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移住坂 神戸と海外移住(5)=温く受け入れた神戸市民=「移民さん」身近な存在
移住坂 神戸と海外移住の第二部として(5)から(9)までを掲載します。明治41年(1908年)4月28日午後5時55分神戸港を出航した第一回移民船、笠戸丸の乗船者数が781名で昭和3年(1028年3月に開設された国立神戸移民収容所の1期生が581名と記録されており奇しくもあるぜんちな丸第12次航の我々は、その中間の681名でこれも単なる数字合せでない繋がりを感じます。
移住坂 神戸と海外移住 の記載に甲南大学理学部太田雅久教授が作詞・作曲した「演歌・神戸移住坂」が基調に流れているとの事、残念ながらこの歌の存在すら知らなかったが、移民船乗船記念碑の完成記念レセプシオンで披露され居合わせた400人以上の人たちに感銘を与えたとか、是非この歌をもっと身近なものにしていきたいものですね。


移住坂 神戸と海外移住(5)=温く受け入れた神戸市民=「移民さん」身近な存在

6月25日(水)
 地元の総力を挙げての誘致運動が功を奏した国立神戸移民収容所が、昭和三(一九二八年)三月に開設されたことにより、日本全国から移住者が神戸に集まる仕掛けが出来上がった。
 移民収容所は、神戸への集客装置であるとともに、神戸に寄港する移民船に安定的に乗客を提供するという意味でも、神戸の町と神戸港の発展に貢献した施設であった。初年度の総利用人員は、一万二千五百七十七人(一家族当り五・三人)、出身地は四十七都道府県と「朝鮮」にわたっており、県別では、熊本二千三百六十八人(一八・八%)、広島一千百九十七人(九・五%)、福岡一千百八十人(九・四%)、以下、北海道、山口、沖縄の順に続いている。九州、沖縄が全体の四割強、中国地方が二割を占めていた。
 日本中から神戸に集まってきた移住者を、神戸市民は「移民さん」と「さんづけ」で呼び、温かく受け入れた。神戸市民にとって「移民さん」はごく身近な存在であった。
 収容所のすぐ近くで生まれ、育ち、現在もそこに住んでいる佐藤國吉氏(元神戸海事広報協会会長)は、少年時代、収容所を建設するため、墓地を移転した空き地でテニスの練習をした思い出などをなつかしく語る。「鯉川筋の山手には、移民者むけの土産物屋が軒を連ね、私はそれを見ながら真っ直ぐ下って海岸まで歩き、移民船にテープを投げて見送った覚えがある」「この頃移民された一世の方々のご苦労はさぞや大変な事であったと思われる」と回顧録「波涛を越えて」で温かく書いている。
 佐藤氏は「神戸港移民船乗船記念碑実行委員会」の設立発起人として尽力、委員会発足後は顧問に就任した。同氏は、移民船乗船記念碑募金者第一号として、記念碑建立に大きく貢献した。
 佐藤氏とともに募金第一号を寄付したブラジル在住の後藤留吉氏は、兵庫県姫路市出身、神戸の鉄道省鷹取工場で働きながら勉強し、昭和四(一九二九)年、二十歳のときにブラジルに移住し、奮闘努力が実って実業家として成功をおさめ、現在はカンピーナス市に在住、悠悠自適の生活を送っている。
 戦後、収容所近くに住んでいた和田宣一氏は、付近の住民の中には年末に移住者を自宅での餅つきに招いた人もいた、と記憶している。住民にとっては、餅つきの人手確保の意味もあったのであろうが、見知らぬ土地・神戸の収容所で連日、講話と予防接種に明け暮れる移住者にとって、餅つきは大いに慰めとなり、元気づけられたことだろう。招く人、招かれる人、当時の市民と「移民さん」の心温まる交流だった。
 垂水区在住の写真家・平岡徳太郎氏は、戦前、移住者の列が、大きな荷物を担いで、収容所から城が口筋、穴門筋、鯉川筋を下り、黙々と徒歩で埠頭の移民船へ向かう姿と、同じ坂道をはしゃぎながら登って通学する神戸女学院の女学生のはかま姿を、今も鮮明に覚えている。
 当時の神戸女学院は、今の神港高校あたりにあった。平岡氏は、戦後神戸港で働きながら、移民船、神戸港の写真を撮影した。氏が撮影した神戸港の移民船出港風景は、神戸の移住史の貴重な資料となっている。

