続 海を渡ったサムライたち=日伯セレソン物語=田中マルクス闘莉王(上)(中)(下)
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ニッケイ新聞では以前にも海を渡ったサムライたち=日伯セレソン物語=として何度か掲載しておりこの寄稿集でも第91番目にラモス瑠偉を取上げておりますが、今回日本に帰化しU23の日本選抜軍に選ばれサッカーアテネオリンピック予選で活躍、最終2試合を残して肉離れによる負傷で戦線離脱した話題の人、田中マルクス闘莉王を3回に分けて掲載しております。ニッケイ三世、日本人二世の父とイタリア系の母親を持つ闘莉王の今後の活躍が期待される。ブラジル生れの日系三世の闘莉王は、日系二世の父親とイタリア系の母親を両親として持つ三世で16歳で日本の渋谷幕張高校(千葉)に留学し卒業後プロとして廣島サンプレッチェ、水戸ホーリホックを経てこの新シーズンから浦和レッズに移籍、活躍が期待される。185センチ、82kg、センターバック。
写真は、水戸ホーリホックのHP選手紹介欄からお借りしました。
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続 海を渡ったサムライたち=日伯セレソン物語=田中マルクス闘莉王(上)=「君が代」で気合が入る=日本に恩返ししたい22歳
3月 9日(火)
わずか四ヶ月前までブラジル国籍しか持たなかった日系三世は、緑に輝く芝生に直立していた。
まだ真冬真っ盛りの今年二月八日――。
埼玉スタジアムで行われたサッカーアテネ五輪代表の対イラン五輪代表戦。トゥーリオから「闘莉王」と名を変えた男は、紅潮した顔を引き締めながら、試合前の国家斉唱に挑んだ。
《君が代は 千代に八千代に さざれ石の……》
身長一八五センチ、体重八二キロの長躯をより一層大きく見せつけるごとく、田中マルクス闘莉王(二二)はピンと背筋を伸ばした。
「国歌を歌う瞬間が一番気合が入る」。日ごろから「気合」を自らの最大の特徴と位置づける男だけに、国歌斉唱は最高の儀式。祖父母が生まれ育った地に思いを馳せながら、初めての君が代を口ずさんでいた。
日の丸を付けた初の公式戦ながら、グラウンドの中では存在感を見せつけた。
その特徴である対人プレーの強さはもちろん、十六歳までブラジルのクラブに所属しただけに足技も正確。また、持ち前の闘争心で仲間を鼓舞しつづけた。
「勝たなきゃいけない試合だった」。一対一の引き分けに終わったことに悔しさを滲ませたが、この日スタジアムに詰め掛けた二万千四百十四人の観衆は、この日新たな「サムライ」の誕生場面を目撃した。
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「代表入りして、日本に恩返しがしたかった」。
帰化の動機を振り返る三世は、時に鬼神にも似た表情を見せる試合中とは対照的に温和な笑顔で語る。
恩返し――十六歳で来日した自分をプロ選手にまで成長させてくれた感謝の気持ちを闘莉王はこう表現する。だが、その道は自分自身で切り開いてきた。
一九九八年三月、千葉県の渋谷幕張高校のサッカー留学生として、日本に向かうJAL機に搭乗した十六歳の少年は不安でたまらなかった。海外はおろか、飛行機さえ初めてだった。
祖父母は一世とは言え、二世の父とイタリア系の母を持つ闘莉王は、日本語を全く理解出来なかった。
なまじ日系の顔を持つだけに、スチュワーデスは遠慮なく日本語で話し掛けてくる。食事も飲み物も、話す機会が増えるだけに苦痛だった。困り果てた彼は、ついには毛布を被って寝たふりまでする。
二十四時間のフライト中、取った食事は一回だけ。
「地獄」と振り返る最初の一年間の幕開けだった。
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「日本に適応できるかどうかが重要なんです」。
闘莉王をスカウトした渋谷幕張サッカー部の宗像マルコス望監督(四五)は、選手選びをこう語る。
自身、ブラジル生まれの二世である宗像もまた、かつてはJリーグの前身に当たる日本サッカーリーグの東洋工業でプレーするため、八一年に単身来日。異文化の中、格闘した経験を持っていた。言葉はおろか、あまりにも低いサッカーのレベルと常識の違い――。 宗像にとっても日本は当初、「地獄」そのものだった。
