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「おいやんのブラジル便り」真砂 睦さんの【黒潮タイムズ】掲載ブラジル便り(3)
佳境に入って来た感がある真砂 睦さんの「おいやんのブラジル便り」第16回目以後を掲載する欄を作りました。真砂さんは、早稲田の海外移住研究会に所属していた時に日本学生移住連盟の委員長として活躍した経験もあり長い長いブラジルとの付き合いに基き難しい歴史や社会問題にも立ち入り筆が冴えます。まだブラジル滞在期間は半分の1年近くが残っておりどれだけの話題を俎板に乗せてくれるか楽しみです。10月には、早稲田の海外移住研究会のメンバーが10数名来伯予定でNHK放送開始八〇周年記念の大作としてこの5月からブラジルロケが始まる『ハナとナツ・届かなかった手紙〜ブラジル移民物語』の早稲田版ともいえる40数年それぞれの人生を土俵をブラジルと日本に選び懸命に生きて来た仲間達のブラジルでの再会、どのようなドラマが語られるのか楽しみにしておりそのブラジル側受け入れを真砂さんが御手伝いする事になっています。
写真は、サンパウロで撮らして頂いた真砂さんの近影です。撮ったのは、青年ボランタリーで2年間ブラジルで活躍していた藤井 みどりさんで帰国後の忙しい中メールで送ってくれました。


「おいやんのブラジル便り」(その16)         2004年2月24日
1693年、ブラジルで待望の金が発見された。場所はリオの北方約450キロ、ミナス・
ジェライス州南部の山間地帯。宗主国ポルトガルは沸き立った。人々がミナスの山々を分け入り、産金地帯に殺到した。カリフォルニアのゴールド・ラッシュに先立つことおよそ150年、人類史上最大のゴールド・ラッシュの始まりであった。1700年代に入って産金量はうなぎのぼりに増え1760年頃にピークを迎えるが、生産は1800年代初頭まで続く。ポルトガル王室は金の略奪や密輸を防ぐ為の厳重な監視体制を敷き、産金量の5分の1を王室への税金として召し上げた。金は王室の焼印が入った延棒に鋳込まれ、険しい山間をぬって積出港のパラチ(リオ州)迄およそ500キロ、数十頭のロバの隊列を組んで運び出された。産金地帯の中心都市、オーロ・プレトからパラチに至るロバの隊列が踏みならした道は、文字通り「黄金の道」(カミーニョ・デ・オウロ)と呼ばれた。18世紀を通してこの「黄金の道」で運ばれたミナスの金の量は、18世紀の世界全体の産金量の、なんと85%を占めたと言われる。16世紀にヨーロッパへの東洋からの胡椒取引を独占し、巨額の利益をあげたポルトガルだが、今度はブラジルの金の発見で胡椒などおよびもつかない莫大な宝を抱え込んだ。しかし、金の生産が急ピッチで上向いていた1703年に、イギリスの仕掛けで運命の通商協定が結ばれた。「メシュエン条約」である。イギリスがポルトガル唯一の輸出品であるブドウ酒の関税をフランスやスペインのものより低くする見返りに、ポルトガルはイギリスからの工業製品に他国製品より低い関税を設定するというものであった。これで勝負が決まった。ブドウ酒と工業製品、なかんずく毛織物製品との交換ではまるで金額が違う。ポルトガルはたちまち対英貿易の逆超にみまわれ、その決済にブラジルから召し上げた金を使わざるを得なくなった。しかもイギリスは、ブラジルにおける自由な通商権ももぎとり、ブラジルの市場を独占していった。つまりイギリスは、ポルトガルとブラジルから二重・三重の利益をすいあげる仕組みを認めさせたのである。貿易赤字の決済として、ミナスの金の殆どがロンドンに運ばれた。ポルトガル王室の焼印の入った金塊が、イングランド銀行の地下室に蓄積されていった。おりからイギリスは産業革命の前夜、貯め込まれた金が新興産業の旺盛な需要をまかなって余りある資金供給源となった。産業革命に火がついた。18世紀の世界の金生産量の85%も占めるブラジルからの金の大半をかすめとったイギリスは、その莫大な金塊を担保に、今度は世界を相手に「金本位制」通貨制度を認めさせた。世界の金の大半を握るイギリスにとって、「金本位制」は世界の通貨の大半を握るに等しい制度であった。ロンドンの「シテイ」に集まる銀行群が、巨額の資金の出し手となり、「シテイ」は世界の金融の中心となった。ブラジルの金塊が産業革命の資金となり、「金本位制」の礎となり、イギリス金融帝国の生みの親となった。そして今、かっての産金地帯の中心、オウロ・プレトの町の中に連邦鉱山大学がある。地質・鉱山学分野のブラジル最高学府である。ここに学んだ優秀な技師達は、ミナスの金のゆくえを良く知っている。しかしもの静かな彼等は、多くを語ってくれない。