移住坂 神戸と海外移住(6)=収容所と対象的な建物=上流階級の「トア・ホテル」

6月26日(木)
 「三ノ宮駅から山ノ手へ向かう赤土の坂道(中略)が丘に突き当たって行き詰まったところに、黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。後ろに赤松の丘を負い、右手は贅沢な尖塔をもったトア・ホテルに続き、(中略)丘の上の是が『国立海外移民収容所』である。」(『蒼氓』石川達三)。
 神戸の高台に並んで建つ二つの建物、神戸移民収容所(一九二八年開業)と、トア・ホテル(一九〇八年開業)は、神戸の歴史を語る上で、忘れることができない重要な役割を果たしてきた舞台である。しかし、この舞台の登場人物が展開してきた人間ドラマは、まことに、劇的なまでに対照的である。
 英、独、米、仏などの共同出資で建設されたトア・ホテルは、居留地のオリエンタルホテルとともに、神戸の外国人、上流階級の社交場、いわば神戸の鹿鳴館とも言うべきホテルだ。一方、その西隣に、現在も当時のままの姿で残る旧移民収容所は「生涯帰らないつもりで一切の絆を断ち切って、家も売り田も地主にかえし」(『蒼氓』)た移住者が、日本全国から内航船と汽車を乗り次いで、長旅の末やっと神戸にたどり着き、ここで渡航前の健康診断と研修を受けた施設。
 講話と予防接種に明け暮れた十日間、移住者には、トア・ホテルに出入りする着飾った紳士・淑女がまぶしく見えたに違いない。「隣のトア・ホテルのヒマラヤ杉の美しい木立の中に立派な自動車が車体を光らせながら出入りするのが見えて、杉の枝から雪がさらさらと崩れていた」「トア・ホテルの尖塔に明るい灯がついているのが見えた」(『蒼氓』)、石川は、収容所の移住者の目でトア・ホテルをこのように描写している。
 トア・ホテルが開業した明治四十一(一九〇八)年は、奇しくも「第一回ブラジル移民船笠戸丸」が、神戸を出港した年だ。「トアホテルは、神戸の山手、高く聳え立ち、屋根と塔屋の赤い瓦が直ぐ後の松の緑と効果的なコントラストをなして、(中略)スエズの東此の方、最高級のホテルにランクされる美しい建物」(『ジャパン・クロニクル』弓倉恒男訳)とまでたたえられていたが、惜しいことに、一九五〇年火災のため焼失し、現在はその跡地に、神戸外国倶楽部が建っている。旧居留地から山手へ向かう坂道、トアロードはトア・ホテルへ向かう道というところからその名がつけられている(『トアロード物語』弓倉恒男)。
 トアロードの一筋西の坂道、旧収容所からメリケン波止場へ下る「移住坂」は、戦前の移住者が徒歩で乗船地に向かった道路である。『蒼氓』では、重症トラホームのため渡航を断わられた秋田県出身の男が、故郷に帰るため「妻と五人の子供達を連れて、行李を担いで風呂敷包みを提げてぬかるみの坂道を黒い一群の影のようにみすぼらしくなって下りて行く姿」と、「彼等の後からフランス人の若い娘が赤いスカアトを見せて、男と腕を組んで、相合傘で歩いて行く姿」が対照的に描かれている。

