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「消えゆく神戸」の情緒を描く/徳永卓磨さん《朝日新聞5月8日版より》
神戸高校の親しい友人山本啓詔君からFAXで上記「消えゆく神戸」の朝日新聞の5月8日版MAY TOWN兵庫に掲載されていた記事をFAXして貰った。徳永卓磨さん(63)との記載にひょっとして同級生?との閃きがあり確認した所、「お前徳永を覚えていないのか三年九組で一緒だったではないか。美術部の部長で活躍していたのに。。。」と呆れ顔のお叱りを受けた。早速45年前の卒業アルバムを探し出して見てみるとちゃんといるではないか。幾ら芸術、文学、美術心が薄かったとはいえ記憶の不正確さに驚いたが写真を見れば色々思い出した。「消えゆく神戸」の情緒を描く徳永画伯が同じ机を並べていた同級生である事を誇りに思うし機会があれば是非会って見たいと願っている。卒業アルバムの美術部のセピア色に褪せた45年前の写真を掲載して置きます。後列左端が徳永卓磨君です。この記事を送って呉れた山本君は、同窓会中の一番の消息通で45年以上前の私の覚えていない事実を《好司・17歳・神戸》と題して寄稿集55番目に暴露している。


タバコ屋の看板や庭木の見える細い路地、大きな木彫りの看板を構えた一杯飲み屋――。下町の情緒を残す神戸市兵庫区南部の町並みを描き続ける画家がいる。同市東灘区向洋町中6丁目の元小学校教諭、徳永卓磨さん(63)。神戸の「懐かしさ」を描き始めたきっかけは、95年の阪神大震災だった。
油絵を描き始めたのは高校生のころだ。当時は、同市中央区や須磨区などに多く住んでいた外国人の住まいが絵のモチーフだった。しかし、60〜70年代にかけて北野町や山本通の異人館が取り壊され、代わりにホテルが建った。「風見鶏の館」の南側にあった、緑色のよろい窓がきれいな異人館も姿を消した。
「経済優先。景観のことを考えない開発。そんな風潮に嫌気がさした」。69年からは度々スペインの都市や田舎町を訪れ、風車の見える麦畑や白壁の家々を描いた。神戸と距離を置いた。
約30年間のブランクをおいて、再び神戸を描き始めたのは阪神大震災の直後。「病んだ母を見る思い」で、倒壊した神戸の町を歩き回った。
空が赤く染まった夕方、ほっとする懐かしい空間にたどり着いた。大きな町屋や古いアパートが寄り添うように並び、街に人のぬくもりを感じた。兵庫区の西出、東出、東川崎の3町だった。
三脚を立ててキャンバスに筆を走らせていると、近所の人がコーヒーを差し入れてくれた。ゆで卵や焼きもち、焼き魚まで持ってきてくれた人もいる。食べ物は丁重に断ったが、心遣いがうれしかった。
この辺りは、川崎造船所(現川崎造船神戸工場)を中心に栄えた。かつて朝鮮半島からの労働者が住んだという家屋は、外壁や窓の手すりが鮮やかな赤や緑のペンキで彩られていた。日本建築には見られない特徴を丹念に写し取った。
雨露を吸い、日に照らされて深い土色になった酒屋の大看板は、店の全景を描いた油絵とは別に、大写しにして描いた。「長年、風雪に耐えた建物は独特の美しさがある。」路地に並ぶ古い家屋などを約40点の油絵に収めた。
そんな街に3月、都市計画道路「湊町線」のうち未整備だった区間(延長417メートル、幅27メートル)が開通した。
「また1つ、神戸の原風景が消えた」と思った。予想以上の早さで建物の取り壊しが進み、水彩画でしか作品を残せなかった風景も多い。
「形がなくなれば、人の記憶は薄れていく。震災で残ったこの街並みを、絵という形で残しておきたい。」道路の周囲には昔ながらの家屋や町屋がまだ残る。「震災後10年を迎える05年までに、あと20点は描きたい」と徳永さんは語る。
(日伯交流協会研修生、檀野 令奈さんがタイプアップ)



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