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戦後移住50周年記念式典(画像掲示板より転載)
2003年7月26日にサンパウロ州議事堂記念ホールで開催された戦後移住50周年記念式典については、中沢実行委員長始め戦後移住者の諸団体の代表者とそのメンバーを糾合して盛大に行われ、5年後に迫るブラジル移民100周年祭への助走と本番への準備を見事に果たし心強い手応えを感じさせ、『戦後移住者ここにあり』の心意気を示しブラジル移民100周年祭の推進者としてのスタンスをブラジル日系コロニア内で得ることが出来た。まだ残されている写真を中心とした戦後移住50年記念誌の発行事業、5年後には日本の国花さくらとブラジルの国花イッペーの花の名所を各地に造成する計画を進めており戦後移住50周年記念事業を成功させたその団結と実行力を維持、拡大することによりブラジル移民100周年祭への弾みとしてそのエネルギを集結して行って欲しいと願うのは私だけではないと確信します。
写真は、戦後移住50周年記念式典のプログラムです。写真、記事等を寄せて頂いた大西悦雄委員にお礼を述べさせて頂きます。


2003年7月26日サンパウロ州議事堂記念ホールに於いて、内外より800名の出席者を得て、式典は堂々と開催されました。当日の様子は遥々取材に駆けつけてくれた和田さんにお任せするとして、テーマソングSou Japonesaを高らかに歌い上げ、式場の移住者達をほろりとさせてくれた井上祐見の姿三態を写真で紹介します。@前日会場準備に忙しく立ち働く人達をわき目に、無人の舞台で2時間にわたって入念に音響装置担当とリハーサルをする彼女のプロ魂。A本番十二単姿での熱唱、Alkimim州知事も聞き惚れる。B式典を終えて、受付を手伝ってくれた人達と気軽に写真撮影に応じる素顔の彼女と俳優の竹本孝之。

大西 悦雄 様
戦後移住50周年記念式典に参加させて頂き有難う御座いました。報道関係者のクラシャ(確認章)を用意頂いたので手持ちのデジカメと古い一眼レフに135mmの望遠を着けて写真も沢山撮らせて頂きました。
今回の戦後移住50年祭の成功で移民100周年事業への大きな足がかりと基盤が出来ましたね。実行委員会の組織力、動員力がこれからの100周年祭への牽引力と中心的な役割を果たして行く事に成るでしょう。中沢実行委員長はじめ皆さんの献身的なご努力に敬意を表します。
今後は、お仲間に入れて頂き出来る範囲で御手伝いさせて頂きたいと思います。
NHKの中学生日記は、時々見ていますが竹本孝之さんのギター伴奏良かったですね。テマーソングを唄った井上裕見さんは、声量もあり12キロの12一重の着物をものともせず中々の熱演でしたが、昼食時に竹本さんの伴奏で唄っている時着物姿なのに何故かお臍が見えて面白い簡易衣装があるのだなーとファインダーを覗きながら感心しました。毎年ブラジルに来ておられるとの事、ポルトアレグレにも来て頂きたい歌手の一人でね。

