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海を渡った高校球児たち 【大阪新聞より転載】
平成13年8月10日(金)の大阪新聞、夕刊大阪ビジネス紙に我々の同船者で豊和工業野球部に野球移民として遣ってきた仲間に付いて なかまき・ひろちか国立民族博物館・総合研究大学院大学教授が書いた会社じんるい学第2部〈33〉が掲載されています。なかまき氏は、この記事を書くに当たり高野書店の高野泰久さんに取材したとの事で掲載日に記事をサンパウロにFAXして呉れたものです。写真は、編集員の一人、高野泰久さんです。


甲子園に高校球児たちの球音が戻ってきた。このところ日本のプロ野球は、イチローや新庄などの活躍もあってメジャー・リーグにおされっぱなしだ。だが、高校野球はサッカーに多少人気をうばわれたとはいえ、いまだ健在である。
甲子園大会の魅力のひとつは地方対抗にある。わが母校がかつて甲子園に出場し、わたしも応援にかけつけたところ、なんと七回ラッキーセブンで歌ったのは校歌でなく県歌「信濃の国」だった。
地方対抗は、ノンプロの実業団野球になると都市対抗になる。こちらは往年の栄光に比べると、低迷が久しい。
其のノンプロ野球が全盛だった頃、ブラジルに進出した日本の会社に採用され、野球を目的に移民となった人たちがいた。いわゆる「野球移民」である。
1962年といえば、二年前に所得倍増計画が打ち出され、二年後に東京オリンピックをひかえていた頃である。三月三十日、横浜の港を出航した「あるぜんちな丸」は四月二日、神戸に寄港し五月十一日ブラジルのサントス港に到着した。その船に、サンパウロ市郊外のモヂダスクルーゼスにある「豊和工業」(本社、愛知県新川町)が雇用した二十歳前後の青年数名乗船していた。
かれらこそ高校野球できたえられた球児たちであり、甲子園組も含まれていたという。そのうちの一人は、いまでもサンパウロ在住とか。
そう教えてくれたのは、同船でやはり移民として渡伯し、いまはサンパウロ市内で書店を経営する高野泰久氏(六〇)である。「その頃の豊和は鐘紡とならんで強力な野球チームを編成しセントラル地方で覇を競い合っていた」と語る。
『ブラジル日本移民七〇年史』にもセントラル地方の野球について「戦後、各地に各級チームの胎動が盛ん二なり、鐘紡、豊和などの企業チームが生まれたことにより最強の地方となった」とみえる。
豊和は紡績工場を経営していたが、数年前閉鎖した。野球チームがいつなくなったかは定かでない。しかし、ブラジルの野球は日本との交流を深めている。「野球移民はいまの日伯野球交流につながっていると信じたい」と高野氏は語った。
実際、日本ではサッカー少年がブラジルをめざすが、ブラジルでは野球少年が日本に留学するようになっている。山形県羽黒高校には現在三名のブラジルからの野球留学生がいる。県の交換留学制度でブラジル野球連盟の推薦を受け、昨年二名が入学し、今年も一名加わった。宮崎県日南学園高校にも昨年来ブラジルから三名、野球留学を果たしている。
また、出稼ぎの父を追って来日し、高知県の明徳義塾に進み、甲子園のマウンドを踏んだ二世投手もいる。プロ野球のヤクルトがサンパウロ郊外のイビュウナにもうけた野球場もあり、すでに同球団にブラジル出身の二軍選手が数名在籍している。
一九八八年の移民八十年祭のときは、夏の甲子園出場選手からえりすぐて構成された選抜チームがブラジル各地を転戦し、五勝二敗の成績を残した。一九九九年に春の甲子園を制した沖縄尚学高校もブラジルに渡っている。「ブラジルからも甲子園に出場するチームが出ればいいのに…」高野氏は夢のような期待に胸をふくらませた。

(平成14年3月19日 タイプアップ/和田 好司)



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