「おいやんのブラジル便り」(その17)         2004年3月6日
植物には一国の「戦略物資」として取り扱われるべきものが多い。食料資源としてのみならず、医学的・科学的な有用性を持つ植物の価値は大きい。遺伝子レベルの新種植物開発戦争の真っ只中にある現在、「遺伝子資源」の確保という面での戦略性も一段と高まっている。頭のある国なら、植物を「最先端の戦略物資」としてとらえ、水面下で極秘の研究を進めている筈である。その研究の苗底となる植物資源の確保に今、熱い目が注がれている。日本の23倍、南米大陸の半分の面積を占めるブラジルは、世界有数の植物資源大国である。面積が広いだけではない。アマゾンの熱帯雨林、中央部の亜熱帯植物群に加えて南部では温帯の植生地帯も抱え込んでいる。しかも水が豊富である。アンデス山脈からの雪解け水は全て東のブラジル側に流れ落ちる。だからブラジルの植生の豊かさは群を抜いている。面積は広大でも殆どが寒帯のロシアやカナダ、水資源に乏しくカラカラの乾燥大陸であるオーストラリア、年々砂漠に侵食されどんどん大河が干上がっている中国、穀倉地帯に地下水枯渇の兆候が現れ穀物生産に影響が出始めたアメリカ。植物の生成環境を見ると、大国はいずれも問題を抱えている。ブラジルの豊かな緑がひときわ目立つ。しかし、そのブラジルの緑の海に今、静かな波紋が広がっている。ユーカリである。前世紀初頭、コーヒー運搬の為の鉄道がサンパウロ州の奥地に張り巡らされたが、当時のパウリスタ鉄道会社が枕木用にオーストラリアから成長の早いユーカリを導入した。元来が乾燥地の生まれであるユーカリは、水がタップリのブラジルでは5年で大木に成長する。この成長の早さを見込んで、無秩序にあちこちでパルプ用に植えられ、たちまちユーカリ林が広がっていった。乾燥に備える性癖のあるユーカリの水分の吸収は凄まじい。切ると幹から滴り落ちる程水を溜め込んでいる。深く根を張るユーカリの近くでは水気がなくなり他の木が育たなくなる。木の葉は毒気を含んでいるので昆虫も小鳥も寄り付かない。ユーカリにしがみ付くのはコアラだけである。ユーカリのある所、死の森となっていく。多様で豊かな植生がユーカリに駆逐されていく。地球上に残された最大の植物資源大国も、治療の難しい癌を抱え込んでしまった。紀州が生んだ天才、南方熊楠は明治の時代に世界で最初にエコロジーという概念を打ち立てた偉人である。生き物の世界はいろんな生物が集まって全体の調和を保っている、そのメカニズムを見透した。熊楠は、様々な植物が重なり合って生きている熊野の森に宇宙を見た。植生の単一化が死に至る病の原因となることを掴んだ。しかし熊楠亡き後の熊野の森は、杉や檜の植林に覆われてしまった。しかも手を入れれば赤字となるせいで、大半が手入れもされず放置されたままの状態にある。多様な植生を誇った熊野の森も、今や死の直前にある。ブラジルも熊野も悩みは深い。田辺市の旧・熊楠邸に、市が「南方熊楠研究所」を建てると聞いた。熊野から世界を見据えた熊楠の後を継いで、骨の太い啓蒙家の輩出を期待したい。そしていずれ近い将来には、世界最大の植物資源国ブラジルと手を組んで、双方共通の利益にかなう戦略的な研究を始める、その為の拠点となれば楽しい。「ほう、おまはんらもなかなかやりおるなあ」熊楠も喜ぶに違いない。

「おいやんのブラジル便り」(その18)       2004年3月17日
