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【日本人の血2】 柊 治郎さんの書き下ろしパート2
前回、【日本人の血】として作家 柊 治郎さんにメキシコの榎本移民に付いてを書き下ろして頂きましたが(寄稿集238番目に掲載させて頂いております)、今回また『ちょっと時間がありましたので、先に書きました「日本人の血」のパート2を書いてみました。』とのお便りと共に次のような文を送って頂きました。
 「前回の随筆【日本人の血】に、1613年10月20日にサン・フアン・バウチスタ号でメキシコに向けて出発した支倉常長一行180人のことについて書いた。
今回は、それよりも20年ほど前の秀吉の文録・慶長の役の際に、朝鮮側に寝返った1人の日本人武将とその子孫の数奇な運命について、書いてみたい。」
柊さんは、お忙しいお仕事の傍ら山に挑戦され作家としての活躍も目覚しく、最近の力作廣済堂ブルーブックス 【特命裏監察 悪党狩り】を上製されている。地球の裏では、手に入り辛いだろうとの思いやりから郵送して下さっているとの事で楽しみに待っておりますが、表紙だけでもと思いアマゾンCOMよりお借りしました。


【日本人の血2】
作家 柊 治郎

 前回の随筆【日本人の血】に、1613年10月20日にサン・フアン・バウチスタ号でメキシコに向けて出発した支倉常長一行180人のことについて書いた。
今回は、それよりも20年ほど前の秀吉の文録・慶長の役の際に、朝鮮側に寝返った1人の日本人武将とその子孫の数奇な運命について、書いてみたい。

私は2001年6月、かねてから訪れてみたいと思っていた、韓国慶尚北道達城郡嘉昌面の降倭の里、友鹿里(ウロクリ)に取材旅行した。
その時の旅日記を引用してみる。

12時45分に東大邱駅に着いた。
改札を出た所に、ボーイッシュな服装、髪型の娘が立っていた。そう、小生の娘である。尹Sという。娘といっても実の娘ではない。インターネット上の娘なのだ。この2年間毎日電子メールで話しているが、会うのはもちろん初めてである。
娘の案内で、駅から歩いて5分ほどの東大邱観光ホテルにチェックインする。新しくて、なかなかきれいなホテルだ。
部屋に荷物を置き、タクシー2台に分乗して友鹿里に向かう。
友鹿里のことは、司馬先生の「韓の国紀行」に詳しい。慶長・文録の役の時に配下を率いて朝鮮側に寝返った「沙也可」という謎の人物がいる。彼は朝鮮側に鉄砲の製造方法を教え、数千人に上った降倭の将として、日本軍と戦った。
その後胡族の乱を鎮めるのにも功績があり、王から「金忠善」の姓名と正憲太夫の官職を賜わり、ここ友鹿里に土地を賜わって住んだ。
友鹿里まではタクシーで30分ほど。三方向を山に囲まれ、小川に沿った小村である。戸数は200戸といい、そのうち60戸が金忠善の子孫だという。「鹿洞書堂」という塀で囲われた小ていな建物が村の入口にある。
その隣に、ちょっとした博物館のような建物があり、日本語のできる若い女性が一人いた。タクシーを降りると、早速建物に招き入れてビデオを見せてくれる。次いで、鹿洞書堂を見せてくれた。ここは言わば、寺子屋の跡である。
友鹿書堂から川沿いの道を少し上流に歩くと橋があり、橋の手前の山道を登ると、金忠善の墓にたどり着く。
下の墓は、金忠善の次男の墓であり、上の墓が金忠善と二人の妻の墓だという。漢字の読めない娘に韓国語で説明してやると、「ナップン ナムジャログマンニョ」と小生の耳元に口を寄せて、内緒話のように小さな声で言う。
「悪い男ですね」といったのだ。
日本風に満で数えれば23歳の小娘である。その潔癖性から、二人の妻など許せない、というのだろう。
墓の前から集落を見下ろすと、実にいい眺めである。山懐に抱かれて、清流の辺にひっそりと佇む降倭の里。この景色の中に身を置いて、400年の昔に思いを馳せる。小生の旅の目的は常にこういうことにある。
博物館に目の無い人がいる。名所旧跡を訪ねたら、とにかく博物館に突進する。だが小生は博物館などには、何の興味も無い。博物館の展示物など、案内図書で写真を見て解説を読めば十分である。
そんなことより、せっかく歴史的にゆかりのある場所に来たのだから、その場所の空気に身を浸し、その場所の地物と歴史上の出来事の因果関係を想像する、そして遠い昔に思いを馳せる。これほどの楽しみを知らず、博物館に突進する人が哀れに思える。
タクシーを返してしまったので、バスを待つしかない。
橋を渡った所がちょっとした広場になっており、道端のイチョウの木の下に縁台が置かれている。チゲと呼ばれる背負い子を背負った老人が通りかかった。会館の日本語のできる女性が「子孫です」と教えてくれる。言われなくともわかった。日焼けした顔の表情の中に、日本人らしい雰囲気が窺える(ような気がする)。目礼すると、黙って目礼を返して、ゆっくりと通り過ぎて行った。
司馬先生が佇んだというイチョウの木が青々とした葉を茂らせていた。小生が司馬先生の大ファンであることを知っているNさんが、イチョウの木の下で記念写真を撮りませんかというが、やめておいた。西行法師が柳を眺めた場所に立って「田一枚 植えて立ち去る 柳かな」の句を残した芭蕉ではないが、司馬先生ゆかりの木の下で記念写真など、恥ずかしくて、とてもできぬ。
待つこと小一時間。やっとバスがやってきた。ここが終点で、バスはここから大邱市内へと折り返して行く。

