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ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(1)−(5)前編
ニッケイ新聞では堀江剛史記者を現地ペルーに派遣して南米で最初の日本人移住者を受け入れた国、日本移民の歴史が始まって九一年目の一九九〇年六月、日系二世の大統領、アルベルト・フジモリを誕生させた国ペルーにおける日系コロニアのフジモリ元大統領(現在日本に亡命中)の復帰はありえるのかその待望論と懊悩する日系社会について10回にわたる興味深いレポートを4月23日から5月7日迄連載しています。ブラジル移民より先に始まり1940年に起きた日本人排斥の大暴動を経験したペルー移民の苦労は単に「他山の石」として歴史的事件としてだけでなくブラジルに住む我々にとても大きな意味を持ち、今後のブラジル社会に定着して行く上で参考になる出来事と受け止めたい。写真は、連載第1回目に掲載さえていた首都リマの街角に洗濯鋏で飾られた新聞ニュース一面に踊るフジモリのニュースです。


ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(1)=血と地の宿命の中で=懊悩する日系社会
4月23日(水)
 南米で初めて日本からの移民政策がとられた国、ペルー。日本移民の歴史が始まって九一年目の一九九〇年六月、日系二世の大統領、アルベルト・フジモリが誕生した。この未曾有のニュースに世界中が注目し、日本はフジモリ現象といわれるほどの熱狂振りを見せた。しかし、十年後の〇〇年に大統領の日本逃亡という誰もが予想しなかった最悪の形で幕を閉じたフジモリ政権。同政権が残した問題は現在、日本・ペルー政府間の国際問題にまで発展している。その間、一定の距離を保ちながら、冷静かつ慎重な立場を守ってきた地元日系社会。一連のフジモリ問題に翻弄されたペルー日系社会の激動の十年、そして現在の表情を現地取材で探った。
 町角に立つキオスコと呼ばれるバンカの前で人々が立ち止まり、一面の記事を読んでいる人々の姿は他の南米の国と同じく、街の風景の一部ともなっている。
 洗濯バサミで連ねられた大手新聞や専門紙などが、キオスコを覆うカラフルな蓑のようだ。一面に踊るトップ記事の見出しには、人々の興味をひくような事故現場の写真や肌も露な女性がほほ笑んでいるー。
 その中に常連のごとく登場する、ある東洋系の顔―。フジモリ前大統領である。
 失脚後数年を経た今でも、当時の政権批判やフジモリ個人への中傷としか思えないゴシップ記事などが連日のように続き、もはや人々の脳裏には(フジモリ=犯罪者、独裁者)というイメージが焼きついてしまっているようだ。
 マスコミによる過剰なフジモリバッシングに対しては、さまざまな憶測が飛び交っている。
 「今までの慣例であったメディア機関との裏取引などを拒んだフジモリ政権に対しての復讐」、「現政権によるフジモリの次期選挙への復帰の可能性の阻止」などで、「人種差別によるもの」と見るむきも多い。
 一般的に批判の対象となっているのは『大統領の職務放棄罪』や陰の支配者と呼ばれ、大統領の特別顧問であったモンテシーノスに対しての責任問題、日本での不正蓄財疑惑などが挙げられる。
 〇一年には、「九一、二年に軍が市民二十五人を虐殺した事件に関与した」として、フジモリは当局から起訴されているが、〇三年四月現在、殺人罪や汚職などに関する証拠はまだ見つかっていない。 
 国外では、今年三月二十六日に、国際刑事警察機構(ICPO)が、ペルーの警察当局の要望により、フジモリ前大統領の国際手配の通知書を発行した。
 それに対して福田康夫官房長官は、同月二十七日に『日本の法律上、身柄の拘束はできない』といった内容の会見を行い、日本政府にフジモリを拘束する考えがないことを明らかにした。
