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私の関わったブラジル、内山 勇(72歳)さんよりの寄稿です。 
内山 勇(72歳)さんは、ご尊父、内山岩太郎さん(元神奈川県知事で戦前サンパウロ総領事、リオの参事官をされていた)がサンパウロ総領事として在勤中の1931年にサンパウロで生れ、戦後1956年より昨年まで46年に渡るブラジルとのつながりを持って来られた方で元丸紅ブラジル会社副社長、サルバドール出張所長、リオデジャネイロ支店長等を歴任されました。内山 勇さんから数回に渡り忌憚ないブラジルについての個人的な貴重なご意見を頂いております。こうしたブラジルに生きブラジルを理解しておられる多くの皆さんにブラジルを語って頂く事により私たちの生きてきた戦後ブラジル移住史が形作られていくのではないかと期待しております。内山さんが経験された日伯の経済交流の歴史と現状分析は、ブラジルに住む我々のとっても貴重であり私信に近いお便りを敢えて原文のまま掲載させて頂きました。これからも折に触れお便り頂ければと思います。写真は、少し見にくいですが内山さんが1956年4月3日に横浜を発たれる時に撮られた『祝 壮途』の如何にもお若い印象に残る笑顔をお借りしました。


貴E-Mail拝受。小生の生まれは1931年8月23日だから来る8月23日が来れば満72歳となります。小生の父は群馬県人で亡くなる時は、神奈川県人となっていたが、享年82歳でした。父は外交官試験はフランス語で入ったがスペイン語はスペイン人並みで、19歳の時にマドリッドに留学し、特にスペイン語の発音はスペイン人並みの巻き舌で、本格的で、戦後神奈川県にはアメリカの第8軍が進駐して来たがアメリカ人の将校にはスペイン語を話す人が多かったので、その連中とはスペイン語で話をしたので、占領下の神奈川県での米軍との関係は非常に良かったのを思い出します。小生は父がサンパウロ総領事時代の産物で、1929−35時代にはサンパウロの総領事とリオ大使館の参事官の二度の駐伯時代が有り、リオの時は、小生一人だけ連れて赴任したので、姉と兄は日本の小学校に入れたので、小生は1935年時代のリオのコパカバーナの景色は記憶有り、特にドイツからリオに飛翔して来た飛行船グラフゼッペリン号が頭上を通過した情景はハッキリ憶えている。と言う訳で、小生のブラジル知識は、一般の駐在員とは歴史が違うのだが、それよりも時代は変わり、今や日本から見たブラジルはウジミナスや石川島ではなく、サッカー、サンバ、出稼ぎがテーマであり、日本の商社が狙う種は、非常に難しくなった。常に残念に思うのは、ブラジル製の製品が、品質的には世界的に見て左程劣っているとは思えないが、日本での評価は低く、世界第1位と言われるものは、オレンジジュース、アガリクス位で、その他は褒められた事無いが、昨日東京の建設機械のミニアチュア販売店の店主である高石氏よりサンパウロのViolao SUGIYAMAの杉山さん製のギターが素晴らしい音色になって来た事を猛烈喜んでいたので、ブラジルも製造者次第では捨てたものでは無いと言う事で、その点をブラジルのメーカーに知らしめなければいけないと痛感する次第。
兎も角、貴殿は此処へ来て中途半端にならぬように最後までブラジルの為に何か貢献されん事を願います。最後に言い忘れたが、父の名前は岩太郎です。(三男だが岩太郎と言う名前です)Campos Jordaoの結核療養所サナトリウムに行くと、父の写真が有る、それは父がリオに在勤中当時のブラジルの外務大臣マッセ-ド・ソアレス氏より、土地を貰ったもので、何故貰えたか?は母がソアレス夫人と付き合って、奥さんの助言で貰えたものだと言うので、日本人とブラジル人との付き合いはかくあらねばならないと言う好例だと思う。此処での教訓は矢張り語学が大切だと言う事です。
内山 勇

拝啓
  貴殿が準備中のHPに使用されるかどうかは貴兄次第ですが、小生としては1956年に渡伯して以来、昨年をもって小生のブラジル巡業は終わりとしたので、その締めくくりと言う意味で、それに伴う記念写真を数葉送ります。