ブラジル人はアメリカに対して複雑な感情を持っている。対抗意識半分、劣等感半分といったところだろうか。アラスカを除いたアメリカ本土とブラジルの面積がほぼ同じ。人口はブラジルの1億6千万人に対し、アメリカは約2倍。移民が作り上げたという点も両者は共通した成り立ちを持っている。カナダは面積こそ広大だが殆どが厚い氷が張り付く寒帯で、人口保養力ははるかに小さい。人口こそアメリカの半分だが、南北両アメリカを代表するのは「やはりブラジルとアメリカですね」と持ちかけると、ブラジル人は鼻をふくらまして喜ぶ。アメリカと四つ相撲をとれるのはブラジルをおいて他に無い、と半分は本気で考えている。「ところで、お国の一人当りの所得は、アメリカと比べて少々低いようですが。。。」というあたりから、だんだん自信がなくなってくる。「全く。土地も資源も奴らに負けないのに、政治家がお粗末でね。アメリカに先手を取られてしまったよ」となる。
理由がないわけではない。同じく移民が開いた新大陸だが、移民の入り込んだ時代も違えば、意識も違った。大航海時代の先陣をきったものの、アジアでの香料商売の独占が崩れ、うまみをなくしたポルトガルは、それ迄手付かずであったブラジルに興味を移し、原住民インヂオを奴隷にして金銀を探し出そうと海を渡った。いわば山師の集団であった。かたや、封建社会の制約に見切りをつけ、新大陸に自由な理想の社会を作ろうと宗教心の厚いイギリスの開拓農民の一団が北のアメリカに入り込んだ。ここが決定的に違ったと主張するブラジル人が居た。もう40年以上も前になろうか、「開拓者と山師」という本を書いて有名になった学者である。新大陸に国を作る、その中心集団の意識と考え方が決定的にその後のあり姿を決めてしまった、というのである。あるべき社会の理想を持ち、その実現の為の行動規範を尊重する社会と、自己の利益最優先の勝手気ままな無秩序社会との差が、「アメリカに先手を取られてしまった」根本原因だという。国作りに取り組んだ中心集団の影響がどこまで及んでいるのかの判断は難しいが、確かに国民の稼ぎとなると北と南では目を覆いたくなるほどの格差ができてしまった。しかしだからと言って住んでいる人間にとって、どちらがゆったりとした人生をおくれるか、というのはまた別の話である。と、ブラジル贔屓は口をはさみたくなる。とりわけ日本人が住むとすればどちらをとるかとなると、稼ぎだけでは断じられない要素が多い。国の礎となったアングロサクソン・スタンダードだが、それから一歩でもはみだすと、マイノリテイーという別の世界に押し込められる(場合が多い)北の国では、東洋の君子の神経がもたない。南は良い。社会を律する単一の規範などとは全く無縁、人種も宗教も思想もごった煮の世界である。1と1を加えても、人の頭数と同じ数の答えが返ってくる。勝手気ままで隙間だらけ。少々稼ぎは落ちるが、住み心地は悪くない。コップ一杯のビールで2時間も喋りまくって、店から叩き出されない国がどこにあるか。ゲルマン世界に疲れたゲーテは、アルプスを越え太陽がいっぱいのイタリアを見て叫んだ。「君知るや南の国を!!」。しかし、南の国の魅力は太陽だけではない。少々がさつだが、人も面白い。「北の君よ。疲れたらブラジルにいらっしゃい」。

「おいやんのブラジル便り」(その19)      2004年3月21日
リオやサンパウロには生ビールを専門に飲ませる店がある。「ショぺリア」という。つまみには各種チーズや生ハム・ソーセージ・カナッペなどの他に、店によってポルトガル伝来のタラ・コロッケもオーダーできる。リオなら、地元で捕まえた大型ワタリガニのグラタンや小魚のから揚げも頼める。たっぷりとレモンをふりかけるとこれがめっぽう美味い。イパネマやコパカバーナの海岸通りの広い遊歩道に並べられたテーブルに陣取り、真っ青な海と空を背景に、超ビキニのリオ娘が闊歩するのを眺めながら飲む冷えた生の味は格別である。週末ともなると、リオッ子(カリオカ)達はショートパンツひとつで気の合った仲間とジョッキ片手に一日中さわいでいる。真っ青な空と海、延々と続く真っ白な砂浜、スタイル抜群のリオ娘、冷えた生。リオは舞台装置が完璧である。海岸から離れた高原都市サンパウロでは少々趣が異なる。季節によっては寒さで震え上がる土地柄、ビキニ美人にウインクしながら一杯、というわけにはいかない。