降倭の将、沙也可。沙也可とは何者なのか。
私は前記の取材旅行の結果を踏まえ、2002年に「成りすまし」(徳間書店)という作品を刊行した。
沙也可のことについて、私はかなり昔から興味を持っていた。実にあまたの参考文献を読み漁ったものである。司馬遼太郎先生の「韓の国紀行」もそのひとつである。韓国は古い記録が実に少ない国であるが、韓国の本もいくらか読んだ。
私が沙也可の正体について、「これだっ」と膝を打ったのは、江宮隆之氏が書かれた「小西行長」(PHP文庫)を読んだ時であった。
江宮氏の作品で謎が解け、現地を踏んだ後書いたのが拙著「成りすまし」である。
その一節を以下に引用してみる。

一五九二年と一五九六年、秀吉の軍勢が朝鮮を侵した。日本でいう文録・慶長の役だ。韓国ではイムジンオエラン(壬申倭乱)、チョンユチェラン(丁酉再乱)という。
朝鮮に上陸した日本軍の中から、朝鮮側に投降した者が少なからずいた。これが降倭だ。降倭の中で、一番有名なのは金忠善だ。
金忠善は、慶尚北道大邱市の南二十キロほどの達城郡嘉昌面友鹿里に集落を開いた。友鹿金氏の始祖だ。号は慕夏堂。
友鹿金氏は、慕夏堂文集という古文書を伝えている。
「余即島夷之人也当壬申之歳清正非義興師欲伐東土而以我為先鋒余乃心非清正之無名興師而生有慷慨異志年……」で始まる慕夏堂文集は、金忠善が書いたとされている。
この古文書によると、金忠善は加藤清正騎下の武将で、三千人の部下を率いて朝鮮に上陸したが、中華の風を慕って、朝鮮に寝返ったという。日本名は沙也可だという。
金忠善は、朝鮮側に鉄砲の製造法を教え、自ら兵を率いて日本軍と戦い、赫々たる勲功を上げて宣祖王から金忠善の名前を貰い、金海金氏の一族に入れられたという。
慕夏堂文集が、真実を書いた書でないことは明らかだ。沙也可などという名前の武将がいる訳が無い。慕夏堂文集では、沙也可は宣祖二十六年(文録元年)四月十三日、加藤清正軍の先鋒として釜山に上陸したという。だがこの日は、小西行長軍の上陸日で、清正軍はまだ海上にあり、朝鮮に上陸すらしていない。
それに秀吉が命じた各大名の人員差出数が、総石高から三分の一程度の無役分を差し引いた残りの石高に対し、一万石当たり五百人だったという。とすると三千人の部下がいるとなると、約十万石の大大名だ。大名が朝鮮側に寝返った記録はないし、その事実も無い。
だが、沙也可は実在した。実在したから、友鹿金氏一族が今も友鹿里にいる。
慕夏堂文集は、金忠善の死後、子孫が自分の一族の格を上げるために書いたものだろう。部下三千人は、白髪三千丈の類だ。
問題は、沙也可が誰かということだ。
司馬遼太郎氏は、沙也可の日本名は、サエモン(佐衛門)に相違ないと書いている。佐衛門の門を朝鮮側が可と書き間違えたのだと……。
しかし、佐衛門だけでは、姓が無い。無学な俺でさえ、これには頷けない。
 貫井正之著「秀吉と戦った朝鮮武将」(六興出版株式会社)にも「沙也可も朝鮮に投降した日本武将の一人である。沙也可は、サヤカと読むが、なんとも奇妙な名前で日本名とは思えない。ある人はサエモンを誤記したというし、九州地方に多い佐伯が朝鮮音でサヤカになったという人もいるが、いずれにしても決め手はない」と書かれている。
清正の家来の寝返りについては、司馬遼太郎氏が「韓のくに紀行」で引用している「宇都宮高麗帰陣物語」の中に、「清正の家来で阿蘇宮越後守という者が曲事あって、高麗に走り申候」という記述があるらしい。沙也可でもなければ、佐衛門でもない。
俺は、司馬遼太郎氏の「韓のくに紀行」を一気に読了した。前に一度読んでいるので、さほど時間は掛からなかった。
「阿蘇宮越後守というのは、肥後の地侍で、清正が肥後半国の国持大名になったとき、地付きの者としてその系列下に入った」と書いてある。
 俺は、朝鮮側の資料も読んでみた。朝鮮側は、倭軍に対し、盛んに裏切り工作をしたようだ。「利をもって誘った」とある。かなりの数の日本軍が、朝鮮側に寝返ったことが窺える。当時の日本では、足軽雑兵が分のありそうな方に寝返るのは、常識だった。
 こうして寝返った倭人の末路は哀れだった。
「功なき者は、誅した」と朝鮮側の記録には、そっけなく書いてある。利用されるだけ利用されて、日本軍が引き揚げた後、ことごとく殺されたのだ。
ところで、功あった者は、どうなったか。朝鮮側に厚く寓された寝返り武将としては、金忠善の記録が一番輝かしい。

