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ブラジル日系社会@−D 朝日新聞連載 サンパウロ特派員、和泉 聡さんのレポート
東京に御住いの中村 實さんから毎年、日本の正月版の特集記事をどっさり送って頂いており今年もズツシリと思い封筒を受け取り嬉しく思いました。元消防士としての世界の消防士仲間との交流秘話や、近況を知らせて呉れるお手紙と共に昨年12月20日(土)から12月26日(金)までの5回に分けて掲載された世界の鼓動、【地球に虫めがね】との題でサンパウロ特派員の和泉 聡さんの署名入り記事を丹念に切り取り送って下さいました。これを大阪に住む退職して時間のある妹にFAXで送りタイプアップして貰いました。
中村さんのお手紙には『移民の人がブラジルに骨を埋めんと努力した足跡が鮮明に描かれています。和田さんも歯車として、時に望郷の思いに身を焦がされたことでしょう。日本語も次第に廃れ、ドイツ人などとは根本的に違いがある点にビックリ。日本にいるとどうしても国内の考えが支配します。』とのコメントを寄せておられます。
写真は、中村さんから送って頂いた潮来で撮られたものです。


ブラジル日系社会@
日本語遠のき混血進む
サンパウロで建築業を営むパウロ・ウエムラさん(55)は、日本からの移民一世である父と二世の母の間に生まれた。自分も、二世の妻(54)流暢な日本語を話す。しかし、家庭で日本語を話すことを頑として拒んできた。20代の娘と息子にも日本語を使わせない。「バイリンガルに育てたい」と考えた妻とは、たびたび衝突した。
こう考えてのことだ。
「父たち一世は言葉の壁を乗り越えられず、日本人だけで固まって酒におぼれていた。今日本語を覚えようとすれば、ポルトガル語が狂う。言葉についてまわる日本的な文化や伝統も、戦前の古い日本人が持ち込んだものだ。ブラジル社会で生きていくのに必要ない」
戦前に移民した一世たちのほとんどは、「金を稼いだら、早く日本に帰ろう」という出稼ぎ気分だった。徒党を組みブラジル社会に溶け込もうとしない」と非難もあびた。永住を決意せざるをえなくなったのは、45年の敗戦だった。日本が荒廃し、「帰るに帰れない」と知った日系人は一転、ブラジルへの同化姿勢を強める。ウエムラさんはそんな時代に生まれ育った。
国際交流基金の98年の調査によると、人口約1億7千万のブラジルで、日本語学習者は約1万7千人。5年間で9.2%減った。世界中で例がないほどの減少率だ。ブラジル人の間では学ぶ者が増えているのに、日系人学習者が急減し、全体の減少が止まらない。
日本語教室の通う三世女性タチアネさん(23)は「仕事に必要だから勉強している。そうでなければとてもとても・・・・」
平均的な日系人若者の日本語に対する考え方だ。簡単な日本語であいさつさえ知らない若者も増えている。日系人口の多数が三世と四世だから、今後、日本語はさらに遠い存在になりそうだ。
言葉だけではない。
63年にサンパウロの日本人会が、9人の2世男女を集めて、結婚観についての座談会をした。記録を読むと「ブラジル人とは性格が合わない」「家族とあつれきが生まれる」といった発言が並ぶ。「日系人以外とは結婚したくない」がほぼ全員の意見だった。
76年に結婚したウエムラさんも、特に妻の父が「ブラジル人と結婚するなら自殺する」と話すほどに違和感を持ってた。70年代までは、日系人は日系人と結婚するものというのが、支配的な空気だった。
今、ウエムラさんの長女の婚約者はブラジル人だ。夫婦とも「ブラジルで生まれ育った娘なのだから、ごく当たり前のこと」とまったく抵抗感はない。
88年にサンパウロ人文科学研究所が行った調査で、2世の混血率は66%、3世42%、4世61%。6世世代になれば100%に近づくと見られている。現在140万を数える日系人は、血統面からもいずれ姿を消す。しかし、消減としてよりも、溶解ととらえた方が自然なのかもしれない。旧来型の日系人が消え去り、日系社会が崩壊の道をたどる一方で、ブラジル人としての意識を抱いて生きる日系人や日系社会が、活動の幅を広げている。
