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谷 千穂さん(サルバドール在住)と谷 忠浩さん(レシフェー在住)を訪ねて。
仕事の都合もあり、東北伯の雄都、サルバドールとレシフェーに出張する機会が出来た。同船者の谷千穂さん(サルバドール在住)と谷浩弘さん(レシフェー在住)にお会いする事が出来た。谷一家は宮崎県出身で日本の南国で魚釣り等を楽しむ子供時代を過した影響でブラジルに来てからも北の常夏の海浜地帯を本能的に指向、末娘の清子さん(サンパウロ在住)以外は、皆さんが東北伯を拠点に頑張って来ておられる。4男の充浩さんご家族(ブラジル人の奥さんも含め家族6人)と次女のケイ子さんのご家族は現在、茨城県の牛久に住んでおられる。今回お会いした谷千穂さんと谷忠浩さんからお聞きした話を書き留めて置きたい。
写真は、サルバドールのショッピングセンター内にあるスポーツ用品店(キャンプ、釣り、トレッキング用靴等の販売)を訪ねた際に撮らせて頂いた病み上がりとは思えぬ元気なお姿です。


谷 千穂さん(1940年12月5日生まれ)旧性壱岐、宮崎県の田舎壱岐出身。満州生まれ5歳の時、弟さん二人と共にお母さんに手を引かれて帰国、ご尊父は、帰国の拠点としての飛行場奪回作戦の隊長として敵の待ち受ける飛行場を攻撃全滅した。
小学校5年生頃に近所にブラジル帰りの人がおりブラジルの話、アメリカの広大な大地を等を幻灯で見せて貰いなんとしても外国に行くのだと心に決めて成長。看護婦学校を卒業後看護婦として病院に勤務中に子供の頃の夢を実現させるために宮崎県の海外協会連合会に相談に行き、何が何でもブラジルに行きたいと宣言したところ、花嫁移民として写真結婚するかブラジルに移住する家族の構成員として籍を入れて(結婚して)移住するより他に方法はないと云われ移住するために花嫁を探していた谷出治さんと結婚移住の夢を果たす。出治さんは昨年4月30日に67歳で亡くなっておられ(寄稿集100番目に紹介)電話では何度かお話していましたが出治さんが亡くなられてからは、今回が初めての再会で色々知らなかった話を聞かせて頂く事が出来ました。見合い相手三人の内、『あの太った人だけは嫌だ』と云ってたのに出治さんの熱心さ、必要性、強引さに負けて100円の三文判であるぜんちな丸に乗るためにはぐずぐずしておられないので入籍を済ませ渡航手続きを県庁に申請して来たと云われた時は、何故だか涙がこぼれたとの事でした。私の人生は100円の三文判で決まってしまたと当時を思い出しながら語る千穂さんの笑顔に女性の強さを感じました。
千穂さんは、看護婦さんとしての資格を生かし日本に数回に分けて看護婦さんとして出稼ぎに行っており、出治さんを亡くしてからご自分も昨年は脳溢血で倒れ4+4が計算できなくなった時期もあったが本来の丈夫さから奇跡的に回復、現在はこれと言った支障もなく一人で出歩けるところまで回復したようです。息子さんと娘さんが共同で経営しているTREKKERSと言うキャンプ用品、釣り道具等を販売するお店を経営しておられ気が向けは店にも手伝い?に出て来られているようですが、矢張り自分は弱い人、病んでいる人、手助けを必要としている人を見てあげればと願っている。偉い人、元気な人、自信満々で輝いている人には魅力を感じず社会の底辺で精一杯生きている人たち(我々の同船者の多くがこの部類に入る)に親しみとアイデンチテイを強く感じる。花でも大輪の華やかな花より小さく小さく静かに咲く野の花をこよなく愛するとの人生観は、長い41年間のブラジルでの生活で培った貴重な経験に基づく人生観として胸が詰まりました。

谷 忠浩さん(1941年12月5日生まれ)宮崎県の高等学校を卒業して大阪に就職し自動者部品の製造会社に就職、高等学校を出ている社員がいないという町工場で在庫管理、伝票作成等珍重され将来を嘱望されていた矢先に降って湧いたような家族上げてのブラジル移住に誘われ工場主からは一生の生活を保障するのでブラジルへ行かずに日本に残って欲しいとの誘いを断り家族と共にブラジルに移住、サンパウロ市近郊のJACAREIのJAMIC(日本移住振興株式会社)直営農場に家族と共に入植しその後、北伯のマセイオ市に転住、兄弟協力して野菜販売(フェイランテ)、パステラリア、シュラスカリア、ビジョテリア、八百屋、現在は昼だけ開店のレストラン等をやっておられる。13年前と5年前の2度にわたり約3年間の日本就労の経験もあり、一度目は幕張周辺にある公園の木の剪定等をする庭師(日本の余りの寒さに参り予定の半分の1年で帰国)二度めはバブルが弾けた日本では仕事が見つからず土方として代表的な3K(危険、きつい、キタない)の仕事に従事、全身刺青のお兄さんや4年間監獄にいたというおじさん等との布団を並べての6ヶ月間の生活を経験、現在でも蛸部屋に近い板場生活がある事を知る。公共事業にも不況?が忍び込み公共事業体の支払い遅滞でこの請負会社は破産したと事でその後はセブンイレブンに納める食品会社に勤務1日12時間の労働をこなす。食品(生野菜中心)加工工場で空調による温度調整が効き過ぎて労働環境が厳しく早々に引き上げて来た。現在は、農場に植えてあるココ椰子の木の管理や近くに病院、学校等があり人が集まるのを利用、自宅で昼だけの鶏肉を中心とした昼飯屋を家族と遣っている。夜は客も少なく物騒だとの判断で昼だけののんびりしたレストランで時間があれば是非訊ねて見たいと思ったのですが果たせませんでした。



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