやっていました」。
 「父は六歳で親と共に渡伯してきた」というトゥーリアさんの記憶と、彼女が六〇年に生まれたことを考え合わせれば、山本さんは戦前移民と考えられる。戦後最初の移住が五三年一月だから、その時、六歳なら十三歳の時に父親になったことになる。やはり、最後の戦前移住である四一年八月以前に来ていたと考える方がむりがない。
★妻はピアウイ出身★
 彼女の母は北東伯のピアウイ州出身のブラジル人で、アクリマソン区で働いていた時にマサヨシさんと出会い、結婚した。しかしトゥーリアさんが生まれた数年後、離婚してしまった。「父があまりにボヘミアンだったので、母があいそをつかしてしまったんです」という。彼女は弟と共に母に引き取られ、隣のベラ・ヴィスタ区で育った。
 彼女が十四歳の時、マサヨシさんはグアルジャに引越し、別の黒人女性と同棲生活を始めた。「あっちでもサンバ三昧の生活をしていたようです」。以来、疎遠になり「四、五年前に亡くなったそうです。あちらの家族が接触を嫌がって、死んでしばらくしてから教えてくれました」。
★ボヘミアンな父を尊敬する娘★
 現在でさえ、リベルダーデの周辺では「黒人と結婚した人は日本人コロニアには入れない」という。まして、戦中、戦後の時期であればなおさらだったであろう。「父が母と結婚した時は、父方の親類から総反対されたと聞いてます。当時のエスコーラは黒人ばかりが集まるところと、日本人は敬遠していました」。
 彼女はヴァイ・ヴァイのお膝元のベラ・ヴィスタで育つ。「私のコラソン(心)はヴァイ・ヴァイです」。四年前から同エスコーラの作曲家グループにも入っている。
 「私は父のことをとても誇りに思っています。どこのエスコーラへいっても、ヴェーリャ・グアルダ(一線を退いたベテラン隊)の人たちはみな、父のことを知っている。でも、私の子どもはそれほどサンバに情熱を感じてくれないみたいで、ちょっと残念なんですけど」
 父の血筋を強くひき、心からサンバを愛してきた彼女らしい言葉だ。四十歳の弟と、二十五歳の娘は現在デカセギ中――。
 ■型破りな移民■
 戦前移民が聖市最古のエスコーラで、日系初のサンビスタに――。娘に「父はボヘミアン」と呼ばれ、生年月日すら定かでない。リベルダーデの黒人コミュニティに入り込み、寝食を忘れてサンバ三昧の日々を送っていたとは、隠れた移民史の一幕だ。
    (深沢正雪記者)

カルナヴァルと日系人(2)=見ると出るでは大違い=「日本人にサンバが分かるの?」

2月25日(火)
 ★審査員はつらいよ★
 「審査員をしている時は、トイレに行く時も誰かがついてこないとダメ。どっかで不正をするんじゃないかっていう配慮です。厳しいですよ、なかなか」。日系では数少ないパレードの審査員をする小川彰夫さん(会社経営、二世)はいう。
 十種類の審査項目があり、十点満点で採点される。グルッポ・エスペシャル(一部リーグ)の場合は各審査項目に三人の審査委員がいるので、合計三百点満点になるが、二部リーグなどの下部グループには一人づつしかいないので百点満点だ。
 審査員になるには、ウニオン・ダス・エスコーラス・デ・サンバ・パウリスターナス(サンパウロ州サンバ学校ユニオン)が実施する講座を受講しなくてはならない。週三回三時間づつの授業が一カ月半も続く。でも、いきなりグルッポ・エスペシャルの審査ができるわけではない。最初は地方の下部リーグの審査経験を何回か積まないと、その権利がもらえない。
 「当日まで、自分がどこの町で審査するのか教えてくれないし、その間は携帯も使用禁止です」。朝九時に所定の場所に集まって、そこで始めて教えられ、同じ町で審査する十人と一緒にマイクロバスで出発する。
 小川さん以外はほとんど黒人で「日本人にサンバが分かるの? 審査できる?と面白がられた」そう。
 「十点の時はいいけど、良くない点数やる時はしんどい。だって理由を書かなきゃいけないから。後でみんなが見るでしょ、それ。変なこと書いてあるとか思われたら大変!」
 また「いっぺんでるとカルナヴァルの味が違う。外から見るのとは大違い」と力説する。小川さんがカルナヴァルに参加したきっかけは、親戚がパレードに参加するから一緒に、と誘われたこと。八六年のサントスを皮切りに、サンパウロやリオのグルッポ・エスペシャルに十回以上も参加している。うち〇一年にはヴァイ・ヴァイのバテリア(打楽器隊)にまでやった。
 ★二世は大人すぎ?★
 「オオッ、ネゴン!とかプレットとかいって呼びかけるでしょ、バテリアの人たち同士は。あれは普通の場所では絶対に言えないよね。黒人差別用語だから」と驚いた様子。「あれだけ厳しい練習を、たった一日のためにする。しかも毎年」という。そこで「審査員も向いてるかもしれないから、やってみたら」と言われたのが、勉強をはじめたきっかけだった。
 「僕たち二世がサンバ嫌いということはじゃなく、機会がなかった。誰かに誘われないと、ちょっと入りにくいかな。それに二世、三世はどこか大人になりすぎているところがある。バカバカしいと参加しない。二世は昼間働いて夜学する人が多いから、音楽や芸術とかに割く時間は少なかったからね」
 小川さんは〃これからは遊びが大切な時代〃と考えている。「小さな幸せをいろいろ集めることが良い人生につながる」という。「日系も四世ぐらいになったら、ブラジル式の遊び方をおぼえるんじゃないかな」と豪快に笑った。
    (深沢正雪記者)