戦後移住50周年記念式典は、ブラジル移住95周年の年とも重なり5年前の90周年記念式典以来の大型ミッションが日本から遣ってきてサンパウロ州議会モヌメンタル・ホールで行われた『ありがとうブラジル』の式典に参加する機会を得た。当日の式典の様子は下記に転載させて頂くニッケイ新聞7月29日付けに譲るが、ブラジル戦後移住50周年記念祭実行委員会の皆さんのお仕事はこれで終了したのではなく50周年祭は、その一里塚として大きく評価されるがこれは2008年に迎えるブラジル移住100周年祭への前哨戦、実行力と団結力いまだだから出来る戦後移住者の優秀な人材を集めた戦後移住50周年祭実行委員会の皆さんが中心になりブラジル日本文化協会、援護協会、県連、各地の文化協会等の諸団体を糾合して準備して行くべきであり、少なくとも今回の50周年祭の大成功は、100周年祭へ向かっての今後5年間の準備期間が始まったとの位置づけで是非100周年祭へ向かって一致団結準備を推進して行って欲しいと思います。今年植えた桜とイッペーの両国の国花が100周年祭には大きく花咲く姿は、想像するだけでも嬉しくなります。戦後移住者とブラジル生まれの子孫の多くの日系人の誇りとなる植樹事業をこれからも続けて欲しいと思います。植樹事業の責任者の東京農大会の石川準二さんは、晴れやかな植樹祭の写真撮影にも遠慮がちで縁の下の力持ちに徹しておられる姿を見て頭が下がりました。中沢宏一実行委員長(県連会長)、小山昭朗総務委員長(ブラジル工業移民者協会)黒木政助式典委員長(コチア青年連絡協議会)、菊地義治副委員長(南米産業開発青年隊)等の戦後移住を支えた各団体の指導者の皆さんを始め事務局長の川守田一省を中心とした献身的なスタッフの皆さんの協力があったからこそ実現した大きな行事でした。
これからもこのエネルギーを分散させることなく集結し100周年祭の成功を目指して頑張って下さい。
写真は、50周年記念式典プログラムと東山酒造提供の清酒の鏡割り風景で藤田広島県知事、浅野宮城県知事、橋本高知県知事、後藤参議院議員、アルキミンサンパウロ州知事等のお顔が見られます。3枚目は州議会議院前に記念植樹した桜の前で『ありがとうブラジル』弾幕を囲んでの記念写真です。

ありがとうブラジル=戦後移住50周年記念式典=日伯知事らが賞賛=「日系抜きに聖州なし」(ニッケイ新聞7月29日付け)
7月29日(火)
 ブラジル戦後移住五十周年記念式典が二十六日午前十時、サンパウロ州議会モヌメンタル・ホールで、『ありがとうブラジル』をテーマに開催された。式典には約六百人が参加。聖州のアウキミン知事や、広島、高知、宮城、岩手各県の知事と福岡、兵庫両県の副知事も出席。同州の行政分野で活躍する政治家、官僚の姿も目立った。ルーラ大統領の代理として出席が期待された具志堅ルイス大統領府広報局長官は病気を理由に欠席した。
 移住坂登ぼれば、神戸の町並み 海の向こうは…… 幕開け、井上祐見さんの歌う式典テーマ曲『Sou Japonesa』に緊張の糸が一気にほぐれたか、中沢宏一委員長はまぶたをぬぐい、「日本からの来賓三百人がブラジルを見てくれることは移住者としてうれしい」とあいさつ。「戦後移住の経緯とわれわれを受け入れてくれたブラジルへの感謝を伝えていくべきだと認識している」などと式典の意義を強調した。
 池田維・駐ブラジル大使は五三年アマゾン・パリンチンスに入植したジュート栽培者や、五五年から始まったコチア青年など戦後移住の歴史に言及し、「日伯関係の発展に貢献した皆様に感謝します」と労をねぎらった。
 これを受けたアルキミン知事は「日系人抜きにいまのサンパウロ州はない」と認め、州刑務所管理局の古川長(ナガシ)長官らの名前を挙げ、式典に参列していた日系の政治家や官僚を立席させて紹介した。
 州知事はまた、先週『ヴェージャ』誌が特集した「スシの勝利」の記事を取上げ、「聖市はかつてシュラスコの都だったが現在はスシの都だ」と言い切り、その存在感を称えた。
 日本からの来賓のうち、初めにあいさつした広島県の藤田雄山知事は「わたしたちの訪問を契機に日伯交流促進のきっかけになれば」。岩手県の増田寛也知事は「農業だけでなく社会全体の発展に貢献した戦後移住者に対し敬意を表したい」と述べた。
 NHK記者としても来伯経験のある高知県の橋本大二郎知事は「この二十年でブラジルもずいぶん様変わりした。県で受け入れている留学生たちも今後、国の発展の一翼を担ってくれるはず」とアウキミン州知事と固い握手を交わした。
 「浅野史郎、五十五歳がやってきました!」。威勢よく飛び出したのは宮城県知事。開催中のサンパウロ仙台七夕祭りにふれ「笹の葉さらさら・・・」と、自慢のノドを披露。会場の笑いを誘った知事は「日本の文化が入ってきたことでブラジルの文化が変わってきているのは素晴らしいこと」との感慨を表明した。
 日伯議員連盟会長・三塚博衆議の代わりに出席した後藤博子参議は「ボン・ジア、ボア・タルジ、コモ・ヴァイ・・・」と、かつてマナウス在住時代に覚えたというポルトガル語を披露した。「移住経験のある議員はわたしだけ」。そうアピールし、三塚衆議のメッセージを代読した。
 「ミナサマ、オメデトウゴサイマス」「一世ノミナサマ、ゴ苦労サマデシタ」と日本語で祝辞を述べた聖州議会のシディネイ・ベラウド議長はあいさつの最後で、「ブラジル人と日本人、一つの心。これを五年後に迫る百周年のテーマに提案したい」と話し、盛んな拍手を受けていた。

