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新井 範明 学移連創生期の先輩(上智大学)第2トメアスーBUREU区で健在。
アマゾンの胡椒の里トメアスーに私達より3ヶ月近く前の1962年2月に入植され今も尚同地に定住しておられる上智大学の海外移住研究会の創設者で学移連の創生期に活躍された新井 範明さんが書かれた手記がトメアスー移住地のHPに掲載されているのを見つけました。
2002年1月に40年振りにトメアスー移住地を訪問し新井さんご夫妻とも再会しましたが学生の頃に書き込んだ下手な字に遭遇?し時の流れを感じましたが、奥さんが1963年のトメアスー移住地の新年会で大きな声でがなりたてた事を覚えておられ汗顔の思いをしました。
トメアスー文化協会の終年会長及びトメアスー入植70周年祭典実行委員長を最後に公職を退任。現在は、所有地の一角、原生林の保護及び環境問題の重要性を感じアマゾン熱帯雨林の持続的森林農業を目指し、森林の保護と森林公園の造成に力を注いでおられる。
写真は、訪問時に撮らせて頂いたものを使おうかと思いましたが、トメアスー移住地のHPに掲載されている写真がとても良いのでそのまま使わせて頂きました。


1937年2月8日北海道旭川市に生まれる。3歳の時両親、姉とともに南米ペルー共和国へわたる。父亀吉文部省派遣教師として赴任。先任地で弟生まれる。1941年第二次世界大戦勃発、日米開戦に伴い北米テキサス州へ捕虜として収容される。在留2年半、第二交換船グリップスフォルム号にてニューヨークを出向、インドのゴア港にて捕虜交換、日本軍へ渡る。シンガポール(昭南市)下船命令。昭南特別市日本国民小学校へ入学。終戦直前シンガポール生まれの妹を加え、氷川丸で生還引揚。舞鶴港上陸。父は軍省幹部勤務終戦後引揚帰国。終戦を旭川で迎える。郷里で小・中・高校卒業、1955年上智大学外国語学部へ入学。海外移住を目指し準備のため、1959年、同大学中退、北海道江別市町村農場及び旭川市松岡木材産業研究室にて研修。1961年結婚。同年12月30日横浜港を出向アメリカ丸にてブラジルへ移住。1962年2月7日トメアスー植民地入植。「日伯共同農場支配人として日本側須磨和章氏の代理人として赴任、現地側沢田毅氏、長野敬士氏とともに農場経営、主作物胡椒。 移住3年目にして出資者永野敬士氏病死、須磨和章氏方肺切除のため共同農場を解散、現住地への独立農業、胡椒栽培、主作物病害発生により分農場増設、第二トメアスー、マラカナ、及び第三トメアスー・アイウアスーへ胡椒を植えるが病害に付きまとわれ、現移住地に定着。分農場は全て処分、熱帯果樹、永年作物へ移行、現在は森林農業、有機農業を目指す。
両親亀吉、ウメ子は1972〜1977年の5年間、トメアスー文化協会招聘により定年退職後同協会日本語学校長として奉職帰国、妻慶子1982年よりブレウ地区へ「ブレウ日本語学校分校」を設置1990年十字路本校と統合。私は1974年文化協会理事発就任以来2000年3月まで理事。終年会長及びトメアスー入植70周年祭典実行委員長を最後に退任。所有地の一角、原生林の保護及び環境問題の重要性を感じアマゾン熱帯雨林の持続的森林農業を目指している(現保全地域は再生林及び原生林を含む)
私の移住私観
幼少の頃より南米ペルー北米、シンガポールなど8年間の海外生活と第二世界大戦の体験、特に終戦直前のシンガポールか舞鶴港帰国の時の「戦火の海」「燃える日本列島と貧困の惨めさ」の印象が子供心にも離れず、中、高校生の時から再び海外での生活を画いていました。大学入学、上京とともに学内に海外移住研究会を学友と創設、日本学生海外移住連盟(学移連)に加盟、全国的な活動に参加、元ペルー公使坂本龍起氏、カトリック移住協議会理事長に師事、東京農大拓殖学部教授杉野忠雄、神屋信一氏(百姓の書いたブラジル動物記、アリアンサ票原自然科学研究所所属)を招き学内で講演、神屋信一氏とは農業高校の二、三男対策、移住への啓蒙運動遊説、宝町海協連(当時の海外協会連合会)所在の学移連事務所を中心に在外日系人アンケート調査へ協力、「国内開拓と海外移住」で朝日新聞論説掲載されました。

移住史における満州開拓、東南アジア、ハワイ、北米、中南米などの移住政策をとおして私の移住地をブラジルと決めました。理由は「ブラジルは過去に大きな戦争亡き平和な国にして豊かな大自然に恵まれ、多民族の国家形成、民族間の融合、同化の可能な理想の国」と認めたことにあります。

特にペルー国の生活体験(父の語りから)同国の悲惨な移民史の過去と比較、ブラジルを選定しました。また移民は第一次産業から民族的信用をつけ、現地の国民と共に世代の進展に伴い第二次、第三次産業へと発展、摩擦、競合することなく受け入れられるとの理論から自ら農業の道を選び、農業者としての体験研修等を取得、農業者として移住に踏み切りました。学移連OB、今村邦夫氏(祖父は国会議員)の紹介で外交官、須磨弥吉郎氏子息須磨和章(移住監督官、海外移住助成会会長と出会い、和章氏の代理人として「日伯共同農場」の支配人として現住所のトメアスーへ移住したのです。今村・須磨両氏共千葉三郎代議士とは懇親関係にあり、胡椒(栽培)の産みの親、臼井牧之助氏への紹介を通して現地日系移住地指導者平賀練吉、清子ご夫妻と出会い、トメアスーを永住の地と決めました。