 もはやペルー国内に止まらず、今や両国間の国際問題にまで発展してしまったフジモリの問題。
 ペルーのマスコミや市民間での議論が過熱する一方、表面上は無表情を装う反面、戦々恐々としているのが五万とも八万ともいわれる日系社会である。
 ペルーで出会った多くの日系人と話している際に、フジモリについての話題に触れると誰もが説明しようのない、苦笑にも困惑にも見える表情をその顔に浮かばせる。 
 「日系人が築いてきたイメージを傷つけられた」「フジモリの功績は認められるべき」「帰国して説明責任を果たす義務がある」「そっとしておいて欲しい」
 各個人の意見はそれぞれの立場、状況によって様々であり、当然二世、三世の捉え方にも大きな違いがある。それは日系社会全体として整理のつかない『継続的』問題といえる。
 継続的―といえるのはフジモリが沈黙を守っているわけではなく、昨年の六月には亡命中の日本でフジモリは毎日新聞の取材の中で〇六年の大統領選への強い意向を示し、個人のホーム・ページ『日本から』内でも、トレド現政権に対して、厳しい意見を記事、論文の形で公表するなどの活動を行っているからだ。
 前大統領が日系人であったー、ということからペルー社会の中で翻弄され始めた日系社会。『日本とペルー』という逃げようにも逃げられない血と地の宿命の中で、日系人たちの懊悩は少なくとも次期大統領選の〇六年までは続くのだろう。
 政治的、人種的、アイデンティティの問題までが絡み合った複雑な状況の中、果たしてフジモリ待望論はあるかー。
    (堀江剛史記者)

ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(2)=「フジモリ時代が懐かしい」=意外に多い支持派庶民
4月24日(木)
 リマのホルヘ・チャヴェス空港に近づいた飛行機の安全ベルトのランプが点滅するころ、人口八百万の都市は機内客の眼下にその姿を見せる。夜景の美しさと昼の荒涼たる風景はあまりに対照的だ。
 色彩に欠けた街を見下ろすようにそびえる岩山、サンクリストバルの丘は標高四百五十メートル。電波塔があるため、日系移民からは電信山と呼ばれており、現在では、観光地にもなっている。
 「サンクリストバル丘のツアー!たった五ソーレス(五レアル相当)だよ!」
 セントロのアルマス広場の前はチケットの売り子たちの声で賑やかだ。
 満員になるのを待って出発するツアーバスは、市内を流れるリマック川を越え、車一台がやっと通れるほどの貧民街の隘路をくぐり抜け、ガードレールのない蛇行する道を這い上がる。
 リマ全市を見渡せるこの丘で五年間、観光ガイドをしているマリアという三十代の女性に出会った。
 マリアはペルー第一期移民を乗せた『佐倉丸』が到着したリマ北部にあるカジャオ港の場所や「リマに高いビルがないのは有史以来二十数回の地震を経験しているから」などといったことも教えてくれた。
 家族などについて話は弾み、多少打ち解けた頃、フジモリについてどう思うか聞いてみた。
 「あれを見て。フジモリが作ってくれたのよ」と彼女は十字架の向かいにある管理事務所のような建物を指さした。
 その建物は昔のリマの写真や資料などを展示している小さな博物館で、フジモリ政権時代の九七年に建てられたものだ。
 「このサンクリストバルの丘にだって以前は歩いてしか登れなかったのよ。彼のおかげでペルーは良くなったわ」と彼女は続ける。
 フジモリ以前のアラン・ガルシア政権時代。それはペルーの暗黒時代ともいえるものだった。年間七五〇〇パーセントを超えるスーパーインフレ。犠牲者二万五千人を数えた無差別テロは、今もリマ市民に暗い影を落としている。
 フジモリはこれに対して、独裁的と批判されながらも抜本的な改革を次々と実行していった。『フジショック』と呼ばれた大幅な価格調整によるインフレの抑制、主に貧民街に建設された学校は約三千校に上った。
