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「おいやんのブラジル便り」真砂 睦さんの【黒潮タイムズ】掲載ブラジル便り(2)
日系社会シニア・ボランテイアとしてサンパウロのJICA事務所で忙しく業務に携わっておられる傍らブラジル生活十数年の経験と熱心な取材、深い観察力と新鮮な感覚で書き綴る真砂 睦さんの「おいやんのブラジル便り」筆先が冴えて来ました。長く当地に住んでいる我々でも知らなかった事、成る程と納得の行く説明等何時も楽しく読ませて頂いており多くの『私たちの40年!!』HPご愛読?の皆さんににも読んで頂きたいと思い第2集を掲載させて頂きます。オリジナルを掲載している【黒潮タイムズ】及び筆者の真砂さんに感謝します。
写真は、現在準備中ですが、届くまで真砂さんが勤務されていたリオのバーハ・デ・チジューカのホテルから撮った朝焼けの写真を掲載して置きます。


おいやんのブラジル便り」(その9)        2003年12月31日

田辺市南紀の台、田辺湾を見下ろす高台に「SOL」(太陽という意味のポルトガル語)という名前(だったと思う)の地中海風レストランがある。一年程前にそのレストランに入った時、ボサノバの曲が流されていた。懐かしかった。もう20年近く昔になるが、私達一家はそのボサノバが生まれた街、リオデジャネイロ市のイパネマ区に住んだことがあるからだ。「ほう、田辺にもボサノバを流すレストランがあったのか」と驚いたが、聞くと
ボサノバは今や日本でも非常にポピュラーな音楽であるとのこと。故郷の歌が有名になったという感じに似た、嬉しい驚きであった。そう、ボサノバはリオの美しいイパネマの街で生まれたのだ。
ブラジルを代表する音楽といえば無論サンバである。カーニバルはサンバのリズムに乗って踊る一大イベントである。サンバはアフリカの黒人が持ち込んだリズムを基に、肌の色の濃い人々が多く住むリオの下町で生まれた。激しいサンバのリズムとそれに応じた踊りが合わさって、リオの下町でブラジル風カーニバルが誕生した。だからサンバとカーニバルは切っても切れない関係にある。しかしサンバはカーニバルだけの音楽ではない。ブラジル人の親しい仲間うちで、何か楽しいことがあるとたちまちサンバを口ずさむ人の輪ができあがる。サッカー観戦で贔屓のチームがゴールを決めた時などは、競技場にサンバのリズムが響き渡る。サンバのリズムはブラジル人の体の中に染み込んでいる。しかしサンバを歌ったり踊ったりするのに似合うのは、アフリカ系黒人の血を受け継いだ人々である。
サンバにはアフリカの血が流れている。サンバは黒いブラジル人が作ったリズムである。
ボサノバは同じリオでも、高名な文化人が多く住む高級住宅地イパナマのインテリ・アーチスト達によって作られた。サンバの叩きつけるような激しいリズムとは全く違って、ボサノバは小声の呟き、ささやきのようにに聞こえる。作詞家ヴィ二シウス・デ・モライスが詩を書き、作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンが曲をつけ、名曲「イパネマの娘」を完成させた。ボサノバの誕生である。1962年のことであった。ギタリストのジョアン・ジルベルトが「イパネマの娘」を歌い、あの「つぶやくような」ボサノバの歌い方を確立した。リオで大ヒットした「イパネマの娘」はアメリカでもミリオン・セラーとなり、短期間のうちにボサノバは新しいジャンルの音楽として世界的な地位を獲得した。日本でも、リオで修行をつんだ小野リサという日系二世の優れたボサノバの歌い手が活躍しているのは衆知のことである。リオのイパネマ海岸には、その名も「イパネマの娘」というレストランがあり、著名な文化人達のたまり場となっている。ボサノバは白いブラジル人が作ったリズムである。サンバとボサノバ。同じリオで生まれたブラジルのリズムだが、その生まれも生い立ちも違っていた。 ブラジルは多様で、奥の深い国である。