ここの生ビール店は、新宿や渋谷の、老舗だが気取らない酒場という雰囲気である。サンパウロに住んで、暫くはリオの開放的なショぺリアが懐かしくて困ったが、日系人の飲み友達とくり出していくうちに、サンパウロのショぺリアの魅力を知らされた。日本語の上手な日系の2世や3世の飲み手とジョッキを重ねていると、その昔の新宿時代の酒盛りを思い出す。ある日、飲み仲間のなかでもリーダー格の3世氏がこっそりと、「美味いショぺリアに連れて行ってやろう」とささやいてきた。土曜日の朝(夜ではない)10時半に市内北部の地下鉄の駅に来い、とのお達し。市の北部はあまり治安がよろしくない。おっかなびっくりでついて行ったら、「バール・レオ」(レオの酒場)とある。11時きっかりに店のシャッターが開かれると、5分とたたないうちに満席となった。見ると、内装はドイツ風の歴史を感じさせる作りで、世界中のジョッキが壁一面を飾っている。安全とはいえない荒れた場末のど真中の酒場に、かなりの上流インテリ層と見られる客がひしめいている。雪のように真っ白で細かい泡の生が来た。生は過剰な刺激がなく、滑らかに喉を通り過ぎた。美味い!! 感嘆の表情を見て取った3世氏はニヤリと笑い、「ここがサンパウロで一番のショぺリアよ」と鼻をうごめかした。つまみのパルメゾン・チーズのうまさも手伝って、一人10杯は飲んだがいっこうにビール特有の飽きがこない。こんな生は初めてである。シドニーやシンガポールでも美味い生ビールがあったが、「レオ」の生にはかなわない。暑い日の生ビールは水代りだが、冷える日に10杯も飲ませてなお美味いと言わせる生は、他にはない。「レオ」は一定量がはけると、その日はさっさと店を閉める。目抜きのパウリスタ通り近くなら稼ぎは天井なしだろうに、今の場末を動こうとしない。ウィークデーは勤め人は夜早くには乗り込めない筈だが、毎日7時には売り切れている。土曜日も開店11時の前から待機していないと席につけない。「レオ」は1951年に開かれた。創業者はすでに亡いが、「レオ」の風味は二代目が引き継いだ。自然の開放的な舞台装置に欠けるサンパウロでは、本当に美味いものでないと客は呼べない。サンパウロには「こだわり」の老舗が生きている。

「おいやんのブラジル便り」(その20)       2004年3月28日
私の大学の先輩に、3年前にスペインの友人と二人で「サンチャゴ巡礼道」を踏破された方が居る。ピレネー山脈のフランス側寒村を振り出しに、リュックを背にスペイン西端のカトリックの聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラ迄800キロを30日間で歩かれたというから凄い。ざっと100万歩の巡礼であったと聞いた。途中、同じ巡礼者のブラジル人老夫婦と知り合われ、お互いただならぬ因縁を感じ「神に導かれて」出合ったという感激を共感したそうだ。巡礼が終わり帰国する頃には、先輩が「ブラジルの両親」と呼ぶほどの信頼関係を結ばれた。帰国後先輩の手配で、巡礼仲間となったスペインとブラジルの二組のご夫婦を日本に招待された。東京をかわきりに、京都・奈良の桜を愛でた足で田辺までやって来られた。他でもない、サンチャゴ巡礼道と姉妹の関係にある熊野古道を見てみたい、という希望からである。地元の私達夫婦がスペイン・ブラジル・日本の三組のご夫婦を本宮大社にご案内することになった。田辺は「中辺路」と「大辺路」の始まる所。熊野の旅の始まりは、田辺湾を見下ろす新庄公園に建てられた「朝日の鐘」からでなければならない。「朝日の鐘」はサンチャゴ巡礼道と熊野古道の姉妹道締結を記念し、1998年和歌山県の支援を得て、スペイン在の気鋭の音響彫刻家増田感氏により制作された。サンチャゴ巡礼道のシンボル帆立貝をかたどった「朝日の鐘」は、熊野の夜明けの6時に打ち鳴らされる。その時、サンチャゴは夜10時、熊野の6時の朝日がすなわちサンチャゴの夏の日の遅い夕日である。サンチャゴに建てられる筈であった「夕日の鐘」が夕刻10時に打たれると、同じ太陽を拝みながら、ユーラシア大陸を挟んで二つの信仰の鐘が共鳴する、という壮大な構想が骨になっている。