サクラとイペーの植樹を続けています。
戦後移住50周年記念式典実行委員会(中沢 宏一委員長)の一人大西 悦雄さんから次の様なお便りと写真を頂きました。

50周年記念式典にご出席頂き有難う御座いました。折角遠方より来て頂きながら、ゆっくりとお話しする事もできず、大変失礼致しました。お蔭様で式典は予定通り無事に終了しましたが、関係者へのお礼状の発送やら、残務整理やらで、事務局はまだまだ多忙を極めております。サクラの植樹も始まったばかりで、百周年へ向けての継続事業として息の長い仕事となりそうです。8月4日には、大口のご協力を頂いた三菱商事関係者+総領事+USPの皆様を迎えてサンパウロ大学スポーツセンターのプールサイドにサクラとイペーの植樹を行いました。
大西 悦雄

和田 様 / 大西 様 
 写真とコメント有難うございます。21Kgの十二単衣とへそ出し着物ドレスで話題にして頂きました井上祐見です。今回で5回目になる南米公演でしたが、今年は大きな行事に参加させて頂き本当に有意義な公演となりました。これも関係の皆様のおかげだと思います。この場を御借りしてお礼申し上げます。
 ところで、色々な写真が撮られていたんですね! 私もマネージャーさんも一緒に参加していた竹本孝之さんや平安衣裳の三田村先生と一緒にバタバタしていて何の資料写真も残っていないんです。本当は私も写真と一緒にコメントを書きたかったのですが、残念ながら何もないのでコメントだけで参加させて頂きました。 スミマセン!
 私は昨日13日に帰国したのですが、帰国前の食事会でもへそ出し着物が話題になってしまいました。実際は夏物の打ち掛け衣裳を使い私のデザインで作ってもらった服(下はスカートになってるんですよ!)なのですが、へそ出しが普通のブラジルなのでたいした事はないかな〜と
思っていたんですが、日本人が着物でヘソ出しはちょっと衝撃的な感じなのでしょうか?(ちょっと反省はしてるんですが、意外に好評だったので許して下さいね!) 
 もしかしたら、NHKの中学生日記(日本で9月6日もしくは翌週放送)で式典の一部と竹本孝之さんと一緒のへそ出し井上祐見が放送で見られるかもしれません。
 * 今回の公演ではマナウスのアマゾナス劇場でも公演させて頂きましたが、この会場には親しくして頂いている後藤参議院議員も会場に足を運んで下さいました。

 ところで、こんな私的なことで勝手に参加してはいけないホームページではなかったのでしょうか? 申し訳ありません。
 私の写真が出てると聞いたので思わず投稿してしまいました。 井上 祐見