「おいやんのブラジル便り」(その10)        2004年1月1日

「ブラジルは人種差別がないので住み易い」と言われる。北アメリカやヨーロッパに住んだことのある日本人がブラジルにやって来ると、特にそう感じるらしい。ヨーロッパや北
アメリカを知らなくても、ブラジルに住んでいる日本人がすぐお隣のアルゼンチンに行くと、「日本人は有色人種だったのだ」ということを痛感させられるし、日本人を見るどことなく冷ややかなアルゼンチン人の視線に接すると、「有色人種」を蔑視する気配すら感じてしまう。南米のパリと言われるブエノス・アイレスは確かに歴史を感じさせる素晴らしい都会であるが、そこからリオに帰って来ると故郷にもどったようにほっとし、「やっぱり住むならブラジルだな」と痛感したのは一度や二度ではない。ブラジルが懐かしい故郷のように感じるというのは、人々の日本人を見る視線を意識する緊張感から解き放たれるからではないかと思う。ではその原因はどこにあるのだろうか。ひとつには、ブラジルには140万人ともいわれる日系人が居り、企業の幹部や大学教授、医者、高級技術者、それに農業分野の指導者等、数多くブラジル社会の中枢に食い込んでいることから日本人は大きな信頼を得ているので、どこでも大手を振って歩けるという事情がある。日系人人口もはるかに少なく、日系人の社会の中枢への食い込みが殆どできないアルゼンチンではこうはいかない。確かにこの日系人の存在感の大きさは重要なポイントである。しかしそれだけではまだ説明しきれていないように思える。ポルトガル系のブラジルとスペイン系のアルゼンチンの社会的な性格の違いも大きな要因であろう。ブラジルに上陸したポルトガル人は、すぐに原住民インヂオと混血をはじめ、砂糖栽培の労働力としてアフリカからつれてきた黒人奴隷とも混血を繰り返した。アンデス高地のインカ帝国を破壊し、アルゼンチンの大草原に攻め下りてきたスペイン人はインヂオと混血はせず、皆殺しにしてしまった。黒人奴隷の導入もなかったアルゼンチンはほぼ完全な白人国家となった。アングロ・サクソンほど徹底はしていないが、スペイン人は混血をしない。一方のポルトガル人は、イギリス人から「ポルトガル人は色盲だ」と言われる程、インヂオとも黒人とも混血していった。そのようなポルトガル人の肌の色を気にしない性格が下敷きとなったブラジルは、世界に類を見ない「人種の坩堝」社会となった。人々の肌の色も、混血の組み合わせと度合いにより千差万別である。1980年のセンサスで政府は肌の色分けによる人種別調査を試みたが、混血があまりにも進みすぎている為、正確な人種分けができないという結果となった。従って厳密な統計はないが、ごく大掴みにいって全人口1億7千万人の50%が白人、45%が混血、5%が黒人と推測するむきが多い。混血がここまで進むと、日本人のように多少肌の色が濃くてもさっぱり目立たないので、肌の色による人種的な緊張感を意識することが少ない。日系人の存在による社会的基盤とあいまって、日本人にはブラジルは住み心地が良いのである。「ではブラジルには本当に人種差別はないのか」という点については、次のお便りでお話をしたい。