日本側の資金事情から、まだ「夕日の鐘」の建設が実現できていない為、スペイン側の知名度は高くないが、「朝日の鐘」を食い入るように見つめるスペインとブラジルのご夫妻達の姿は、大きな帆立貝の鐘に良く似合った。田辺を発ち中辺路の古道の一辺を散策してもらった後、平安時代からの旅籠「とがの木茶屋」で熊野の茶粥をすすった。専門の語り部が顔負けする程昔の事物を溜め込んでいる「とがの木茶屋」の名物女将が、遠来の訪問者に熊野の昔話を語りかけていた。どれほどの時間が流れただろうか。女将の目をみつめていたブラジルの老婦人がそっと女将に近寄り、ひしと女将を抱きしめた。女将も抱き返した。二人の老婦人の目から涙が流れていた。一言の言葉も通じ合えない二人が、胸につきあげるものを共感し、抱き合って涙を流している。カソリックの巡礼者とそれを迎える神々の霊場、熊野の老婦人。サンチャゴと熊野と、歩く道は違っても、行き着く先は一つの神なのか。一つの神を二人が共感することができたのか。二つの信仰の道は、姉妹となった。その道で二人も姉妹になった。その後サンパウロに住む機会を得た私は、先輩の計らいでそのブラジルの老婦人と再会を果たした。彼女は長くサンパウロ大学で生物学を教えた。今年80歳になられた。ご主人はドイツ系2世のエンジニア。サンパウロの高級住宅地モルンビ区に豪邸を構えている。トップ・クラスのインテリ夫婦である。お二人は短かった熊野詣を忘れていない。  (次号に続く)

「おいやんのブラジル便り」(その21)       2004年4月3日
(前号から続く)
サンパウロのご夫妻の家におじゃまする度に、「熊野詣」の話になる。中辺路「とがの木茶屋」の女将との出会いの後、本宮大社でブラジル・スペイン・日本の4組の夫婦でそろってかしわ手を打った。髪の毛も肌の色も違う参拝者達であったが、不思議に本宮大社の神前の静けさに溶け込んでいた。石造りの壮大なサンチャゴ聖堂に対して、神々がひそむ熊野の巨木に囲まれ、ひっそりと佇む総檜の本宮大社。石の文化と木の文化。自然と闘う文化と自然に溶け込む文化。異文化で育った感性の違いは大きいが、平安の昔から熊野の神は心が大きい。誰でも受け入れる。老若男女、貴賎をとわず。だから中世から近世の日本で、参詣者が蟻のごとく熊野三山に押しよせた。参詣者達が踏みならした後に、道ができた。のちに熊野古道と呼ばれるようになった。サンチャゴの巡礼道を知るクリスチャンは、熊野古道が辿った歴史への理解が早い。そして熊野の神々は今、あらためて西の異教徒にも霊場の門を開こうとしている。「熊野の霊場と参詣の道が世界遺産として認知されるのを機会に、サンチャゴに「夕日の鐘」が建設されるのでしょうね。熊野の「朝日の鐘」とサンチャゴの「夕日の鐘」を、同じ太陽を見ながら共鳴させる。それは、古道同士だけではなく、カソリックと熊野の神までも姉妹になることを意味するのですよ。それでこそ世界遺産となる意味があるのです。なんと素晴らしいことでしょう!!」「サンチャゴ側の受け入れは出来ていると聞きましたよ。日本人の教養豊かな力をもってすれば、「夕日の鐘」の建設資金の手当てもできる筈です。それに、中辺路の工房で、増田感さんから「夕日の鐘」の設計図も見せてもらいましたね。設計もできているのですから、なんとかしないとね。」「サンチャゴに「夕日の鐘」を建てれば、世界中からやって来る夥しい数の巡礼者に、「朝日の鐘」と熊野の霊場を知ってもらうことにつながるのですよ。それはつまり、熊野に世界からの訪問者を呼び込むことにもつながるのです。人類共通の遺産となった熊野の霊場の意味と歴史を知れば、京都や奈良を見てみたいと思うのと同じように、ヨーロッパやアメリカや南米のクリスチャンは、熊野を訪れたいと考えるに違いありません。世界の遺産という舞台に上がるのですから、あなた方日本人は世界から巡礼者を呼び込む義務と権利があるのです。そのような流れを作るのですよ。それには西洋人の心をつかむ努力が必要です。世界遺産という舞台に上がった今、熊野の霊場の歴史・緑滴る自然・透き通った清流・山間のひなびた温泉・素朴で人情豊かな人々、これら全てが武器になるのです。