1980年代にサルバドールに一年間滞在し、合金鉄メーカーで働いた時期は、未だ日本企業の対ブラジル投資に関して、その意義を疑わない者でしたが、あれから時代は変わり、現在では当時の投資そのものが無意味であったとは思いませんが、本来の夢は完全に消滅したと思うので、残念とは思いつつ、時代の変遷だから抗しようがない、との結論です。

そこで、E-Mailでも申し上げたが、此れからは日本に来ているブラジルからの出稼ぎ者が、ブラジルにとって如何なる貢献をする事ができるか?の時代に入ったと思います。

日本から定年後の隠居の先として、アメリカ、カナダ、オーストラリア、スペイン等が挙げられていますが、その人によりますが、何もせずに日本的にマージャン、ゴルフだけの人生であれば、余り値打ちは無いと思っています。滅多にブラジル、アルゼンチン等を候補に挙げる人は居ません。一方、ブラジル側も単なる移民はもう結構と言う時代である程度の投資でもせぬ限り、永住査証は出さない時代となりました。小生は、目下ブラジルのRGは持っていますが、今後これを捨てて良いかどうか?は思案のし所です。2年に一度、大した目的も無しにブラジルの永住権を生かす目的で、日本からブラジルに短期出張する人が居ますが、その意味が有るかどうか?疑問に思っています。

世界中が平穏無事と言う時代では無いので、ブラジルは強盗、殺人さへ少ないならば値打ちが有りますが、常に身辺の警戒を怠れない緊張の連続ならば、ブラジル良い所、一度はおいで、とも言い辛いところです。

では、この資料は貴兄の為に態々集めたものです。小生はブラジルは駄目だ、とは言いませんが、Subject to….. の国になってしまった、と言う事です。
では、知恵を絞って流石と言われる和田君になって下さい。

内山 勇
敬具


貴兄滞伯40年を迎え、現地で定住し更に新しいものに挑戦されている事には敬意を表します。しかも、ポルトアレグレと言う地方都市で頑張っておられる事には、更に敬服します。ところで、小生の日伯関係の現状分析は、今や1950,70年代のようなブラジルラッシュは、二度と来ないと思われ、日本の産業界は軒並み中国での生産に傾斜して行くと思われます。ご承知の通り、ブラジルから日本へ現在27万人の出稼ぎが来ており、苦しくても日本で定職を得て、何とか定着しつつある人達もいますが、その場合でもその子弟の教育問題が中途半端になり子供の不良化が問題になっています。日本の刑務所に入っている若者の中でトップは東南アジア出身者だが、第2位はブラジルだと言われているのは不名誉だが現状から見ると、避けられない状況のように思われます。その対策は当地とブラジルとの両方でやらないと駄目ですが、小生貴地から帰国前サンパウロの交流基金の会場で”ただいま”と言う沖縄出身のコロニアの人達が、開始した出稼ぎのブラジルへの帰国者への支援組織のある事を知りました。その後、そのグループがどの様な活動をしているか?フォローしていませんが、貴兄も在伯40年を迎えて、今後の日伯関係の在り方を考えて下さい。ブラジルの持つ潜在力は変わりません。しかし、ブラジルにはプライドが有って果物の対日輸出問題でも日本政府の要求する地中海実蝿対策である燻蒸をやらず、俺には俺の技術があると胸を張っており、ではどんな方法か?と言うと40度の熱湯の中をくぐらせる方法だと言うそうです。それでは蜜柑類は皮が厚いから大丈夫だと思いますが、ブラジルが本当は出したいマンガ、パパイアの類は駄目でしょう。あと残る大テーマはエタノールの対日バルク輸出位だと思う。
小生はブラジル製品がブラジル製だと言うだけで、世間的には高く評価されず、常に値段的に安くなくては駄目だと言う生れつきのハンデイキャップがある事です。知っている人は知っているが、バイオリン、チェロの弓の材料は当地ではペルナン材と言う赤い木材ですが、これはペルナンブーコからヨーロッパに持ち出されたPau Brasilの事で、この材料に代わるものは無いと言われます。
ニッサンのゴーン社長はフランス人と思われがちだが、レバノン系ブラジル人で、将来住みたい場所はリオデジャネイロだと言ってます。ブラジルも世界中で安心出来る場所が減った今日相対的比重が上がり、その値打ちが見直される時が来そうです。貴兄もその意味では、丸紅の窓を通じて日本を見るのではなく、広い見地から日伯関係の在り方、出稼ぎだけではない分野は何か?お考え下さい。
以上、貴兄のHome Pageに寄稿するものではないが、ブラジルで頑張っている人に対する励ましの一文です。
         内山 勇