「おいやんのブラジル便り」(その11)         2004年1月1日

前回のお便りで、日系人が作り上げた土台があることと、非常に混血が進んだ社会なので肌の色による緊張感を感じなくてすむので、日本人にはブラジルは住み易いとお知らせした。では人種的な緊張感はないとしても、「ブラジルには人種差別はないのか」と突っ込まれそうだ。この大変やっかいな質問にお答えするには、同じ移民国家であるアメリカ合衆国とくらべてみるとブラジルの人種的デモクラシーのあり姿がかいま見えてくるように思う。移民国家とはいえアメリカはアングロ・サクソン流の考え方・価値観が厳然としたスタンダードとなっている国である。「ポルトガル人は色盲だ」と揶揄したイギリス人は混血をしない。彼らは「血の純潔」にこだわっている。祖先の中に何分の一かでも黒人の血が混じっていれば、たとえ肌の色が白くても黒人として扱われる。白人と黒人の中間層として
の「混血」は認めない。白人か有色人種かの二つしかない。この基準が社会的に確立しており、それが制度化されてしまっているように思う。白か有色かという二つの人種関係しか認めない社会では、二つが融合するより、むしろどんどん離れていく力の方が強くなるのではないか。少しでも有色人の血が入っているとわかれば、白人から有色人に転落するという社会では、人種の融合も起りにくい。いくら法律で平等をうたっても、「血の純潔」
がスタンダードになっている社会では、人種による差別を取り払うのは難しい。
ところが、「色盲」と馬鹿にされる程「血の純潔」にこだわらないポルトガル人の価値観が社会規範になったブラジルは事情が違う。ブラジル人は「血」の詮索はやらない。見た目の肌の色の濃淡で白人とするのか、あるいはどの程度混血しているのかを見分けるだけだ。
しかも、国民の半分近くが混血という状況では、肌の色で区分けすることが社会制度として定着しにくい。こうしているうちにもどんどん混血が進んでいるブラジルでは、「血の純潔」で人種を二分し、それを社会制度に組み込むことなど現実的ではないのである。ところが問題が複雑なのは、ブラジルでは人種差別はないが、人種偏見は少しだがあるという事実である。格式の高い社交クラブなどでは、黒人の入会が拒まれることがあると聞く。
断りは別の理由で婉曲に表現されるので目につきにくいが、その実はやはり肌の色が障害になっているのである。ところがブラジルでは更に複雑な要素がからんでくる。「ブラジルでは、社会階層によって肌の色が変る」と指摘した社会学者が居る。名言である。たとえ肌の色は黒くても、その人物が資産があり社会的な名声を博している場合は、肌の色に
よる障害は全て取り払われるというのである。名門社交クラブであろうと、どこであろうと堂々と出入りができる。サッカーの王様、ペレ―が典型的な例である。ペレ―には黒人だからという理由で障害となるものは、ブラジルには何もない。ペレ―は白人になったのである。「血の純潔」が社会規範になっている所では、こうはいかない。ブラジルは人種も社会規範も多様である。

「おいやんのブラジル便り」(その12)           2004年1月3日

「植物戦争」という言葉がある。経済的に有用な植物を自国に取り込み、他国に先駆けて栽培技術を確立し、輸出して外貨を稼ぐ。対象が植物とはいえ、先端工業製品にも勝る熾烈な栽培技術制圧の為の競争が繰り広げられる。これは金になると見れば、他国にある植物の種や苗を「盗む」こともひんぱんに行われている。しかし、他国で育っている植物を
黙って頂戴して自国や植民地に持ち込んでも、新しい環境にいかに適応させ経済植物に育てられるかが勝負となる。有り余るほどの水と太陽に恵まれ、南米大陸の半分の面積を占めるブラジルは、植物戦争の大舞台であった。盗ったり、盗られたり、通関統計には出ない水面下の戦いがあった。そして新しい土地に取り込んだ植物を根付かせる為の苦闘があった。日本人はここでも主役を演じてきた。
ブラジルが蒙った最大のダメージは「天然ゴム」である。20世紀初頭、自動車が普及するにつれてゴムの需要が伸び、アマゾンのゴム産業はブームを迎えた。ゴムはもともとアマゾンの原産。世界のマーケットを独占していた。このゴムにイギリス人が目をつけた。
ブラジル税関の厳しい監視をかいくぐり、アマゾンからゴムの苗をイギリスに持ち込むことに成功した。ロンドンのキュー植物園は表向きはともかくその実態は、かっての大英帝国植民地から持ち込んだ植物を栽培し、有用植物に育て上げる為の秘密施設。そのキュー植物園の専門家にるゴム栽培の研究の結果、当時の植民地マレー半島が栽培に適していると結論され、マレーでの栽培が始められた。これが大当たりした。大規模プランテーション方式による近代的なゴム栽培に、アマゾンの半ば自然採取方式のゴム生産はひとたまりもなく負けた。当時最大の戦略物資であったゴムの生産がアマゾンから消えた。イギリスはゴムのマーケットを独占、莫大な利益をあげた。この手痛い敗北の後、日本人がブラジルの為に奮闘した。日本からのアマゾン移民が、航海途中のマレー半島で黒胡椒の苗を盗み出し、アマゾンに持ち込んだ。トメアスーに入った日本人が黒胡椒の栽培に成功、ヨーロッパとアメリカの胡椒マーケットからマレー産胡椒を蹴散らした。冷凍技術がなかった時代、腐り易い食肉の腐臭消しとして胡椒はなくてはならない食材であった。アマゾンに胡椒ブームが沸き起こった。「イギリス野朗が盗み出したゴムの損失を、日本人が胡椒で
取り返してくれた。これで引き分けだ」とブラジル人が喝采した。皮肉なことに当時は、ゴムも胡椒も戦争が起きると需要が伸びるという共通の市場構造を持っていた。日本人が非合法にブラジルに持ち込んだ有用植物は、他にも数多い。イギリスの植民地であったセイロンの英国人の農園からアッサム茶を盗み出し、サンパウロ州南部で栽培に成功、今では紅茶は大きな輸出商品になっているし、ハワイから台湾に移植されていたパイナップルをブラジルに持ち込み栽培に成功、ハワイ産より大きなパイナップルを輸出している。
イギリス人程「組織だった大悪さ」はできないが、日本人もなかなかやるものである。