移住坂 神戸と海外移住(7)=移民宿から収容所へ=開所日、乗用車で乗りつけた

6月27日(金)
 七十七歳の老婆や洋行気取りの若夫婦 五百八十一名が押しかけた国立移民収容所 店開きの好況」、一九二八年三月十日午前九時に開所した移民収容所を報道した「神戸又新日報」(三月十一日号)の見出しである。
 日本全国から神戸に集まってきた移住者の最年長は高知県出身の七十七歳の婦人、最年少は生後三ヶ月の乳児で、家族移住者は五百五十四名。うち単身移住者は二十七名で、全員沖縄出身である。宿泊費、食費はすべて無料という国立の移住奨励施設の歴史的な開業である。
 せっかく収容所までたどり着いたのに、岐阜県出身の家族十三名と愛知県出身の家族十七名は、入所前の健康診断で夫人がトラホームと診断され入所を断られた。
 この日から、収容所を舞台に展開される悲喜こもごもの人間模様を同紙は「国立移民収容所の一週間」として連載している。初代所長の兵庫県衛生課長・岡田良一技師のもと、医官・長峰昇氏、属官四名、雇員七名、医官補二名、薬局員一名、看護婦二名、教養係四名の体制でスタートした。長峰医官はのちに「注射をする怖いおじさん」として子供たちに恐れられる悪役となる。
 第一日目はあいにく雨だった。迎える所員は「雨の中を子供連れ、荷物を担いであの坂道はさぞかし辛かろう」と心配したが、それは杞憂であった。なんと予想に反して、移住者はいずれも堂々と自動車で乗り込んできたのだ。「シガーの煙を輪にふき 美女携帯の青年紳士 洋行気取りで自動車の横付け」(上記紙 三月十二日号見出し)。
 当時は、都会でも一般庶民は乗用車などとまったく無縁な生活をしており、ましてや農村出身者が圧倒的に多かった移住者が車で乗り付けるなどと想像もしていなかったのだ。いったい移住者はどこから車にのったのか。
 もよりの三ノ宮駅からか。いや、そうではない。実は移住者は数日前から海岸通などの移民宿に宿泊しており、そこから移民会社手配の車で収容所に乗り込んできたのだ。移民宿から収容所までせいぜい二キロ、徒歩で三十分の距離だ。体力自慢の農村出身者にはほんのひと歩きの距離だ。
 それでは、なぜ移住者は移民宿に泊まっていたのか。その理由は当時の国内交通事情にある。当時は新幹線も飛行機もない。老人、乳幼児をつれ、大きな荷物を抱えた大家族の移住者、蒸気機関車牽引の列車、内航蒸気船などを乗り継いでの神戸までの長旅だ。万一、神戸到着が遅れ、入所日に間に合わなければ、せっかくの移住はご破算になってしまう。移住者は早めに神戸に到着し、移民宿で収容所の開所を待っていたのだ。
 車は移民会社が手配した。一生に一度の晴れ舞台の海外渡航、移住者は意気揚揚と一張羅の晴れ着で車に乗り込んだ。用車の経費は、渡航費、移民宿宿泊費などとともに、移民会社が立て替え、後日移住者負担で精算したことはいうまでもない。移住者にとっても収容所に入ってしまえば、食費も滞在費も一切無料になるので、気分的にも楽だったのだろう。
 部屋割りは一室十二人ずつで五十室だった。見ず知らずの人と相部屋である。行李から取り出された目覚し時計が鳴り、赤ん坊が泣くそばで、初めてベッドにあがったうれしさから飛び廻る子供を激しく叱る母親。子供たちはすぐに仲良しになった。雨なので外では遊べない。二階で女の子が鬼ごっこすれば、三回では男の子がキャッチボールし、マラソンが始まり、廊下が急に賑やかになった。いよいよ収容所生活のスタートだ。

移住坂 神戸と海外移住(8)=憎まれ役だった医官=食堂は火事場のような騒ぎ

6月28日(土)
 移民収容所第一期生の収容所生活が始まった。全国から集まった五百八十一人の移住者の受け入れは、所員にとっても初めての経験で、とまどうことばかりだ。生活習慣、考え方、年齢も異なる大集団だ。大食堂での食事が始まった。一回の食事で消費する米は「四斗炊き蒸気釜二回分と一斗炊き計九斗」だ。
 副食は、牛肉と馬鈴薯にねぎの炊き合わせだ。ところが牛肉と馬鈴薯を一緒に食べる習慣がない地方の移住者が「何でもよいから他のおかずと替えてくれ」と所員を困らせる。食堂は火事場のような騒ぎだった。
 長峰医官は大忙しだ。若い母親が発熱した子供を連れてきた。診察すると肺炎だ。氷の手配をしているところへ、今度は歯痛を訴える子供が駆け込む。初日の長峰医官はついに昼食抜きだった。
 慣れないベッドでの一夜が明けた。午前四時ごろから、廊下を走り回る子供の足音で目がさめる。「老幼や男女も無差別に 腕に刺される注射針」(神戸又新日報一九二八年三月十三日)のおどろおどろしい見出しは、収容所の予防接種風景だ。
 二日目午前九時からチフスの予防接種が始まった。七十七歳の老婦人から三カ月の乳児まで、順番に長峰医官から左腕に注射を受ける。午後は注射の影響で軽い発熱症状がある人もいるので休講となった。ベッドに寝ている人は、一部屋に二〜三人程度で、子供を連れて買い物に出る人、赤ん坊を背負い洗濯する主婦など、みんな思い思いに時間を過ごす。
 三日目の午前九時、講話開始のベルが鳴った。講堂に集まったのはわずか五十人余り、所員が各部屋を廻り動員をかける。深夜に収容所をぬけだし、朝帰りで寝ている移住者をたたき起こし、行李を整理している人を追い出し、やっと講習が始まった。
 「南米をパラダイスと心得て、南米に行きさえすれば、ひとりでにふところが膨らむやうに考えている人たちが移民の中にかなり多いやうである」「楽しい夢を追っているてあひにとっては、ブラジルの天地は決して楽境ではない、文字通り堅忍不抜の精神がブラジル未開を開く鍵だ。鍵には貴い地と汗の労働がにじんでいると言うことを心得て」「ブラジルには宝の山はない、荒無の大原にたって、ガッカリ悲観しないやうに予め教えて置かうといふのがけふの講習である」(上記紙 三月十四日)。
 どうやらブラジルへ行きさえすれば大金を稼げると安易に考えている移住者が多いようだ。中嶋講師がコーヒー園の労働の厳しさについて話をすると「こんなはずではない」とため息をつく人もいた。居眠りをする人、うわの空で聞き流している人もいた。
 午後の田中講師の衛生講話も集まりが悪かったので、またまた各部屋から狩り出しの後開かれた。ブラジルの風土病やマラリヤの予防に関する話だ。
 四日目の種痘は、移住者にちょっとしたパニックを引き起こした。子供たちが治療室を怖い部屋と覚え込み、注射が痛いことを忘れないからだ。治療室の前まで子供を連れてきた母親も嫌がる子供を部屋に連れ込む勇気はない。だましすかしてやっと部屋に子供をひきずって入ってきても、光るメスを見て、今度は母親が尻込みしだした。長峰医官は、怖い先生と敬遠され、憎まれ役を一人で買って出ることとなる。
 「講義時間中は静粛に」との貼り紙が出された。講義室はいっこうに静かにならない。母親の乳房をすっていた乳児が急に泣き出す、トイレに出入りする子供に付き添う父親、とうとう子供が後ろで鬼ごっこを始めた。「ステッキはどう振りますか」「刀は持っていけますか」「金はどのようにして日本におくるのですか」「子供の菓子はどんなものを持っていけばよろしいか」「雨合羽の用意は要りますか」などの質問が相次ぎ中嶋講師にだされた。