貴方に関しての記憶は、声の大きい元気な奴で丸紅のポルトアレグレ出張所長をしていた頃にサンパウロでの会議で良く会っていたと覚えています。小生は1956年4月に横浜を出た当時のOSKのアフリカ丸で、2等船客ではなく、貨客船でしたが1等船客で45日かかってサントスに上陸し、初めの3ヶ月は当時の南米銀行の創始者の加藤さんの家(Rua Bahia)に下宿させて貰い、仕事は既に亡くなられたCIBRAM(Howaの総代理店)の事務所に、当時のNKKの問屋の朝日物産の駐在員として働いたのが、戦後のブラジル生活の始まりで(と言うのは、小生は1931年のサンパウロ生まれ)昨年9月通算46年目、ただし5回出入りしたので、Netは25〜30年くらいのブラジル打ち込み生活を終了したものです。小生のアフリカ丸の同船者で今日未だサンパウロで頑張っているのは宝石屋の石井君です。
これはブラジルに生活しておられる方々には言い辛いが、1950年代、1970年代に於ける第一次、第二次ブラジル進出ブームの様なブラジル熱は、現在の日本或いは近き将来の日本には無くなった。日本は今や国を挙げて中国、中国へ進出する時代で日本・ブラジルの関係は、今ではブラジルから日本向け出稼ぎの
時代で、既に27万人来ていると言われる。サンパウロに居てVolkswagen の部品の商売を大きくやっていたSuper−Donの浜岡氏は、既にブラジルの仕事を畳み、日本に来ている。子息が未だブラジルに居られるので、ブラジルとの関係は切れていないが、その浜岡氏が帰国前サンパウロで小生に内山さんブラジルは駄目だわ、と言った。確かに1970年代ブラジルへの進出ラッシュで丸紅も今から思えばオッチョコチョイのMorumbiの丸い社宅建設等やり、既に安く転売し、Avenida PaulistaのTop−Centerだけは、持っているらしいが、それもIT化に合わせる為には、次から次へと改装工事をしなければならない苦労を味わっているが、では丸紅としてはブラジル経験50年を生かして何か将来に残る柱になるような事業が有るか?と言えば辛うじてIguacuコーヒーだけだと思えるので、方や物産の鉄鉱石、伊藤忠の紙パの様な資源問題に四つに組んだ仕事はやっていないのと比べると丸紅の企業体質そのものに差がある様に思えて仕方ない。
小生は今後ブラジルと日本の間に残っている大きなテーマは果物類の対日輸出(ブラジル政府が日本の言う通りに燻蒸設備を作らない、ブラジルにはブラジルの技術が有ると胸を張る、こう言う態度を続ける以上芽は出ない、次に燃料用のアルコールEtanoholの輸出、この二つしか残っておらずアルコールに関しては既に物産が何かやっていると聞く。
こう言う時代となったので、個人ベースで気の利いた商売の種は見つけにくい。従って小生は年齢の問題も考え、帰国した。だが世界が戦争できな臭くなるとブラジルは原爆も落ちそうも無いので安全地帯だと言えるので、その意味では小生はRGを返上してしまって良いかどうか?考え中です。
貴兄の場合、ブラジルに根が張っているので、日本への引き上げは考えられないので、ブラジルで気の利いた仕事の種を見つけるように努力すべきだと思う。丸紅のどこかの部が貴兄を必要としているなら最後まで付き合ったら良いと思う。小生は家の中を探せば1,956年時代の写真は有ると思うが、探す面倒が見られない。
やる事が結構有って、テレビの前でポツネンと眺めている時間は無い。
従って、貴方は同船者のノスタルジーの記念集を出すのは結構だが小生は参考にならない。小生はブラジルの値打ちは他国より戦争に関しては安全だと言うだけだ。日常の強盗、殺人、事件を考えると常に警戒していないとやられる心配が有り、これではブラジル良いとこ一度はおいで、とは言えない。
以上でお役には立てないが、貴重な意見と思って参考にされたら良いと思う。
ではさようなら、
   内山 勇



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