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路面電車ボンデ       FDP記録映画製作所 野崎文男
野崎文夫さんとは、3月6日にサンパウロ大学の植樹祭の折にお知り合いになり、3月12日には、お仕事もありポルトアレグレを訪ねて頂き地元の古い方のお話も聞きたいとの事で南日伯援護協会の栗原隆之事務局長さん、コロニアの長老格の樋渡 睦さんをご紹介しましたが、その際に是非何か寄稿して欲しいと原稿をお願いしておいた所次の手紙と共に沢山の写真と原稿を書き込んだフフロッピー・ディスクを送って頂きました。野崎さん有難う御座います。
『和田様 先日は、色々お世話になりましした。原稿の件ですが、ブラジルのことならば何でも良いとおっしゃっておられたので「ボンデ」に関して書きましたのでお送りします。誠に恐れ入りますが、写真を各人にお渡しください。そして皆様によろしくお伝え下さい。2004年4月13日 野崎文夫』
写真は、野崎さんから送って頂いた今は走っていないボンデの前でお友達と撮られたものです。


「チンチン。ゴーゴー」とのんびりお尻を振りながら市電が走っている。
1868年、リオデジャネイロにロバに引かせた路面軌道車が走り出した。これはアメリカ系のボタニカル・ガーデン鉄道会社が開発したのである。会社が政府の融資債券(英語のボンド)を受けて事業を起こしたので、市民から非難の声が上がって、そのため、市民はその乗車券のことを皮肉って「ボンデ」(債券)と呼んだ。馬車が電車になると路面電車自体を「ボンデ」と呼ぶ習慣になった。路面電車のことを債券即ちボンデと呼ばれる語源はここから出ている。
当時、道路は舗装されておらず、雨の日には道がぬかるみになり、ボンデが通ると通行の人々は雨に濡れるわ、泥は跳ね返るわで、散々な目にあった。
しかし、その当時の紳士はよほど余裕があったらしく、一時間も二時間も、多い時には半日もボンデの通る街角に立ち、停留所で淑女が長いスカートを捲り上げ、ボンデに乗り降りすると白い素足が見えるので、それを覗いて楽しんでいた。恐らく、日本で言う「小股の切れ上がった好い女」(歩く女性の後姿で着物の裾が少しまくれ上がり、白足袋から白肌のアキレス線が見える魅力)を見る感じなのだろう。東西古今を通じてどこの男性も思うことは同じらしい。
サンパウロでは1872年に乗合軌道馬車・ボンデが登場している。その後、電化が進み路面電車になったが、運賃は200レイス(労働者の日当80レイス)で一般の人々にとっては高値の花だった。しかし、この200レイスが30〜40年と同一金額が続いたので、他の物価の上昇に伴い、次第に大衆的になり、市民の足になった。
泥んこ道が小さな石畳で固められ、その上を走るようになると埃は立たなくなり、ボンデの独壇場に代わって行った。乗用車は小さな石畳の道はタイヤが早く擦り切れるので、ボンデの線路の上を運転して成る丈タイヤが傷つかないように走っていた。すると、タイヤのゴムが線路にこびり付き、上り坂ではボンデがスリップするので、いつもバケツに砂を一杯入れ持ち歩き、滑る場所に砂をかけたらしい。
私がブラジルに着いた1959年にはボンデの値段は3クルゼイロスだった(当時ブラジルの最低給料が5900クルゼイロス)。世界一安い乗り物だとニューヨーク・タイムスが報じていたくらいで、言葉の分らない私でも初任給は10000クルゼイロスだった。友人と2人で一部屋に下宿をしたが10畳間位の部屋、昼食付で月2500クルゼイロスだった。夜食は一膳飯屋は普通だが週に1〜2回は生バンド付のレストランに行けたものだった。
このボンデの集金方法は前近代的でコブラドール(車掌)がオープンの客席の外側後方より前の運転手の所までお客一人一人を集金して歩くのだが、このように安い乗り物なのに反対側から後の方に移動してロハを極め込む客もいた。
客も客だが車掌も車掌で集金した頭数だけ運転手の後頭上に据付けられた登録板の紐を引っ張ってチンチンと登録するようになっているのに、見ていると鐘の鳴る音がやけに少なく、集金した数の十分の一位しか登録していないようだった。そのようなわけで車掌を3年やったら家が建つと云われた1950年代、ヨーロッパ移民の一医師がその噂を聞き、車掌の職を求めたが欠員がない理由で、就職出来ず残念だったと小話に載っていた。
リオデジャネイロではカーニバル期間はエスコーラ・デ・サンバが隊を組んでボンデに乗り込み、車内でサンバを奏でながら、会場に出て行く風景にぶつかったこともあった。
ある夜9時頃、サンパウロのジャバクワラから中心街ジョン・メンデス行きのボンデに乗ったところ、途中で急に止まり、運ちゃんが急いで反対側のバール(アルコール、ソフトドリンクの立ち飲み屋)に入って行くので何事かと見ていると、驚いたことに運ちゃんはコーヒーを注文して飲み出したので、他の10人ばかりの乗客を見ると日本とは異なり、何でもない顔をして文句も言わず黙っているではないか。コーヒーを飲み終わった運ちゃんは戻るなり、客たちにニコリと笑顔を向け、再び運転席に付き、又、「チンチン。ゴーゴー」と電車を動かした。
ボンデに関し、こんな笑えないこともあった。ある日本人の老婦人がオープン電車の中で買い物袋を落としてしまった。その袋から食料品が転がりだし、その一つが味噌の包みで、その袋が切れて味噌がはみ出てしまった。現在のブラジルは日本食ブームであるが、その頃のブラジル人で味噌を知っている人は皆無で一斉にそのはみ出た味噌を変な顔で見つめて居る。ある子供が「あっメルダ」(人糞)と叫んでしまった。その婦人は真っ赤になり、急いで仕舞うとしたが床にべたっと張り付いた味噌はどうしようもなく、困っているので私が持っていた新聞紙を渡し、「ノン・エー・メルダ。エステ・エ・モーリョ・デ・ソッパ・ジャポネース」(人糞じゃない。これは日本のスープの素だ)と私は思わず叫んでしまった。
石油の台頭、自動車工業の発展、過度な都市化を遂げたサンパウロでは1968年、ボンデ100年の歴史の幕を閉めたが、リオデジャネイロではカリオカ広場からその昔、給水用に作られたアーチを渡りサンタ・テレーザに登って行くボンデが観光用に残っていて、山上の住民の足となっている。
現在、近代都市に模様換えしたブラジルではボンデに代わり地下鉄メトローが市民の足になっている。



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