「おいやんのブラジル便り」(その13)         2004年2月2日

サンパウロ市のリベルダーデ区に、「日本人街」と呼ばれた一画があった。中心部に赤い鳥居があり、商店街の主な通りには提灯をぶらさげた形の街灯が並んでいる。食堂・土産物屋・文房具店・書店・ホテル・カラオケ・一杯飲屋・写真店・パン屋・理髪店・貸ビデオ店・菓子屋・小さなス―パー等、ありとあらゆる種類の店が日本語の看板をかけて、日本語の話せる店員を置いて商いをしいている。ス―パーを覗けば日本から輸入した酒・蕎麦・うどん・ソーメン・干しシイタケ・カップラーメン・海苔・お茶・わさび・ふりかけ・缶詰類・お酢、現地製の味噌・醤油・漬物・豆腐・コンニャク・日本酒・ホウレンソウや大根といった日本野菜類等、ありとあらゆる日本食の食材が並んでいる。こちらに長い日本人も、月に一度や二度はリベルダーデにやって来て、買い物がてら日本の臭いをかいで帰る。地方に住んでいる日本人なら、リベルダーデに行きたい為にバスを乗り継いで数百キロも離れたサンパウロにやって来る。日本人のおじやんに散髪してもらい、日本の月遅れの雑誌を買い、日本食堂で寿司を食べるのが楽しみなのである。そう、ここはロスアンゼルスの「リトル東京」と並ぶ、海外最大の日本人街であった。ところが「日本人街」として一般ブラジル人にも名が知れているリベルダーデだったが、いつの頃からか「日本人街」から「東洋人街」と呼び名が変わってしまった。街の外観は殆ど変わらないのだが、よく見ると日本語の看板の合間にちらほらと中国語の看板が見える。かっては殆どなかった中華料理店や韓国料理店もできて、結構にぎわっている。中国人や韓国人が経営するホテルもできた。それでも日本語の看板がまだ圧倒的に多いのだが、看板の裏側ががらりと変わってしまった。老舗の日本食堂やスーパーの多くが、中国人や韓国人の持ち物になっている。しかし、表の看板や日本語の話せる店員、店のメニューや品揃えなどは全く変わっていない。客の多くが日系人なので、商売上手な中国人や韓国人は、あえて日本語の看板を代えず、日系人の店員を使って、日系人相手に商売を続けているのである。外目ではその店のオーナーが中国人や韓国人だとはまるでわからない。国際的にもまれている中国人や韓国人の商いはしたたかである。日本人が一代・二代かけて築いてきた商店をポンと買収し、看板をそのままにして商売を続ける。その買収資金の出所は、きわどい国境貿易で荒稼ぎした一部であることが多いと聞く。農民として野菜や果物作りに勢をだしてきた日本人移民にとって、街での商売で金儲けをするのは得意ではない。やっとこさ街で店を持っても、金儲けに対してあまり貪欲ではない。そこに中国や韓国系の商人が入り込んで来る。彼らは土で手を汚すことなく、手っ取り早くすぐ現金になる商店をそっくり買収する。農民と商人。生き様の違いは大きい。ブラジルの日系人口140万、中国系10万、韓国系6万人と言われている。日系140万が100年近くかけて築いた日本人街のど真ん中に、大理石張りの豪華で巨大なビルが姿を現し始めた。見ると、「ブラジル客家センター」とある。華僑の中でも名うてのやり手グループで鉄の結束を誇る「客家(ハッカ)」が、ブラジルでも顔を見せ初めた。「東洋人街」はいつか「中国人街」と呼ばれるようになるのかも知れない。