移民船から781人が降り立って95年。国境を越えた人々とその子孫がブラジル内外の「境」を通過する姿をたどる。


ブラジル日系社会A
 こだわり捨てて力増す
サンパウロ中心部で午前9時、約50人の若者が15台の車に乗り込んだ。11月の日曜日のこと。日系人学生と20代の日系人卒業生らでつくる大学生ボランティア連盟(アベウニ)が隔週で続ける、孤児施設訪問だ。
貧困や虐待で傷ついた子ら170人が居る施設に行くと、顔なじみの子供がメンバーに飛びついてきた。「トイレの後は手を洗おう」といった衛生教育の劇を披露し、歌やゲームで楽しませた。アベウニの前身は、日系人ボランティア組織の大学生支部。医師がメンバーで日系人だけを対象に無料診察をしていた。そんな活動に、後にアベウニを創設する若者たちは疑問を抱いた。「本当に困っている人は、日系人よりブラジル人に多い。なぜ日系人だけにこだわるのか」。84年、分離独立した。
新組織のメンバーは約300人。医学部のほか、工、法、観光学部など様々だ。最大の活動が、夏冬の休み期間中に開催する。「キャラバン」だ。サンパウロ近郊の貧困地区で、小学校の教室などを借り、200人ほどのメンバーが10日間ほど寝袋持参で泊り込む。手分けして歯科や内科の無料診療のほか、栄養指導、健康相談、地区の生活状況調査もする。
アベウニの転身が象徴するように、日系人のための組織は最近、次々と姿を消している。
日系移民がつくった南米最大の農協「コチア産業組合」は94年、巨額の負債を抱えて倒産。98年には「日本移民の銀行」と言われた南米銀行も経営が行き詰まり、イタリア系銀行に吸収合併された。ともに経営難が表立った理由ではあるがものの、日系人としての意識の変化が見落とせない。数で勝る2世以降の世代は、ポルトガル語に不自由しないので、銀行窓口に日本語ができる行員がいなくても一向に困らない。「移民のための銀行を支えなければ」という気持ちはわきにくい。日系人意識が希薄になるのは、教育にかける情熱も原因になっている。敗戦を機に、1世は故国日本には「もはや帰ることはできない」と知って子供の教育を正視した。この国で最難関のサンパウロ州立総合大学の合格者に日系人が占める割合は49年の3.4%から91年には17%目で増えた。サンパウロ州人口に占める日系人は3%ほどだから、日系人がいかに教育に力を込めたかを裏付ける。入試時期になると、受験生間で「合格するには日系人を1人殺せばいい」と言うジョークがはやったほどだ。
こうした教育熱によって、法曹や医学、政界などに優秀な日系人を送り込んだ。ブラジル人が築いてきた体制に少数者が進入することでもあった。その結果、若い世代になるほど日系としての意識は希薄になった。
日系人の国会議員は54年に始めて誕生した。90年の7人まで増え続けたものの、昨年は繰り上げ当選者の1人にとどまった。日系人はもはや、利益代表者としての議員を必要としない存在となった証しだ。
日系人の5%を占める1世の多くは、義理や人情、目上の人を敬うといった日本的な価値観が薄れていくことに寂しさを抱く。半面、たとえばアベウニに治療や相談に訪れるなは年間9千人に達する。サンパウロで指折りのボランティア団体に成長した。

ブラジル日系社会 B
 国境往来、物流を担う
ブラジルとアルゼンチン、パラグアイが国境を接するところに世界的観光地イグアスの滝がある。近くの川をまたぐゲートをブラジル側から渡りパラグアイのシウダデルエステに入ると、光景は一変した。
歩道の両側に衣料品や靴、腕時計などを売る露店が軒を連ねる。初夏11月、気温45度粘っこい大気をかき分けながら、人々が背中いっぱいの荷物をかついで行き交う。ここは、3国をまたぐ人と物流の拠点だ。ブラジルよりも人件費が安く、商店が林立する。
中心街にある唯一の近代的スーパーマーケット「虹」の経営者が、55年に和歌山からパラグアイに移住した滝本巌さん(66)。銀行勤めや農業を経て26年前、この町初のスーパーを開いた。