それだけに、ブラジルでの選手選びは慎重にならざるを得なかった。
八五年から同校サッカー部を率いる宗像は、八七年以来ブラジル人留学生を招聘し、戦力としている。
@中学の卒業資格A日本への適応性B親の理解――プレーに加え、宗像が着目するのはこの三点だ。
毎回、自らブラジルに足を運び、数多くの選手から留学生を厳選する宗像は言う。「上手なだけでは日本ではやっていけない」。
「地獄」を身をもって知る宗像ならではの教訓だ。
九八年初め、宗像が三百人の中から選んだ留学生が闘莉王だった。日系人では初めての選出だった。
「この祖母に育てられたのなら、この子は間違いなく成功する」。
宗像が闘莉王を選んだ決め手は、富山県生まれの祖母、照子(七六)の存在だった。
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今年八月、ギリシャのアテネで行われる夏季五輪に向け、サッカーアジア最終予選が幕を開けた。ブラジルから六人目の帰化選手として日の丸を担う日系三世、田中マルクス闘莉王の生き様と彼を取り巻く人模様を追う。(敬称略、つづく)
(下薗昌記記者)
続・海を渡ったサムライたち=日伯セレソン物語=田中マルクス闘莉王(中)=教育熱心な祖母が後押し=プロ1年目=広島へルーツ訪ねる旅
3月10日(水)
カッカッカッ――時折、町中を走る馬車の音が牧歌的な雰囲気を漂わせる。サンパウロ市から北西に約六百五十キロ。牧畜で知られるパウメイラ・ドオエステ市は人口約一万人ほどの小さな町だ。在住する日系人は約六十家族で三百人足らず。信号機が一台もないサンパウロ州とマットグロッソ・ド・スル州の境に近いこの町に、闘莉王の原点がある。
セントロ近くの一軒家に在住する広島県出身の祖父、田中義行(八六)と富山県出身の祖母の照子だ。「この子が日本の教育を受けられるなんて本当に夢のようです」五歳の時に生まれ故郷を後にした後、一度も里帰りしていない照子は、日本行きを勧誘する渋谷幕張サッカー部監督の宗像マルコス望に涙を見せて喜んだ。「あのお祖母さんを見て、育ってきた家庭環境がすぐ分かった」。礼儀正しく、教育に熱心な照子の存在が、闘莉王の日本行きを大きく後押しした。
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「トゥーリオが上手にカベサーダ(ヘディングシュート)を決めよった」二〇〇一年三月十一日、義行は衛星放送の画面の中に映し出される孫の勇姿に、我を忘れていた。渋谷幕張を卒業後、Jリーグのサンフレッチェ広島に入団した闘莉王はそのデビュー戦となる鹿島アントラーズ戦で、貴重な得点を挙げた。「偶然、テレビを付けたら孫の名前が呼ばれているんですわ。驚きました」と満面の笑顔を見せる義行。日本行きで大きな役割を果たした照子同様、プロ入りでは義行の存在が大きく関係した。「何より祖父が生まれた場所のチームだったから」と振り返る闘莉王。
高校三年の全国選手権で活躍し、数多くのプロチームから勧誘されながらも、サンフレッチェを選んだのはルーツを重んじたからに他ならない。
「実は日本に行く時に祖父母のパスポートをコピーして持って行ってたんです。先祖のことを調べたくて」。プロ一年目の休暇を利用し、闘莉王は広島県佐伯郡に残る祖父の生家や親類の墓に足を運んでいる。「ここから自分も始まったんだなと思うと感慨深かった」と闘莉王。
かつて米作りで知られたパウメイラ・ドオエステ市――。「一儲けして、東京オリンピックを見るために里帰りするつもりだったんけど、ダメだった」。祖父が憧れた五輪の大舞台を今、その孫が目指す。
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「婆ちゃん、日本での最初の年は寂しかったよ」日本に帰化後、初の里帰りとなった昨年十二月末、闘莉王は初めて照子に高校時代の胸の内を明かした。自ら希望して渡った日本だが、当時所属したサンパウロ州のクラブ「ミラソル」ではプロ契約直前だっただけに、「レベルは低いし、グラウンドも土でしょ。正直、失敗したかなと思いました」と闘莉王。
また、かつて同じ悩みを持った宗像が、日本語の指導をしてくれたとはいえ、言葉の壁は大きかった。一番困ったのは漢字しか表示していない男女トイレの見分け方だった。「毎晩、明日になれば荷物をまとめて帰ろう、と考える繰り返しだった」