断ち切れぬ二つの祖国移民の日    伯石

40年の軌跡から

環境の変化
トメアスー移住地は今72周年を迎えています。前半期の35年間は陸路のない川船による静かな時代でした。私が入植した40年前のベレン、トメアスー間は一眸原始林に覆われた「緑の海」そのものでした。1970年代ベレーン〜ブラジリアへの産業道路の開通、1980年代のカラジャスの鉄鉱石、ツクルイの電源など総合開発は南から大牧場や製材業者の流入を誘導、急速に開発が進み、原始林はまたたく間に姿を消してしまいました。有用材を失った歯抜けの森と荒廃地が目立ち、木材のなくなった地帯から製材業者は更なる原始林を求め移動しつつあるのです。

農業の変化
野菜、陸稲、カカオなど中心とした初期開拓時代の農業は胡椒栽培の確立と混合農業組合(編集注;現在のトメアスー総合農業共同組合)の組織力によって「黒ダイヤ」と言われた繁栄の時代を迎えたのですが、単一栽培の人工的障害ともいえるフザリウム菌による病害発生のためその対策として無病地帯への栽培移動が起こり、ムジュー、アバイテツーバ、ベレーン、カスタニャール近郊への転住や分農場増設として、第三トメアスーアイウアスー及び及び千葉三郎植民地へと拡散していきました。にも関わらず胡椒の病害から脱出することが出来ず、胡椒以外の作物の複合的栽培が考えられ、JICA(編集注;日本国際協力事業団)「アマゾ二ア熱帯農業総合研究所」の指導と、トメアスー総合農業共同組合「営農再建長期10ヵ年計画」の実施によって定着型持続的農業への新分野が改善されました。10ヵ年再建計画は短期、中期、長期永年性作物の組み合わせによって経済の再建を見事に乗り越え、農協は農産加工として、ジュース産業を樹立、COERTA(農村電化電話組合)による増資協力によって、新第二工場が落成新製品開発輸出などの発展が期待されています。

森林農業と社会造林
アマゾンの森林で最も開発が進んでいる地域としてパラー州、マットグロッソ州があげられています。トメアスー移住地もそれにもれず、原始林の殆どが製材、農牧業者によって失われ、今や荒廃化が進んでいます。 1989年のアメリカ環境保護庁の発表によれば、毎年1700万ヘクタールの速さで熱帯雨林の破壊が進めば2075年には全ての熱帯雨林が地球上から消失されるだろうと報告されています。

このような時代に森や水を保全しながら最も自然の環境に近い持続的農業として、「森林農業」が注目を浴びています。すでにトメアスー日系農家は「森林農業」を実践しており、その成果が評価されております。実例として熱帯果樹と有用樹を含む混植林の組み合わせによって、落葉や有機質、動植物、バクテリアによって腐食分解が行われ、蘇生、再生する能力、すなわち持続性を備えております。

今後の課題は森林農業の経済性を高める工夫が必要と思われます。混植林を、長期営農計画の中に「造林」として取り入れ、地域の農業者が共通の「社会造林」として特産地形成化することによって、新産業が芽生え、地域社会の活性化、発展につながるものと考えます。「海外林業コンサルタンツ協会」(編集注:在日本の団体です)の助言によれば、日系農家の数々の植林の実態から充分に以下の可能性があると指摘されております。

1.森林農業と社会造林の組み合わせによって、食品加工や木材工業など様々な新産業が芽生えます。
2.長期営農計画は、環境庁の認証の下に有利な流通ルートにのせて、経済性効果を高めます。
3.持続的農業は、良い農業環境を作り出し、熱帯雨林の破壊的開発を弱める効果があると考えます。

移住の原点トメアスー移住地は森林農業と社会造林の組み合わせによって、豊かな緑と水を永遠に守る農業を目指していきたいものです。

森林保全と森林公園
残された原始林、有用材を失った歯抜けの森、再生林など、森の形態をとどめている地帯や、特に水源となっている河川敷の森などの保全はこれからの生態系や良い環境を維持するために保護が不可欠です。森と水との関係など、環境教育の場を通して、自然のすばらしさを知っていただく為に、私の所有地の一部を永久保存して、森林公園(仮称)としてみたいと考えております。
昨年の2001年5月27日、森を愛する仲間たちへその目的のために公開いたしました。又CEFLAM(アマゾニア森林文化研究会)の協力も要請いたしております。ブラジルの植物学者・橋本悟郎先生も以前、この森林公園予定地を歩かれて、アマゾンの植物を採集されております。先生が植物の分布を調査し測量されたサンパウロ市のいくつかの公園は「VERDE」という一冊の本にまとめられておりますが、出来れば専門家のお力をお借りして「VERDE」をモデルにした植物の分布図を完成させたいと願っております。それが森林学の研究や種子などの採取によって、植林事業へ協力でき、いくらかでもお役にたてればと願っております。予定地内には数多くの銘木巨木があり、美しい小川と谷など原始林の景観を楽しむことが出来ます。ご希望の方には案内させていただきます。残された一握りの自然を、皆様のご協力によって、保全していきたいものです。
連絡場所
NORIAKI ARAI
RAMAUDE ANAUERA BOM JARDIM
BREU DE TOME−ACU
PARA BRASIL
TEL:+55 91 3734-7105



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