井上 祐見 様
書込み有難う御座います。既に寄稿集269番目に『戦後移住50周年式典』として関係記事(画像掲示板からの転載)として掲載しておりますが、今回の井上さんの書込みも載せて置きます。
今回は、5度目のブラジルだったとか、大事な『ブラキチ』のお一人のようですね。この次には是非南のポルトアレグレにも足を伸ばして下さい。地元の日系関係団体とも図り井上さんをお迎えしたいと思います。
パラナで笠戸丸第1回移民の唯一の生存者中川トミさんを後藤参議と共に訪ねられとのニュースがニッケイ新聞に掲載されていましたので下記転載して置きます。
後藤参議が移住者として3年間住まれたと云うマナウスにも御一緒されたようですね。マナウスのアマゾナス劇場でも公演されたとの事、ゴム景気に沸いたアマゾンにヨーロッパから運ばせた大理石で建設した南米でも最高級の劇場、世界中の有名なオペラ歌手が競って公演したと云われる大劇場での『ソウ・ジャポネーザ』井上さんの歌に地元の人達は、感激された事でしょう。羨ましい限りです。
御一緒された後藤参議は、大分県選出とか機会がありましたら『私達の40年!!』HPを紹介頂き何か寄稿集に書いて頂けると嬉しいのですが、宜しくお伝え下さい。
これからも是非、『私達の40年!!』をご支援下さい。

笠戸丸移民と交換=後藤参議、手土産持って=裕見さんは「ソウ・ジャポネーザ」

[パラナ支局]戦後移住五十周年記念祭典行事に参加するため来伯した後藤博子参議院議員、歌手の井上祐見さんは、去る七月二十八日、連れ立って、ロンドリーナ市在住の笠戸丸移民生存者、中川トミさんを自宅に訪問した。参議は、トミさんから昔の苦労話を聞き、励ましと労りの言葉をかけた。祐見さんが「ソウ・ジャポネーザ」を歌うと、トミさんは涙でハンカチを濡らした。
 後藤参議の中川家訪問は、来伯が決まった時点で三塚博・日伯議員連盟会長から提言があったという。この日、夫の克幸氏、祐見さんとともに、嶋田巧パラナ日伯文化連合会会長の案内で訪ねた。祐見さんは、二回目。
 参議は、持参した手土産を一つひとつていねいに説明しながらトミさんに手渡した。祐見さんは、今回、サンパウロの五十周年式典でテーマソングとなった「ソウ・ジャポネーザ」ほか数曲をトミさんのために歌った。耳を傾けていたトミさんは、堪えかねてハンカチで涙をおさえていたが、そのハンカチもすぐにくしゃくしゃになってしまった。参議がそっと新しいハンカチを出して、優しく労るシーンは、家族やまわりの関係者をもホロリとさせた。
 参議一行は、中川家の家族とレストランで昼食をとったが、めったに外出しないトミさんも同行するといい、実行し、家族をびっくりさせた。
 昼食後、一行は嶋田会長、沼田信一日文連教育部長らに案内され、ローランジアの移民資料館を視察、その後、日文連会館で約七十人の人たちと懇談した。西森ルイス・パラナ文化運動連盟理事長(さきごろパラナ州議員に繰り上げ就任)も駆けつけた。
 懇談会は、さまざま議論や要望が続出し、話がすすみ、最後に祐見さんが「ソウ・ジャポネーザ」を披露するころには、帰りの航空機の出発時刻が迫っているほどだった。
 既報のように、参議は、以前三年ほど、マナウス市に移住者として住んだことがある。そのころ、こどもたちが好んでいたという、グローボ系の番組からヒントを得て、黄色い啄木鳥(きつつき)をシンボル・マークとしている。自身の名刺に「ピカ・パウ」と刷り込み、ホーム・ページには「ヴァモス・ラー」と打ち込む。この日も胸に黄色い啄木鳥の縫いぐるみをつけていた。




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