 インフラの整備、公営事業の民営化、テロ組織の撲滅、自由開放経済の実施などの改革が、ペルーの経済や社会機能を大きく好転させたことは反フジモリ派でさえも認める事実である。
 「フジモリの時代が懐かしいよ」とあるタクシー運転手はつぶやいた。
 タクシーといっても無許可の白タクである。車さえあれば開業できるこの商売は街にあふれかえり、手を上げれば二、三台が止まるほどだ。
 運転手は行き先がセントロだと知ると『TAXI』の表示プレートを取り外した。無許可のタクシーが警察に見つかれば、八十ソーレス、二回目からは百五十ソーレスの罰金が課せられるからだ。
 三人の子供がいるという彼は「生活は楽ではない」と生活の苦しさや現政権のへの不満を口にした後、過去を振り返るように話した。
 「フジモリはペルーがよくなっていく、という希望を俺たちに与えてくれた。今はこの国がどうなるのか誰にも分からないんだ」
 フジモリ政権時代をいい意味で回顧する一般市民は相当に多いのではないかー、短い取材期間を通しての感想だ。
 ある二世は説明する。「反フジモリ派市民の多くはマスコミの論調をなぞっているだけ。一部の市民はすでに洗脳状態にある」。
 情報操作を行っているとされる現政権はフジモリの功績の事実さえ、消し去ろうとしているようだ。それはフジモリの政界復帰の可能性を限りなくゼロにするため、〇六年の次期選挙まで続くのだろう。いや、市民の記憶からフジモリが完全に消えるまでー。
 そう考えれば現在、マスコミによって展開されている過剰ともいえるフジモリ批判にも合点がいく。
 しかし、単純ともいえるその構図を重ね合わせることのできない社会がペルーにはある。五万とも八万ともいわれる日系社会である。  (堀江剛史記者)

ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(3)=「目立たぬように―」=1940年暴動 覚めやらぬ恐怖
ペルーにおける日系移民の歴史は、ブラジルに先立つこと九年前の一八九九年、第一回移民船「佐倉丸」に乗り込んだ七百九十人によって始まっている。
 初期ペルー移民の多くが風土病に倒れ、また異なった環境で悲惨な耕地生活を送ったことは『在ペルー邦人七十五年の歴史』(ペルー新報社)などに詳しい。
 様々な迫害や差別を乗り越えながら理髪店を中心にペルー社会で活躍し始めた日本人に経済的脅威≠感じ始めていたペルー社会は、偏見も手伝ってか排日気運が高まっていた。
 そんな折、日本人同士のトラブルに巻き込まれたペルー婦人が亡くなったことが騒動の発端となり、大暴動が起きる。ペルーの日系人にとって忘れられない日となる、一九四〇年五月十三日―。
 騒動は全リマ市内に飛び火し、日本人経営の商店や理髪店などは「床の板まで剥がされた」ほどの徹底的な略奪の対象となった。
 添田実さん(当時七歳)は暴動の際、「近くに住んでいた日本人の奥さんの『助けてー』という声が聞こえた時は本当に怖かった」と当時を振り返る。
 「被害に遭った日本人は里馬(リマ)小学校に非難してきてね。みんな、財産を全部なくして着のみ着のままでしたよ。うちの両親は『こんな国に子供を置いとけん』ゆうてね、私ら兄弟を日本に帰したんですよ」
 在ペルー日本領事館は「略奪の被害のため、再起不能」と判断した五十四家族三百十六人を、約二カ月後の七月十六日に平洋丸で日本へ帰国させる処置を取っている。  
 その平洋丸に兄と乗船した添田さんが両親と再開できるのは、戦争を挟んだ一九五七年、二十五歳の時であった。
 暴動の興奮冷めやらぬ同月二十四日、被害が大規模に及ぶ地震がリマを襲った。ペルー社会の中で脅えながら暮らしていた日本人は「これで反日感情が少しでも薄れるのでは」と天災を天恵と受け取り、安堵したー、という。この暴動が日本人社会に与えた動揺の大きさを伝えるエピソードである。
