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ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地(上)(中)(下)ニッケイ新聞連載、4月9日、10日、11日の記事より。
=ある2世の不思議な体験=「地獄(カニエテ)で」死んだ仲間の供養を」、=一年で半数以上が病死=「棺桶が間にあわない」、=誇りとルーツを見直す場=ペルー日系人の心の故郷」の見出しによる3回に渡るニッケイ新聞の堀江剛史記者の現地ルポがブラジルより19年早い移住の歴史を持つペルー移民発祥の地カニエテ耕地と日本人墓地、今年三月九日にカニエテの慈恩寺で彼岸法要が営まれた際の様子等をリマ発として綴っておられる。『私たちの40年!!』でも移民について語るをテーマにしてバーチャル座談会を展開中ですが是非読んで頂きたいペルー移民の歴史です。
写真もニッケイ新聞よりサトウキビ畑の緑とは対照的な土色の丘陵地帯にある、青い空に白く聳え立つ慰霊碑「無縁塔」をお借りしました。


ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地(上)=ある2世の不思議な体験=「地獄(カニエテ)で」死んだ仲間の供養を」
【リマ発】ペルー移民の歴史は、七九〇人の日本人移民を乗せた第一期移民船『佐倉丸』がリマの北方にあるカジャオ港に到着した一八八九年四月三日に始まっている。南米初となったこの移民船に乗り込んだ二渚ホから四曙ワ歳までの夢と希望に満ち溢れた移住者たちは、その期待に反して苦渋と絶望の生活を送った。その中でも最も悲惨な運命を辿ったといわれるカニエテ耕地で志なかばに倒れた兵どもの夢の後を訪ねた。

 リマから約三時間、パンアメリカン・ハイウェイを南へひた走る。砂漠の荒涼たる風景に飽きた頃、突如として緑が目に飛び込んでくる。
カニエテ耕地=Bペルー移民発祥の地であり、この弛に配耕された移住者たちは幾多の辛酸を嘗めた。第一期移民の約半数が一年を待たずに亡くなったという事実を見るまでもなく、その凄絶な耕地生活は今も語り継がれ、ペルー日系移民にとってこの弛は今でも特別な意味合いを持っている。
 ペルー日系人協会が年に二回参加者を募り、この地を訪れる際に必ず立ち寄る場所がある。
カサ・ブランカ日本人墓地である。この墓地はかつて日本移住者たちの集団埋葬地であった。二署粕N前、この墓地に門や塀を建設するために行った掘削作業中に無数の人骨が発見されている。
墓地はサトウキビ畑の緑とは対照的な土色の丘陵地帯にあり、青い空に白く聳え立つ慰霊碑「無縁塔」が太陽に照らされ光っている。
「本当に苦労したんですよね。最初の頃の移民は」慰霊塔を見上げながら、ある二世が口にした。父母や同胞が受けた艱難辛苦を自らがこの地に立ち、声に出すことによって、安らがせるかのごとく。
彼が若い頃、アメリカにいた時に体験したカニエテ耕地にまつわる話をしてくれた。
 「非常に不思議な体験をしましてね。それから私にとって、カニエテは特別な土地に感じるのですよ」と、彼は話し始めた。
    ■   
 若い頃、アメリカの大学に建築を学びに留学していた彼は卒業時に両親をアメリカに招いた。カンザス州を中心に親子水入らずで旅行し、ある街のホテルに飛び込みで宿泊した。
 その夜、両親と外で夕食を済ませて帰ってくると、他の部屋の日本人が会いたいと言っている、と受付で告げられた。
 「おかしいな、と思いましたよ。誰も私たちがそこにいるのを知らないわけですから」。
 誰だろうー、そう思いつつ会ったその日本人は元ペルー移民であった。現在アメリカに住んでいるのだが、現在旅行中でホテルの宿泊ノートに記帳する際にペルーの日系人が宿泊していることを知り、ーその名字が自分の故郷に多い名前だったのでー、懐かしくなったのだという。
 「その日本人はカニエテ耕地から逃亡して、アメリカまで来たというのですよ」。
 彼と両親はホテルのレストランでその日本人の話を聞いた。