「ほどほどに」がライフスタイルの地で、「今日の仕事を明日に延ばすな」「目上の人を敬え」と根気良く説き続けた。
今、従業員200人。「全員が家族のように信頼しあう関係が出来た」と自負する。国境沿いで活動する日系商業者の中で名士に挙げられる。
店の商品の仕入れは6割がブラジル、2割がアルゼンチン、1割がチリからだ。野菜はブラジルに出向き、自分の目で確かめて買い付ける。「虹」に農産物を卸すのが、国境のブラジル側フォスドイグアスに住む日系1世の根本一美さん(59)だ。自分の農場はパラグアイにある。約25キロの通勤は、国境越え往復でもある。
根本さんは鹿児島県出身。12歳の時、パラグアイ中部に渡ってコーヒー農園に勤めた。倒産に伴い、ブラジル南部でのハッカ農園経営を経て現住地に。土地の安いパラグアイに85年、原始林を購入し、大豆や小麦の農場にした。貯金でコンバインやトラクターを少しずつ買いそろえ、ブラジル側から持ち込んだ。根本さんを手本に大型機械使用の農業を始めた近所の農家も多い。
ブラジル日系人は「農業の先生」と言われる。カキやリンゴといった果物のほかにレタスやキュウリなど、ブラジル家庭の食卓を彩る主要作物の多くは、日系人が優良品種の種を持ち込んで育て、定着させた。根本さんは、日系人が築き上げた農業の基礎をパラグアイに「輸出」した。
国境ですれ違う2人が気にかけるのは、ブラジルとアルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイが95年につくった「南部共同市場」(メルコスル)の動向で。確かに、国境往来などで自由の度合いは広がった。しかし、9割の品目で税関が撤廃されたはずだったのに、例外規定や非税関障壁が根強く残る。自由促進の実感はまだわからない。
そこに今年、ブラジルでルラ、アルゼンチンでキルチネル大統領と、メルコスル強化を訴える指導者が登場した。「自由化が本物になり、物と人の動きがさらに活発に」域内で物流に携わる日系人の期待は高まる。
滝本さんの娘はサンパウロで飲食店を営む。サンパウロで娘とともにレストランを開くのが一家の次の夢だ。

ブラジル日系社会C
 連携強める沖縄出身者
サンパウロの建築業、与那嶺シンジさん(53)のもとに11月中旬、来客があった。ペルーでレストランチェーン「ロッキーズ」を経営するアルマンド・キアンさん(44)。2人とも沖縄出身の3世だ。
キアンさんはペルーで親しまれている、鳥の丸焼き料理の店を85年に出店。今、全土に
43店舗を展開し、国民的人気のチェーン店に成長させた。「ブラジルでも店を出せるか」と可能性を探りに来た。キアンさんが滞在中の2週間、与那嶺さんは付きっきりで助けた。
車に乗せてサンパウロ市内を回り、最も集客できそうな場所をさがした。内装工事業者、会計士、弁護士、人材供給会社など出店に必要な業者を次々に紹介した。「これならいける」キアンさんは半年以内にブラジル1号店をする決意を固め、ペルーに帰っていった。
キアンさんは5月、ボリビア中部のサンタクルスに国外1号店を出していた。この時も現地に住む沖縄出身の日系人から協力を仰いだ。
「世界ウチナーンチュ・ビジネス・アソシエーション(WUB=事務局・那覇市)」。沖縄県出身の移民がビジネス面で連携を強めようと、97年に設立された。約460人の会員の新規事業に資本を提供する制度を備える。与那嶺さんは同じ年にできたブラジル支部の会長だ。支部は世界に21.WUBが最も威力を発揮するのは、キアンさんの例のように、沖縄出身というだけで会員同士が無報酬で手助けを惜しまない時だ。
沖縄からの移民は世界に27万人。うちブラジルが11万7千人で4割を占める。アルゼンチンとペルー、ボリビアを含めた4国では、19万5千人余り。沖縄から世界に渡った移民の10人に7人が南米に集中していることになる。毎年開く本部総会で、「助け合う気持ちときずなの強いユダヤ人や華僑に追いつけ、追い越せ」との声が相次ぐ。「華僑」をもじり、「琉僑」と呼ぶ国境を越えたネットワークづくりを目指す。