石で積み上げた、西洋の戦う文化で育った人々に、木々で組み立てた、自然に溶け込む文化の優しさ、そのことを訴えるのです。「夕日の鐘」の建設は、このような作業の最初のステップとなるのです。」「でも、ひとつ注文をつけたいのは、人々が何日間かかけて霊場めぐりをするについて、安く泊まれて、安く食事ができる施設を整備することが必要ね。花見遊山だけではない訪問者に対する配慮がないと困ります。サンチャゴ巡礼道のように、素泊まりに近い設備でいいから低コストの宿泊施設が欲しいわね。日本は生活費が高すぎます。」1泊2日の短い「熊野詣」であったが、熊野の霊場に魅せられたブラジル老婦人の説法は鋭い。

「おいやんのブラジル便り」(その22)       2004年4月18日

世界一の輸出量を誇るブラジル産品は数多い。鉄鉱石・コーヒー・砂糖・オレンジジュースといった伝統商品に加えて、最近では牛肉と鶏肉が加わった。そして今、大豆が世界一の座をうかがっている。昨年、ブラジルの大豆生産量が、大穀倉国アメリカの生産量にほぼ並んだ。流通量・流通額の両面で有数の国際商品である大豆。その生産量において、亜熱帯のブラジル産がアメリカを凌駕しようとするなど、誰でもが予測できたことではなかった。そこには、長年にわたる研究の積み重ねがあった。ここでも日本人が主役を演じてきた。戦前の日本人移民がひそかに柳行李の隅に隠し持ってきた大豆の種が入植地の片隅に植えられ、味噌や豆腐となって初期移民の郷愁をいやしたが、その種が戦後カンピーナス市にあるサンパウロ州農事試験場に持ち込まれ、日本人の研究員が中心となり、亜熱帯の地に適する品種が育成されていった。1970年代に入ると、ブラジル中南部での栽培の目途がつくところまできた。1975年、未曾有の大霜がブラジルの南半分を覆った。コーヒー生産の中心地、中南部のコーヒー樹の大半が一夜にして立ち枯れてしまった。しかし、ブラジル官民の決断は早かった。軍隊が動員され、霜で焼かれたコーヒー樹を重機がなぎ倒していった。コーヒー樹を一掃したあとに、一斉に大豆の種が蒔かれた。ブラジル農業の心臓部でコーヒー樹が消え、一面の大豆畑が出現した。ブラジルで大規模な大豆農業が始まった。コーヒー栽培は霜の来ないより気温の高い適地を求めて北上していった。中南部では大豆を収穫した後の寒期には、小麦を植える方式も定着していった。大豆栽培地域は西に北に広がって、中南部・中西部に広大な穀倉地帯を形成していった。遡って1973年、時の大統領ニクソンがアメリカからの大豆禁輸措置を断行、日本はパニックに陥り、食料安全保障が緊急の政策課題に浮上した。1974年田中角栄首相が来伯、ガイゼル大統領との間で農業開発協力を約し、それまでにない長期の資金・技術協力事業の口火を切った。日本側の実働窓口となったJICA(当時、国際協力事業団)は、ブラジル中心部に広がる「セラード」と呼ばれる酸性の荒地を改良し、穀物地帯に変えるべく息の長い協力活動に入った。日本側の狙いは大豆資源の確保、その一点にあった。おりから中南部で成功しつつあった大豆の大規模栽培を中部・北部に延ばし、日本への輸出資源を確保する為の資金的・技術的援助であった。以後、曲折はあったが日本の協力が実を結んで、「セラード」の大半は立派な農地に変わり、30数年後の今日、ブラジルの大豆生産量は5000万屯を超し、アメリカを凌駕しようとしている。先月、かってのコーヒーの中心地、パラナ州北部を訪ねた。なだらかに起伏した広大な大豆畑で、アメリカ製の大型コンバインがうなりを上げて大豆を呑み込んでいた。一面の大豆畑の中を75両の貨車に大豆を満載したユニット・トレーンが輸出積み出し港に向かっている。「日本に行くのか」と聞いたら、「中国だよ」とそっけない答えが返ってきた。中国がいよいよブラジルの大豆まで手を伸ばしてきた。30年にわたる日本の技術と資金協力の下支えで実をつけた大豆が、中国大陸に呑み込まれようとしている。大豆を巡るドラマの終わりはまだ見えてこない。









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