―中略―

 突然、金智賢老人の口から、低い呟きが漏れた。
「余の本来の名乗りは鈴木善之、日本国紀伊の国は雑賀の荘の生まれなり……。これは我が友鹿金氏一族の始祖金忠善が残した口伝の一節です。慕夏堂文集はご存知ですか?」
「へえ、知ってます」
「あれは、金忠善が書いた物でもなければ、本当のことを書いた文章でもありません。金忠善は自分の素性を一族に口伝によって残したのです。口伝は宗家の長男から長男へ、代々受け継がれてきました。聞いて下さい」
金智賢老人は、低い声で憑かれたように喋り始めた。
「天正十五年、秀吉の軍勢雑賀の荘に乱入し……」
金智賢老人は低い声で、吟ずるように語る。
「秀吉勢の手を逃れ、鉄砲衆百人を連れて肥後に逃る。母方の縁を頼り、阿蘇宮家に身を寄せ、阿蘇宮越後守と名乗り、国人として加藤清正の禄を受く。後に故あって改名し……」
老人の額に汗がにじんで来た。
「加藤清正は秀吉の命により、余の母方の縁に繋がる阿蘇惟光を梅北の乱の首謀者として処刑す。その怨み深し。文禄元年、秀吉は大明征服の野望を抱き、大陸出陣を命ず。余、本意にあらざれど、清正の下知により出陣す。……朝鮮における清正軍の所業は鬼畜の所業なり。朝鮮人と見れば、女子供の区別無く殺戮す。これ、秀吉の雑賀攻めと変わるところ無し。予は清正の配下を離れ、義軍に投ずることを決意せり。清正に誅されし阿蘇惟光の恨み、秀吉の軍勢に虐殺されし雑賀の子女、清正軍の蛮行の前に命を落とせし朝鮮の無辜の民の怨みを込めて、清正を討たんと……」
 老人は、痰が絡んだらしく、少し咳き込んだが、懐紙で口元を拭うと、再び語り始めた。
「……胡族の乱を鎮め、宣祖王より金忠善の姓名と正憲大夫の官職を賜る。友鹿里に領地を拝領し、一族の居所となす。この大恩末代まで忘却すべからず。子々孫々、未来永劫、朝鮮国の安寧を守らんことを誓うべし」
 老人は語り終えて、大きく息をついた。あばらの浮いた薄い胸が激しく上下している。
金智賢老人が小一時間もかけて、一気に語った一族の口伝に俺は驚嘆した。
沙也可の正体は、雑賀の鈴木孫一の一族、鈴木善之だった。
善之は朝鮮側に降った時、雑賀善之と名乗った。確かに朝鮮側の記録にも「姓は沙也可、字は善之」とある。
沙也可と雑賀。朝鮮側はサイカの音に、沙也可の字を当てたに過ぎなかったのだ。 
秀吉の雑賀攻めを受け、奮闘空しく敗色濃かった雑賀の荘は、秀吉勢の本格侵攻を前に、秀吉に通じた者の手によって焼かれた。
鈴木善之は、鉄砲衆百人と共に、四国を経て肥後に逃れた。母方の縁に繋がる阿蘇宮家に身を寄せて、阿蘇宮越後守と名乗る。阿蘇惟元の紹介で加藤清正に仕える。そして後に、岡本越後守と改名する。

メキシコに溶け込んでいった支倉常長の家来たちの血筋は、いまとなっては辿りようもない。だが、族譜(チョックブ)という独特の戸籍簿を氏族ごとに編成し続けている韓国では、沙也可の子孫を探すのは容易なことである。
沙也可の子孫は、いまでは400世帯2千人以上になるという。
もちろん、友鹿金氏一族はその祖が日本人であるというだけで、立派な韓国人であることに変わりはない。友鹿金氏は、一族から内務部長官(大臣)まで出した両班(ヤンバン=貴族)の名門である。
 沙也可から数えて、何代目になるかわからないが、彼らの体内には今もなお、脈々として日本人の血が流れ続けているのである。
後の移民とは、少し事情が違うものの、秀吉の侵略戦争に反対し、朝鮮側に走った紀州出身の青年武将もまた、日本から海外への移民の1人だといえるのではなかろうか。
世界の民族の中に溶け込んだ日本人の血に、私は今も熱い思いを寄せている。






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