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もう一つの移民  中国文化中心の「日中基督教徒合同遠足」 吉田文彦さんの寄稿文
吉田文彦さんは、ブラジル工業移住者協会のHPの管理責任者でNAKAMAの掲示板を管理工業移住者の皆さんの連絡の場を纏めておられます。『私たちの40年!!』HPにもバーチャル座談会等を通じて積極的に参加して頂いており吉田さんが書かれた友情論には大きな反響が有りました。旅行好きで単に物見遊山でなく一つの目的をもっておられ何所に行かれても移民について、我々のルーツに付いて目を向けておられ必ず博物館、移民資料館等関係施設を丹念に見ておられその研究熱心さには感心させられます。今回は、カナダのカルガリー市の中華街の外れにある文化センター内にある博物館を訪問された時に見つけられた「日中基督教徒合同遠足」と書かれた横断幕の前に集まる30人ほどの写真とそれに纏わる移民の歴史への考察を纏めておられ貴重な寄稿文を画像掲示板に写真と共に貼り付けて呉れております。写真と共に寄稿集に転載して置きます。


カルガリー市は人口75万人のアルバータ州南部の都市です。カナダ太平洋鉄道建設当初に生まれた町です。町の中心部に漢字の看板を掲げた店ばかりのチャイナタウンがあります。その中華街のはずれに中国文化中心があります。その文化センター中に博物館がありました。私がブラジルから来た旨を告げるとそこの館員は驚き歓迎してくれました。ブラジルからの訪問者は初めてだそうです。館内の見学はその館員が付き添ってくれました。(どこかの移民博物館のように、前もって予約してないからと言って、門前払いされることはなかった。)
その博物館には中国古来の陶器、絵画、移民がもって来たキセルや衣服がありました。中国移民はカナダ太平洋鉄道の建設のため香港、サンフランシスコを経てヴァンクーバーに到着したそうです。カナダ太平洋鉄道は1871年から1885年にかけて建設されたそうです。この鉄道の建設で特にロッキー山脈越えでは、スパイラル方式が採用され聞きしに勝る難工事で、岩すべりのため多くの中国人苦人が犠牲になったそうです。その館員は“どこの国でも移民というものつらい仕事をしなければならないのです。”と言いました。
その博物館の一枚の写真に私の目は釘ずけになった。それは30人くらいの男性ばかり写っていたが、その横断幕には「日中基督教徒合同遠足」と書かれていました。こんな時代に日本人がカナダに来ていたのです。しかもキリスト教徒です。キリスト教は日本では禁教だったはずです。日本人は通常外国人とグループを作る事はしないと思っていたので、私は驚きました。館員は漢字が読めないので日本人がその写真の中に写っているなどとは知らなかったといいます。
その後ヒントン市で宿泊した瀟洒なホテルのロビーのショウ ウィンドウの中に「日中青年友好之家跡」と書かれた碑が飾ってありました。こんな近代的なホテルと日中青年友好之家と何の関係があるのだろうと思いました。そのホテルの支配人によれば、ホテル建設のため土地を購入しブルドーザーで地ならしの最中にこの碑を見つけたとのことです。この記念碑をホテルのお宝にして飾っているとのことでした。
カルガリー市の中国文化中心で見た「日中基督教徒合同遠足」の写真といい、ヒントン市のホテルで見た「日中青年友好之家跡」の碑といい、ここではお互いに黄色い顔した日本人と中国人が肩を寄せ合い生活しなければならなかった事情があったのではないだろうかと思った。
ここで思い出されるのは1848年に利尻島に上陸したカナダ生まれのアメリカ人 ラナルド・マクドナルドのことだった。吉村 昭の「海の祭礼」にこのアメリカ人のことが書かれている。彼はイギリス人の父とインディアンの女性を母として生まれた混血であるため、人種差別に耐え切れず、アメリカの捕鯨船に乗り組み太平洋に出たという。船が焼尻島近くを航行していたとき、日本なら自分を温かく迎えてくれるだろうと考え、船長に頼みボートを貰い、船を降りた。
このことから考えても、あの当時カナダに着いた有色人種である日本人や中国人は人種差別に苦しみ、お互いに助け合って暮らしていたのだろう。
マカオを訪れたとき、マカオの博物館ではポルトガルの軍艦が倭寇を退治し当時の明朝政府がポルトガルに感謝しマカオをポルトガルに租借するという記述があった。私は驚き、そんなこと歴史の時間に習わなかったと思った。
その博物館の前には聖パウロ天主堂の前壁だけ残っていた。火事で焼けたとのこと。高さ15メートルはあろうかと思われる壁にはフランシスコ・シャヴィエルの石像があった。こんな大きな建造物を建てたのはどんな奴隷だったのかと思った。そのような大きな建造物を見ると奴隷を思いうかべる自分自身に対しても驚きを感じた。奴隷が建てたのでなくて、「隠れ切支丹」が建てたと聞いて、また驚いた。自分が不勉強のため、隠れ切支丹がマカオに来ていたことなど知らなかった。マカオには隠れ切支丹が大勢いたそうです。
昔中国移民はアメリカ大陸で金鉱で働いたり鉄道建設に従事するため香港から船で出て行ったというから、おそらく「隠れ切支丹」もその船でカナダに移民として行ったのではないだろうか。そこで思うのだけど、カルガリー市の中国文化中心で見た「日中基督教徒合同遠足」の写真の中の日本人は「隠れ切支丹」でなかったかと思う。
マウイ島のラハイナ港は19世紀アメリカの捕鯨基地だったいう。私はそこにある捕鯨博物館へ行き、ラナルド・マクドナルドの記録があるか調べたが、何もないとの返事でした。でも私は波止場に立ち水平線を見ながら、マクドナルドはきっとここから日本へ行ったと思った。
日系カナダ人国立博物館の記録によれば一番最初にカナダに到着した日本人長野万蔵であり、1877年だったとある。それ以前に到着した隠れ切支丹に関する記述はない。
また中系カナダ人の歴史によると、最初にカナダに来た中国人は1858年だったとある。日本人より19年も前である。マカオにいた隠れ切支丹が中国人と共に長野万蔵よりもはるか以前にカナダに来たと考えてもいいのではないだろうか。



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