 「書繧フ頃カニエテに入植し、地獄のような思いをした。友人がマラリアで次々と死んで行った。次は自分かと思いながら、穴を掘った。逃げた。必死の思いでアメリカ行きの船に乗り込んだが、途中で降ろされ、パナマ運河建設の仕事をやった。なんとか陸路でアメリカまでたどり着いた。あれからもう四諸Nが経つー」。堰を切ったように話すその日本人の話に三人は時も忘れて聞き入ったという。 
 「その日本人はペルーに心残りが一つあるー、というのですよ。カニエテで埋めた友人たちを弔ってやりたい、そう言って泣くのですよ」。
 彼はそれからペルーで建設会社に就職し、その約二諸N後に日本人墓地の門や塀を建設する仕事に関わることになる。掘り起こした地面から、多量の人骨が出てきたー。
 「そのアメリカで会った彼が私にその仕事をさせたんじゃないかー、そう思うと本当に会ったのかどうかも疑問に思えてくるのですよ」と話して彼は無縁塔を見上げて笑った。
    (堀江剛史記者)
ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地=中=一年で半数以上が病死=「棺桶が間にあわない」
【リマ発】セルバ(熱帯性低地)とシエラ(高地)、そしてコスタ(海岸)。この三つの対照的な自然環境がごく近距離に密接していることがペルーの国土の主な特徴といえる。 その藷パーセントが不毛の砂漠に覆われたコスタと呼ばれる砂漠地帯であり、生き物が住むことができるのはアンデス山脈から流れ出る川が太平洋に注ぐ流域のみである。そしてそのわずかな耕地可狽ネ土地の面積は六五〇〇平米、ペルー全国土の一パーセントにしか過ぎない。
 灰色のくすんだ砂に覆われ、色彩も生命の存在さえ感じられない寂寥たる風景のコスタは長い航海を終えた日本移民たちの目にどう移ったのだろうか。
 新潟県人がその約半数を占めた七九〇人の第一期ペルー移民(全て男性であった)は、ペルーが何処にあるか知るものもなく、外国で数年働くだけの嵐閧セったという。
 長い航海中、義兄弟の杯を交わし、錦衣帰郷の夢を語り合った若人が再会を誓い合った。しかし、その中の幾人が互いの苦労話を後に語り合えたろうかー。
 佐倉丸は七カ所に寄港し、移住者たちは処ネ上の耕地にそれぞれの一歩を踏み出した。
 カニエテ耕地には同年四月三日に二九六人が最初の一歩を記している。 
 日本移民にあてがわれた住居はサトウキビの葉に泥をこねて作られたもので、土間に敷かれた枯れ草の上で寝る生活。泥水を漉した水と粗末な食事で、気候も環境も違う土地での苛酷な労働で栄養失調者が続出した。 
 長年奴隷を使って耕地開拓を行ってきた領主たちは時にはむちを用いて、苛酷な労働を移民たちに強い、賃金もまともに支払われることなどほとんどなかったという。 
 「四年の契約なんてとんでもない。こんなところ一日もいられない」と多くの耕地で脱耕者が続出した。
 しかし、他の土地に逃げることができたものは幸せであった。疲労困憊した移住者に追い打ちを掛けるように蔓延したマラリアは容赦なく移民たちを襲った。 カニエテでは、入耕数カ月後に労働可狽セった移住者わずか数署l、約半数の百四庶O人が入植後一年を待たず、亡くなっている。
 移民たちの最高年齢者が四曙ワ歳だったことを考えると耕地での生活環境がいかに壮絶だったかは凡人の想像を越える。
 続出する死者にお経を上げて弔うことも出来ず、「一人に一つの棺桶では間に合わない」と次の犠牲者を待ってから、共に埋葬するほどであった。 
その日本移住者たちの集団埋葬地であった土地には現在、日本人墓地があり、無縁仏を祀る慰霊碑『無縁塔』も建つ。
 墓地の隣にあるプレ・インカ時代のものといわれているワカ(遺跡)は、数百年の時を経て、アドベ(日干しレンガ)のボタ山のようになっており、地元の子供たちにとって格好の遊び場となっている。
土色の大地に白いペンキで塗られた墓石が光っている。その墓石に囲まれるように建つ無縁塔は移住者たちの血や涙を吸い取ったカニエテ耕地を見つめ続けている。
    (堀江剛史記者)
ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地(下)=誇りとルーツを見直す場=ペルー日系人の心の故郷
【リマ発】今年三月九日にカニエテの慈恩寺で彼岸法要が営まれた。読経が響く中、昼食が用意されている中庭である一世婦人に出会った。
「お経聞いたら、お腹が空いた」。
直江春子さん、九渚ホ。一九三三年、二処鼾ホの時にカニエテの近くのマラ耕地に入植する。写真婚であった。
 「着いた当時は泣きましたよ。はい。結婚するのは、知らん人だしね。酷いところで電気もない。日本も貧乏だったけど、もっとだったですよ。最初の三カ月はサトウキビ畑に行って泣いてました」。
 しかし、その頃にはカニエテ耕地やその周囲の耕地も活気が出始めていた。お盆や正月には広場に集まって、祭りに興じたり、運動会もすでに行われていた。
 直江さんは夫と靴や服を売る商店を始め、ペルー日系人の代蕪I職業でもあった理髪店なども営み、子供たちを育て上げた。
 「住めば都ゆうけど、ありゃほんま。やっぱりペルーがええですよ。日本は暑いし、寒いしね」と話す直江さんは現在、リマで長女と住んでいる。
直江さんが「亡くなった御主人の墓がマラにあるので、盆と彼岸には欠かさず参る」という慈恩寺は、サンタ・バルバラ耕地(一九〇八年当時に一番多くの日本移民が移住していた)に上野泰庵という浄土真宗の僧侶が移民有志たちと寺を建立したことに端を発する。
 太平山南漸寺と名付けられたその寺はペルー、ひいては南米における最初の日本人の手により建立された仏教寺院であり、日本語教育や託児所などもあった。 文字通りの寺子屋であったが、一九二四年にはサンルイス地区(現在の場所)に移転し、泰平山慈恩寺と改称している。
 ある統計によればリマの日系人の二庶lパーセントが習慣的に仏式による葬儀を行っているが、日常では九純pーセント近くがカトリックを信仰している。
しかし、ペルー日系移民にとって、慈恩寺で行われる法要に出席することは自分たちの軌跡を辿ることにも繋がるのだろう。九九年の移民百周年の際に行われた法要では、約五百人の関係者が参加している。 
 今回の法要でも、ブラジルから曹洞宗の僧侶を招き、リマからの二百五署lを越える参加者が五台のバスに乗り込み、カニエテを訪れた。
「法要に参列する人の多くはリマからだが、その数が二百人を下回ったことはない」と話すカニエテ日系人協会の城間ミゲール会長によれば、現在、カニエテには約七盾フ日系所帯があり、一世で残っているのは二人のみだという。
 どこの日系社会で見られるようにこのカニエテでもデカセギで多くの日系人が日本へ働きに行っている。
 しかしー、と城間会長は言葉を続ける。「ペルーの日系人にはカニエテの地を、そして慈恩寺を忘れずにいてほしい」。
 それは、ペルー移民にとってカニエテは特別の土地なんだー、と強調しているようでもあった。 
ペルーでもブラジルと同じように、多くの二世は教育を与えられ、社会的にも高い地位に就いている。しかし絶対的少数である日系ペルー人が自分のルーツから目をそらすことは難しい。
 約一世紀前に父母の祖国から海を越えて、多くの日本人がたどり着いたこの地を訪れることー。ここカニエテで手を合わせる彼たちの姿は自然で美しく、日系人としての誇りとルーツを見直す作業を行っているようでもある。
慈恩寺の本尊の後には、千以上はあろうかという位牌が安置されている。
 位牌には俗名や日本の出身地が書かれており、着物姿の写真がついているものもある。
 本堂の上部を覆い尽くす移民やその子孫たちの名前が書かれた木札が、まるで法要に参加している人たちの守護霊のように一瞬=A見えた。
 カニエテ。日本移民最初の入植地であると共に、移民たちの信仰の拠りどころでもあった。ペルーの日系人が初期移民たちの恩を慈しむ限り、この土地に人の絶えることはないだろう。  (堀江剛史記者)



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