「おいやんのブラジル便り(その14)」 「修正版」   2004年2月8日

この1月25日にサンパウロ市は生誕450年を迎えた。1554年1月25日、カトリックの一派であるイエズス会の神父によって、土着民インヂオ教化の為の神学校が建てられた。1月25日が12使途の一人である聖パウロ(ポルトガル語読みでサン・パウロ)の受洗の日であったところから、その地がサンパウロと命名された。徳川幕府が開かれ、江戸が誕生したのが1603年であるから、サンパウロは東京より50年先に生まれたことになる。東京もサンパウロも1000万人を越す大都会に成長したが、生まれた時から一国の政治の中心として国の富が優先的に投下されてきた東京と違って、50年先輩のサンパウロの成長の始まりは遅かった。誕生して300年程も経った1850年頃になって、やっとサンパウロは歴史の表舞台に登場する。その原動力になったのはコーヒー。1800年代初頭にリオデジャネイロ州北部から始まったコーヒー栽培が徐々に西進し、サンパウロ州一帯に広がる肥沃な赤紫色の土地(テーハ・ホッシャ)に突き当たった時、生産量が爆発的に増え始めた。原生林を次々に切り開き、広大なコーヒー農場がサンパウロ州を埋め尽くしていった。1860年代には州内の主だった地域への入植が完了、サンパウロは「緑の黄金・コーヒー」生産の世界の一大中心となった。以来ほぼ一世紀にわたり、「緑の黄金」が生み出す資本の蓄積と共に急ピッチの発展をしてきたが、生産の増大につれ労働力の確保が隘路となってきた。コーヒーの登場に先立ってブラジル経済を支えてきた「砂糖プランテーション」や「金の採掘」にも多くの人手がかかったが、その時代はアフリカから「輸入」した黒人奴隷が労働力に当てられた。ところが、コーヒー生産が急ピッチで拡大を見せていた矢先の1888年に奴隷制が廃止された。困った農場主達は奴隷の代わりにヨーロッパから移民を導入することで解決を計った。1880年代末からイタリアをはじめポルトガル・スペイン等から本格的な移民の受け入れを開始、奥地のコーヒー農場に送り込んでいった。以後1929年迄に180万人の欧州移民を受け入れたという記録が残されている。20世紀初頭のブラジルの人口は1500万人そこそこだったので、コーヒーが呼び寄せた欧州移民の比重は大きい。その後農場の待遇に不満を持った欧州諸国が移民の送り出しを禁止、その穴埋めに日本からの移民の受け入れを決め、1908年最初の日本人移民733名を乗せた笠戸丸がサントス港に到着した。以来大戦迄に19万人の日本人が奥地の農場に送り込まれた。一方で、過酷な農場労働に見切りをつけたイタリア人や日本人が時と共に続々とサンパウロ市に集まっていった。サンパウロ市は欧州と日本の移民であふれかえり、人口が急増していった。サンパウロは文字通り移民達の町となった。コーヒーが欧州と日本からの移民を呼び寄せ、移民達がサンパウロを作った。だからサンパウロは誰に対しても扉を開き受け入れる、ふところの深い気風を形成していった。450年たった今、サンパウロは金融・情報・サービス産業が集積した1000万都市に成長した。「これまでのように差別なく人々を受け入れる度量をなくさない限り、サンパウロはこれからも南米の中心であり続けるだろう」と市長は記念式典を締めくくった。