 この暴動事件は、戦時中の不動産の没収や資産凍結、米国の強制収容所への連行などの日本人に対して行なわれた迫害と共に、半世紀を超えた現在でも日系社会に暗い影を落としている。
 当時、子供であった多くの二世は証言する。「あれ以来、我々日系人は目立たぬように心がけてきたし、そういう教育を受けてきた」
 多くの一世や二世の脳裏に焼き付いている日本人排斥の歴史。その記憶は三世、四世に語り継がれることにより、今では世代を超えたトラウマとなり、ペルー日系社会の性質を形成するに上で大きな影響を与えている。
 ペルーにおける非日系人との結婚の割合がブラジルと比較して、極端に低い事実や日系人関係の施設の充実ぶりなどが、ペルーの日系人全体の性格を象徴しているような気がしてならない。
 目立たぬように、目立たぬようにー。それがペルー社会の中で生きていかねばならなかった日系人の処世術だった。
 ペルー日系人協会の会長を二期務め、ペルー日系社会を代表する一人でもある丸井ヘラルド氏は証言する。
 「だからフジモリが大統領選に出馬した時、日系人の誰もが反対したんだ」
    (堀江剛史記者)

ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(4)=怖れとまどう日系社会=大統領当選の不安な前夜
4月26日(土)
 九〇年七月二十八日、日系人として初めての大統領、アルベルト・フジモリがペルーに誕生した。
 この未曾有の出来事に、新大統領の両親の母国である日本はフジモリフィーバーともいえる社会現象まで引き起こした。
 しかし、地元日系社会は冷静な表情を繕いつつ、水面下では底知れぬ不安と過去の亡霊に悩まされていた。 
 丸井ヘラルド氏は、大統領選の出馬が噂されていた時期のフジモリと電話で話している。その際に噂の真偽を確かめると共に「大統領選には出ないよう」といった忠告を行った。
 日系人協会では、顧問会や日系人団体との懇談を開き、ある幹部たちは大統領選出馬後のフジモリに「出馬には賛同できない」といった内容の申し入れまでしている。
 日系人が反対する理由は、過去の暗い歴史のみによるものではなかった。
 年率七六五〇パーセントにも及ぶハイパーインフレ、「まるで内戦状態だった」と形容されるほどのテロ組織の暗躍などは、フジモリ自身が話したようにまさに「デサストレ(災厄)」であった。
国立ラ・モリーナ農科大学の学長であったフジモリは、以前に国営テレビ「チャンネル7」の政治討論番組『コンセルタンド(調和)』で司会者を務めた経験から、一般に知られた存在ではあったものの、政治的手腕などは未知数だった。
 政治基盤も資金も乏しい『カンビオ・ノヴェンタ(改革90)』という自らが立ちあげた政党から出馬したフジモリは、ある意味では泡沫候補であった。
 日系人として初めて憲法制定議会議員を経験した川下マヌエル氏(二世)はフジモリが決戦投票に勝ち進んだ後の朝日新聞の取材で「同じ血が流れる日系人が大統領を目指すのは喜ばしいが、現在のペルーは最悪。明確な政策プログラムや、政権基盤がなければ、だれがやっても改革は困難だろう」と喝破している。
ペルー唯一の邦字新聞『ペルー新報』の報道姿勢もまた、日系社会の不安を浮き彫りにしていた。
 日本語版の紙上にフジモリの名前が載ったのは当選が決まった時が最初で、それまでは名前さえ載ることもなかった。
 スペイン語版では、ある程度取り上げてはいたが、独自の取材によるものはなかった。唯一、コラム欄でフジモリ関連の話題について書いていた比嘉リカルド氏(元スペイン語版編集長)は、行く先々で日系人から、様々な忠告≠竍批判≠受けたという。 「何故、書いちゃいけないんだ。この新聞は日系のための新聞だ。それは政治を除く話じゃない」 
 十年以上闘牛士をした経歴を持つ比嘉氏は、反骨精神の持ち主だ。役員会議で書かないように指示されたが、自身の姿勢を貫き、署名を入れることのみを受け入れている。 