カルナヴァルと日系人(3)=日系初のカルナヴァレスコ=ヴァイ・ヴァイで2度優勝

2月26日(水)
 ★パレードの総監督★
 〃カルナヴァレスコ〃という言葉を聞いたことがあるだろうか。世界一華やかなパレードをつかさどる総監督的な役割のことだ。パレード全体の配列や配色から、アレゴリア(山車)やファンタジア(衣装)のデザイン、特殊効果など各種演出までを担当する。
 そのカルナヴァレスコをサンパウロのグルッポ・エスペシャルのエスコーラ・デ・サンバ「ヴァイ・ヴァイ」で六年間も務め、うち二回優勝した輝かしい経歴をもつ日系人がいる。
 USP都市計画・建築学部の助教授、成戸稔(なると・みのる、二世、六〇)さんだ。彼がコミッソン・デ・カルナヴァル(カルナヴァレスコのグループ)に入ったのは一九八〇年のこと。まずイタリア系友人が同コミッソンに呼ばれ、その友人が成戸夫妻を誘った。
 「もともとアフリカ系ブラジル人の文化、例えばカンドンブレとかには興味があったから、いろいろ話を聞いたりしていた。それを知っていた友人が誘ったんだ。ま、サンバというブラジル文化の世界に、アフリカ文化という〃裏口から入った〃ようなもんだったけどね」と笑う。
  ★古き良き時代★
 当時は、サンバ・パレード専用会場のサンボードロモがなく、チラデンテス大通りを区切って仮設会場にしていた。まだ多くのエスコーラは、一昔前のコルダンの雰囲気を残し、商業化してない〃古き良き時代〃だった。
 現在のカルナヴァレスコは花形職業で、前年に優勝したエスコーラのそれは、高額で引き抜かれたりする。でも、成戸さんの頃はまだ無償の時代。「月に五十時間はエスコーラのために働いていたけど、全てボランティアでした。金のやり取りがあると別の関係が生じてしまうしね」。
 同コミッソン五人の中には有名なサンビスタ、ジェラウド・フィウミがいた。「まだサンバをやりながら朝を迎えたことのない人は、ビッシーガ(ヴァイ・ヴァイのあるベラ・ヴィスタ地区の愛称)へ見にいってごらん。…ホコリのたつ道はアスファルトになって、高層ビルが立ち並び、すっかり町は変ってしまったけど、あそこにはまだ、昔のなごりがしっかり残っている」とは、彼の有名なサンバの一節――。
 成戸さんは、本番前には何日も何日も本部に泊り込んで、作業の指示を出しながら朝を迎えた。この詩を地でいく世界だった。「とてもいい経験で、今でもその価値があったと思ってます。良い時代でした」と懐かしむ。
 ★黒人文化と日本文化★
 成戸さんは聖市郊外で生まれ、七歳までは日本人に囲まれて生活していた関係で、日本語書籍も読みこなす。八歳から学校でポ語を学習しはじめ、あっという間に人並み以上に。「それでも、自分の発音は完璧ではないと感じることが、今でもある」と述懐する。そんな自らを突き詰める先に、ブラジル社会への深い視線があった。
 大学では民族文化に興味をもった。「ブラジルってなんだろう。よりブラジル的な文化とはと考えた時、黒人のそれに特に興味を覚えました」。合わせ鏡のように、日本の文化論もよく読んだという。
 「中根千枝(東大名誉教授、日本の社会人類学研究の第一人者)の『タテ社会の人間関係』にもあるように、日本人には〃出る杭は打たれる〃的な文化がある。勤労を尊ぶ価値観から、その古い考えを持ち込んだ移民や、その影響を強く受けた日系人にとって、カルナヴァルはただのバカ騒ぎとしか思われおらず、無価値だった」と分析する。
 「多くの二世は昔の日本人気質を受け継いでいるから、二世でディスタッキ(山車の上の花形ダンサー)の格好をしているものは、日本から来ている日本人より少ない。それに男性の場合、二世は早く良い職について家庭を支えなければならなかったから、エスコーラに通うのは怠け者と周りに思われ、できなかったのだと思う」と同じ世代を代弁する。
■サンバの先駆者■
 おそらく彼がグルッポ・エスペシャルでは最初の日系カルナヴァレスコだ。二世の文化的トラウマを乗り越えて、黒人文化としてのカルナヴァルに傾倒した先駆者ではないだろうか。
    (深沢正雪記者)



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