「おいやんのブラジル便り」(その15)        2004年2月15日

リオデジャネイロ州西端部、サンパウロ州との州境近くにパラチという古い町がある。
18世紀のポルトガル植民地時代の建物がそっくり保存されている博物館のような町だ。1700年代初頭、ブラジルからポルトガルへの金(キン)の積出港として開けた。1698年、リオ州の北に接するミナス・ジェライス州で金が発見された。大金山であった。1700年代に入ると生産量が激増、世界最大の金山となった。以来、ここの金生産はほぼ一世紀半の間続くが、18世紀全体で世界の金供給の85%を占めたと言われるから、その大きさは半端ではない。ブラジルの金の世界経済、とりわけヨーロッパ経済に与えたインパクトについては別の機会に報告するとして、その「金を運んだ道」が今日のテーマである。ミナス・ジェライス州の産金地帯の中心であったオーロ・プレトから、数十頭のロバの背に積まれ山又山の難路をおよそ500キロ、金がパラチまで運ばれた。途中の関所で五分の一の金をポルトガル王室への税金として召し上げられた後、パラチで船に乗せられポルトガルに向かった。一世紀以上にわたって、全世界の生産量の85%もの金を運んだ道は、文字通り「金の道(カミ―ニョ・ド・オウロ)」と呼ばれた。しかし金生産の衰退によって、やがてこの「金の道」は歩く人も途絶え、亜熱帯のジャングルの中に埋没していった。ところが10年程前に、パラチ郊外の農場の土の中から古い石畳の「古道」が顔を出したことから調査がなされた結果、まぎれもない「金の道」の一部であることが判明、一躍注目を集めた。以来、リオの石油公団がスポンサーとなり「古道」の発掘がすすめられてきた。全長500キロのうち、まだ10キロに満たない一部分であるが、苔むした石畳の古道が徐々に姿を現している。そして今、パラチ市はリオ州政府の後押しを得て、「古道・金の道」と「金の時代の生き証人・パラチの町」をひとまとめにして、ユネスコに「世界遺産の登録」を働きかけようとしている。古道といえば、スペインのキリスト教の聖地・サンチャゴデコンポステーラへの「サンチャゴ巡礼道」が既に世界遺産となり、
紀伊の霊場と参詣の道の一部をなす「熊野古道」が熊野三山と共に世界の遺産として認知されようとしている。そして今度はブラジルの「黄金の道」である。信仰と黄金という違いはあるが、古道は過ぎし日の人間活動の確かな足跡である。共に人類共通の遺産として世界の表舞台で輝けるよう、エールを送りたい。先発組の「サンチャゴ巡礼道」と「熊野古道」は姉妹道の契りも結んでいる。熊野の玄関、田辺市の新庄公園には既に聖地サンチャゴを向いた「朝日の鐘」が立ち、サンチャゴ側に「夕日の鐘」が立つのを待っている。そして今、神仏習合の熊野の神々が、世界の人々を招き入れようとしている。老若男女・貴賎を問わず。平安時代から江戸時代にわたり「蟻の熊野詣」と言われる程の賑わいをみせた熊野古道。もう一度、今度は世界を舞台に輝きたい。近く本宮町が田辺市と合併すると聞く。田辺市は、熊野三山の中でも一番の中心であり全国三千を越す熊野神社の総本山でもある「本宮大社」を取り込むのである。これから世界に打って出ようとしいている熊野の霊場の舞台提供者として、田辺市民の責任は重い。







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