電話での抗議も多かった。「ある時は脅迫にちかいものもあった」と証言する比嘉氏は、当時を振り返り「暴動なんて半世紀も前の出来事だよ。いつまで日系人は脅えながら暮らして行かなければならないんだ」と語気を強める。
 しかし、第一次投票後、不穏な空気が街に充満していたのは事実だ。
 「レストランに入っても、誰も注文を取りに来ず、客たちは無言でテーブルを叩き始めた」、「街で罵詈雑言を浴びせかけられた」といった嫌がらせを多くの日系人が体験している。
 対立候補だったバルガス・リョサ陣営の人種的偏見に基づいたフジモリに対するマスコミ攻撃も日系人の身を固くさせた。
 しかし、当選後、多くの日系人はフジモリ支援に回っている。何故かー。
 日系人協会の元会長、具志堅アルフォンソ氏はあるインタビューで語っている。「日系社会は失敗した時の反動を恐れて公にはフジモリを支援しなかった。しかし大統領になってしまった今、勤勉、真面目などといった日系人のイメージを維持するため支援するほかない」(写真=比嘉リカルド・ペルー新報スペイン語版編集長)
(堀江剛史記者)


ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(5)=当選後も揺れ動く心情=祝電を喜べない地元日系人
4月29日(火)
 当選してしまった以上、日系人のイメージを守るため、応援するしかないー。
 日系人協会として祝勝会を開くなどの動きはなかったが、協会はフジモリの要請で非公式に数百人もの日系人リストを作成するなどの協力をしている。
 しかし、協会がフジモリ支援の立場をとるに至るまでにも、日系社会の揺れ動きを見ることができる。
 サンパウロ新聞社の笹井宏次郎元デスクは、日系人協会が約二百人の日本記者団に対して行った、夕食懇談会に出席している。
 会は決戦投票三日前の六月七日に開かれた。出席したのは顧問会、協会役員、日系各団体の代表者で、当初フジモリを支持していたのは一人のみで、残り全員が反対の立場を取っていた。
 しかし、記者たちの質問に答えていくなかで、最終的には全員が支持派に変わってしまった様子を笹井氏は「日系人の揺れ動く心情がありありと見えた」と記事の中で報告している。 笹井氏は大統領決戦投票時にペルー日系社会を取材し、「その時何が起ったか」と題して三回の連載記事を書いている。
 ペルー日本人史料館館長を務めていた飯田一夫氏のもとに、ドミニカ日本人会から「祈当選」、「祝当選」と書かれた手紙が送られた。
 その際、「遠い国でペルー日系人の気持ちが伝わらないのだろう」と語った同氏。他国日系コロニアからの気持ちを素直に受け取ることができず、複雑な思いにとらわれているその様子を笹井元デスクは「少々もてあましているようだった」と書いている。
 当時の日系社会の微妙な状況を伝えるエピソードである。
 フジモリ自身は日系社会と交流はなかったものの、あるインタビューの中で語った「ペルーに必要な勤勉さや誠実さを多くもっている」日系人の政治参加を呼びかけた。
 事実、多くの日系人専門家がフジモリ政権を支えた。九一年に厚生大臣として、コレラの撲滅に尽力した山本ビクトル氏もその一人だ。 
 山本氏は日秘診療所の院長を務めていたが、「日系人は自分の技術を生かした政治協力をすべき」という持論のもと、フジモリに政権に参加し、「フジモリは非常に優秀な政治家だった」と当時を振り返る。
 まだその政治手腕が未知数だった当初はフジモリによる政治参加の要請を辞退した日系人も多いが、スサーナ・ヒグチ元夫人の行った奉仕活動などの活動で、政権を支える日系人も多く見られた。
 しかし、フジモリ政権の足場が固まり、評価を得るようになって多少薄らいだ不安や恐怖は、約十年後に違う形で日系社会を再び襲うことになる。
  (堀江剛史記者)



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