闘莉王は自ら「地獄」と称する一年目を振り返る。ただ、家族には泣き言を見せなかった。
「親には会いたかったけど、せっかく得た好機。逃げ出す訳にはいかない」十二歳で来伯後、農業や牧場開墾に明け暮れた祖父の開拓者魂は闘莉王にも確かに受け継がれていた。
(敬称略、つづく)
(下薗昌記記者)
続・海を渡ったサムライたち=日伯セレソン物語=田中マルクス闘莉王(下)=父、敬愛する唯一の男=アテネでの再会めざす
3月11日(木)
背番号二十八を付けた一八五センチの大男は鮮やかに宙を舞った。
昨年七月二十六日、闘莉王が所属するJ2の水戸ホーリーホックはヴァンフォーレ甲府と対戦。前半二十九分、味方FKのこぼれ球に反応した闘莉王は、ブラジル人ならではのオーバーヘッドキックで先制点をもぎ取った。
満面の笑顔で観客席に、走り出す闘莉王。その先には涙を浮かべて喜ぶ最愛の母の姿があった。
帰化申請からまだ三カ月。まだ名前は、「トゥーリオ」だった。複雑な思いに揺れる母、マデルリ・マリア・ムルザニ・タナカ(四八)は、愛息の招きで初めて日本を訪れていた。
「私たちは結び付きが強い一家。だから息子が遠い遠い日本に行くのは寂しかった」。述懐するイタリア系のマリア。
当初、闘莉王の帰化についても反対はしたが、胸の内はこうだった。
「あの子は本当にいい息子。なのに遠くに行ってしまうような気がして……」
そんな母を納得させたのは闘莉王の強い意思だった。「彼の夢が叶えば、それが私の幸せになる。母親とはそんなものなのよ」
国籍が変わろうと、母の愛は変わらない。
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「お父さんに怒られる」
初めて日の丸を背負ったイラン戦。自らの反則が失点につながったことに闘莉王は試合後、頭をかいた。
遠くから見守るマリアとは対照的に、父、パウロ(五一)は自らの背中で男の生き方を教え込んだ。
「本当にすごいお父さん。僕もああなりたい」
代表選手に成長した今でも、闘莉王が敬愛する男はただ一人。父である。
一九八一年四月二十四日、長男として誕生した闘莉王にパウロは自らの日本の名前「隆二」を与えた。
帰化後の戸籍には「マルクス・闘莉王・ユウジ・ムルザニ・田中」と長い名が記されるが、本来はユウジでなくリュウジが正解だ。
熱狂的なパウメイラスサポーターであるパウロは、幼少からサッカーに熱中した。闘莉王がサッカーを始めたのも、父の影響だ。
「サッカーのプロより、夢はパイロットだった」と語るパウロは、理数科系の教師を務めた後、九九年に退職。教師の傍ら、法律の勉強を続け、九八年に弁護士の資格を取得している。
《やらずに後悔するより、やって後悔しろ》
《気持ちを強く持って、前に進め》
パウロの口癖だ。
十六歳の闘莉王が「三日以内で決めてくれ」と日本行きを迫られたときに即答できたのも、父の教えなくしてありえなかった。
「引退後は、獣医になり好きな動物を見続けたい」 その向上心も父譲りだ。
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ほんの八日前、水戸地方法務局から祖父母の国へ帰化申請を認められた男は、試合後に思わず涙した。
「日本人」として初めて挑んだ昨年十月十八日の対アルビレックス新潟戦。闘莉王は、得意のヘディングで決勝ゴールを奪い、帰化に自ら花を添えた。
辛かった渋谷幕張時代。外国人枠の問題で下部リーグへ移籍、劣悪な環境でボールを追った一年――走馬灯のごとく、六年間の日々が頭をよぎった。
それだけに日本人としての誇りは、人一倍高い。
「本当はね、勝利の利を使って『闘利王』にしたかったんです。でもちょっとくどいと言われて……」
携帯電話の辞書機能とにらめっこしながら、新しい名前を考え続けた、と照れ笑いを見せる闘莉王。
高校時代に、怠慢プレーを見せた先輩ブラジル人の首根っこをつかんで怒鳴った、とのエピソードを持つ男ならではの命名である。
「僕が背負っているのは国。日の丸は誇りそのものなんです」
近代五輪の聖地を目指す日系三世――。最愛の家族とはアテネで再会するつもりだ。
(敬称略、終わり)
(下薗昌記記者)
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