移住坂 神戸と海外移住(9)=予防注射は嫌われたが=熱心だったポ語の勉強

7月1日(火)
 四日目になると、取材の神戸又新日報の記者も慣れてきた。この日、収容所出口に「外出禁止」と書いた立て札が掲げられた。無断外泊者が多かったためだ。外出できなくなった若者たちは、時間を持て余し、夜遅くまで笛や尺八を吹いている。
 洋式便所の使い方がわからず、前後反対に使用し「ズボンをすべて脱がなければ用を果たせない」と文句をいう人がいて、所員が「宿屋商売って難しいものだ」とこぼす。
 ブラジル語の講習が始まった。今度は人の集まりがきわめてよい。「ブラジルは礼儀正しい国と聞かされているので、挨拶ぐらい知っていなければ日本男児の威厳にかかわる」と移住者は熱心に勉強をする。「アー、ベー、セー、デー」の大合唱が所内に響き渡る。五日目の朝、「ボンデア」「ボンデア」のあいさつが、廊下のいたるところで交わされていた。
 「記者がうっかり移民君の足を踏んだので『失敬』と言ったら『ノアデケエー』(どういたしまして)とやられた。早くもブラジル語が使ひ出されたのである」と記者は驚く。
 「代表者会議」が開かれた。各府県から一人ずつ選ばれた代表者十三人が渡航心得の説明を受ける。まず移民会社・海外興業の森島さんが荷物のまとめ方を説明する。「ブラジルに着くまで要らないもの」は赤札、「船内で時々必要があるもの」は青札をつけて会社へ預け、身の回り品は各自で持参するように、絹織物や薬品は必要最小限のみ持っていくこと、サンパウロの収容所は設備が悪いので、布団や毛布の用意必要、荷物の中にマッチを入れておくと火災の恐れがある、ケープタウンでは、猛烈な排日運動が起こっているので上陸しないほうがよい、お金は「為替の変動などでややこしいから」移民会社である海外興業が現地に到着するまで預かる、など実に細かいところまで注意をする。
 次いで、大阪商船の武山さんが移民船内の注意事項として「インド洋を渡るときは暑いので子供のため『てんかふん』の用意」を、船中では水が一番大切であるので濫用は慎んでほしい、おしめ洗いにはとくに注意、「細君の寝巻き姿はともすれば風紀を乱すもとになるのでご注意ありたい」、「船中での下駄履きはやめてほしい」など。
 六日目の午前中は、二回目のチフス予防注射だ。これで種痘一回とチフス予防注射二回の計三度目の注射だ。一回目の予防注射のあと発熱した人もおり、みんな嫌がって部屋から出ない。特に子供たちは「怖いおっちゃんにまた針を刺される」と母親のひざにしがみついて離れようとしない。
 所員がなだめすかし、狩り出そうとするが、いうことを聞かないので、「注射をせねば船に乗せぬ」と脅かしたら、「しぶしぶながら『屠所に引かれる牛の歩みのやうに』ぞろぞろ廊下を先を譲り合いながら注射室へ向かった」。



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