サンパウロ東部の幹線道路沿いでひときわ目立つ看板が[OKINAWA]だ。金物店を営む沖縄出身の若手16人が共同出資して、01年5月につくった実験店だ。1600平方メートルの売り場に、金物やタイル、ペンキなど日曜大工材料が並ぶ。
この16人を入れた沖縄出身の金物店経営者105人は「グルッポ沖縄」という共同仕入れのための団体をつくっている。メンバーのホロシ・オナガさん(40)は、ボリビア生まれ。
73年に家族でサンパウロに移った後、沖縄出身者援助を受けたおかげで金物屋に転身できた。「沖縄の人たちは戦争で一番苦しんだ。だからどこにいても助け合う。それが幼いころから教わってきたことだ」
リーダーの一人、具志堅正幸さん(40)は、「06年までに実験店を中心にグルッポのメンバーの金物店を結び、お客さんの要望に応じた素早い集配態勢を整えたい」。看板や店の内装も統一し、105店で金物屋版コンビニ」を目指す。

ブラジル日系社会D
 民族意識の希薄さ異色
ステファニーコールさん(20)はサンパウロにあるドイツ系海運会社に社員だ。「経営職養成講座(IFPA)」で学ぶ学生でもある。
IFPAはドイツ商工会議所と総領事館、ドイツ系私立小中高校のフンボルト学園が82年に共同で設立した。2年制の短大に相当し、授業時間の6割以上はドイツ系企業での実施研修、残りは学園で経営理論などを学ぶ。授業の8割はドイツ語で行われる。学生はポルトガル語を含め、3ヶ国語以上を使いこなす。ドイツからブラジルに進出している1200社に幹部候補生を送り込む。一大人材供給センターだ。講師陣はドイツ政府が人件費を負担して本国から派遣する。産学官が一体となったIFPAは、ドイツ系移民の団結と連携を象徴する。
母体となったフンボルト学園1916年の創立。第二次大戦中に敵性資産として校舎や土地などすべてブラジル政府に没収された。戦後いったん閉鎖を決めると、親から強い働きかけを受け、ブラジル政府を相手取った法廷闘争をして学校資産を取り戻した。今、1300人が学ぶ。
「移民国家ブラジル」は50カ国以上から計500万人を受け入れた。宗主国ポルトガル以外で多いのは、イタリアとスペイン、ドイツ、日本などだ。それぞれの移民は学校をつくって母国語とポルトガル語のバイリンガル教育に力を入れた。
これらの学校の多くは近年、ブラジル人学生も受け入れている。有力雑誌が一昨年、一般校も含めサンパウロにある名門私立のランキングを特集したところ、フンボルトは10位。別のドイツ系校首位だった。7位スペイン系、8位イタリア系、14位にユダヤ系が入った。移民に由来する学校が母国文化の発信地として評価されていることを示す。
ランキングに日系校は一つも出てこない。日本語や日本文化へのこだわりと普及にかける熱意の差異がうかがえる。
長年、ブラジルの日系社会を研究してきたサンパウロ人文科学研究所の宮尾進所長は「ブラジルの各国移民の姿を見比べると、日本人の民族意識がいかに希薄か見せつけられる」と、こう話す。
歴史的に国土を他民族に奪われるといった経験がある民族ほど、海外に出た時、自国語と自国文化を守り広めようとする気持ちが強い。ユダヤ人がその典型、島国の日本は対極にある。日系人でも、沖縄出身者にだけこうした気持ちが強いのは、県土が戦場になった経験からだ。
半面、日系人は民族意識が希薄だからこそ、ブラジル社会に同化して活動を拡充させ柔軟性を発揮できた面は見逃せない。
人口も国土面積も少ないポルトガルが92倍の面積を持つブラジルを植民地にした。慢性的人不足で、肌の色で人を差別する余裕はなく、各民族が混合した国をつくっていくしか方法はなかった。これがブラジルという国の成り立ちだ。
サンパウロ州立移民博物館のブリニオ・カルニエル嘱託研究員(55)はブラジルが特別な移民同化政策をとったわけではない。もともと各人種が混じり合うことこそが、この国のアイデンティティーだ。それが日本人の同化も後押しした」と話した。




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